ふかんざぜんぎ

2009年3月 9日 (月)

ふかんざぜんぎ

久しくいんもなることを為さば、須らくこれいんもなるべし、宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん。

妄想意見何のかの、生活習慣病すったもんだあったとて、これありこれをやり遂げるただこれです、なにしろ坐って結果を出して下さい、手前味噌の善いの悪いのをしないんです、手前判断はすべて間違いです、判断する自分がある間は、坐禅にならんです。単純を示すこと、二心なし、自分を省みる自分がないんです。あいつもずいぶん叩かれたからなあという、叩かれることだけが退歩の術です。朝打三千暮打八百ついに自分という取り得がまったく失せるんです、すると宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん、まさにこれを受く、ねん華微笑底があります。けちなこと思わないんです、死ぬこと意外に方法はないです。白州次郎よりは鯨太郎です。大きくなって自分というたがを外れる。棺桶に入って仏ですか。

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2009年3月 8日 (日)

ふかんざぜんぎ

直指端的の道に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏仏の菩提に合とう(踏の足がない)し、祖祖の三味を嫡嗣せよ。

直指端的の法なんです、この道以外にはないことを知ってはじめて参禅です、自分流ひとりよがりはないんです、坊主と学校の先生はたいてい次第に偉くなる、鼻持ちならないのは、従前の我を認めて、ちょうど直指端的の反対ですか、ものまね観念生活、うそとはったりに終始する、しかもそれに気がつかない、どうしようもないじっさばっさに成り終わるんです、世の中のくずこれ。精進とは何か、我昔所造悪業、皆由無始貪じん(いかり)痴、従身口之所生、一切我皆今懺悔と、何をやってもやらいでもどうしようもない、どうしようもないどうにかしてくれえと、身心挙げて坐る以外にない、始めはそうしたからって始めも終わりもないんです、わずかにゆるがせにすればもうどうしようもないんです。絶学無為の人を尊貴して下さい、他には一切目もくれず、人類あらゆるこれ余計物とほどに、歴史というがらくた、あるいは業火に燃える火の如くです。仏仏の菩提に合とうし、祖祖の三昧を嫡嗣する、かつがつに息付くんです、他になんにもありはしない、良寛に会い一休に会い大とうに会い道元禅師に会いする、ほかに一生何らの意味もないんです。梅の咲くころに梅渓という大とうのレプリカを手に入れた、そうかい梅渓なあ自らに彷彿とする。

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2009年3月 7日 (土)

ふかんざぜんぎ

しかのみならず、形質は草露の如く運命は電光に似たり。しゅっ忽として便ち空じ、須ゆに即ち失す。翼くは参学の高流久しく模象に習って、真龍を怪しむこと勿れ。

死ぬというなんにもなくなるんです、しゅっこつとして便ち空じ、しゅゆに失す、これ仏です、死ねばいい大死一番してという、意図あり慮りあるうちは役立たず、死ぬという甘えの辺に身を置いては、そりゃひとりよがりです。なんにもない醍醐味を味わうにはまったくになんにもないんです。なんにもないと知るものなく、見るものなくです。どうかまっしぐらにおやり下さい。久しく模象に習って真龍を怪しむことなかれ、参学の高流も絶えて久しいんですか、参学という物真似なんですか、曹洞宗のように命脈すでに尽きて猿芝居と、ふんぞり返って御坊稼業ですか、ただもうばかったい人間の格好もしてない集団、たといそうではなく、求めるには求めてもまったく真龍には届かぬ、もしやしてそれが現代流だったりします、根っから腐って偽者、嘘ばっかり、いいですかたとい現代流だったって、嘘じゃあ死ぬまで嘘ばっかりです、毎日一枚あて脱いでラッキョウの皮ですか、ついにはなんにもないに逢着して下さい。常識の至るにあらず、むしろ思慮を容れんや、手前味噌の頭なでなでしていないんです、仏仏に単伝すとはまさにこれ、もとかくの如しには違いぬが、手前味噌では皮つら一枚剥けないんです、清水の舞台から飛び降りるほどでやっとこさ死ねます。

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2009年3月 6日 (金)

ふかんざぜんぎ

なんぞ自家の坐状を忘却して、みだりに他国の塵境に去来せん。もし一歩を錯れば当面にさ(足に差)過す。既に身心の機要を得たり、虚しく光陰を度ること莫れ、仏道の要機を保任す、誰れか浪りに石花を楽しまん。

