しゅしょうぎ

2009年4月25日 (土)

しゅしょうぎ

此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬ふべし、我らが行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。

あるいはこの段がもっとも大切ですか、仏教の根幹です。この一日の身命尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なりと、いったい今の世に何人がそのように思い得ることができますか、尊たび貴とび得ない自分など世の中のまったくの害悪なんです。柄に描いた餅やらしいふりの虚偽はったりじゃあうるさいだけです。ほんとうに実に是、坐って自分というものをまったくなくして下さい、自分なくなってたといお釈迦さまが現実します、尊であり貴である身心あるいは形骸です。これを現実しうる自らも愛すべし、敬うべしと知る、すなわちようやくこれ人の生活です、人間の尊厳これです。人の命は地球より重いなどいう上っ面じゃないです、命を鴻毛の軽きに置けという、飢えた虎に投げ与えてしまって下さい、虎の威を仮る狐の不惜身命じゃないです、たいへんなことですとはただの一箇の消息です。その一箇の消息とは、我らが行持によりて諸仏の行持見成するんです、仏を見るんです、はじめて仏のなんたるかを知る、これによって諸仏の大道通達するんです、ついに仏を継いでしきぶつびばしぶつにつなぎ、お釈迦さまに返るんです、これが仏教です。

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2009年4月24日 (金)

しゅしょうぎ

設ひ百歳の日月は声色の奴卑と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の侘生をも度取すべきなり。

声色の奴び(女卑)です、思想考え方の奴隷となって馳走す、追ったくられ賭けずりまわるんです、そうしながら天才だ個性だの宗教家だ共産主義だのやっている、そりゃ回りを見ればみんなそうだから抜きん出て何かという、まことに仏の道は魯の如く愚の如く、世間知比較競争を外れてしか成り立たないですか、わずかに生まれ本来の真相です、生まれる以前死んだあともそっくり同じ、どうもこうもあっはっは役立たずの道ですか。あんまりお奨め商品じゃないですが、たった一つこれだけがほんとうに世のため人の為地球の為なんです。他は淋しく騒々しい地獄餓鬼修羅畜生のすがたです、どうかこれを思い当たって下さい、通身に思い当たってお釈迦さまの出家があったんです、人も地球のお仲間だということを知る、ほんとうに知れば百歳の侘生をも度取する、ものみなを救い得るんです。たった一つの行持を行取することこれ、ホーホケキョとうぐいすの鳴く、宇宙一切を領有するんです、ホーホケキョと鳴いてごらんなさい、ほんとうに鳴けると人にもそれがわかります、救いとは何かものの真相とは何か、喜怒哀楽がそのものそれっこっきりの姿です。抜きん出て益なし。

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2009年4月23日 (木)

しゅしょうぎ

光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる、徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり。

徒に百歳生きる以外になんの取りえもなしというのが現代の形骸社会ですか、国の借金ばかり増えてあるいは犯罪大国淋しく騒々しい、うっとうしいすっきりしないという、これ人間の本質を忘れています、民主主義でも多数決でもない、光陰は矢よりもしみやかなりと知るなにかしら、身命は露よりも脆しと見るいきさつ、たとい百千万あろうがおれはこれというたとい潔さです、生まれて来てその意味も知らずに死ぬ、他愛ないつまらない生涯ですか、いいえつまらない命なんてないです、比較によらない無限絶対です、でなければいったいなんですか、そりゃもうアホらしくっていぇってらんないです、目覚めて下さい、百年虚言の夢、頼まれもしないお仕着せのおんぼろ衣脱いで、そうねえまずは宇宙風呂。

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2009年4月22日 (水)

しゅしょうぎ

病雀尚ほ恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚ほ恩を忘れず余不の印能く報謝あり、畜類尚ほ恩を報ず、人類争か恩を知らざらん、その報謝は余外の法は中るべからず、唯当に日々の行持その報謝の正道なるべし、所謂の道理は日々の生命を等閑にせず、私に費やさざらんと行持するなり。

