しんめい

2007年3月18日 (日)

しんめい

心若不生法無差互。知生無生現前常住。
智者方知非言詮悟。
(心若し不生なれば、法に差互無し。知生無生にして、現前常住なり。智者は方に知る、言詮に非ずして悟ることを。)
不生というんでしょう、これを理解するのに、言詮、言葉をもって詮じ尽くすこと能わず、というより無意味なんです。自分という、あるいはものみな不生です、わずかに自分をもって証する、思い当たる他はないんですよ。すなわち参禅という、仏というまさに至るよりない。知ろうとして泳ぎ出す、歩みを進むれば近遠にあらず、却って山河のこを隔つと。知ろうとする、たいていは知識の交通整理ですか、あれとこれを結びつけて、だからどうだで納得したつもり、まずもってこれを免れること第一歩。ノウハウを知ろうとする、知ろうとするものこれ。動中の禅をどうしたらいいかという、そんなものないんですよ、どうしたらいいという前後不覚。せいぜい目を開いてまっ平ら、まっすぐに見るんですか、なというと今度は目のやり場など工夫する、あっはっは笑っちまうです。もとこうあるこれっこっきり、ただ坐りゃいいという、そんな楽ちんがわからない、だってさ、他に何があるんですという、一つよくよく我れと我が身心に問い糾して下さい。身も蓋もないんですか、ついに現前常住は、もと始めっからなんです。父母未生前の消息、生まれて間もない赤ん坊の目を見てごらんなさい、宇宙の一欠片のようです、恐いほどです。はいこれ仏如来、大悟徹底人です、帰家穏座して下さい。赤ん坊は世の中も意味もわからんで、役に立たんですが、如何なるか言詮に渉らざる底の那一著、とおーつ。はーいまっ平ら、鳴り響むんです。

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無爲無得依無自出。四等六度同一乘路。
(無為にして無得、無に依って自ずから出ず。四等六度同じゅう一乗路。)
六度というのは六波羅蜜、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智恵の六つ、四等というのはようもわからん、四苦や四恩四倒ほか、そりゃいっぱいある、三つにしたり七つにしたり、三方に載っけてご丁寧に差し出すのが、しきたりというか人間世の常。八正道など鬼の首でも取ったように云う坊主、すなわち偽物です。面と向かってやってみない人の云うこと、ひとたび向かえば、六度四生もなんの意味もなさなくなる、葛藤これ人生という、実智恵に区別も段階もない、そのときに当たって一00%常に本来です。でなきゃ成長もなんもないです、そうしてほんとう本来無為を知る、無得を悟るんです。これを知らずば生活指導の反省文です。同じことを反省のたんびに繰り返す、ちったあよくなるといっては、豚箱教育の二重人格、いびつを作るのが関の山。早く世間常識、お仕着せの無駄ことを免れて下さい、無心です。心を顧みるに心無し、無いとはものみな二00%です、ちらともあったらそれによって滞る、錆つき詰まった水道管です、いえ入るも出るも不都合です。無心無いものは傷つかない、いつもまっさらです、救いとはただこれ。神さまの免罪符じゃないんです、そんな要らん手続きしないんです、ものみな一乗路、自ずから知るんです、作り物は壊れもの、早く帰りついて下さい、春風至って百花開く。

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不起法座安眠虚室。樂道恬然優遊眞實。
(法座を起たずして、虚室に安眠す。道を楽しんで恬然、優遊として真実たり。)
今の曹洞宗門はかっこうをつけて坐って見せる、悟りもなくノウハウもなく、無理矢理無事禅です。だれも楽しまない、他に見せるためのお布施稼ぎですか、達磨さんに毒を盛る連中、でもこれやりきれないんでしょう。座禅というのは、まさにかくの如く、法坐を起たずして虚室に安眠す、まさにその通りこの通りあるんです。坐という真空です、観音さまの日常、無自覚の覚として轉々して常住座臥です。歩々清風起こるという、そうですねえ一般しゃば人の、千倍の大きさで歩くといったら叱られますか、もと本来の姿生まれつきです、縮んで自閉症、あるいは失調騒々しいのと違います。エトルリアの楽園人やアアポルローン像にも似ますか。そりゃ人間です、自分という形骸、自縄自縛の縄から解き放れたら、それっこそ万倍。道を楽しみ恬然という、道という金縛りもないんです、まったく解き放たれて、優遊真実です。神もなく仏もなくもとこの通りこの通りに、はい雪月花ものみなあるんでしょう、あっはっはだったらその通り生きて下さい、過不足ないんです万々歳。

