じゅりょうほん

2008年6月13日 (金)

じゅりょうほん

毎に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして、無上道に入り速かに仏身を成就することを得せしめんことを。

種々の法を説く毎にと、どうすれば無上道を得、速やかに仏身を成就させられるかと腐心する、ただそれのみです。如来為人のところ、何をどう云おうがおのれ無きが故に、他が為にするんです、これが他の諸宗一神教等とはまったく違うところです、どんな道徳宗教も自分を介するんです、この人を見よというが如くにです。仏教はそれがない、なんじこれ彼にあらず、彼まさにこれ汝、一には布施二には愛語三には利行四つには同時と、たといこれ菩薩の行願、ただこれ自他を同じくす、森羅万象万物宇宙、もと我とともにある一つことなんです、これを知る畢生の大事、他にはまったくないんです。他に種々あると思うを一般というのは、妄想癡人に夢を説く、夢見るとは現実を知らぬが故に、現実であればあるほどに夢とは、現実100%はなんのお釣りも来ないからです、満足不満足さへ知らぬ、もとっこそのようにできあがっているんです。これを天地宇宙と云い、あるいは地球と云ったです。種々無駄っことですか、ひいては理想ですか、現実すなわちもとのありように満足できなけば、そもそも我らの存在はないんです。それ故に羅漢さん菩薩観音さまという、双六の上がりを如来というんです、如来来たる如し、まるっきり他なしです。花のようにぽっかり咲き、月のようにうたた照らす、御名御璽ですか、はいだれあって唯我独尊まったくに他なしです。わしの弟子におかしな男がいたです、幼い時に高熱を発して後遺症が残った、のちけろっと治ったですが、しばらく癲癇症があった。おれは病気があるから陰日向なく生きようと思ってと云った。老師に就いて、これがこのまんまだからこのまんま坐れと云われて、このまんま坐る、あれは不思議な男だと老師が云った。日ならずして、あたかも雪下ろしの時節、屋根に上がったと思ったら下りて来る、なんだかへんだよう、雪がこっちだかおれが向こうだかわかんなくなったという。自他の垣根が外れている、おまえの病気はなんだと聞くと、かつて切なく思っていたものが、あれは付録だからなあと云う。このように悟って縁あってお寺に入った。いい世話人もいたのに早死にして、えげつない性悪だけが残った、教区寺院、坊主組合は就中仏にもっとも遠いもの、まったくのいじめ社会であった。それはひどいめであった、すべてはわしのせいだ、いたたまれぬ思いがどうすることもできなかった。三十年たった、檀家が一戸あたり百万円あて出して本堂を修復し、晋山式をするという。報われたんだ、ほんとうにただこの道のみであった、わしも弟子ども知れる人みな涙した。たとい馬鹿の一つ覚えも、お釈迦さまの法はあったんだ、わしはなんにもしてやれなかった、却って彼がわしを救った。そりゃあとのことはわからぬが、わしらの僧堂あっちこっちに散らばるだけが、たとい如実に僧堂であることを知る。

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2008年6月11日 (水)

じゅりょうほん

凡夫の顛倒せるを為て、実には在れども而かも滅すと言う、常に我を見るを以ての故に、而かも驕恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん。

