しいどうぶなん

2008年9月11日 (木)

しいどうぶなん

 右此一冊、寛文庚戊末秋、是をあつめぬるにつけて、此上加筆あやまりににたりといへとも、ふしきに命なからへて、よはひ七十四才に及て、釈迦如来御説法、少も説法せずと仰られし事、生も死も万物直ニなき事なと、のへをかれしにつけて、予ふとおもひ出て、世か一世のなす事一もなし、是れたれもたれもしることなれは、もしはおもむく人もかなとねかふにつけ、辞しかたく、筆をくはへぬるも、わかことくおろかなる人のたすけにもやならんかし。七十四才にて、此一枚のおく書をと、しいて門弟このむねにまかせ、筆ヲそめ侍る也。
  延宝四年丙辰仲夏      無難花押

釈迦如来少しも説法せず、もとはじめっからあるこれを損なわず、予が一世のなすこと一つもなし、これ誰も知ることなればと、もし赴く人あれば、予の如くにおろかな人あれば、しるべにもせよと至道無難七十四才奥書して花押です、わしもすでに七十ニ才、おろかなることはようやく日々を過ごす、わがなすこと一もなし、まったくにそのとおりです、あっはっは花押もなしの。

| | コメント (1)

2008年9月10日 (水)

しいどうぶなん

  人つねにあやまる事
人にたまされてくるしみ、我にたまされて悦ふ事。
人の死をしりて我死をしらず。
人の是非をえらひ我無作法の事。
本来無といへは無としる事。
仏道に法をたつる事。
仏道に不入は身守る事ならず。
きねんする人有、身の仏を不敬。
貧をくるしみ、のかるる事しらず。
悟を以て仏法と云。悟る人まれなり。
一念悪気ひるかへす事ならず。

これは絶品です。この最後の項行われている人まったくになしといっていいです。でもまさにこれ仏道です、一つあやまればすでに不可。人に騙されて苦しみ、我に騙されて悦ぶ事。空手還郷、眼横鼻直にして、他に瞞ぜられずは、仏のありようです、一神教から共産党までまさにこれ、人に騙されて苦しみ、我に騙されて悦ぶ以外にないです、あるいは世間一般これです、平和といっては戦争を起こす、人類めったやたらの教育美徳ですか、せっかくお釈迦さまがこれを知り、仏を示してのちも、めったやたらのでたらめ無明暗黒です、多少とも気がつく人は、この数箇条よくよく身心もて省みて下さい。
人の死を知りて我死を知らず、万事あやまりのこれが元なんです、いったん死ぬること以外に生きる道なく。
人の是非を択び我無作法の事、すなわちこれ生活の基本ですか、それじゃまったくに収拾がつかんです。つまらんこってす。
本来無と云えば無と知る事、師家とか坊主学者の類、あるいは悟った悟らぬ人100人が100人これが類ですか、担いで帰れというわけの、まさにこれ試金石、無と言えば無を知る人も無しなんです、単純数学ですよ、1は0になるんです、1を観察するものあれば2ですよ。
仏道に法を立てる事。以無所得故にぼーじーさっとば、修菩薩行です、わしがありようありていに白状すれば、たった今悟った、昨日までのおのれはまったくなっちょらんとこれ毎日やってます、人は呆れて口をあんぐり、知らぬが仏ですか、仏は仏こっきりまるっきり取り得なし、無上楽あり。
仏道に不入は身を守る、仏道に入らなければ身を守る事が出来ないと思うこと。仏は身を守るすべばし、わずかに守るべき身心なしをもって長らえるんです。これをたいていの仏者は、おれは悟っただからといってふんぞり返る、あるいは仏道をもって自己弁護に当る、てめえ自堕落に二重丸つけて、俗物と不識をごっちゃにする、こりゃ害悪もまあ云う甲斐なし。
祈念する人有り、身の仏を敬わず。仏を願うとは100人中100人これ、自分を捨ててというとかえって握り締める、捨てるということさえ出来ぬ、情けなや。
貧を苦しみ、逃れることを知らず。とにかく工夫して下さい、もっともたやすいことですよ。
悟りをもって仏と云う、悟る人まれなり、残念ながら未だ一人にも会えず、悟りという本来を知らぬだれかれ、云ってみりゃ偉い人ばっかりですか、ほっときゃ偉くなるばっかり、いちばん馬鹿でめちゃくちゃでまるでなってない人やや親し。
一念悪気、チラッとも念あればこれを翻すことならず、これは基本わざです、一念起こったらもはやそれっきり、だのにあくせくというのが万ず病のもとです、無心は心無し、かえりみること不可能、無いもの痛まず金剛不壊これ仏法。