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照無相苑朗涅槃城。諸縁忘畢詮神定質。
(照らすには相無うして、苑朗たりねはん城。諸縁を忘畢すれば、神詮はり質定まる。)
それ参禅は静室宜しく飲食節あり、諸縁を放捨し万事を休息し、善悪を思わず是非を管することなかれ、と普勧坐禅儀にあります。照らすに相無くは、是非善悪です、自分の都合勝手による取捨選択ですか、照らすんです、心意識の運転を停め、念想観の測量を止めとまたある、世間生活利害得失ですか、まずもってこれをやめる。万事を休息すると、自分というもって生まれた本来です、生まれる以前のものみなですか、箇のありよう、いつだって現前するんです。空気のようにただある、それに満足できない、気がつかないでいる、諸縁という有相という、あるいは自分という世間という架空事の故になんです。改めて思い当たって下さい、座禅があるんじゃないんです、ぶち抜いて悟りじゃない、仏教学者や坐禅何段じゃないんです。わずかに気がつかない、泳ぎ出して真相じゃない、余計ことです。もと神そなわり、精神といい神経という微妙円満を損なう、質定まりという、もと備わるものをいびつにする、手を付けるに従い齟齬です。はいこれを知って下さい、ただこれ苑朗ねはん城です、ニールバーナ無自覚の覚、無上楽。

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所作無滯去住皆平。慧日寂寂定光明明。
(所作滞る無く、去住皆平らかなり。慧日寂寂として、定光明明たり。)
所作滞るなくとは、何をどうしたろうがそのもの自身なんです。所作として観察するものなし、却って所作の方がこっちを見るんですか。不思議なとは思議に預からない、影というものないんです。慧日寂寂という、ただ青空ありあけぼのありするんです、信じられぬほどに直截です。どんな絵描き詩人も及びが付かない、我れ無うしてものみなの実際です。百万語費やしたっておっつかぬ、わずかに自分をぶち抜きゃそれでいいです。どうかおやり下さい、真実不虚、この事他にはないです。去住皆平だの定光明明だの云ったって、お題目にもならんです。たといどこまで行こうが自我の網、なんというおれはと顧みる。けれどもこのありよう、始めっからしまいまで同じです。わずかに取り扱うものあって、空の空なるかなと行かない、空を持ってしまうのです。いらんことですよ、皮袋ぶち破って清々は、一生に一度必ずという、生まれ本来の姿に帰るという、すなわち自知する。ものまねではない、首を縦に振らん覚悟ですか、自分で自分が許せぬものを、どうして師家だのなんだのが許せるか、というんです。あるいは意識の退廃、心魂の根腐れあるんなら、その薄皮一枚剥ぎゃいいです。まあさぶん殴るっきゃないですか、あっはっは。

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無處安心虚明自露。寂靜不生放曠縱横。
(無処に安心して、虚明自ずから露る。寂静不生にして、放曠縦横たり。)
処というこれ観念が決める、求めるんですか、水は方円の器に従うという、水は無処です、氷がぶつかって有処です。実際に大安心は無処による、確かめて下さい、無覚の覚ですよ。どうしてもこれを求めるのに、得たといい、解ったという、たしかに仏の云う通り、お釈迦さんの示す通りにという、そりゃ物まねです。云われた通りに布延する、じゃしょうがないんです、新たな自縛の縄をなうっきりです。寂静不生は、静かになった騒がしいとは無関係です、静においても騒においても、心という、自己というものまるっきり見えないんでしょう。不生の人と盤桂禅師の云う、実に一目瞭然なんです、どんなに何云おうが、本来人は妄想人とは別ですか、あっはっは顧みるには却って知らず。妄想まるけなんですか、廓然無聖なんですか、こうあるべき、だからどうのという物差しがないんです。人は自分で格子をこさえ、自分で中に入っている、そんなあほなっていうんでしょう、まったくどあほです。もと広大無辺、縦横無尽を知る、だってそのように生まれついている、というより不生、生まれも死にもしていないんです、ものみな。

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此宗毫末沙界含容。一切莫顧安心無處。
(此の宗毫末なれども、沙界含容す。一切顧みる莫うして、無処に安心す。)
他の諸宗は教理り信条あり三位一体あり荒唐無稽ありするんですが、この宗ばかりはなんにもない。これがこれでいいという、一切顧みるのうして、無処に安心です。取り付く島もない、はい取り付く島もないのがあなたです、それを取り付こう、どうにかしようとするから迷妄起こり悩み喧嘩です。あっはっはすでにどっぷり漬け、というのも汚れですか、水の中にあって渇を求める七転八倒、悪足掻きを止めれば、元の木阿弥大安心です。坐っていてどうにも坐が坐にならないという、満足が得られないという、それみんな自分でやっている、自業自得自縄自縛するんですか、手を放すとほうっとおのれに帰る。おのれという架空の思い込みじゃないんです。従前のおのれという、それをもってしては自業自得です、なにしろ脱却せにゃ始まらぬ。忘我という元の木阿弥、自縄自縛しない世界を知る、でないとただの言い種我田引水なんです、これを厳に戒めて下さい。坐とは自分が自分に戻ることなんです。オウムやインドの聖人みたいな中途半端、絵に描いた餅じゃない、百害あって一利なし、マンガやってるんじゃないんです。毫末とはこれ、指さすにふっ消えているんです、宗教という悪戯ではない、本来これ。

