無門関

2009年8月27日 (木)

無門関

禅箴

規に循ひ矩を守るは無縄無縛、縦横無碍なるは外道魔軍、存心澄寂は黙照の禅。恣意忘縁は深坑に堕落す。せい(りっしんべんに星)せい不昧は帯鎖担枷。思善思悪は地獄天堂。仏見法見は二鉄囲山。念起即覚は精魂を弄するの漢。ごつ(一にしたにル)然習定は鬼家の活計。進むときは則ち理に迷ひ、退くときは則ち宗に乖く。進まず退かざるは、有機の死人。且らく道へ、如何が履践せん。努力して今生に須らく了却すべし。永劫に余おう(歿のつくりを央)を受けしむること莫れ。

はいこのとうりですよ、ひっかかり屈託あるは面白うもなし。さよなら。

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2009年8月26日 (水)

無門関

款によって案を結しは、款は法律の条文案は判決文、微塵もゆるがせにできない、近似値なんてものないんです、仏祖に南北の別なし、はじめからしまいまで剰語、よけいこと無駄ことなし。脳蓋をひっくりかえして目ん玉を引っこ抜く底のこと、かれこれ能書き仏教云々の取り付く島もないんです、人そのものと同じです、他人に追随することがない、虎の威を仮る狐の弁じゃない、使徒行伝感激だ右へならえってことこれっぱかしもないんです。ちらともこれを知り道にいそしむ者ならば、機縁に触れて落処を知るんです、迷妄の皮を幾枚剥いでもまだ残る如き、ついには門に入るなく出ずるなくただもうまったくにこれ、これとさし示すなくに坐すんです、坐禅何段だの階級査定だのろくでもないものはいらんのです、大手をふるって関を通って、関所の番人などには目もくれず、あっはっは世の中大形に出来ていますか、自分という関所の番人はさーてどうなりましたか、なにまだいるんだってそうつはまあお気の毒に、飴でもくれてやりましか、いえ花粉症ですはーっくしょい。玄沙師備また白雲についてはよーもわからんとさ、無門は解脱の門、自分という架空のものにどのくらい苦しめられていたか、地獄餓鬼畜生六道輪廻のたらいまわしからにようやく解脱して仏です、無意の人です、地球ものみなのお仲間入りです、明明として知るにただこれ者箇、なんとしてか透不過なると、もとまったくにこの中にあるんです、道を求めること水の中にあって渇を求める如く、赤土持て牛ねいwぬる、赤土に牛乳を塗るようなわけのわからん無駄っことです、早くこれ無門を鈍置す、かすっともかすらないんですよ、若し透り得ずんば自分という形骸です、もとないものに振り回されているんです。涅槃心は明らめやすく、涅槃というらしいものを得るのはたやすい、そうじゃない個々別々です、差別智という元の木阿弥に住むのは難しいという、国家安泰はいこれ。

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2009年8月25日 (火)

無門関

また白雲道はく、明明として知道に、只だ是れ者箇、なんとしてか透不過なると。いんもの説話、また是れ赤土もて牛ねい(女に爾)をね(てへんに茶)る。若し無門関を透過せば、早く是れ無門を鈍置す。若し無門関を透り得ずんば、また乃ち自己に辜負す。所謂涅槃心は暁め易く、差別智は明きらめ難し。差別智を明きらめ得ば、家風自ずから安寧ならん。
時にじょう(糸へんに召)定改元、解制の前五日、楊岐八世の孫、無門比丘慧開、謹んで識す。

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2009年8月23日 (日)

無門関

後序

従上の仏祖垂示の機縁、款に拠って案を結し、初めより剰語無し、脳蓋を掲翻し眼晴を露出す。肯て諸人の直下に承当して、侘に従ってもとめざらんことを要す。若し是れ通方の上士ならば、わずかに挙著するを聞ひて、便ち落処を知らん。了に門戸の入る可き無く、亦階級の升る可き無し。膂をふる(てへんに卓)って関を度って関吏を問はじ。あに見ずや玄沙の道ふことを、無門は解脱の門、無意は道人の意と。