| | コメント (0)

2008年8月31日 (日)

しいどうぶなん

 かかる有かたき物なり。上一人をこなひ給へは、天下平なり。国主行ふ時、其国安し。家主行ふ時、其家安し。それをしらすして、万我意にまかせ、身の悪にたまされ、人のうへを色々によしあしにつけてねたみそねみ、我身我心かた時もやすからず、常に苦しみかなしむ事たえず。其悪念にひかれ、死していく世もうかふ事なし。あさましくかなしき事なり。
 仏世に御出有りて、身のとがを去るへしと、とかなけれは身なし、身なけれは直に仏と、御をしへ有がたし。
 修行と云は、人々身のとかを去るへし。立居につけて、我とかをわが心に見せて去る事をこたらねは、つひに去りつくして、我身直にこくう、こくう直に我身なり。うたかひなし。其時、生も死も、万物すきとのかれて、大あんらくなる故、極楽と云。ねかひもとむる事なき故、仏と云。うたかひなし。
  身も消えて心も消えてわたる世は
  つるきのうへもさはらさりけり
うたかひなし。

古い仮名遣いにも馴れて、まことにこれこのとおりそのとおりです、坐禅の仕方まさしくこれです、何も云うことはないです、よくよく身心もって立証して下さい、仏になり終わって下さい、なり終わりまさに始まりです。またたとえば理想社会、理想国家について考えてみて下さい、日本では鎌倉時代ですか、タイでは3世紀から8世紀ごろですか、騒々しくみっともないばかりではない世の中が実現したです、わしはそう思ってます。

| | コメント (8)

しいどうぶなん


仏と云、神と云、天道と云、如来と云、色々難有名は、人の心をかへて云也。
心本一物もなし。
心の動き、第一、慈悲なり、和らかなり、直を也。
主君に向へは忠を思ひ、親に向へは孝を思ひ、夫婦兄弟朋友にむかへは、其品々に道をたたしくせんと思ふ。是心の本意なり。かく有かたきものなり。
心を妙と云、阿字と云、阿弥陀と云、悟と云。我心に見られては、ゆるす事なし。必ず悪人、とかをうくるは、其身の心ゆるさぬ故なり。疑ひ無し。善人したひによくなるは、其身の心よりよき事をあたふ。うたかひなし。かくあきらかに人人そなはるなり。

心です、これっきりないです、たった一つあることは無です、無心です、心が無い、無いものは痛まず損なわれず、不垢不浄、不増不減、不生不滅、金剛不壊とはこれ、これを得るのに父母未生前、ビッグバン以前のおのれに帰るのがもっとも手っ取り早いです、だれにでも出来ます、ちらともあればまったく役立たず、仏にもならず、天道にもならず、如来来たる如しを外れて、よこそまにするんです、自業自得これ参禅の目安です、自分作っておいて七転八倒する、いえたった今の現象です、じきに消えて、慈悲あり、和あり、直ありです、おのれの取り得なんにもないです、善人悪人という、わが心に見られるをもとこれ基本わざ、それなければ人間とは云えぬです、すなわちまずもって人間から始めて下さい、ついにわが心なしを知る、心なければ知られんです。知っている分を嘘。

| | コメント (0)

