むもんかん

2007年3月18日 (日)

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四十八、乾峰一路

乾峰和尚因みに僧問う、十方薄伽梵一路ねはん門。未審し路頭甚麼の処にか在る。峰柱杖を拈起し、画一画して云く、者裏に在り。後に僧雲門に請益す。門扇子を拈起して云く、扇子勃跳して三十三天に上って、帝釈の鼻孔を築著す。東海の鯉魚、打つこと一棒すれば雨盆を傾くに似たり。

無門日く、一人は深々たる海底に向かって行いて、簸土揚塵し、一人は高高たる山頂に立って、白浪滔天す。把定放行、各一隻手を出して宗乗を扶竪す。大いに両箇の駄子、相い撞著するに似たり。世上応に直底の人無るべし。正眼に観来れば二大老、総に未だ路頭を識らざるなり。

 越州乾峰は洞山良价の嗣、十方薄伽梵、ばぎゃぼんは世尊、これは十方仏ということ、十方の仏は一路ねはんに入る。ニールバーナはものみな本来の姿です、妄想百般とらわれのあっちへ向かい、こっちへ向かいするのが納まったんです、しばらくかかりますか、坐ってはだれしも行き着くんです。生まれ本来、あるいは生まれる以前ですか、まずもってこれを得る、無上正等菩提これ仏。でなきゃ他はただの言い種です、騒々しく必ず間違うんです。いかにもそれらしい三百代言は、一路ではなく、迷って山河の箇を隔つんです。この関、なにしろこれを心して下さい。
 一路ねはん門、まさにこれっきゃない、ではどうしたらいいかと、どこにノウハウがあるかと聞く。面白いんです、百人が百人同様の質問です。水の中にあって渇を求める譬え、もとどっぷり漬けをどうしたらと聞く。
 画一画してこれと示す。
 雲門に至っては、扇子を投げて、三十三天、天のいちばんてっぺん帝釈天の鼻の孔にぴったあ(天の中央に帝釈がいて、四方に各八人の天人がいて三十三天ですとさ)、東海の鯉魚のけつひっぱたくと盆をくつがえしたような雨が降るというのです。ねはん寂定といって、世の人想定するのは死んだふりです。たいてい坐禅だの見性だのいうのも、その類ですか、雲門の目くそ半かけぐらいのことは見て取って下さい。想像と実際はまったく別です。想像を絶した自在底です。
 指一本で天地を動かすという、深海の底に砂塵を巻き起こし、ヒマラヤのてっぺんに白浪滔天ですか、まあちったあ眼晴ありってとこ。うっふこりゃなにどう云ったって、まずいってなふうの、どうもまっぱじめから、総に未だ路頭を知らざるって、はっはあ思っちまうですか。いや失礼。

頌に日く、

未だ歩を挙せざる時先ず已に到る。未だ舌を動かさざる時先ず説き了る。
直饒い著著機先に在るも、更に須らく向上の竅有ることを知るべし。

 竅は穴、碁の要訣、大いに両箇の駄子あい撞着するに似たり、もっとスマートにやったらというんで、この頌があるわけです。機峰著著ピッタリですか、ないからあるものを一目瞭然です、禅の働きだのおまえよりおれがとか云ってるやつは、そりゃ問題外、ただの有心です、なにさしょーがないのはほっとけ仏、歩くさきにすでに至り、舌を動かす先に、説得し終わる、これ万物の常套手段。

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四十七、兜率三関

兜率悦和尚、三関を設けて学者に問う、撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性、甚れの処にか在る。自性を識得すれば方に生死を脱す。眼光落つる時作麼生。生死を脱得すれば便ち去処を知る。四大分離して甚れの処に向かってか去る。

無門日く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以て随所に主と作り、縁に偶うては即ち宗なるべし。其れ或いは未だ然らずんば、麁餐は飽き易く、細嚼は飢え難し。

