ぜんごぜんご

2009年2月14日 (土)

ぜんごぜんご

いまをしふる工夫弁道は、しょう(言に登)上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらんや。

ただこうあるんです、他なしです、まるっきりぜんたいです、かすっともかすらない、脱落身心は各々の方面に知覚を残さず、各々の知覚に方面現れず、悟ったというときに始めて宇宙全体わがものです、生活が始まります、何をどう云ったって我田引水のやからどうにもこうにもならんですが、どこまで行こうが未だ夢にだも見ずです、仏仏に単伝してよこしまなきときは、自受用三昧その標準なり、自分印可なんてありえないんです、もし悟ったというなら持ってきて下さい。仏は一目瞭然です、手前味噌害はなはだ、石ころに説法して如何、自受用三昧これ、自分という袋小路の尽きるとき、この節目にかかわらんや。一人半分出路に一如を行ずるを待つ。さあどうぞ。舌足らずのはい五十問終わり。

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2009年2月13日 (金)

ぜんごぜんご

くは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを。

普回向というこれは、たとい何をどうしたろうが普く一切に及ぶこと、まずもってこの事を知る、坐る以外に知りえないんです、仏とはこれあまねく一切に及ぼすこと、おむつを取り替えてもらっていながら、文句百万だらの未成年、だれかれそんなふうでは国が滅ぶ。我というなんの取り得もなし、雨滴水の辺に落ちて、波紋が広がってまったく収まる、一箇とはただこれ。我ら人みななんのために生きるかといって、ただこれ仏道を成ぜんがためです。たといどのような紆余曲折もみなまた同じ、虚空に山川大地日月星辰あるが如くです。ものみな間違いようがなく、間違いようのないことを知る、これ個人なり、仏なり、仏道の肝心要です。生生世世を尽くしてまさにもって完成する、まさにもって不惜身命です。幸せであり歓喜に満つ、知れるについてはまったくもって他に云うことなしです。

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2009年2月12日 (木)

ぜんごぜんご

九のまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば
君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや
良寛さんのまりつきの歌に貞心尼がつけた。一つが完全するということです、はじめて人の生活ですか、地球ものみなのお仲間入りといったらいい。雲や鳥や花と省みるなしにこうあるんです。悟りだの気がついたの、境地や状態をいう人には無関係ですか、公案禅だの無事禅だの、人にひけらかすための商売じゃないです。うたた悟ればうたた捨てよという、悟り終わって悟りなしと、では仏とはいったい何か、仏というがものなく、あるいは一生問い続けるによく、自分という浮世娑婆のものではないところから始めるによく、たった一人のルネッサンスですか、人間復興は人間を出外れるとあるいは完全です。箇の無縫塔をこれ、どこをさがしてもなんにも見えないんです、どうか本当の暮らしを得て下さい。いっそだれが為にでもないんです。

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2009年2月11日 (水)

ぜんごぜんご

浄法界の心元出没なし、大悲の願力古来を示現す。

身心脱落すれば身も心もなし、出没太虚の中と云われる所以です、太虚なんにもなしです。住む所無うして其心を生ず、心とは心が心を見ること不可能、風も揺れず木の葉も揺れずこっちこう揺れ動くんです。歴史といい哲学思想、あるいは文学という、もと出没太虚中が、いずれ形を取り影を宿すとろくなことにならんのですか。人間の歴史我欲と間違いのくんずれほんずれ、残虐になりだらしなくなる他に、おそらくはまったく同じことの繰り返しです。公案禅だの無事禅だのいうエアーポケットからはいずり出て、じかにこのどうにもならぬ現実に直面して下さい、仏教とは何か。如来とは無心とは何か。血まみれずたずたに引き裂かれて、浄法界の心元出没なしです、大悲の願力古来を示現す、仏として現れるんです、お遊びじゃない禅坊主じゃない、裸の一箇です、にってんすいしゅという無防備都市ですか、迷故三界城、悟故十方空。東西南北門です。未だ悟らぬ者はまず悟って下さい、身心脱落してよりほんらいの生活があります。いつの世もよくも悪くもないです、如来来たる如しをまっとうして下さい、これはこれ風力の所転と、なにさあ他になんにもないです。

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2009年2月 8日 (日)

ぜんごぜんご

一切我今皆懺悔

今の世自分で自分が断じて許せない罪の一つや三つ誰でも抱えているか、あるいはたいてい人間失格ですか、一切我今皆懺悔とはただうち坐ることです、これ以外に方法はないです。許せるとは死ぬしかない、腹かっ裂いて果てるほかにはこれっきゃない。出家自体が断じて許されんことはわしがよくせき知っている。第一出家する世の中抜け駆けの功名は、世の中食いつくしはた迷惑破れ法界です。お経を読んで頭剃ったなんてもの爪の垢にもならんです。死ねば罪も罰もかすらない、ただかつかつこれあるのみ。たといどのような断腸の思いも、あるいはうれしいことも一瞬過ぎって跡形なしです。みずとりの行くも帰るも跡絶えてされど法は忘れざりけり。どっかに満腔の喜びのあるのを知る、なぜだ。親殺しも愛人ひっからびもとんだ恥かきも不染汚、これなんぞ。坐ることが救いでなければ人を救う道はない、ほんとうに救われて下さい。根本からです、どこにもお釣りは来ない。故に光明です、片隅を照らすもの国宝たって、宇宙のど真ん中ですよ。

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2009年2月 7日 (土)