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2009年8月22日 (土)

無門関

四十八、乾峰一路

乾峰和尚因みに僧問ふ、十方薄伽梵一路涅槃門。未審し路頭いずれの処にか在る。峰柱杖をねん(てへんに占)起し、画一画して云く、者浦に在り。後に僧雲門に請益す。門扇子をねん起して云く、扇子勃跳して三十三天に上って、帝釈の鼻孔を築著す。東海の鯉魚打つこと一棒すれば雨盆を傾くに似たり。
無門日く、一人は深深たる海底に向って行いて、簸土揚塵し、一人は高高たる山頂に立って、白浪とう(稲ののぎへんのかわりにさんずい)天す。把定放行、各一隻手を出して宗乗を扶竪す。大いに両箇の馳子、相ひ撞著するに似たり。世上応に直底の人無かるべし。正眼に観来れば二大老、惣に未だ路頭を識らざる在り。
じゅに日く、
未だ歩を挙せざる時先ずすでに到る、未だ舌を動かざる時先ず説き了る。
たとい著著機先に在るも、更に須らく向上のきょう(穴かんむりに敷)有ることを知るべし。

越州乾峰は洞山良かい(にんべんに介)に継ぐ。十方薄伽梵十方の諸仏は一路涅槃門です、ほかまったくなしなんにもなしは死に体じゃないんです、知らぬもっとも親切は大火聚の如しビッグバンの如くですか、もとなんにもなしは200%の現実です。いぶかし路頭いずれのところにかある、どこへ向って鉄砲を撃ったらいいんだという、どうもたいてい学人は先ずもってこれです、なんかしなくちゃいられない、飢えた虎に食われろってのは、ただもうでたらめむちゃくちゃです。ノウハウが欲しいいいことしいの虎になれ、天上天下唯我独尊は、どうあってもこっちからそうなろうとする、近似値は得られるような気がする、作り物は壊れものの積み木崩しをさんざくた繰り返す、ついにこれの役立たずを知る、自分が死ぬんです、するともとっからあるものが現前する、ことは単純なんですがあっはっはなかなかどうして。雲門も乾峰も未だ路頭を知らざるありと、路頭とは何、簸土揚塵しちったあ塵を舞い上げ、白浪とう天す、雨ぐらい降らせてやろうかという、能書き申し訳するには三十棒、一転語あったらどうぞ、なきゃぶっ殺されるよ、歩を出す前にすでに至るこれ、説く先に終わっているこれ、虚空というビッグバンの広大無辺は停滞なしですよ、故に以って向上の一路まるっきりあとかたなし。

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2009年8月21日 (金)

無門関

四十七、兜率三関

兜率悦和尚三関を設けて学者に問ふ、撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性甚れの処にか在る。自性を識得すれば方に生死を脱す。眼光落つる時そもさんか脱せん。生死を脱得すれば便ち去処を知る。四大分離して甚れの処に向ってか去る。
無門日く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以って随処に主と作り、縁に遇ふては即ち衆なるべし。其れ或いは未だ然らずんば、鹿餐は飽き易く、細嚼は飢え難し。
じゅに日く、
一念普く観ず無量劫、無量劫の事即ち如今。
如今箇の一念をしょ(虚に見)破すれば、如今み(虚に見)る底の人をしょ破す。