しいどうぶなん

 或人、地獄を問ふ。予云、汝が身にせめらるるを云ふ。極楽を問ふ。身のせめなきを云ふ。仏を問ふ。身心ともになし。かれいはく、死人におなし。予云、生きながら死人になるをいふ。我が宗は悟なり。なんじ古今の苦楽、目前に有りや無しや。かれいはく何もなしといふ。
  人の身の作法をさらにかへすして
  さとりて見れば只何もなし
  人の身の作法をさらにかへすして
  まよへはつねにくるしかりけり
 仏法、天地の内の霊とて大善なり。人は天地をかたちとする故行ふなり。

或人地獄を問ふ。身に責められるを地獄という、極楽を問う、身の責めなきをいう。仏を問う、身心ともになし。それじゃ死人と同じではないか、そうだ、死人と同じ我が宗旨なり。生きながら死ぬること、我が宗は悟りなり。なんじ古今の苦楽、いままでの苦しみや悲しみが目前にあるかと聞く、何もなしと答える。
こんなに完結要を得る後はないです、ほかのなにやかやみな蛇足です、よくよく人々たしかめて下さい、悟りとはなにか、省みるに何もなし、省みる我なし、ちらともあればそれによって迷うんです、苦楽のもとです、よくよくこれを見て下さい、必ず何かあってそれによって振り回されている、迷いと地獄極楽とものまねふりが口を聞いている、なんたる情けなさ。
人の身の作法はさらに変えずして、これがありようのまんまです、悟りてみればただ何もなし。がらりがらりと変わったような気がしている、いっとき、悟ったなんいもないといういっとき、どうぞ坐って坐って坐り抜いて下さい、大悟十八小悟その数を知らずと、その万倍やったとて糠に釘、どんぐりの背比べめったらばかのこのおのれを、そっくり仏にお供えして、まったくの無料奉仕です、ただもう坐るんです、そうなってきてようやくに是是ですか。人の身の作法はさらに変えずして、迷へば常に苦しかりけり。坐っていて苦楽がないんです、つらい悲しいもそのまんまに行く、そのゆえに大聖です、自覚症状がこれっぽっちもないんです、強いて云えば抜きん出て益なしですか、知らぬが仏、廓然無聖個々別々です、なにかしらあれば昂ぶったりして坐は中途半端。
仏法天地のうちの霊として大善なり、自性霊明です、人は天地を形とする故行うあり、一挙手一投足あるんですよ、威儀即仏法という、まるっきり省みないんです、人間という知ったかぶり、俳優の詐欺行為を止めて下さい。あほらしいだけですよ。鶯さへ通身もってホーホケキョです。

| | コメント (0)

しいどうぶなん

此世にて親のかたきをうたぬハ、一世のはじなり。此身ここにてころさねば、万劫の苦なり。此身をころすは、直に如来になればころすなり。大乗最上乗の人には、如来を教へ、万法を不言。如来は慈悲功徳有、勿論無虚無実無去来。

親の仇討たぬは一生の恥なりと、今の世みんな仲良く平和にだからそういうことはない、もってのほかだという、常識におのれを売って、でたらめめったらの生涯、今もっとも必要なのはあるいはソクラテス、自分という嘘のかたまりを打破すること、まずもって急務です、でなけりゃ仏法もへちまもないですか。なんだかんだ飛び飛び坐って三年も埒開かぬ男に、しゃあない公案だ、ビッグバン以前のおまえのきんたま持ってこいと云った、ちっとは真剣に坐っている。この身を殺すには、直きに如来になれば殺すなり。別の女の子には百万劫年坐っとれと云った、なにかどっかうまく行きそうだ、もと手付かずの方法、だれかこれを得てくれという、なにをどうやったって、なにをどうやるだけがある、即今これ他にはまったくなし、大乗最上乗の人一個半分、如来を教え万法は云わず、慈悲功徳これ、真実不虚、不去不来舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相玩具するが如しと、参ずるんなら自分の外に参じて下さい、自分というとやこうにはまったく用事はないんです、即ち始め終わりです。

| | コメント (0)

