ほうきょうざんまい

2008年5月17日 (土)

ほうきょうざんまい

潜行密用は、愚の如く魯の如し、只能く相続するを、主中の主と名ずく。

今の宗門は御開山禅師に後足で泥を掛けるが如く、達磨さんに毒を盛る如く、いやただもう仏教のぶの字もなく、お寺に生まれたから説教で、紙ぺら一枚をもって滴滴相続底の血脈とし、知ったか振りの仏説をただもう自堕落のおのれを弁護に用い、葬式稼業銭金だけの、いいかげん病理学上の対象になるような、坊主百万だらごんずい固まりです。こりゃもうどうしようもない、求道心のない坊主なぞまったくのナンセンスです。この中にあって出家修行はそりゃもうなんたって潜行密用です、悪罵の毒を歓喜しとあるように、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶをもっぱらにす。では娑婆世界に大法をもってと、娑婆世間坊主よりも仏に疎く、四面楚歌ですか。愚の如く魯の如くする以外そりゃまったく方法がないです。臨済宗に法を得て、悟ったの免許皆伝などいう、僧籍も在家の幾人も、どうもこれ本当、本来人とは程遠いものがあります。却って仏の邪魔なること、なまなかではないです。悟りという公案という、転ばぬ先の杖ですか、仏教何段というがごとく、おのれ安楽椅子に坐って、他にひけらかす以外になんにもない、こんなものども初心よりよっぽど遠いです。曹洞宗は威儀即仏法などいって、無心にはあらず、おのれ何物かと見做すに於ては、きんぴか衣装を来た猿芝居です、人間のくずだ。そうかと思えば、ヤフ−だの2チャンネルだのいう、若い連中は仏教と白昼夢をごっちゃにする、思想にもならぬ思想をふりまわし、おむつを替えて貰いながら文句百万だらの、いつまでたっても新成人ですか、ふわ −あもう止めた、こりゃ切りもない話。相撲と同じように日本人は滅んだんですか、昭和天皇に殉死すりゃよかったと、つくずく思う昨今、あっはっはさあどうすりゃいいかといって、そんな連中のことはどうでもいいです。ただよく相続するを主中の主と名ずくとは、もっともこれおのれ知るんです、端に為にす、たとい地球滅んだとて、他に為すことはないです。たった一人だろうが、自然とはこれお釈迦さまです、道元禅師がついています、なんにも淋しい辛いことないです。笑いあり歓喜ありは仏の喜怒哀楽です、うっふっふ全世界宇宙のっとって下さい、さあさ無常楽を知る一人二人。

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2008年5月16日 (金)

ほうきょうざんまい

臣は君に奉し、子は父に順ず、順ぜざれば孝に非ず、奉せざれば輔に非ず。

世の有り様はこれに従うがよくということです、戦争の時は戦争平和の時は平和というと、今の世猛反対を食うんですが、一億玉砕鬼畜米英なんて時もあった。長いものには巻かれろ、付和雷同舟に竿差す如くですか、そうではないんです、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、混ずる時んば所を知ると、オウム真理教は真である、わけのわからんものはポアしろやらないんです。キリスト教のいう世間事は世間に任せというのもまた違います、神の子としてこうあるべきだからというんじゃないんです、十字街頭はまるっきり無防備のすっぱだかです。信心あるいは信不信の拠所がないんです、だからこうだおまえは悪い善いという代わりに因果歴然です、取り付く島もなしなんです。これをよく見て下さい、仏教学者説教坊主のいう、仏教は臣は君に奉し、子は父に順ずをもって根幹とする、これこそ真なりなんてたわけたことは云ってないんです、そりゃ有心です、必ずどっかでポアします。順ぜざれば孝に非ず、奉せざれば輔に非ずと、当然の帰結ですか、これあればかれありと云っただけです。もっとも出入り自由です、あるとき是と云いあるとき不是といい、無心にしてまったく疵つかず。仏本来のありよう、たとい四十六枚の歯のうちの舌のようですか、時に舌を噛んでぎいっということあったって、世間哲学歴史などいう、または詩歌芸術という人類財産、あるいは人類そのものと、てんから捉われのない付き合いです、命さえも時によりなげうつんです、そうしてもって未来永劫仏だけがあります。水に映る影の如くですか、いいえ実際如実なんです、宝鏡三枚これ、現実であればあるほどに、一年三百六十五日夢です。

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2008年5月15日 (木)