ぜんごぜんご

工夫してわが身の悪を如来にさらせよ。かくの如くつとむることたしかなれば、仏になること疑いなし。

裏を見せ表を見せて散る落ち葉かな。参禅というものみなすべてさらけ出すんです、善悪是非もなしすべては来る如しと知る、あるいはお釈迦さまに救っていただく、どうにもこうにもしようにない自分、お手上げ万歳です、わが身どうしようもない、仏だけがあるという、ちらとも他あればお粗末です、単純を示すにならない。やがて知るんでしょう、焚くほどは風がもてくる落ち葉かな。宇宙の果てを尽くしたろうが観音さまの五本の指、孫悟空だろうがわしのようなけしつぶだろうが、生涯なんの足しにもならず、やげて死ぬ景色も見えず夏の蝉。どっかに夏があったんです。

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2009年2月 6日 (金)

ぜんごぜんご

ぼう(茹でる意)蟹の七足八足するが如し

茹でた蟹が自分の意思に関係なく足を動かしているさま。手足五体身も心も自分のものだと思っているんでしょう、ところがそうではなかった、観念思い込みをちらっとも離れるとこんな現象が起こる。初体験の人は右往左往する、なにごとだというわけです。もとからそういうことだったと知るとぴったり収まる。自分がなくなった俺はどこへ行ったと探し回る人もいる、はいこれぽんと叩くと落ち着く。古代インドから同じようにあります。無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。よくその実際をたしかめてみて下さい。ほんとうに悟るとはどういうことか、悟らないと同じことかも知れんです。六祖大鑑慧能禅師、慧能もと技量無し、おうむしょじゅうにいしょうごうしんとたったこれだけです。風も揺れず幡も揺れずこっちこう揺れ動くんです。はーい答えはたった一つ。

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2009年2月 5日 (木)

ぜんごぜんご

汝今これを得たり、よろしくよく保護すべし。

洞山大師宝鏡三昧の冒頭です、このお経をまるで悟ったように読む新到がいたと老師が云っていた、そりゃそういう人いてもいいんですが、もとはじめからどっぷり漬けです、何をどうしなけりゃならんということなし、何をどうしようがこうしようがそのものこれ。ダライラマの生まれ変わりという、もしやこれ正解です。みなまた如来の生まれ変わりです。それがどういうものかそうは行かない。せっかく悟った様子がどこかでおかしくなってしまう、そこへ俺様は如来、生き仏だというとなおさらおかしくなる。なぜか、なんの理由もないはずが、新興宗教のように数を頼み、人の弱り目祟り目につけこむ、こりゃどうしようもないですか。悟るのはそう難しくない、これを保護するほうが難と云われる所以です。坐っていてなにかしらちらともあればうまく行かない、微妙とは女の子のごまかしじゃない、ほんとうに微妙なんです。ただということです。お釈迦さまでも達磨さんでも、そりゃ絵に書いた餅のようにはいかんです。あるとき本当に此れ、あるとき周辺ということあります。面壁九歳端座六年のしょう(足に従)跡見つべしとはこれ、頭にかささぎが巣を作った、あるいは慧可大師が肘を切って差し出すまで動かぬという、自分=世間をまったく縁切りする、どうも人間というのはそうでもしなけらさまにならんことあります。うっふっふ一生死ぬまでやってりゃいいんです。

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2009年2月 4日 (水)

ぜんごぜんご

色即是空

色不異空と知って修行ですか、自分という囲いの敷居を跨ぐ、すると広大目変の世界です、なるほどと知って省みる、空不異色という色がないんです、自分という囲いが消えている。これそういう思い込み能書きではなんの役にも立たんです、思想仏教云々の延長ではそりゃ無心じゃない有心です、空即是色にはならんからです。身心脱落来、脱落身心底と帰り来て、ほんとうにどうあったろうがこうあったろうがまったくないんです。坐だけがこれを知るんです。坐らずしてどうの云ったって云うている自分があるだけです。色即是空空即是色と悟入し悟出する生活があります。如来の現実です。自分という世間というあるいは出入り自由ですか、子は父に順じ、臣は君に奉すと、世の中のことは世の中に任せ切りということは、際限なしの自由があります。もと本来このとううりに生まれていたという自覚です。不生の人というべきですか、生死の底をぶち抜いて、生まれる以前死んだあととまったく変わらないんです、ああだこうだあっちこっち齟齬があるのは障りですか、見事に脱落して下さい。

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2009年2月 3日 (火)

ぜんごぜんご

仏祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん。

今の世なぜか無数の悟ったさん困ったさんがいる、心意識の低劣とあいまって靴でも履き替えるようなふう、一人じゃまず絶対に無理です。不立文字教別伝というには、正師を見つけ出しこれに就いて不惜身命も、そう簡単には得られないのは、自分が自分に関わるからです。なんで外国人に印可をと侍者が食ってかかる、あいつもさんざん叩かれたからなあと如浄禅師。道元禅師ほどの大才でさえ、身心脱落来、やったあやって来ましたと行けば、脱落せる身心底、そうじゃないよもとっからこの通りだよと示されて、落ち着くことは落ち着く。これを得るこれを脱却する、悟入し悟出す日んがな毎日です。いいですか人間も人間以外も生死のさかいになんの安楽椅子もないんです。無思想無性格という、自然という自己満足じゃない、ましてや仏教というけつの穴じゃないんです。触れりゃばっさり大火聚の如く、そりゃ大火傷です、はいわしがいうんだからたしかです、大小無数一箇としてお釈迦さまを継ぐものはいないです。さあ心してかかって下さい、無心これ取り付く島もなし。

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