2008年8月27日 (水)

しいどうぶなん

一 ある人、つねのつとめやうをとふ。予いはく、人々、心におそるへし。主君はゆるす事あり。心にみつけられしとかは、ゆるしなし。

常の勤めようとは、お経をあげ托鉢をし行い清ますこといかようかというんではない、下士官一兵卒を問うているんではないです、常のありようなにほど勤しむべし、主君は許すことあり、生きてゆくための何事かは、たとい許されもしようが、心に見つけられし科は許しなし、心=人間とはそういうものです、今の人新成人のわけのわからん、中高年の曖昧な面ぶらさげて、云うことは百万だら云う、しかもどうやら人間というにはすっきりしない、なんでもありありのさっぱり信用ならんです、心のこれをないがしろに、おろそかにするからです、心の科許すに許されぬ、このことあってはじめて一個です、参禅はこれ故になんです、でなけりゃなんにもならんです、一寸もゆるがせに出来ぬもの、これ元来仏。

一 本来をしへの外なれは、せんかたなし。しゃか如来、妙法とのたまひしも、大きなるあやまりなり。
 ある老尼、心経の註のこまやかなるを持来り、是をみれとも、むかしの人ののたまひしは、聞分けかたしとなげく。いとあはれにおもひ、おろかさをかへりみす、ことはをそへ侍るなり。

教外別伝という、不立文字、直指人身見性成仏と言い習わすからに、すでにして習い覚え、むかしの人ののたまひしは、聞き分け難しと嘆くんですか。自分という標準を習い覚えたら、こりゃ切りがないです、どこまで行っても難難の近似値はかえって遠いんです、もと取り付く島もなし、手を触れなきゃ現成しているんです。だからこうこうと説くおろかしさ、ぶんなぐってもなをさら泳ぎ出すだけですか、たいてい匙を投げるよりないです、不思議にこれを得て来たる、何人か、捻花微笑するに、我に涅槃妙心の術あり、迦葉に付すとこれあるんです、手を取り足を取ってするほどに遠いんですか、わしの法を継いで下さい。いまだ心残りあり。

| | コメント (0)

2008年8月26日 (火)

しいどうぶなん

一 物しり坊主、あるとき予にむかひていふ、その方も禅と聞く、禅も十色なとをおへて禅といひかたし。予無言にして居す。つらつら思ふに、あさましき事なり。大道元来知るはあたまるといふ事をしらず。常に学に苦しみ、覚にくるしみ、己をたかふりて、とかあり。

  物しりは仏に遠くなるみかた
  しらぬはちきにみのおはり也

物知り坊主ですか、仏教につく、禅をやろうという、坊主にかぎらずたいてはこの類です、絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずとは、大道元来知るはあやまるということを知らず、常に学に苦しみ、覚に苦しみ、己をたかぶりて、咎あり。仏もとほどけば仏を、追及し、是非善悪のまな板の上に載せてどうのこうのです、悟ったといえばどこまで行っても、はたして悟ったか、これは違うんではないかといい、悟り得たと思うからに昂ぶるんです、なにをどうやったろうが収まりがつかぬ、これをもって咎というんです、氷です、ものみなも人もよけて通る。十色とは、五根五境のこと、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法という、もとのありようを手に入れるんですか、身心脱落ですか、それを終えたたころで禅とは云い難しという、終えるとはいったいどういうこったですか、いったいまあ仏に出会って仏が見えぬとは何事、自分の仏教でいっぱいになってなんいも見えぬ、気がつかないんです、坊主組合では、仏に出会うとみんあでよったくって爪弾きする、でないと商売が成り立たない、達磨さんに毒を盛る連中ですか、こんなの咎というより燃えないごみの日ですよ。

物知りは仏に遠く鳴海潟
知らぬは直きに美濃尾張

それを知らずば身の終わりですか、知らぬ人身をも心も知らねばおしまいってもとより終わり、鳴り物入りの鳴海潟ですか、美濃尾張と美しい肥沃の地ですか、うっふっふ好きだねえ。

| | コメント (0)

