宝鏡三味

2007年3月18日 (日)

宝鏡三昧6

世の嬰児の五相完具するが如し、
不去不来、不起不住、婆婆和和、有句無句、
ついに物を得ず。

赤ん坊が五相完具する、五体みんなそろっているように、赤ん坊と大人とは仕組みが違うなどいうこっちゃない、ものみな不足なく備わって活動するありさまです。いいですか、他何があるかというんです。ものみなかくの如くして、不去不来、来し方行く末じゃない、100%まさにただこうある、不起不住、だからこうしてこうなってじゃない、後先ないんです。
どうもこれを間違ってますよ、おれは悟っただからという、聖人はこうあるべきだという、いえもっともこうあるべきとやり、そのように偉いもの、優れてすばらしい生活とする、うるさったくって、つまらないんです。
そうじゃないんでしょう、もうまるっきり無茶苦茶です、なにどうなるかさっぱりわからない。
自分を見ない。見ようとする自分がない。
如来来たる如しとはこれ、知らないもっとも親切。
我と有情と同時成道これ。
地球万物のお仲間入りです、そうですねえ、彼岸といい宇宙という、我無うして答えなんです。
ばばわわうくむく、赤ん坊の口調そのものですか、あるときはこういいあるときはああいい、定まらない、無一物中無尽蔵は、ついに物を得ずです。
悟ったといい、仏を云い、仏教を論ずる人たいていこの反対です。氷なんですよ、がさごそと四方八方不都合です。そうではない、水は方円の器に従うとは、そりゃまさしく絵に描いた餅じゃないんです。
見習ってできるものじゃないこと、門を入るものは是れ家珍にあらず。

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宝鏡三昧5

宝鏡にのぞんで、形影相見るがごとし、
汝これ渠にあらず、かれ正に是汝。

洞山大師水上を行く次いで、水に映った自身の影を見て、
「形影あい見るが如し。」
といって悟る、最終決着です、すべての疑問が氷解してぴったり納まっている、自分というものを鑑みることが失せるんです、影が自分になってこっちを見ている、その間一物もないんです。
わしも経行といって、坐を立って歩く坐禅ですか、その時に向かい相手がわしになっている、ほうなるほど仏祖の云うことは、間違いないなと思ったです。これ風動幔動の則と同じです、手拭いが風に揺れる、それが手拭い揺れず、こっちがこう揺れている事実、
「汝これ渠にあらず、渠まさにこれ汝。」
自分という垣根が外れて、大道長安に通ず、あるときまったくこういうことが起こって、ちらともあればまた元に戻るんです、なに戻っては何度でもやってみりゃいいです、これの真実を知り、出入り自由もついには安住するんです、ぱーらみーたー彼岸に渡り切る、捨て切れるんですよ。
世法を捨てて正法に入る、正法を疑着せじ不信なるべからずということが、はじめて手に入るんです、閑日月です。
たいていだれしも、はたしてどうかと鑑みる、どうもそれが長いんです、自分だけはごまかせんです、ぴったり行くと納まるんです、根が切れる。

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宝鏡三昧4

 但だ文彩に形せば、即ち染汚に属す、
 夜半正明、天暁不露、
 物のために則となる、用ひて諸苦を抜く、
 有為にあらずといえども、是れ語なきにあらず。

 もと本当にこりゃはっきりしているんです、自性霊明洞然としてある、でも人に示そうとすると、唖子の痛い痒いを訴えるごとくですか、ほんに手も足も出んことあるです、かえって脇見運転、学者坊主のほうが云い出でたり、でも彼らは必ず我田引水です、法を仏を説きながら終には都合勝手です、それはどうしようもないです、仏として自ら仏でなけりゃ、なにをするったって嘘です、近似値ほど邪魔です、仏はこれ一目瞭然。
無明黒闇の中の正明、世間の人みなキリスト教でも道徳思想でも、暗闇を照らす光であると思っている、そんなことないです、仏教だけなんです、他は迷妄をまた迷妄するだけです、そりゃもうはっきりしているんです、本来の智慧を発揮して下さい。もと指し示すものは他なくたった一つです。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜半明けにけるかな
目覚める醒覚することはたった一つです、殺し文句に引き摺られるこっちゃない、本末転倒を免れること。
物のために則となるを知る、他の学問宗教のように、杓子定規がいっぱいあるんじゃない、もとおのれが標準なんです、触れれば切れる吹毛剣です、間髪を入れずです、意識を通さずして他を救い得る、花の如く雲の如くする、いるかやペットに頼っているんじゃない、触れりゃペットも蘇るんです、でもって語を用いることは、別段他に引けを取らないんです。法の上のこと、歌であったり冗談雑談であったりする、それ同じに諸苦を抜く。