病雀は舌きりすずめです、窮亀は浦島太郎です、三府の環余不の印はまあようもわからんが浮き世の往来とつけたしとですか、恩に報いることあるいは人間の根幹です。大法の恩に報いるには、ただまさに日々の行いです、日々なおざりにせず、わたくしに費やさざることです、坐禅の根本です、自分ひとりよがりのために坐禅し、見性を求めている、なを木によって魚を求める如しです。坐禅見性といい得たといいだからといってひけらかす、もっとも仏に遠いことです。坐禅も見性もせずはそりゃ問題外です、坊主のみにくさだらしなさを見習うことはないです。行持綿密は猿芝居じゃないです。箇の無縫塔これよくよく見るによし。

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2009年4月21日 (火)

しゅしょうぎ

今の見仏聞法は仏祖面々の行持より来たれる慈恩なり、仏祖若し単伝せずば奈何にして今日に至らん、一句の恩尚ほ報謝すべし、一法の恩尚ほ報謝すべし、況や正法眼蔵無上大法の大恩これを報謝せざらんや。

仏仏に単伝する以外に仏教はないんです、余語のことはみな娑婆世間の有象無象です、どう取りすがったとて身命の救いはないんです、らしいことをしてお茶を濁す、迷妄が迷妄を呼びただこれ同じ羽の鳥を集めるだけの淋しく騒々しいかぎりです。まず自分というこの一個かららしいこと、淋しいことを取っ払って下さい。人まねしたってうるさったいだけです。鶯のようにホーホケキョと鳴くたって物真似じゃ届かない、坊主のお経がうすら気味が悪いだけの、趙州無字の公案たとい透過するも、一箇無になり終わる、ようやくにして小鳥の囀りに匹敵しますか、花が咲いたら花の楽しみです、ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせばと良寛、君無くば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをやと貞心尼。仏祖単伝するとはこういうことです、まり一つつけない自分のわだかまりを知って下さい、ことはそれからです。行持宇宙に鳴りとよむんですか、無上大法の大恩を報謝して下さい、生きとし生けるものこれ、山河大地これ。

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2009年4月20日 (月)

しゅしょうぎ

見ずや仏の言はく無上菩提を演説する師に値はむには、種姓を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌ふこと莫れ、行ひを考ふること莫れ、但般若を尊重するが故に、日々三時に礼拝し、恭敬して更に患悩の心を生ぜしむること莫れと。

無上菩提ということがある、他は二の次三の次です、一神教の神さまではない求めるおのれ自体です、共産党の目的のためには手段を選ばずじゃない、もと全体ですひとりよがりは不可です。若しこれを演説する師に値はんにはとある、仏の噂ではない仏なんです、仏教というないものを言触らすんじゃない、もとなんにもないんです。種姓もない、男女の別もいらん、非を嫌う行いを考えるなし、そりゃあみな世間知です、世間比較をもって真実に当てることなし、世間知は世間知としてあるときは用いあるときは用いず、ただし非をいとわず、行いを見ずは便利でいいという坊主ども、そりゃまったく別ことです。たった一人暮らしの良寛さんが実に厳格であったことはよく知られています。もとこれゆるがせにせず、老師も是是といいながら実に厳格であった。もとよりでたらめ放逸などないんです。でたらめ放逸の人は坐っても妄想を追いかけるだけ、実に坐禅にならんのです。ただ般若を尊重するがゆえに、日々三時に礼拝しと、身心を挙げてたったこれ一つです。般若ぱーらみーたー彼岸にわたり切るんです、智慧とはただこれ。人為のものじゃないんです。患悩の心を生じてはもとより右往左往、たとい生じても即ち消えるんです、ちらとも見て下さい、身心おおよそのありようです、でないとなんにもならんです。

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2009年4月19日 (日)

しゅしょうぎ

静に憶ふべし正法世に流布せざらん時は身命を正法の為にほう(てへんに九に力)捨せんことを願ふとも値ふべからず、正法に逢ふ今日の我等を願ふべし。

どうしても真実が欲しい、ほんとうが得たい、ほんとうでありたいというのは、人皆の根本の願いです、身命を挙げて思う所です。でも正法に出会えない人が千万人、出会える人がたった一人いるかどうかです。出会えている自分、あなたです。他にはさらにないです。坐っていても妄想を追いかけるだけだ、どうしたらいいかと問う人、それじゃ坐禅にならないといえば、どうしたら坐禅になるかと、ノウハウなしを知ること先決、ノウハウなしを知るはどうしたらいいかと聞く、ノウハウなしと。取り付く島もなし、はいこれ身心まさに取り付く島もないんです、あなたというものに手を付けること不可能、はいこれ仏法です。ものみな取り付く島もなし、ものみな正法です、真実相として成り立っています、ではそれを知る如何、知らぬもっとも親切、朕に対するは誰そ、磨云く、不識。知らないと大手を広げて下さい、大海中の海水ですか、これ通身帰依、不惜身命です、飢えた虎に食われ終わって下さい。ノウハウこれ。