ほうきょうざんまい

木人方に歌い、石女起って舞う、情識の至るに非ず、寧ろ思慮を容れんや。

仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなりとあります、理屈ははっきりしています、仏道といって別段あるものじゃないです、人とものみなと、我れと彼と各々あるっきりです、ではおのれというこれを明きらめる、万事解決済みです。自己を習う、自分を知るとは自分を忘れることだ。なぜなら自分を知るもの自分だからです、知っている間は嘘です、自分という二分裂ですか、忘れる以外に本当を知るすべはない。お釈迦さま菩提樹下に於て明星一見の事ですか、我と有情と同時成仏。まったくの忘我であればもとより知らぬ、一念起こって知る、我というものまったくなしにものみななんです、これが仏教のすべてです。もっとも長長出させるんです。学者坊主どものはるかに知る能はず、説教だのおためごかし偉そうだののない、ただのこれ真相です。真相の中のあるいは七転八倒です。森羅万象鳥もけものももとあるようにある、人間だけがなにがどうのとやこうと、てめえに首突っ込んで歩く、異様な風体です。これを元の木阿弥に戻す、一切事に於て省みずです、省みるべき自分がないんです、木人まさに歌い石女たって舞う、始めて地球のお仲間入りです。むしろ思慮を容れんや、情識の至るにあらず、歌うとき全世界歌うんです、無音、手の舞い足の踏む所を知らず、絶学無為の閑道人ですか、妄を除かず真を求めず。これまったくただの人、なんになりたいといって、そりゃただの人になりたいんです、我と有情と手を取り合って行く、そうです、極楽浄土なんてややこしいものない、空の雲さへはるかに人為を絶するんです、なんにもいらんのです、歴史宇宙もみなこのわが一箇と等価ですか、いや必要とあれば取り替える。

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2008年5月14日 (水)

ほうきょうざんまい

げい(羽に升のノなし)は巧力を以て、射て百歩に中つ、箭鋒相値ふ、巧力何ぞ預らん。

げいは弓の名人で、その師匠と百歩離れて射会ったところ、ことごとくの箭が鋒とやじりが当たって落ちたという、そりゃもう信じられぬほどの巧力、手練の技ですか、ところがこの事はいつだって箭鋒あい会うんです。ただやりゃぴったり、やらいでもぴったり、そりゃものみな法の大海、仏の一挙手一投足です、当たらぬはずはないんですが、だからといって修行もなく修行を卒業するもなく、無手勝流ほれこのとおりなど云ったってなんにもならんです。なんにもならんとはそりゃ面白くもなんともないんでしょう、シャバの苦労さんざくたをもって解決といったって、幼い我がままのまんまひねくれて、知らぬはてめえばかりなりです。そうではないんです、終に尽くすところを尽くしてもって、そやつの底が抜けるんです、シャバ人の百人分ほど卒業しますか、もってなんだおれはとあるいは云うんです、虎を描いて猫にもならず、もとの鼻たれ栄造生、でもさそういう良寛さんを如何ともし難し。現代などかすみたいなもんですか、月を仰いで忘我、生きたとはこれ未来永劫です、若しや再び生まれ変わっては来ないんです。如来という雪月花、いえ人間の如来は人間に同ぜるが如し、雲行いて雲の如く空を底無し。木人方に歌い、石女起って舞う、これ人類の至宝、一兆円をもっても購い難し。いいえ嘘は云はんです、四の五の云っている浮き世の他にいつだってこういう真相が開けているんです、いったんシャバ世界を脱してみて下さい、仏の救いです、それ不可能ならそりゃこの世の意味がないんです。

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2008年5月13日 (火)

ほうきょうざんまい

下劣有るを以て、宝几珍御。驚異有るを以て、狸奴白狐。

下劣があれば宝几珍御がある、珍品宝物のことです、坐っていてもそりゃ普段常識に於てもです。坐禅は温室と云われる、坐っていて起こったことあるいは省みること、処置したことが次には実際に、現実に花開くんです、人間の真剣そのものです、逐一にゆるがせにしないんです。下らない、劣等に思えば、宝物珍品あり、驚異に思うことあれば、犬猫のようなろくでもないことがある。実はものみなに価値の優劣なんかないです、ダイアモンドは千万円するにしても、土くれは作物を育てるなど、ものみな時所位です、時に当たって人の選択に拠るということだけです。それを坐っていても、こうあればいいこれは悪いやるんでしょう、妄想煩瑣は悪い、清々すぱっとしていりゃいいとか、あるいは悟った、とんでもない境地、天才などめじゃない絶対だなど、すると平凡だつまらないという種々です。たいていだれしもそんなふうなんですが、仏道垂成十劫樹の原因はこれなんです、下劣以下あるをもって必ずどうにかしよう、でなけりゃ納まらんがあるんです。どこにどんなふうにどうあろうと是非善悪なし、そのもの即今です。これを知るみな消えるんです、下劣も驚異も、宝几珍御も狸奴白虎もなんにもなくなるんです、目を向けるともうないがこれです、真正面向く=無です。どうかここまでやって来て下さい、仏教を知る、ただこれ因果必然を知るというだけになる、ものみなのありようがまったく手に入ります、達磨の不識知らんわいです、廓然無聖です、どんなに画期的比類ないことか、人類の智慧すべてを卒業したと云い得るものなんです、仏教とはなにか、元の木阿弥です、人本来、疵なしの玉。ものみなに掌指すんです、どうかこれを得てください、始めて一箇役に立つんです。