 兜率従悦(一0四四ー一0九一臨済下二世宝峰克文の嗣、撥草参玄、撥草膽風という、草の根を分けても正師を探してこの事を極める、すなわち仏教として他になく、うわさでお茶を濁す、ろくでもないらしいことに現つを抜かしたって、百害あって一利なしです。瀬戸内晴美が文化勲章の世の中だ、仏教地に落ちてあっちこっちとんでもないことになっている、モラルの低下などいうんじゃすまされないこと。だがこれをなんとかしようには、一箇半箇まさに撥草参玄以外にはないんです、こうすべきだの、批判してみたって騒がしいだけ。
 一はただ見性をはかる、まさにそれ以外に入門はない、学者という卑しい根性を去って、ただもう驀直去です。これなくんば平和はない、真はないと知って、得られずんば死のうという。でなきゃ求められないし、そう思い立つときすでに何ほどか得ているんです。
 二は見性すりゃ生死を脱す、身心脱落です、自分という自縄自縛を免れる。はじめて本来の姿。眼光落つるという、理想だの目的が消える、だってさ理想目的に叶ったらもうない、目が失せるんです。そういうものを見ている自分が失せる。
 三、即ち去処を知るという、さあどうしたらいいんです、四大分離してもはや自分という来し方行く末ないんですよ、如来来たる如し、花のようにぽっかり咲いて、はて何を。
 さあさ、よろしくよく参じて下さい。
 自分で自分の辺に答えを出すよりないんです、公案などいくら解いてみたって二束三文、はい仏となる、二束三文の値すらないんです。

頌に日く、

一念普ねく観ず無量劫、無量劫の事即ち如今。
如今箇の一念を覩破すれば、如今覩る底の人を覩破す。

 はいこのように参じて下さい、うっふわしもさ云うこといつだって同じ、進歩ないなってはーいまったく進歩なし、麁さん粗食いですか、飽きやすく、細嚼ようく噛んで反芻すりゃ飢え難しです、一生死ぬまでって、なあにさ無量劫です。

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四十六、竿頭進歩

石霜和尚云く、百尺竿頭如何が歩を進めん。また古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭、須らく歩を進めて、十方世界に全身を現ずべし。

無門日く、歩を進め得、身を翻し得ば、更に何れの処を嫌ってか尊と称せざる。是くの如くなりと雖も、且らく道え、百尺竿頭如何が歩を進めん、嗄。

 石霜楚円(九七七ー一0四0臨済下七世)、古徳は長沙景岑ということ、古徳とそりゃだれそれってこと不要です。仏祖師方を敬愛して名を覚えるんですが、別にだれじゃなくっちゃならんてことないです。これが他の諸宗また伎芸哲学等と違う処です。百尺竿頭は、たといお釈迦さま捨身施虎のむかしから、言い習わして、すなわち定番ですか。はい公案という定番ならざるはなし、みなこれを透過せなけりゃ、すなわち仏とは云われぬ。
 たしかに仏教として、道として学んで、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなりと知って、忘我の辺の百尺竿頭ですか。実際の思想、ものみなのありようまさにこれを於て無く、究極の信念とて、わっはっは百尺竿頭ですか。
 するとただおのれのことを示す、直指人身見性成仏、知るに従いすべてが消えて元の木阿弥です。
 しがみつくものがない、百尺の竿ふっ消える。
 一歩を進めるとはこれ。聖人だの云ってるひまがないんです、取捨選択によらない、十字街頭ならざるはなし。どうしようもなくこうあるっきり。
 嗄はにいとかとつとか、一言でなんにもないただのおのれを表わす、すなわち声だけあって世界全体です。やってごらんなさい。人を救うとはまったく他にないんです。
 蛇足です、なんにもないただのおのれがあるとは、そりゃうじ虫です。雪舟の慧可断臂図をそっくりなんとかいうのが格好つける、反吐の出るやつ、今様人というたって、そんな真似しちゃいかんです。