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2009年4月16日 (木)

しゅしょうぎ

第五章行持報恩
此発菩提心多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来たれり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

南閻浮題はああこの浮世のことです、たとい王侯貴族の生まれでありながらも出家して法を求める発菩提心です、何をしなくてももうこれでいいというんでは、そりゃそれっきりの退屈至極ですか、人間としてこうあらねばならないというたがを超えて求めるんです、元来そのように出来ています。宇宙あり星震を頂き山河大地あり、草木あり生きとし生けるものありです、願生此娑婆国土し来たんです、ほかのことはいらんのです、同事というは不違なり侘にも不違なり自にも不違なり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんやです。世界にはさまざまな宗教があるんではないんです、仏と仏の教えだけがあるんです、薄福少得の衆生はついに仏に会わず、たといその百生も迷妄のままに現を抜かす、本当本来のおのれを知らぬままにする、人類の歴史とはすなわちこれ、瓦礫の山です、しっかりと目を見開いて見て下さい、はーいたった一つです。

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2009年4月14日 (火)

しゅしょうぎ

同事といふは不違なり、自にも不違なり、侘にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、侘をして自に同ぜしめて後自をして侘に同ぜしむる道理あるべし。

同事です、これを知らずはそりゃ仏でも坐禅でもないです。汝これ彼にあらず彼まさにこれ汝、経行といって歩く坐禅に向かう相手が自分になってこっちを見ている、不思議だなあと思ったのが最初でした、すっかり相手になっている、意識を通さないんです、面白いでしょう。先ずもって自にも不違なりです、自分という偽者がいたらそりゃだめです、仏教以外にこれを知るものはないんです、自我と神さまの三者対談じゃそりゃ収拾が付かないんです、それを無理やり納得ずくが西洋の歴史でしょう、平和を云いながら喧嘩ばっかりしています。醜悪このうえないです、法王の演説という妄想まるけです、これでは侘にも不違なりなんてこれから先もないです。信ずる者は救われるというお仕着せです、右の頬を打たれたら左を出せという厚っかましさです。如来来る如し、もと人間というお仕着せの枠組みじゃないんです、信不信によらないんです、魚に似て魚行けり見ず自ずから澄む、真相とはたとい人間の如来は人間に同ぜるが如し、まさにもってこれを知って下さい、知識じゃない現実なんです。それゆえに如来は先ず仏になれと示すんです、そうしてついには自をして侘に同ぜしむるんです、特別別格などいうものないです、自分という別誂えの思想を要さない、外にあるものばっかりでいいんです、思想という多種類は多種類のまんま用いればいいです、さまざまな存在理由ですか、はいはーいと返事してもう忘れています。たとい自分妄想の虜なら、鏡に映し見るように習えばいいです、ついになんにも映らなくなります、するとやや近いです、同事ということが起こります。

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2009年4月13日 (月)

しゅしょうぎ

利行といふは貴賎の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単へに利行に催さるるなり、愚人謂はくは利侘を先とせば自らが利省れぬべきと、しかには非ざるなり、利行は一法なり、普ねく地侘を利するなり。

これは道徳や宗教ではないんです、利行は一法なり、あまねく自他を利するなりと、もとただこのとうりにあるんです、自然法則というように、自分という観察者が外にあって云うんじゃないんです、自他なし自分も自分のほかももとこの中にどっぷり漬けです、だからどうしようというんではなく、よこしまにし過つことあれば不具合なんです、一切苦厄のもとになるという、よくよくこれを知って下さい、これを知るとは色即是空です、身心脱落して空じ切る他なし、でなけりゃ我欲をもって無理無体があるばかり、もと行われていることがただこれ納得できないんです。流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者と、これ出家剃髪のげです、自分=世の中というめくらましですか、架空を捨て去ることからです。愛という色眼鏡じゃないんです。平和博愛という蛇足じゃないです。

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