尋常坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用ふ、或いは結か(足に加)ふ(足に夫)坐、或いは半かふ坐、いはく結かふ坐は、先ず右の足を以って左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず、半かふ坐はただ左の足を以って右の腿を厚すなり、寛く衣帯をかけて斉整ならしむべし。次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両の大拇指面ひて相柱ふ。乃ち正身端坐して、左に側ち右に傾き、前にくぐまり後へに仰ぐことを得ざれ、耳と肩と対し、華と臍と対せしめんことを要す。舌上のあぎとにかけて、唇歯相着け、目はすべからく開くべし。
坐り方についいて書いてあります、この通りに坐って下さい、標準です、あるいhどうもうまく行かぬようでも、工夫がうまく行けば体も整うんです。体奇妙にねじくれは心も我妄ですか。カイロセラピイとかなんとか、坐禅を利用しようという、医者の卵が参禅に来た、寒いといって毛布をかぶって、前倒れみたいに坐る。およそてめえのことっきりしかない、同室の連中に総好かんを食らっていた。仏教を利用することは出来ない、自他を救うには仏になるしかない。論文を纏めたって歌も俳句もできないんです。それゆえヨガとは違うんです、ヨガはそうやっている自分の身心を見る、坐禅は見ないんです。身心脱落です。ほんとう本来は自分というまったくなくなって、お釈迦さまがあるんです。捨身施虎です。虚空という飢えた虎に食われてしまって下さい。あっはっは食われている間はしょりゃ痛い苦しい助けてくれですか、食われ終わるとなーんにもないんです、虚空が虚空を坐っているんです。坐が坐になります。この通りの形して無心、無自覚の覚ですか、あるいは忘我あるいは無上楽、なぜに坐禅かの答えこれ。各々答えを出すしかない、習い覚えたことがまったく役には立たたんのです。自分をどうにかしようとする必要はない、飢えた虎はなんでも食うんです。どうにかしようという自分がないのを坐禅と云います、はーいこんな簡単なこたないです。
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