頌に日く、

頂門の眼を豁却して、あやまって定盤星を認む。
身を捨て能く命を捨て、一盲衆盲を引く。

 一盲群盲を引くという、そっくり反対に使うから面白い、他の諸宗主義主張は無明のものです。たといキリスト教のような大いに流行った宗教でも、一盲群盲です。どこへ行くかわからない、独善ついに地球を滅ぼすんです。共産主義というカリカチチュアに見る、まあ成れの果てですか。一方にこの連中みな光明を求めるんです、理想とかすばらしい、唯一の神という、つまり見えている、盲じゃない。はっは、ではわしらが宗教はなんにも見えない、個々別々のただ、うふうどこへ行くあてもないんです。
 だからといって頂門むだ目盛りやっちゃ、そりゃ他の諸宗と同じです、信者と聖人というぶっきらぼうになっちまう、百人禅門いりゃたいてい百人こんなんです、厳に謹んで下さい。
 百尺竿頭如何が歩を進めん。

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四十五、他は是れ阿誰

東山演師祖日く、釈迦弥勒は猶を是れ他の奴。且らく道え、他は是れ阿誰ぞ。

無門日く、若し他を見得して分暁ならば、譬えば十字街頭に親爺に撞見するが如くに相い似て、更に別人に問うて是と不是と道うことを須いず。

 東山演、五祖法演のこと(三十五則など)釈迦弥勒は他の奴、思うだに見習うだにろくでもないというんです。邪魔にこそなれいいことなんにもない、これ禅門いろはのいというより、仏教入門というより、人間他なしなんです。お手本や見本こさえて二人三脚やってたら、ぶっ転ぶだけです。ただそれだけのこと。草木鳥獣まったくこれです、人間だけが虎の威を仮る狐ですか、ふーんいぶっせえな話。
 でもって他の奴いらんちゃ、他ってこれ誰なんだってわけです。アッハッハ笑っちまうです。
 毎日やってますよ、誰に会うたって同じです、多少億劫ですか、ちゃーんとしゃば生きの常識ぐらい弁えてます、でもさ頭通さないで反応ってのかな、ちんぷんかんぷんだとて、相手失せりゃもう忘れています。
 でもそれ十字街頭にのべたんは、商売坊主やマスコミ連中とは関係ないです。吸毛剣です、触れりゃ真っ二つの自覚症状なし。百花開くの好々爺ですか。空手の羽賀がとつぜんすざって、うっふばけもんか気違いって面したな、あいつさすがに武道家。もっとも何思ったかなどこっちの知らんこと。
 自然という他という、天地同根の元の木阿弥ですか、死んだら仏。まずはまあよくもわるくもなくです、つまらんとも云わずに、はーいじきおさらば。

頌に日く、

他の弓挽くこと莫れ、他の馬騎ること莫れ。他の非弁ずること莫れ、他の事知ること莫れ。

 ふーん無門も一応はやっとるわさ、まずもってこれ自然に成ってりゃ頂上ですか、他云うことないんです。でもってなんで生きてるかって、問いたきゃ毎日でも問うてみりゃいい、答えはとたんに忘れてます。

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四十四、芭蕉柱杖

芭蕉和尚、衆に示して云く、汝に柱杖子有らば、我汝に柱杖子を与えん。汝に柱杖子無くんば、我汝が柱杖子を奪わん。

無門日く、扶けては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る。若し喚んで柱杖と作さば、地獄に入ること箭の如くならん。