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正覺無覺眞空不空。三世諸佛皆乘此宗。
(正覚は無覚なり、真空は空にあらず。三世の諸仏、皆此の宗に乗ず。)
正覚は無覚によるということが、どうしても学者や声聞縁覚、あるいは他宗、外道には解らない、どうしようもないんです。坊主ども悟りといい、境地を云い、あるいはだれかれ光明だの清らかのいう、そういう有心をあげつらう間は遠くて遠いんです。あっはっは、持って回って必ずおれはとやる、俗人です。無自覚の覚これ仏の他に知れるなし。真空は空にあらず、空という一般必ず空というものがあるんです、ではそりゃ頑なです。水と氷のように、なんにも見えないがあっちゃ不都合、さあこれ根幹ですよ。無心を得て下さい、心が無いんですよ、理の当然唯一心です。一つきりはおのれを見ること不可能ってだけなんですが、これを本来に落着することは、生易しいことじゃないです、なぜかそうなんです。どこまで行ってもうだうだ能書き、坐は正直です。上には上があるような気がして、一心に勤しむ、ついには仏です。仏であるおのれにまったく気がつかない。すばらしいっちゃ歓喜っていえば、まさにものみなの自ずからです。たしかにお釈迦さんのいう、達磨さんのいうその通りです。でもまったくなんの自信もないです、ただ他が云えば、云う先に応答ですか、まるっきりかくの如くです。もって自分とは何か、知らないんです、自覚症状のない、すなわち健康です、自覚症状のないままに日々新たにです、仏向上事これ。

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實無一物妙智獨存。本際虚沖非心所窮。
(実に一物無うして、妙智独り存す。本際虚に沖し、心所窮まらず。)
見聞覚知というんでしょう、実はそれだけで成り立っていて、見聞覚知というに囚われねばまさにそれ。見るもの聞くものありながらない、触れてもなく、打たれてもないという、一00%いや二00%実存を、あっはっは見聞覚知の人夢にだも見ず。ハイデッカーだのヴィトゲンシュタインだの云うことはなにやら云う、実際は夢にも知らんのです。配下100万出たとてただ迷妄。妙智独り存するという、哲学じゃないんです、そういうかすがなんにもないんです。妙智とは触れる能わず、触れる手もないんです。無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法の、生まれ本来なんです、生まれる以前です。これヨーロッパ流に一00万べん説いてもどうもならんです。おそらく今世紀中に仏教西へは無理かも知らん、たとい座禅も自我を助長です、どうしたってこうしたって、信ずるだか正しいという、いいことしいの頭なぜなぜ、本際虚に沖しないんです。はじめにわざありき、言葉ありきをまずもって返上せやならん、有力の大人出でて、思い切って西欧ぜんたいを捨てる、Ichを忘れ去ることだ。心所窮屈ですよ、なけりゃ窮りないんです、単純な理屈がなぜわからない、不思議な気がするたって、そりゃ始めの囚われを捨てないからです。心は一つ、すなわち見ること不可と、たったそれだけ。この心銘実に西欧精神の救いによく、早く自我を去って、あっはっは、十字軍以来の野蛮不細工を払拭して下さい。世界中ほおっと太息吐きますよ。

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不入不出非靜非喧。聲聞縁覺智不能論。
(入らず出でず、静に非らあず喧に非らず。声聞縁覚智の論ずる能はず。)
出入なくとはもと一つことで、そりゃ出るも入るもないです。でもこれ至りえ帰り来たったといって、なをさらに参ずる。死んで死んで死に切っても、死に切るものさへなを残ると思って下さい。かすっともかすらずともなをおのれという。捨身施虎、虚空に食らわれ尽くすのは、あるいは生易しいこっちゃないです。捨てただけ入る勘定です、捨てなきゃ入らない、これを徹底して、そうですねえ入った分を味わう。楽しんで行って下さい。捨てる淋しいいない、おれはないの繰り返しから、得てもって行く、ついにはほんとうに死ぬるんです、この世に自分はいないんです、これをもって仏の仲間入り。あっはっは死人を仏と云うんでしょう、まったく正解。棺桶の中身はほんとうにいい顔をしてます、示寂と云います。世の静喧嘘八百を免れて、生まれ本来のほんとうです。死人と同じこれ我が宗旨なりと、至道無難禅師の日く。唯嫌選択ただ憎愛無ければ洞然として明白なりという、余は明白裏に非ず、却って護惜すやまた無しや、死ぬる以外にないんです、そりゃ声聞縁覚のまるっきり預かり知らぬところです。でもこれみな知ってます、仏にも死人にも手を合わせて、あっははっは厳粛ですよ、人の生活は死に事で成り立っている所あります、賛美歌や天上じゃなくただ、無心です。まあさ変な音楽しない、直面して下さい。

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