2008年8月25日 (月)

しいどうぶなん

一 ある人のかたりしは、心経を人のよみてきかせらりし中に、かたちをなくせよと仰せらりしなり。さてもありかたきをしへかな。人はしらず、我たしかにおもひあたりてしる事なり。むかし、朝夕、ふうきを好み、身もやすらかに、子ともにあたへんと、わかきときよりおもひつめて、くるしみ奉公して、主君の御心にかなひ、また家の年老ぬる心にもちかはぬやふにと、仏神にもいのりしが、たた今すきとなくなりたり。今まて身をよくせんと思ひし故なり。釈迦如来の仰のことし。身をおもはねは大あんらく也、こくらくなり。仏のおん、いよいよふかし。さてまた常にたのむ人のあたりへ行きぬれは、いつより心安くまへちかくよひ、今まてはその方なにとやらんものむつかしかりつるが、今はなに心もなしと、ほめられしなり。わかむねあんらくなれは、人も見しれりと思へり。

ある人、心経、般若心経です、そこに形をなくせとあった、さてもありがたき教えかなと云う。人のことは知らず、おのれは朝夕富貴を好み、身を安らかにして、子に少しでも残そうとて、若いころから、苦しみ奉公して、主君の心にかない、家の年寄りの心にも違わぬようにと、神仏に祈って一途に努めて来たが、ただ今すっきりした。今までは身をよくしようとばかり思って来た。釈迦如来の仰せられること、身を思わねば大安楽なり、極楽なり、仏の恩いよいよ深し。でもって常頼む人のもとに行けば、もそっと近うよれとて、今までお前さんは気難しいようであったが、今はなにごともなし、気心もいらぬと云って褒められた。おのれ安楽なれば、人も見知れりと思えりと。はいまことにこのようです、ちらとも解ければ、人が寄って来ますよ、自縄自縛の縄のはしくれを自分と思い違えて、なにをあくせく、仏はほどけ、解き終わればもと仏。まずもっておのれのトゲを抜いて下さい、従い人生なんです。仏を云いながら仏にあらずじゃ、どうしようもないんですよ。

| | コメント (0)

2008年8月24日 (日)

しいどうぶなん

一 をかしき事なから、むかし、なに人にてかあらん、かまくら殿のまへにて、めつらしきものをうけて、道もて行くに、子ともあつまり、それたまへといへは、とらせて行となん。中々なりかたき事と、かしらふり、めにしはよせて、うちうなつく。われも人も思ひ入てかんしける所に、いとわかき人、何をかんしけるとて、ふところより餅とりいたしてあたへたり。折ふしはらふくれ、くはすして、われもまたふところへ入れている所へ、人きたりて、なににても食せはやと云ひけるに、とり出し、かれにあたへてくはせり。かれも悦ひ、われもよしと思ふにつけて、たしかにおもひあたれり。なにもなき心からなすわさは、むかひもわれもよしとおもふ。これやほとけならん、しらず。

鎌倉殿、西行法師が頼朝に銀の猫を与えられて、それを門前に遊ぶ子供にやったという故事だそうです。まあとやこうのこと、あとさきなく仕出かすこと、今の世の人極度に困難だったりします、やれどうの我はどうのト書き能書きうるさったいほどに、単純な一つことが単純に出来ない、つまりはなにもかもあやしげにつまらなくしてしまう。曖昧な顔くっつけて生きている男ども、オリンピックにゃ勝てないですかあっはっは、一生はたとい生まれ変わり死に変わりでも、おのれみそなわすものたったの一度です、
九のまり十まりつきてつきをさむ十つつ十を百と知りせば
君なくば千たび百たびつけりとも十つつ十を百と知らじをや
まり一つつけない、これを人生と云いうるか、死んでも死にきれないとは、あんまり情けなや、どうか坐って下さい、人生を我が物にして下さい、もともと我が物なんです、借り物人のものじゃないんです。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