 芭蕉慧清、新羅の人、い仰宗第三世南塔光湧の嗣。柱杖子は杖、柱はてへんです、しゅじょうと読み、行脚托鉢に使うんです。杖があったら杖をやろう、なかったら杖を奪おうというのです。世間と反対ですか、金持ちに施して貧乏人からふんだくる、これ禅家常套手段と云わずに、まさにこれ、奪われる方、押しつけられた方になってごらんなさい。どうする、世間体振り回して拒絶しますか。奪う方与える方になってごらんなさい、世間のいったいどこに生きてますか。ないという担いで帰れと云われる、あるという、なんてえ貧乏人だと罵られる。なぜですか。
 五体健全杖など不要、だのにいったい転ばぬ先の杖。却ってこれ不自由を生ず。杖などいらんといって、一歩も歩けないやつ、あっ世の中変わったのばかり。
 扶けては断橋の水、よりすがって来るやつを突き放す、うわっと橋のない水を歩く、これ親切。伴なっては無月の村、光明も指針もないまっくらがりですか、いっしょにやろうたってなんでもありのなんにもなしです、はいこれ友情これ信です。だってさ、地球上の人間以外みなこれですよ。
 廓禅無聖、個々別々、知らんわいの不識。
若し呼んで柱杖となさば、地獄に落ちること箭の如し。まあさせっかく0だってのにと云って、舌引っこ抜かれ。

頌に日く、

諸方の深と浅と、都べて掌握の中に在り。
天をささえ並びに地をささえて、随所に宗風を振るう。

 般若波羅蜜多を深く行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、度一切苦厄、パーラミーター彼岸に渡るに深浅があるかという、そりゃあるんです、忘我とその周辺とですか。でも深浅とはそれっきりです。ものみなの中にこうあるだけです、世間諸方の深浅など問題にならんです。はい心経のまっぱじめです、随所に主となって下さい。

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四十三、首山竹箆

首山和尚、竹箆を拈じて衆に示して云く、汝等諸人、若し喚んで竹箆と作さば即ち触る。喚んで竹箆と作さざれば即ち背く。汝諸人且く道え、喚んで甚麼とか作さん。

無門日く、喚んで竹箆と作さば即ち触る。喚んで竹箆と作さざれば即ち背く。有語なることを得ず、無語なることを得ず。速やかに道え、速やかに道え。

 首山省念(九二六ー九九三臨済下風穴延沼の嗣)法華経に通じ念法華と云われる、通ずるという別段何を通ずるわけでもなく、法華経を云い、南無妙法蓮華経と云い、何か特別を思い、他を排斥しもの狂いする連中とは、あっはっはわけが違うです。法華経を卒業する、なんにも残らないをもってわずかに可。竹箆は弓のような、法戦式に使う道具ですか、さあ道えと云うんです。使い得るか、有語なることを得ず、無語なることを得ず、すみやかに道え。ようやくここに人間本来真面目です、さあ道って下さい、へたすりゃ首が吹っ飛ぶ。

頌に日く、

竹箆を拈起して、殺活の令を行ず。
背触交馳、仏祖も命を乞う。

まったくさ、何云っていいのかからない、命乞いです、命助かったってなんにもならない、さあどうする、糞もすりゃ屁もこく、真面目とはなにか、答えりゃ自ずからに命。

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四十二、女子出定

世尊、昔因みに文殊、諸仏の集まる処に至って、諸仏各々本処に還るに値う。ただ一人の女人有って彼の仏座い近づいて三昧に入る。文殊乃ち仏に白さく、云何ぞ女人は仏座に近づくことを得て我は得ざる。仏文殊に告ぐ、汝但だ此の女を覚まして、三昧より起たしめて、汝自ら之れを問え。文殊女人を遶ること三匝、指を鳴らすこと一下して、乃ち托して梵天に至って其の神力を尽くすも出すこと能わず。世尊云く、仮使い百千の文殊も亦た此の女人を定より出すことを得ず。下方十二億河沙の国土を過ぎて罔明菩薩有り、能く此の女人を定より出さん。須臾に罔明大士地より湧出して世尊を礼拝す。世尊罔明に勅す。却って女人の前に至って指をん鳴らすこと一下す。女人是に於て定より出ず。