顛倒妄想という、思想考え方はお客さんなのに、それが主人になって、却って追い使う、声色の奴卑と馳走すという、凡俗という我れらはこれなんです。仏道を云うのに、仏道という思想あるいは哲学と思い込む、思い込みの他に実あるを知らないんです、如来に会うても如来を思い込み思想の人と見做す、こりゃどうしようもないです、門前払いを食わすより他に手段はないですか。自分というものがまったく見えていない、困るのはあなたというに、なんにも困っていないという、自分という架空に住み、思想観念に右往左往し、多数決付和雷同の、戦争には戦争に走り、人間の命は地球より重いというには、みんな仲良く平和にと、その害はなはだに気がつくことなく、害悪を八方に振りまいている、一朝事あると支離滅裂です。はじめて顛倒妄想のなんたるかを知る、いいえ知る機会を得る。しかも気がつかずに、顛倒夢想を縫い繕って出直すんですか、生まれ変わって来るより仕方ないんですか、如来在世せねばそりゃそういうことです。この間薬師寺展に行って来ました、その善男善女人九0分待ちというがほどに、猛烈混雑して、人の隙間からようやく垣間見るほどでした。ふと思ったです、ここに若しお釈迦さまが現われて説法したらどうなるか、みんな平伏して聞法するかと、まったく否だと思ったです。百人中百人そっぽを向くんではないか、十人が十人十色の仏教を説き、あるいは科学だの平和だの宗教哲学をふりかざして、如来をあげつらう。たとい如来逐一しても、曲解しないがしろにすると思います、現代とはまさにこれ。自己というものなしに、なんというか同じ穴の狢、臭いものには蓋きりの世の中ですか、ではなんで薬師寺展も木像仏像展も立錐の余地のないほど流行るのか、飢えていえるには飢えているんです、あんまりに飢えてたとい温とに触れても、渇き切ってかさかさなんですか。それともみな仏陀よりもおのれ仏陀と自信満々、自分という砦に立て籠るきりですか、ようもわかりません。而かも驕恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん、如来滅すと知る、すなわちおのれ律するの地なし、いても立ってもいられぬと知る、助けてくれえという絶叫を聞く、まさに他なし。

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2008年6月10日 (火)

じゅりょうほん

我も亦世の父と為り、諸の苦患を救う者なり、凡夫の顛倒せるを為て、実には在れども而かも滅すると言う。

父に出会うとはこれ正師を得た実感です、求め求めてついに会う、たとい仏の何たるか、如来のありようを知らず、狂子の如くして妄想の中に呻吟していても、おのれこれではどうもならんと知る、たとい万が一の救いを求めるんです。すると正師に出会えば正師と知る、不思議です、父に会う、長年にわたる遍歴ついに終わる。わしは老師に出会うたとき、二、三質問するのに、答え問いの終わるより先にあった、しかも壁の如く虚空の如く、田舎じっさのやけに恰幅のいいちんちくりん、云うことさっぱりちんぷんかんぷんが、まるでカフカのようだなど思う。どうせ狐狸の類がと思っていたものが吹っ飛ぶ、草鞋を脱いで安居するより、何十年老師遷化して今に至るまで参禅しています、死んでも死んだ後までもまったく変わらないです。常にこれ改変しておのれ未だし、如来現ずるというのになんていうこったと、日々また日々思います。どうしようもない生まれ卑しのろくでなしがと、また真実の法を知る以前の、親不孝傍迷惑、省みようもない仕出かしごとを思います。どうしてもと人みな如来でありながら、それに気がつかず来たか、長い年月にわたって取り返しようもない、過ぎたるは及ばざるが如しと、あるいは坐すにより、まるっきりまっさらに消える。たとい一瞬もこれ我れを証し、許されるも許されぬもない、水を掬すれば月手に在り、花を拈ずれば香衣に満つと、あるがようにある雪月花。地球あるいは宇宙万物のお仲間入りですか、如来無心、なんでさまようて歩みを進むれば近遠にあらず、どうもこうもならなかったのか、臍を噛んでも追いつかぬ歳月であったのか、父となり諸の苦患を救う者なりと、如来正師に出会うこと、浜砂の一握にも及かず、いかなる幸運の生まれであったか、なんというろくでなしのこの我れが、涙なしには語れぬなどいう生易しいものではないです。そういうことであった、ただこれそういうことであった、凡夫の顛倒せるを為して、実には在れども而かも滅すと説く、求道の心またまたあるにより、ついに求めてやまず。

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2008年6月 9日 (月)