兜率従悦は臨在黄龍下二世宝峰克文に継ぐ。

撥草参玄俗に云う雲水修行です、そりゃまずもって見性せにゃなんにもならんです、常識の至るにあらずむしろ思慮を容れんや、見性は性を見るほうが失せるんです、自分が消えて環境だけになる、環境が自分なんです。即今いずれの処にかあるが答えと云えば答えですか、つまりは答えを持つことも省みることも不可能です、たいていここを間違ってもとの利己主義ですか、却って我利我利亡者です。生死を明らめること根本です。死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよきと、手放すんです、どこまで行って手放すが修行です、握り締めるとかたくなです、坐禅がすんなりとは行かぬ、眼光紙背に徹すというてめえという異物です、どうだどんなもんだという、落ちちまったらそもさんか脱せんという、問うて問うて問うてついに押しても引いてもなんにも出ないんです。四大分離して蛸の七足八足、自分という架空の形骸を離れて下さい、ようやく座禅が坐禅になります、こころゆく味わってただの恩返しです、お釈迦さまあって自分の取りえなんにもなし。いずれのところに向ってか去るというほどのゆとりなし、首くくる縄もなし年の暮れ。どうにもこうにもならんdすよ、そさん荒食いは飽き易く、細嚼よく噛んで食えば飢え難しと、そりゃどうもおおきにお世話様。なにしろちらともあれば参じて下さい、自分どうなとそんなこた二の次三の次。

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無門関

四十六、竿頭進歩

石霜和尚云く、百尺竿頭如何が歩を進めん。また古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭、須らく歩を進めて十方世界に全身を現ずべし。
無門日く、歩を進め得、身を翻し得ば、更に何れの処を嫌ってか尊と称せざる。是の如くなりと雖も、且らく道へ、百尺竿頭如何が歩を進めん。さ(口に夏)。
じゅに日く、
頂門の眼をかつ(目に害)却して、錯って定盤星を認む。
身をす(てへんに半)て命を捨て、一盲衆盲を引く。

身を捨て命を捨てて一盲衆盲を引く、これまさに仏のありようです、引くという意識がないんですか、端に為にすとあるように、世のため人のためだいいことしいの反省皆無です、ただもうつまらんですか、毎日ろくでもないことばっかしが、昨日の我は今日の我にあらず、進歩か退歩かまったくわからんたたわわです。むかしの師家だの学者だのお偉いさんの書いた無門関や宝鏡三昧を見ると、なんでそんなに偉がって大威張りかくのかさっぱりわからん、乃至は宗門も坊主も滅びたです、嘘とはったり猿芝居と空威張りのほかになんにもなかった、これを要するに学する修行するなく、仏教あり仏ありする、鼻持ちならぬ俗人糞ったれのまんま、大恥かきを平気でやってきた、そりゃだれかれ見向きもしなくなる。ついに達磨さんも道元禅師も食い尽くして貯金ゼロですか。若し学人ほんとうに求めるときは、これを得た皆人の得がてにすとふうずみ子得たりを、いったんはやるんですか、中途半端な師家に就くと、百尺竿頭に巣食うチンパンジーにもなれんです。得便宜あり落便宜あり、真となすあるうちは落ち着かないです、十方世界に全身を現ずとは失うんです、虎を描いて猫にもならず、元の木阿弥栄蔵生ですか、なにひとつ取りえなしの、まあさまったく存在価値ゼロです、そうねえ満足に坐れなくなったら断食して死のうと思う、はてなあそれだけが取りえですか、とんぼやせみみたいに孤独死は地球ぜんたいこれです。石霜慶諸は青原下五世。古徳は長沙景きん(山のしたに今)。

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2009年8月19日 (水)

無門関

四十五、他是阿誰

東山演師祖日く、釈迦弥勒は猶ほ是れ他の奴。且らく道へ、他は是れ阿誰ぞ。
無門日く、若し他を見得して分暁ならば、譬えば十字街頭に親爺に撞見するが如くに相ひ似て、更に別人に問ふて是と不是と道ふことを須ひず。
じゅに日く、
他の弓挽くこと莫れ、他の馬騎ること莫れ。
他の非弁ずること莫れ、他の事知ること莫れ。

東山法演、五祖法演は白雲守端に継ぐ。釈迦弥勒という見本にして習う間は他の奴です、仏の道以外はみな見習う、いかにらしくするかが問題になるんですが、その実ついには脱するんですか、ついには自由の分を得て完成というよりは一つ付け足すふうです。仏の道ははじめから見習い不可です、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなりです。自己を忘れる、まっぱじめっから自分に用がないんです、飢えた虎に身を投げ与えることこれ仏道修行です、まっぱじめっから答えの真っ只中、十字街頭です、坐るには坐るっきりなんです、妄想百般も清々了了もまるっきり関係がないんです、こーんな楽なこたないです、太虚の郭然として洞かつなるが如く、ただもうこれっきりは、他人の物差しじゃないんです、他の弓も他の馬も他は是れ阿誰、自分まるっきりないんです、他の非弁ずるなく他の事知るなく、はいこれ仏本来です。