自家の坐状という、どう転んでも斜めでも縦でも自家の坐状なんです、それをこうすべきああすべきという、既に他国に塵境です、よくよく見てとって下さい。自分という絶海の孤島に擲って下さい、だれ一人いないんです、はーい仏教もへちまもないです、さあ一心に坐って下さい、一心という、心といって記述する必要もなし、だれと会話もないんです、はー仏教は会話です、どうしますか、どうしようこうしようともすべてぜんたい、これを無心という、あっはっはないんですよ、ゼロというだにあるんです、もし一歩を錯まれば当面にしゃかすと知るは、まさにこのときです、絵に描いた餅はどこにも転がってないんです。人身の機要としてこうあるんです、特別も平凡もない、ただこれ因果歴然ということがあるんですか、だからどうなと云うには死人に口無しですか、むなしく光陰をわたることなかれと、まったくのその日暮らしを、強いていえば周りだけがあるんです、机や窓や木草や鳥や雲、それが自分でかえりみるに自分なし、仏道の機を保任するとは、たいていこれです、得るも得ないもない、伝家の宝刀をふりかざして、蟷螂の斧をしないんです、まるっきりそんなひまないんですよ。

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2009年3月 3日 (火)

ふかんざぜんぎ

趣向更にこれ平常なるものなり、凡そそれ、自界他方、西天東地、ひとしく仏印を持し、一ら宗風をほしいままにす、唯だ打坐を務めてごつ地にさえらる、万別千差といふと雖も、祇管に参禅弁道すべし。

趣向というんでしょう、どんな趣向でも同じなんです、仏教だからいい、外道はいけない、一神教もなれのはてのポルポト派も、そりゃまったく同じ、神経シナップスの点滅だけです。捉われなければいい、信不信ではないことを知る、鯨取るな牛なら食っていいんなら、だからどうだってんで大騒ぎしないんです、おろかしくはた迷惑です。いったん全面対決すりゃいいです、おれはどうなんだということです、すっからかんになります、妄想の内容ではないことを知る、強いて云えばそれを容れる器の問題ですか。自界も他方も失せるんです、汝これ彼にあらず、彼まさにこれ汝、お釈迦さまがあなたに仏印するか、あなたがお釈迦さまに仏印するか、はーいいずれ同じことです。でなきゃ宗風でなくただの我田引水です、人間から宗教をなくせば世界中即平和ですか、ようやく地球天地宇宙のお仲間入りです、知らないといって花のようにぽっかり咲いて下さい。ただ打坐に務めてごつ地にさえらる、千差万別も祇管に参禅すべしと、ただこれっこっきり、疎外人間です、人類のまったくの食み出し物ですか。

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ふかんざぜんぎ

声色の外の威儀たるべし、なんぞ知見の前の軌則にあらざるものならんや。然れば即ち上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ、専一に工夫せば正にこれ弁道なり、修証自ずから染汚せず。

声色、見たり聞いたりのほかの威儀、形と心ですか、威儀即仏法と曹洞宗では虎の首でも取ったように猿芝居、葬式稼業のモットーにしているが、見たり聞いたり習い物じゃないんです、まったく自らを省みない、省みる自ら無うして始めて然り、染穢なき心と形です、無心箇の無体権です。ものみな知見のさきの軌則です、どうあらねばならぬこうすべきだの人間慮りの前に厳然としてあります、だったら虎に食われてしまって下さい、身心脱落です、脱落身心して始めてこれを得る、自分が自分を操縦するという不都合、不真面目を擲つんです、無為の真人面門に現ず、智慧愚痴般若に通ずと、無為の真人いずこにありやと問うて出て、胸倉掴んでこのばかったれと突き放される、なんぞ礼拝せざると云われて、礼拝中に気がつくんです。忘我ですか、すると実に声色のほかの威儀を知る、知見の前の軌則を見るんです。これ人のとやこう仏教という逐一じゃない、専一に工夫するそれだけです。馬鹿でも利口でもかかわりなく、修証自ずから染汚せずを知る、ようやくに親しいんです、自分はどうであった悟っただからという、云っている間は自分があるんです、繋げる駒ですよ。

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2009年3月 1日 (日)

ふかんざぜんぎ

況やまた指竿針鎚をねんずるの転機、払拳棒喝を挙するの証契も、未だこれ思量分別の能く解する所にあらず、あに神通修証の能く知る所とせんや。

竿さし針鎚する、どうだと聞くには間髪を入れずこれ、もと答えの真っ只中です、ちらと逡巡するあれば自分です、守るべき省みるべき異物です。もしまったくなかったら為人のところ、老師に初相見して、問うより先の答えが返るのにぶったまげた記憶があります、壁に跳ね返って来るごとく、これはなんだというより、まるでカフカのようだと思うからおかしい、妄想の人は妄想のよりどころが欲しい、すると老師を見ずに曖昧模糊とした自分の影を見る。いつかその影がまったく映らなくなる、するとようやく親しいですか、宝鏡三昧、なんじこれかれにあらずです。たとい探竿影草もこれ転機、自分というこっちがわから彼岸へです。払子で触れる、拳でぶんなぐる、痛棒ですか、かーつと喝する、これだおまえだというんです、あるいはおまえいらん、まったくなんにもないと証拠するんです。他にないんです、仏教というものもとなしは、あなたが即ち仏教です。一器の水が一滴余さず他の一器にというようなまだるっこしいことないんです。ねん華微笑ですか、もとまるっきりです、わずかに省みるあれば損なうんです。思量分別というもと200%です、廓然無聖個々別々ですか、解るというだけ解らないんです、よくよくこれを見てとって下さい。神通修証という天才だの超能力だの、勘がいいだのいうのを春かに超えるんです、ただ自分という架空借り物失せればもとまっ平ら。