じゅりょうほん

医の善き方便を以て、狂子を治せんが為の故に、実に在れども而かも死すと言うに、能く虚妄なりと説くもの無きが如し。

狂子を医やす方便という、自らことを運んで万物を証せんとする、これを狂子という、万物進みて自らを証するを平静という、健康というんです、ここをよくよく考えて下さい。天才だの独創だのいう、実は本当を知る、もとのありように至るか否かということです、手前勝手のいたずらじゃないんです。悟りに入ることはたった一つです、自己という余計ものを去る、よこしま独り善がりを免れるんです、パ−ラミ−タ−彼岸にわたる道です。それ故に正師は奪い、邪師は付け加えるという、正師はこれと云い、邪師はあれと云う、あれという嘘です、自分という思い上がりに住んでいるだれかれ、端的にその非を知る、打ち砕く以外にないです。道元禅師がついに大法を得る、侍者が云うんです、なんで外国人が大法を得ると、あいつもずいぶん叩かれたからなあと如浄禅師の答えです。朝打三千暮打八百というこれ参禅の方法です、ちらとも如来を見る、かくあるべしこの方向というんでしょう、しかも如来は見えず、ありとも思えぬのです。悟ったといえば却って遠く、悟らずといえばなおさら遠く、あるいは十年二十年して、どうにも未だしということがある、しかも如来実に在りと示す、あるいは而かも死すと言う、能く虚妄なりと説くもの無きが如くとは、まさにこれ七転八倒する求道者の実感です。狂子のまんまに右往左往する連中とは無縁です、いつのまにやら仏教のなにがなし、狐たぬきの類になって、世の中かき濁して、省みるさえなしに棺桶に入る、何度生まれ変わってもそれしきでは、そりゃまったくに情けないかぎりです。叩き甲斐もないんですか。

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2008年6月 8日 (日)

じゅりょうほん

当に断じて永く尽くさしむべし、仏語は実にして虚ならず、

仏の教えしか真実はなく、仏の導きしか救いはないということを、修すれば修するほどに見る、証すれば証するほどに知るんです。見るとは固定観念じゃない、見るほどに開けるんですか、たいていの知識観念は、知るほどに滞り、見るほどに蓋をするんです、知識の切り売りという思考停止、威張ってふんぞりかえるよりない。俗物狸奴白虎の類を生む、自然破壊し無駄遣いし、優雅さを欠く、まったくおもしろくないです。安心立命という転ばぬ先の杖、自分だけが得をしようという、どこまで行っても幼稚園です。そうじゃないんです、修すれば修する程に無一物、首くくる縄もなし年の暮れというほどに、そりゃなんにもない空っけつです=人間またものみなです、なんにもないから知識も優雅も美しさも喜びも完全するんです。たいてい何を説いたって聞く耳持たぬ連中、じっと我慢していて、てめえの番が来たらとくとくとして説きまくる、卑しい大人というよりただの老化現象ですか。仏教のぶの字も知らんくせに仏教の権威という、いえ仏教のみならず万端にわたってそういうことをしている。生きてないんです、かさぶたですか、臭い膿ぐらいしかてめえの取り柄がない、どうしようもこうしようもないです、恥知らずのみっともなさ、そんな人にはならんことです。仏とはなにか、赤ん坊のまっさらですよ、尽くすとはこれを長長出させることです、仏を説いて人に嫌われる人、そんなばかなことないです。花のよに開き、雲のように浮んで下さい、如来来たる如し、これを現ずる他になし、わかりますか。

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2008年6月 5日 (木)