無門日く、釈迦老師、者の一場の雑劇を做す。少々を通ぜず。且らく道え、文殊は是れ七仏の師、甚んに因ってか女人を定より出だすことを得ざる。罔明は初地の菩薩、甚んとして却って出だし得る。若し者裏に向かって見得して親切あらば、業識忙忙として那伽大定んらん。

 文殊は七仏の師という、七仏はびばし仏しき仏と唱えるお釈迦さま以前の仏、これたとい八十六世の仏も次は過去七仏に継ぐんです。罔明、罔は無きこと無明の菩薩という、最下位の仏ですか。どうです一応の道を得て、妄想業識忙忙、うっふ前生の業によって輪廻転生の心意識に苦しむこととあります、妄想三昧にありながら、傷つかぬ無心、無けりゃ傷つかぬ道理です、すなわち定に入ることができますか。八九成という自覚、あるいはこれ、君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずと、証道歌にある通りの本来人ですか。女の人でこっちなんにも説かずのうちに、三昧というより、まさにそのものに成り切っている人います。不思議に生え抜き、でもって罔明菩薩ですか、たしかに古参がよったくって何しても叶わない、まったく面白いんです。で本人何を知っているかといって、別段のことはなく、決して誤らない。他の方向を指しても、見向きもしない。
 男ではこうはいかない、文殊では歯が立たないっての実感します。でもまあこの則みたいに、持って回ったこと云わずもがなって思います。そりゃそういうことあって、未緒ちゃん師家になるか、だったら適当な三百代言脇に置いてさ、うっふ云いたいこと云ってりゃ様になるよって。人を定から出すなんて、だれ何しようが同じです、頭ぶん殴るまでもない、でも本来ほんとうを如何せんです。未緒ちゃん追っかけの人来たよ、わーったらあの子飛んで行く。
 那伽とは龍のこと、那伽大定魚変じて龍となるには、少々を通ぜずは、世の中どう足掻いたって何一つ欠くことはできないんです、白雲去来すれども泰山動ぜずなんて踏ん反り返ることいらない、ただもうっ真っ只中です、ぬうっと丸出し、絶対過またず。

頌に日く、

出得するも不出得なるも、渠と儂と自由を得たり。
神頭並びに鬼面、敗闕当に風流。

 うんまあさそうしゃちほこばらなくたって、わずかに自分失せれば大自在、仏とは何かという、仏というたがを外れて、ほんとうに仏であるか、世尊まったく過またずか、はいみなさんたしかに証明して下さい、でなかったら道は絶えます。

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四十一、達磨安心

達磨面壁す、二祖雪に立つ。臂を断って云く、弟子は心未だ安からず。乞う師安心せしめお。磨云く、心を将ち来たれ。汝が為に安んぜん。祖云く、心を覓むるに了いに不可得なり。磨云く、汝が為に安心し竟んぬ。

無門日く、缺歯の老胡、十万里の海を航して特特として来る。謂つべし是れ風無きに浪を起こすと。末後に一箇の門人を接得して、又却って六根不具。いい。謝三郎四字を知らず。

 心未だ安からず、どうか安心させてくれという、では心を持って来い、おまえの為に安心させてやろう。心を求めるについに不可得。我れ汝を救い得たり。まさにこれ公式です。たったこれだけでいいです。無心とは心の無いこと。心はたった一つです、たった一つはたった一つを見ることができない、単純な理屈です。にもかかわらず、おれは妄想だ、取り越し苦労だ、あるいは悪だの善だのいう、崇高だの、こうあるべきの、心をしっかり持てという。騒がしいだけです。
 見えないはずの心を見る、これを有心という、では納まりっこないんです、収拾が着かない。諸悪の原因これ、地球を滅ぼすもの有心です。
 如何なるか祖師西来の意。これ無心、庭前の柏樹子は、省みるに我れなし、省みる我なし、ことを伝えて、すでにまったく了るんです。
 世間のいう無心とはそういう有心です、実に臂を断じて差し出す、一心まっしぐらもってようやくに得るんです。
 ふりして、喫茶去などいってお茶を濁すこっちゃないです。
 今の坊主学者一般達磨さんに毒を盛る連中、なにを云ったろうが、云い草にして終始我田引水は、ないはずの心をよこしまにして、くされ睾丸握りしめ、まあさ自淫行為これ。
 缺歯の達磨、しばしば毒を盛られて歯が抜け落ちたという、断臂の二祖大師、これを継ぐに当たって他なしは、今もまったく同じです。事情はよくも悪くもなっていない。却って六根不具、茹で蟹の七足八手するをもって辛うじて免れ、玄沙師備大師の旧姓は謝という、謝三郎文字を知らず、銭に記す四文字も読めなかった。達磨の不識、六祖の応無所住而生其心、人間などいうはるかに脱して、ものみなの自由自在です、それあるが故に滅びず、まったくに今に至る。