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宝鏡三昧3

意言に在らざれば、来機亦おもむく、
動ずれば窩臼をなし、差へば顧佇率に落つ、
背触ともに非なり、大火聚の如し、

意言こころことにあらざれば、意は言に非ず、そうだ意識上と意識下となど、心理学時代の人はすぐとっつかまるんですが、心理学の知らない無眼耳鼻舌身意の実際、まさにあるがようの単純です、思想の延長上に悟りがあると考える、それが間違っている、思想という客にしてやられている、本末転倒事です。まずこれをクリア−せにゃならんです、自縄自縛の縄の端を、いくら振り回したって悟れないです、まあとにかくそういう人ばっかり多いんですか。
うっふっふ2ちゃんねるも駒沢大学も坊主どももそりゃ同じです。
意言に在らざれば、思想思い込みではないというんです、来機またおもむく、向こうからやって来るというんです、一般の解釈と無関係に、これは、
自らをもて運んで万法を証するを迷いと云い、
万法進みて我れを証するを悟りという。
と同じです。
おれは悟った、だからなぞいうものの入る余地がない、おれは悟らない、だからというのも同じですか、じゃ仏ほっとけ始めから同じだという、そりゃなんにもならんです。
なんにもならん無心という、そりゃ有心です、だらしないっきりです、だらしなくなんかないビトゲンスタインだという、これ同じ自縄自縛の縄。にっちもさっちも行かない、頭禿げるぐらいが落ち。
君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず。
という、はたしてこれができますか。
手つかずですよ。

そうしてもとこの通り手つかず、自分というものに用なしですか、内外なしという、就中苦労するところです、如何なるか是れ仏と、問うて押し出され、三たび問うて押し出されるついで、門扉に挟まれて足を骨折する、痛みいずれの処にかある、痛いことは痛い、どこが痛いかわからない、身心失せて玉露宙に浮かぶんです。この雲門こうあって後、
「どうあったら外と同じになれる。」
大宇宙を呑却し終わるかと、四苦八苦している。
まずはそうしたものです。なぜか未だ標準が別にあるんです、たしかにいっぺんは見たというんですか、外っきりになるべきだ、内っきりでいい、いや内外なしとやる、どうもちがう、そうではない、いや未だし、ではこうやってという、動ずれば窩(穴巣)臼をなし、ないはずのものがある、邪魔になりゃなるほど=どうです、みんなただ自分がやってるんです、やらねばもとない。たがえば顧佇におつ。いえまったくその通りなんです。これたとい悟ったって、きっと毎日同じことやってます、同じふうが直き収まりつく、自分に異論を唱えない、自分そのもの、元の木阿弥、当然です。
すてきな生まれ本来。
お釈迦さまが現ずるんですか、かつて自分というけちなものじゃないんです。
背触ともに非なり、大火聚の如し、手つけりゃ火傷するっていうんですよ、もとほんの一つ、微妙そのもの、どうですか、箇の単純、はーい直指人身見性成仏。