じゅりょうほん

我が智力是くの如し、慧光照らすこと無量にして、寿命無数劫なり、久しく業を修して得る所なり、汝等智有らん者、此に於て疑を生ずること勿れ。

業という、人また人類のなすことこれです、最後の審判というそりゃご都合主義です、神というしばらく人間に似せたようなものはないです、これあればかれあり、因果歴然の他になし、取り付く島もなし、標準というもとおのれの他になし、よこしまにするか否かです。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。従身口意所生です、われというもとないものを私するによる、自分という痛い痒い、怒る貪る大馬鹿です、囘互と不囘互と会して更にあいわたるんですか、どうしようもこうしようもない、五蘊こんぐらがりコングロマリットですか。それも自分という一個というよりは先祖累代、あるいは周囲村社会など複雑怪奇です。善根山上一微塵も積むべし、生生世世を尽くして清々たるべし、成仏に向かって無駄な時を過ごすな、やっと今始まったばかりだ、さあしっかり坐れ、不惜身命だと云われて、どうもこうも悪がきたれの、生まれ卑しいいいかげんです、わしみたいなもの、いくら善根をほどこそうが、たとい百年坐ろうが、悟りはおろか仏の道は遠くて遠い、ほんにそう思ったことあったです。こんなのが救われるのか、なにぽっと出ぽっと消える、ほんのこれっから先と、老師は爪の先を示す、そうかとわしはまったく重石が取れたです。たといほんとうに仏にならずとも、こりゃなんとかなる、気が付くことさえ出来たらと。いえ因業ですか、性悪餓鬼のなかなか気がつかぬ、兄弟子の施設するのを聞いて、いったん開けてもじき閉じる。いくたび見性底あってもどうも落着せんです、坐りゃじき妄想ですか、ようしというんで、習い覚え持てる知識のすべてを只管打坐の俎板の上に載せた。逐一に抹殺して行った、そんなことをせずともと老師は云った、抹殺というんではなく透過ですか、なんの影響も受けなくなる。二年間やっていた、すると押しても引いてもなんにも出なくなった、ゲ−テだカフカだリルケなど文学、ピカソやセザンヌの近代絵画ですか、青春時代命を賭けたものがみんな邪魔です、破れ惚けて透明人間になりたかった、死ぬよりは出家ということだった。それは人間だというスフィンクスの謎について、老師に聞いたことがある、未だなんの謎も解いてはいないという答えだった。救いであった。これは個人的ないきさつです。わしは高校を中退した兄弟子と二人で住んでいた、彼に議論をふっかける、ことごとく負けた、如来の久しく業を修することかくの如し、学生やくざのはるかに及ぶ所ではなく、そうしていくぶんか智を取り戻す、参禅という、単純に間に合う。でも一番後にまで残ったのは、モ−ツアルトだった、彼が影響を脱する、出入り自由になるまでに二十年かかった、人をたぶらかす為の悪魔の発明、彼は人を虜にし、お釈迦さまは解き放つ、モ−ツアルトは就中心の友です。

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2008年6月 4日 (水)

じゅりょうほん

或いは時に此の衆の為に、仏寿は無量なりと説き、久しくして乃ち仏を見る者は、為に仏に値ひ難しと説く。

もとあるものに出会うのに難値難偶という、そりゃそういうことなんです、もと仏です、なんにもせずとも仏、だからおれはいいんだと、いくら決め込んでみても傍迷惑、淋しくうるさったいだけです、それをしも知識で塗固する、まあなにしろそういうのから脱して下さい。難値難偶はみな自分勝手よこしまのせいです、悟ったといっては、だからなにしてもいいんだという、ほんとうに困ります。あるとき接心に妄想煩瑣、これをなんとかしようとて闇雲に坐ったです、なんとかしよう、納めようなくそうとすればするほどに、妄想煩瑣です、そりゃ当然です、やってるやつが妄想です。なにしろ真っ黒けになってやっていた、四日間ぶっとうしてにっちもさっちも行かぬ、体力の限界、もうどうにでもなれと抛った。とたんにふわ−っとなんにもなくなる、すか−んとないんです、こりゃどうしたって、わずかに念を取り扱う念がなくなったんです。妄想が失せたんじゃない、心意識、念というものが失せればそりゃ脳死です、ぽっと出ぽっと消える所をそのまんまにしておく、雑草は引き抜いたら石の上にという、只管打坐の法が身に付いたんですか。実に妄想観念という、妄想観念もと我がものにあらず、ほっと浮かぶさえ我がことじゃない、こっちの責任じゃない、妄想という世間=自分ですか、心という器に去来する客です。もてなし終わったらさよならすりゃいい、不要なら手を付けなければいい。どうですか、これが出来たら、正しく救いでしょう、悩みとは何か、幽霊に取り付かれるんです。ぽっと出てもはやないものにしがみつく、だからどうだとやる、一日中やっているような気がしたりすると立派な心身症です。人はあるものには悩まない、ないもの、あるかないかわからないものにしてやられるんです、実の手応えがないからです。無心これ如来です、心は一つこと、真正面に向かい合うんですか、するとないんです、森羅万象鳥もけものも雪月花も無心でしょう、如来来たる如しです。あなただけがなぜ食み出して右往左往、まったくの余計ごとではないかと、はいまったくそういうことなんです。