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2009年2月28日 (土)

ふかんざぜんぎ

かつて観る超凡越聖、坐脱立忘も此の力に一任することを。

心理学やゆいしきあらやしきなどのこと、まったく及ばないんです、デビットという投擲の選手があった、あるとき投げ終わって始めて投げたということに気がつく、記憶がまったくないんです、そうしてハイスクールの州記録を作った。どういうことかと大学に入って後、図書館で調べてみると、東洋の禅だという、海を渡って日本へきた、あっちこっちろくでもなのにたぶらかされながら、老師のもとへ参じた、じきに得ることがあった。不思議な体験なんです、思議によらず、不思量底如何が思量せん、箇の無体験、無覚の覚とはまったく記憶にないんです、だったらどうするかという、もとに収まっているんです、忘我あり意識ありする、これをほんとうにわがものにする、手前味噌ではまず無理です。印下という仏ほとけに単伝するんです。いい加減な手前味噌ばっかりの世の中、なんせうんざりします。超凡越聖というただの人、比較を絶するんです、坐脱立亡と、坐って坐ってそりゃ坐り抜くより方法がないです。ふかんざぜんぎを手前味噌に読んだら、そりゃもう罰当たりのどうしようもないんですが、100人が100人あるいはその類です。まずもって一人じゃどうにもならんのが参禅です。単純を示すがてめえでてめえを見る二分裂になる。

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2009年2月27日 (金)

ふかんざぜんぎ

当に知るべし、正法自ずから現前し、昏散先ず撲落することを。若し坐より起たば徐々として、身を動かし、安祥として起つべし、卒暴なるべからず。

坐禅何段とかいうような人が来て、ふかんざぜんぎでもっとも重要な語は、不思量底いかんが思量せんだと云った、いや他を云ったかも知れん。坐禅を知らぬわしにはどこも最重要で、敷いて云えば坐禅の方法を書いた、尋常坐処にはから、左右揺振してあたりまでだと返した。それよりもっと重要なのはこの項の、昏散先ず撲落ちすることをと、もし坐より起たばの間、なんにも記述してないところだと云った。この間坐っているんです、記載すれば余計ごとですか、即今即今省みるなし、あっというまに過ぎるほどに、ああだこうだだからどうのが撲落して、龍の水を得る、虎の山によるがほどに、そのものそっくり正法自ずから現ずるんです。ただまさにもってこの事の為にあるんです。わずかにこれがために人生生涯、地位も名誉もぜにかねも、いいや世の中親しいものみんな擲って省みないんです。死ぬことこれ、出家は生みの親さえ捨て去るごとく。わずかにとっかかりひっかかりあれば、実にまったく坐にならないんです。今の人仏教云々云うことは云う、坐禅何段他にひけらかして、坐禅ということを知らない、あるいは知っているんですか。かすみたいな糞の役にも立たないのばっかりです。捨てることができていない、此岸にいて彼岸を求める振りですか、おろかしく騒々しいだけの。そうしてはてめえの頭なでなでの、いじましいったらお笑いにもならぬ。坐より起つときは、卒暴なるべからず、飯だってんでどたっと起って腰を痛めたことがありますよ、注意して下さい。

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2009年2月23日 (月)

ふかんざぜんぎ

鼻息微かに通じ、身相すでに調えて、欠気一息し、左右揺振して、ごつごつとして坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底いかんが思量せん、非思量これ乃ち坐禅の要術なり。

ごつごつとしてじゃあ身心ともになしにはならんではないかと、ろくすっぽ坐禅もしない本山後堂が云った、ぶんなぐってやろうと思ったがこっちは一雲水だった。身心失せてごつごつとして坐定して坐りゃいいです、このように坐って、なんにもないんです、安楽の法門筆舌に尽くし難し、自分は如来であったんです。お釈迦さまが現前します、これ漆桶底を打破しなければ、作仏と図るでたらめ無意味の染汚です、でたらめ無意味の自分というたがをはるかにはずれて、箇の不思量底いかんが思量せんです。自由自在の埒外です。手を取り足を取りこうしろああしろ云ったって、たいてい邪魔にこそなれ役に立たんです。すべからく上には上のあることを知って下さい、許すも許さぬもなくなってからにようやく坐禅です、六十二段階あると云われるのもむべなるかなです。非思量これすなわち坐禅の要術なりと知って、始めて達磨さんです。この世に出生した意味を知るんです。

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