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宝鏡三味2

意言に在らざれば、来機亦おもむく、
動ずれば窩臼をなし、差へば顧佇率に落つ、
背触ともに非なり、大火聚の如し、

意言こころことにあらざれば、意は言に非ず、そうだ意識上と意識下となど、心理学時代の人はすぐとっつかまるんですが、心理学の知らない無眼耳鼻舌身意の実際、まさにあるがようの単純です、思想の延長上に悟りがあると考える、それが間違っている、思想という客にしてやられている、本末転倒事です。まずこれをクリア−せにゃならんです、自縄自縛の縄の端を、いくら振り回したって悟れないです、まあとにかくそういう人ばっかり多いんですか。
うっふっふ2ちゃんねるも駒沢大学も坊主どももそりゃ同じです。
意言に在らざれば、思想思い込みではないというんです、来機またおもむく、向こうからやって来るというんです、一般の解釈と無関係に、これは、
自らをもて運んで万法を証するを迷いと云い、
万法進みて我れを証するを悟りという。
と同じです。
おれは悟った、だからなぞいうものの入る余地がない、おれは悟らない、だからというのも同じですか、じゃ仏ほっとけ始めから同じだという、そりゃなんにもならんです。
なんにもならん無心という、そりゃ有心です、だらしないっきりです、だらしなくなんかないビトゲンスタインだという、これ同じ自縄自縛の縄。にっちもさっちも行かない、頭禿げるぐらいが落ち。
君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず。
という、はたしてこれができますか。
手つかずですよ。

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こんなんでどうだ、宝鏡三味1

洞山悟本大師は曹洞宗の始祖であり、雲巌曇晟の嗣、第三十八祖に列す。慧忠国師の無情の説法について省悟あり、後に水上を行くついで大悟す。

・如是の法仏祖密に付す、汝今これを得たり、宜しく能く保護すべし。

 師、慧忠国師無情の説法について雲巌に参ず、「無情の説法何人か聞くことを得ん。」巌日く、「無情の説法無情聞くことを得。」師日く、「和尚聞くや否や。」巌日く、「我れもし聞くことを得ば、汝即ちわが説法を聞くことを得ざらん。」師日く、「もし恁麼ならば、即ち良价、和尚の説法を聞かざらん。」巌日く、わが説法すら汝なほ聞かず、いかに況んや無情の説法をや。」師ここに於て大悟す。即ち偈を述べて雲巌に呈す、
 也太奇也太奇、無情の説法不思議なり、若し耳をもって聴かば終に会し難し、眼処に声を聞いてまさに知ることを得ん。
 巌許可すとあります。どうですか耳をもって見る、眼をもって聞く無情の説法、わかりますか山水長口舌、わが釈迦牟尼仏の声と姿とという。これをまさしく手に入れることできますか。もとこのとおり、他なしなんですが、問答にある如く、情実、らしいようなものの寸分入る余地がないんです、そりゃこういうことだってことないんですよ、汝なほ聞かず、よくよくこれを見てとって下さい。無情の説法不思議、思いの他の事実ですよ。
 でも洞山大師は省悟ありながら、どうにも釈然としなかった、長い間苦しんだんです、たしかに仏の云うとおりにある、我れとしてまさに外れることことなし、しかもなおかつです。まっしんに溶け去る、住すること不可。
 たいていこれがあります。すったもんだして、すったもんだが余る、どっかに隙がある。
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
 どうしたらいいと聞く、ノウハウなんかないです、ノウハウは死ねというだけの、どうやったら死ねるなんてばかなこと、死ぬには死ぬきりない、なにしろ坐るきりないんですか、坐って坐って握り締める処を明け渡して行く。
 以無所得故菩提薩たです、なんたっておれがとやりたい、ただもうこいつ。
 放てば掌に満つ、彼岸にわたる法の櫂=坐禅ですよ。まるっきりうち任す、任せるというものも失せる、必ず来るんです、舟に乗って行くついで、水に映った影が自分ですか、こっちを見ている不思議、形影あい見るが如くという、これ宝鏡三味です。
 実に空前絶後事です。

 汝今これを得たり、如是の法仏祖密に付すと、悟ったのどうの、だからなんとかというのが、まるっきり吹っ飛んでしまう、仏も仏教もな−んもないのです。
 そうして我れは仏祖なりと知る。
 理屈抜きですよ、他の伝承等にはないです、こんなたしかなものはない。でなくば保護することはできない。どうかみなさんこれを得て下さい、中途半端は役に立たんです。


銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、
類して斉らず、混ずるときんば処を知る。

 銀のお椀に雪を盛り、明月に白鷺の舞うという、なんら別格特異わざを云わないんですよ、道元禅師帰朝第一声は、眼横鼻直にして他に瞞ぜられずと、主義主張に拠らない、思想分別ではないんです、ただ手つかずにあるっきり、しかも類して等しからずです、付和雷同馴れ合いなんてこっちゃない、実際です、真相そのものなんです、他に瞞ぜられず、時処位です、時と処によることをちゃんと知っています。
 宗教とはこれ、まさにたった一つしかないです。キリスト教また他の諸宗迷妄です、一多の際、一を取れば他は二の次三の次なんでしょう、こっちの神あっちの神に、荒唐無稽な神話、信ずるものは救われる世界です、そんなものは人間にしかない、無理が通れば道理引っ込む、ついに自然破壊地球は滅びるんですか。よく箇の単純を反省して下さい。
 いらんものはいらんのです、害はなはだ。廓然無聖、個々別々ものみな不識、花のように知らない、雲のように天真です、もと手のつけようがない、でなかったらわたしどもの存在は嘘です、嘘であっては一瞬も生きられない。

 ですからこれを得るのに、自ら歩を進むれば迷って山河を隔つ、ついにでたらめです、もとあるがように気がつくこと、なにものをも得ないんです。
 また百人百様あって、本来なしという、それは思想妄念であって、それを容れる器、身心の問題ではないんです、思想妄念も場合の数はたかが知れています、求道とは唯一無二です、でなかったら意味をなさんです。

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ちょっとためし、宝鏡三昧1

洞山悟本大師は曹洞宗の始祖であり、雲巌曇晟の嗣、第三十八祖に列す。慧忠国師の無情の説法について省悟あり、後に水上を行くついで大悟す。

・如是の法仏祖密に付す、汝今これを得たり、宜しく能く保護すべし。

慧忠国師無情の説法について雲巌に参ず、無情の説法なん人か聞くことを得ん。巌日く、無情の説法無情聞くことを得。師日く、和尚聞くや否や。巌日く、我れもし聞くことを得ば、汝即ちわが説法を聞くことを得ざらん。師日く、もし恁麼ならば、即ち良价、和尚の説法を聞かざらん。巌日く、わが説法すら汝なほ聞かず、いかに況んや無情の説法をや。師ここに於て大悟す。即ち偈を述べて雲巌に呈す、
也太奇也太奇、無情の説法不思議なり、若し耳をもって聴かば終に会し難し、眼処に声を聞いてまさに知ることを得ん。
巌許可すとあります。どうですか耳をもって見る、眼をもって聞く、無情の説法わかりますか、山水長口舌、わが釈迦牟尼仏の声と姿とという、これをまさしく手に入れることできますか、もとこのとおり、他なしなんですが、問答にある如く情実ーらしいようなものの寸分入る余地がないんです、よくよくこれを見てとって下さい。無情の説法不思議、思いの他の事実ですよ。
でも洞山大師はこのように省悟ありながら、どうにも釈然としなかった、長い間苦しんだんです、たしかに仏の云うとおりにこうある、我れとしても外れるということなし、しかもなおかつです。
たいていこれがあります。すったもんだしてすったもんだが余るというんですか、どっかに隙がある。
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
どうしたらいいと聞く、ノウハウなんかないです、ノウハウは死ねというだけの、どうやったら死ねるなんてばかなこと、死ぬには死ぬきりない、なにしろ坐るきりないんですか、坐って坐って握り締める処を明け渡して行く。
以無所得故菩提薩たです、なんたっておれがとやりたい、ただもうこいつ。
放てば掌に満つ、彼岸にわたる法の櫂=坐禅ですよ。
必ず来るんです、舟に乗って行くついで、水に映った影が自分ですか、こっちを見ている不思議、形影あい見るが如くという、宝鏡三味です。
実に空前絶後事です。

汝今これを得たり、如是の法仏祖密に付すと、悟ったのどうの、だからなんとかというのが、まるっきりどっか行っちまう、仏も仏教もな−んもないんです、そうして我れは仏祖なりと知る。
理屈抜きですよ、他の伝承等にはないです、こんなたしかなものはない。
でなくば保護することはできない。
どうかみなさんこれを得て下さい、中途半端は役に立たんです。

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