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2008年6月 3日 (火)

じゅりょうほん

諸の有ゆる功徳を修し、柔和質直なる者は、則ち皆我身、此に在りて而も法を説くと見る。

ものごとを別け隔てなく見るということは、あるいは次第に難しくなっているのかも知れぬ、かたくなで偏って見る、思考力の欠如乃至は停止、文章が書けないなど、0×式知識とかなにかそんなふうです。そりゃ教育の欠陥もある、とても柔和質直とはいかぬ、国語教育など明治以来間違いっぱなし、大学教授という文学方面はどうも素人目にも、嘘ばっかりのてんぷら知識。どうなっているのか、地位に付くことが困難過ぎるのか、むかしから大学というろくでもないものなのか、なにしろさっぱり信用ができない。常識というにも浅薄で、みんな仲良く平和式の、そうねえ火中の栗を拾うような人がいないんですか、学芸員風の文化なんですか、ものみな命を賭けなければ得られぬという、重要さ、抜き差しならぬということが失われ、自分を棚の上に置いて、なにしろ字面だけはらしく立派なことを云う、つまらないビ−ルの泡のような。デジタル社会ですか、すると仏如来の説は遠くて遠いんですか、ですが空前の坐禅ブ−ムだという、ほんとうかどうかよくわからない、なにかしら今様の欠陥に気がつくのか、あるいは坐禅という今様欠陥なのか、はあてそんなことを云うつもりはなかったんだが、質直柔軟ということを、へそ下に手を置いてよくよく考えてみるのにいいです。ちょっと世の中から離れて見るゆとりですか、モ−ツアルトもバッハもベ−ト− ベンもしばらく聞いて、はてそうだったんかと思うほどに、なにか本当には演奏されなくなっている、時代の推移というには淋しいかぎりの。ヘルマンヘッセのフェユトン時代三百年ですか、するとますます頼りなく、ガラス玉演技のバックボ−ンは禅僧ですが、たといお話にしてももう三百年待つんですか、あっはっはわしはあと十年ほどか、とうてい待っちゃいられんです。坐禅は人為によらぬ、時代にも文明にもよらぬ、ただ一箇実にこれをなせばよい、他なし、風の谷のナウシカだって、ミイラではない禅僧に出会うはず。

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2008年6月 2日 (月)

じゅりょうほん

我浄土は毀れざれども、而かも衆生は焼け尽きて、有怖と苦悩是の如く、悉く充満せりと見る、是の諸の罪の衆生は、悪業の因縁を以て、阿僧祇劫を過ぎれども、三宝の名を聞かず。

我が浄土は毀れざれども、衆生は焼け落ちてという、末法の世だからというご都合主義曖昧じゃないんです、如来なければ焼け落ちる如くどん底です、仏なければ無明黒闇です、救いがまったくないんです、心してこれを知るべきです。キリスト教は邪教だというと百人が百人ブ−イングです、なぜかというと多数が信じて、二千年来続き、文化を持ち云々という、ではエジプト四千年の宗教を信ずるか、ミイラになるか、長かろうが多数決だろうが間違いは間違い、無明は無明なんです。まあそんなこと云えば切りがないんですが、要するに自分で確かめりゃいいんです、クリシュナムルティがいかに聖者に見えようが、ろくなことはない。オペラ歌手のようなインドの聖者ども、いかにも修行したらしいとんだ食わせものです、無心ではない有心だ。人の噂歴史の右往左往によらぬ、たった一つ自分自身の心です、おのれの目、いえおのれの通身もって確かめること、他になんの方法もないです。仏なければ無明の闇、なにをしてもなんにもならないんです。目に一丁字もない男があった、百姓であったが、お釈迦さまの我れと有情と同時成道ということを聞き、なんとしてもこれを得たかった。ついに中国にわたって正師を得る、正師これまっすぐな人には見えるんです、父に出会うが如くです、他にはないと知る。師は彼の手をとって掌に丁の字を書いて、これと示した、四年後についに丁の字に成り切るんです、ついに大法を得て帰る、仙台にある大きなお寺の開祖さんの話です。いいですか、仏教でなければこんなことはないです、必ず手続きいわく因縁がある、一器の水が一器に余す所なくなどいう、ややこしいいきさつが必要です。如来仏の法は拈花微笑です。なにを余計なことをと、大迦葉はくすっと笑ったんでしょう、これをご覧になってお釈迦さまが、八万四千の大衆右往左往を、我れに正法眼蔵涅槃妙心の術あり、挙げて迦葉に付囑すといって、仏法が今に伝わったんです。なぜか、人の作り物じゃないからです。だれであっても自分というわがままよこしまを忘れ去れば、本来を本当に継ぐことができます。今この法が絶えた、わがままひとりよがりだけです、憂怖と諸の苦悩かくの如く、ことごとくこれ充満するんです、無明とは寸毫の明かりも見えない。明かりと見えるのはすべてまやかしです、殺し文句とお為ごかしの、妄念の盥回しです、無為の徒のあげつらいする、騒々しく淋しく、なにものをも生まぬ。どうですか今の世はこれ、三宝の名を聞かずと、いいえ正師に出会うています。