頌に日く、

西来の直指、事は嘱するに因って起こる。
叢林を橈聒するは、元来是れ汝。

 にょうはてへん、橈聒騒がせる意、直指単伝の法はまったく他にはないんです、迦葉拈花微笑、世尊我に正法眼蔵ねはん妙心の要術あり、迦葉に付嘱すと、阿難倒折刹竿著以来我れに至る八十六世、寸分違わずに滴相承の事。叢林は祖僧堂祇園精舎です、この世は叢林、まさに良寛さん一生不離叢林です、お騒がせ人間はあなたです、はやく知って本来に返って下さい、達磨さんに法じゃない、まったくに別事なし、これ。

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四十、糴倒浄瓶

い山和尚、始め百丈の会中に在って典座に充たる。百丈将に大いの主人を選ばんとす。乃ち請じて首座と同じく衆に対して下語せしめ、出格の者往くべしと。百丈遂に浄瓶を拈じ、地上に置いて問いを設けて云く、喚んで浄瓶と作すことを得ず、汝喚んで甚麼とか作さん。首座乃ち云く、喚んで木とつと作すべからず。百丈却って山に問う。山乃ち浄瓶を糴倒して去る。百丈笑って云く、第一座山子に輸却せらると。因って之れに命じて開山と為す。

無門日く、い山一期の勇、争奈んせん百丈の圏櫃を躍り出でざることを。点検して将ち来たれば、重きに頼りして軽きに頼りせず。何が故ぞ。にい。盤頭を脱して鉄枷を担起す。

 い山のいはさんずいに為、い山霊祐(七七一ー八五三、百丈懐海の嗣)大い山は譚州長沙府寧郷県にありとさ、山中に同慶寺寧印寺あり大坊本山ということ。そこのこれは開山を選ぶに当たって、首座つまり雲衲の筆頭第一座です、典座は会計食事を預かる大役です、およびみなまた呼んで、浄瓶という、インドから直伝ですか、わしらには伝わってないのはさすが水の国日本です、手を洗い口を注ぐための浄水を容れる器です、必携のものだった、百丈これをとって前に置き、
「浄瓶と云わず何と云う。」
 と云った、首座が出て、
「木っぱと云うわけには行かんが。」
 と云った。木とつ、とつは木へんに突、木杭木の切れ端。
「い山はどうだ。」
 と百丈、い山というのはい山の主になってよりの名、まあそう呼んでおきゃいいわけで、山、浄瓶を蹴倒して去る、
「わっはっは、第一座、あいつにしてやられたな。」
 と百丈。
 すなわち山に命じて開山となすと。
 どうですか、とやこう云わんです、あなたならどうしますか。開山を蹴って知らん顔ですか。物まねはだめですよ、瓶と云わずになんと云う、禅問答のお定まりみたいなこれ、答えがあっちゃ試験の答案です、話堕に落ちる以前。首座は少なくとも自分の問題にする、重きに便りしては山子の糴倒ですか、軽きに便りとは、そりゃ名付けて使っているものを、何を今更ってなもんです。なぜいけないんだ、にい、暫耳と作る、喝などと同じに使うんです、盤頭はちまきというより、孫悟空の鉢巻、鉄枷は大い山ですか。
 圏櫃はわな、百丈の檻にいて日夜研鑽も卒業式。なにさ百丈のもとにらしく振る舞ってりゃいいものを、とかく人間はそうは行かない、てめえに鉄枷はめて世の中へ。そりゃ勇気あるわなアッハッハ。