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2009年8月18日 (火)

無門関

四十四、芭蕉柱杖

芭蕉和尚衆に示して云く、汝に柱杖子有らば、我汝に柱杖子を与えん。汝に柱杖子無くんば、我汝が柱杖子を奪はん。
無門日く、扶けては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る。若し喚んで柱杖と作さば、地獄に入ること箭の如くならん。
じゅに日く、
諸方の深と浅と、都べて掌握の中に在り。
天をささ(てへんに党に牙)へ並びに地を柱(ほんとうはてへんに主)へて、随処に宗風を振るふ。

芭蕉慧清は新羅の人、い(さんずいに為)仰衆三世南塔光湧の嗣。柱杖子というもと転ばぬ先の杖ですか、坊主の持ち物になって人を説得の道具乃至は我に大法あり、大法我れにありのしるしになったですか、柱杖を持つやつが活殺自在の権を取るといったぐらいです。もとっこ持ち物は邪魔、不自由のもとです、ないと思うとからにそやつを奪い取る必要がある。扶けては橋のない河を渉り、伴っては月のない真っ暗がりの村へ帰ると、どうですか、仏教をいつかそのようなものと思い込むんでしょう、用のない師家坊主ども学者のおまんまの種ですか、無心が有心になって能書きを垂れ、三百代言です。ひっかかるほうが悪いたって、地獄に入ること箭の如し、あっさりお払い箱にすべきです。禅坊主なんてものこの世にあるわけはないんです、深浅も天地もあっはっはいらんお世話です、枕がいるってんんあら枕して寝りゃいいいです、鼻水出りゃあ鼻紙。

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無門関

四十三、首山竹箆

首山和尚竹箆を念(てへんに占)じて衆に示して云く、汝等諸人、若し喚んで竹箆と作さば即ち触る、喚んで竹箆と作さざれば即ち背く。汝等諸人且らく道へ、喚んでなにとか作さん。
無門日く、喚んで竹箆と作さば即ち触る、喚んで竹箆と作さざれば即ち背く。有語なることを得ず、無語なることを得ず。速かに道へ、速やかに道へ。
じゅに日く、
竹箆をねん起して、殺活の令を行ず。
背触交馳、仏祖も命を乞ふ。

首山省念は風穴延沼の嗣。竹箆は今は首座法戦式に使うほどですか、物真似猿芝居の右代表です。喚んで竹箆となさば触れ、なさざれば背くという、言葉の遊び問答の取捨選択ですか、無門関提唱の師家学者さんみたいに、らしいことをくわしく述べようがさっぱり身に応えない、どうでもよいのお遊びです、それじゃつまらんというより無駄ことです、紙数インキを費やすばかりの公害ですか。竹箆をねんじてこれはなんであるのか気がつかない、はてなあという弓の名人が弓を忘れる底と、ただのぼけとどう違いますか。物真似こうあるべきの提唱よりはどっちも実感です。もと大小色合いを離れてものみな成り立っている、いえ成り立っていないんですか、これが本来にいったんは立ち帰っていて、はじめてこの問答があります、知らぬもっとも親切です。わしと同じようなことを云うからだれかれは正だという、わしはなんにも云ってないしましてや仏教のぶの字も知らんです。だからどうのこうあるべきという理屈を助長したってただこれ百害あって一利なしです、なにしろぶち破って底抜けの自由を得て下さい、百人理由を云う中にたった一人無手勝流ですか、箸にも棒にもかからんのです、すると世の中わずかにでも楽しくなるんです、仏とはこれ夢にだも見ぬもの。仏祖も命乞いとは仏祖の爪の垢にあらず。

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