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2008年6月 1日 (日)

じゅりょうほん

園林諸の堂閣は、種々の宝をもって荘厳し、宝樹には花果多くして、衆生の遊楽する所なり、諸天天鼓を撃ちて、常に諸の伎楽を作し、曼陀羅華を雨ふらして、仏及び大衆に散ず。

これは如来たとえば霊鷲山の住所の様子ですが、いまこの南閻浮台ですか、浮き世娑婆のの如来は如何、はい同じです。大死一番大活現成という、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありというんでしょう、わずかに個の頸梏がんじがらめを離れて、すなわち個、自分というものを解き放たれるんです、身心脱落です、元の木阿弥脱落せる身心底です。空じきるという無心、心のないありようです、すると見るもの聞くもの、まさにこのように美しく筆舌に尽くせぬふうです。水を掬すれば月掌に有り、花を拈ずれば香衣に満つ、なんの変哲もないただの風景です、月を仰いで忘我の良寛さんのように、ただの風景に100%いいえ200%暮らし尽くすんです。ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば。君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや。本当本来人の夢にも見ないところです。これさまざまに境地を云い、悟りを云い、仏教を百まんだらする人、かつてまったく届かないんです。坐って坐って坐り抜く、悟入し悟出する、涅槃ニ−ルバ−ナという、無覚の覚です、忘我してまた気がつく、どちらも箇のありようなんですが、自分を眺めていて二分裂しながら、どのみち仏だからという言い訳はなんにもならんです、不惜身命してそれを去るが修行です。そんな人だらけなんですが、そりゃ仏教以前です、しかも仏教というもとありっこないものを振り回す、はなはだ傍迷惑です、なにあったとて俗人俗物の自己弁護だけです、それじゃさっぱり面白くないんです。忘我あり忘我より出ずるありして、天人常充満です、園林諸堂閣を知る、すばらしいという脇見運転なんかないんです、まことにもって世界宇宙他にはなし、人類史も平和博愛もただの嘘っぱちです。宝樹多花果、衆生諸遊楽、以無所得の故にボ−ディサットバ修菩薩行はまさにこの道を行くんです。わしらは強制的に座禅しないです、なにあったとて坐だけは忘れない、たとい旅にあろうがです。それは坐のみが生活の本来だからです、喜びのこれに尽きるはなし、三百代言らしいことを云ってひけらかし知ったかぶりの人は、これが一目瞭然事を得て下さい、つまらんこってすよ。他人の思惑なんか二の次三の次です、如来仏のまわりには宝樹多花果、衆生諸遊楽、人みな寄って来ます、鳥もけものもですよ。諸天の天鼓を撃つ、曼陀羅花を雨降らす、とやこうは云わんです、実にこれを味わって下さい。三つの子供の智慧さえあれば存分に足ります、思想宗教などなんにもいらんです、資格を得るには勉強すりゃいい、ゼニを得るんならノウハウを知ればいい、用いるべきは用いりゃいい、でもたいていなんもかもうるさったいだけですか、ましてやありもしない仏教の噂など。

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