頌に日く、

笊籬並びに木杓をよう下して、当陽の一突周遮を絶す。
百丈の重関も欄ぎり住めず、脚尖糴出して仏麻の如し。

 よう下ようは風に易、放り出す、笊籬これざるのこったかざるみたいな垣根かな、木杓はしゃもじだとさ、そういうの放り出して、当陽南面ですか、真正面因みにお寺は南向き、周遮まわりくどいとやこうです、突破して下さい、これ坐禅の要訣です、いつまでたっても牛過窓櫺やってないんです。脚尖爪先で躍り上がる、仏はこうあるべき、身心脱落のありようはなどなんの役にも立たない、たとい百丈の重関もわずかにてめえの皮っつらです。

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三十九、雲門話堕

雲門、因に僧問う、光明寂照遍河砂。一句未だ絶せざるに、門遽かに日く、豈に是れ張拙秀才の語にあらずや。僧云く、是。門云く、話堕せり。後来、死心拈じて云く、且らく道え、那裏か是れ者の僧が話堕の処。

無門日く、若し者裏に向かって雲門の用処孤危、者の僧甚んに因ってか話堕すと見得せば、人天の与めに師となるに堪えん。若也未だ明きらめずんば、自救不了。

 雲門文偃、雪峰義存の嗣雲門宗の祖、徳山のもとに如何なるか是れ仏と問うて、再度追い出され、三たびして門扉に足を折って大悟すという。機峰第一と云われ、趙州に並び頻出する。機峰という、そんなもの問題にならんですが、雲門かく見性してより、なんで内あり外ありするという、本来ほんとうにぶち抜くまで就中苦労したことは、趙州また洞山大師と同じです。まっ平らになって始めてこの言ありです。
 科挙の試験に通って秀才という、官人さんです、張拙秀才はまた石頭下三世石霜慶諸に就いて開悟し、呈した長頌の冒頭に、光明寂照遍河砂の一句がある。
 云い出でたとたんに、話堕じゃと云ってそれっきり、それが面白いもんだから死心、黄龍死心(一0四三ー一一一四晦堂祖心の嗣)がしばらく道え、この僧のどこがいったい話堕、かんしけつですか、出かかった糞が固まっちまってつんです。話に堕す、色っけですよ、人におもねるは、気に入ったからというも百年遅いんです。まあさ自分になってない、光明寂照遍河砂、ぐわぶん殴ってやる、口が裂けてもの勢いあって、雲門の二の句を引き出す。わっはっは雲門から二の句が引き出せたら、無門も形無しってとこですか。
 よくまあヤフー掲示板でも話堕の人九割方、切っても切られたことを知らない。参ずる以前ですが、この僧に至っては、なにしろ坐るのでしょう、そうしてもってちらとも見る、あるいは風景あって、秀才の頌に見処、師の雲門に挙す。だったらもう一つ親切に答えたらどんなもんだという、話堕です。糞掻き箆め。親切この上なし、なんという醜さ、痛烈に示すんです。はいこの間のことちらとも知って、本来ほんとうを求めて下さい。

頌に日く、

急流に釣りを垂る、餌を貪る者は著く。
口縫わずかに開けば、性命喪却せん。

 心の動きは一瞬なんです、神経シナップスの速さをゼロとして人間成り立っているんです、悟るも悟らぬも電光石火、わかりますか雲門も趙州も間髪を入れず、それ以外に説得の法がないんです、腹減ってるやつはがぶりとやる、減ってないやつは問題外。

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