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2008年5月10日 (土)

ほうきょうざんまい

仏道を成ずるになんなんとして、十劫樹を観ず、虎の缺けたるが如く、馬の夜目の如し。

成ずるになんなんとして、どうにも行ったり来たりなんです、だれしもこれを思うんです、お釈迦さまには仏道はなかったです、すると成ずるになんなんとして、一回的すんなり行くんです。だれしもそりゃ一回的なんですが、こうすりゃこうなるノウハウですか、たれそれはこうやっただからとか、当然にのしを付けるんでか、虎は人を食い殺すと耳が缺かけるという、一人殺せば一つ裂けは、猫又大明神にお参りする猫とこれも民間伝承ですが、大死一番するたんびに、虎の缺けたる如く、すんなり終わればいいものを、また鑑がみるんです、悟っても悟ってもお釣りが来てしまう。馬の夜目は馬の足には夜目というものが付いていて、それで平らかに歩くという、暗夜に枕頭を探るが如くすれば行くものを、常注釈付きですか、ひっかっかりとっかかり終になんにもならず。これ参禅の人たいていこんなんです。苦労し過ぎるんですか、あるいは現実を肯えぬなにかしらあるんですか、そりゃ今の世そうだからって、今の世卒業すりゃいいんです。忘我しながらなおさら忘我を求める、忘我は求める限り来ない、眠ろうとすると眠れない理屈です。なんでもありのめちゃくちゃかえって親しく、標準失せればもとこれ、触れようが触れず、大火聚また空の空なるかなです、どこへ行こうがそのもの即今。大通智勝仏十劫坐道場と、便利都合のがいて、ではわしも仕方がないとやる、じゃ仕方がないでいいのか、よくないから十劫坐道場です、別段のことはない、大海中の大海なんです、鑑みることそれ自体、なんの障りもないことを知る、いえたいして手間暇かからんです、いつのまにか過ぎる、記憶にないんですよ。

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2008年5月 9日 (金)

ほうきょうざんまい

古轍に合はんと要せば、請ふ前古を観ぜよ

どうしてもむかしのありようを見ることから始める、実際はそんな必要はないんですが、すると手前勝手よこしまです、悟ったといい野狐禅ですか、あるいは思想趣向の問題我田引水です。仏教の他にはそれでも通用するというより、なにかしらになって是非を管するんですが、なんにもない教え、なんにもないをも知らぬ教えはどうでもこうは行かんです、古轍を抜きん出て来ないとそりゃ問題にならんです、この故に本来人です。まことにもって本来人の希少なんともどうも言い様にないほどです、一人二人今の世いるかいないか、百年二百年にわたって、一人二人いたかいないかってとこですか。正師にも惑わされ邪師にも惑わされと云ったのは飯田とう(木へんに党)陰老師ですが、飯田老師のまた鑑みるには、何人もいないという感慨です。嘘とはったりでたらめばかりの世の中ですが、ましてや仏の世界はお笑い草です。白隠禅師というからにどうも江戸時代的というんですか、鍛え抜いた手だれのような、だいぶおかしいんです。今一休さんの書のレプリカを床の間に掛けています、「薫風自南来」です。そのまあ筆法もないのが、辺りを席巻する、ふわ−すげ−なあといって見る、まるでまあ黄檗のように大唐国に師家なしと云って風です、悟故十方空です。これ対になっていて、「殿閣生微涼」と続く、一休命がけでやってます、一休頓智という謎かけ問答じゃない、本来人の抜き身です、首根っこに突きつける、ようまあ生きていたもんだ、そんなにしてやっとこさ、殿閣、世間ごったくさにわずかな涼風が起こる。一休の真似して寺を追ん出され、良寛さんもまったく負けてはおらんです、一人遊びぞ我れは勝れると、独立独歩一歩も引かぬ。遠来の客をもてなすのに月を仰いで忘我、良寛さんあと云われて道ばたにぶっ倒れたり、いやはやなんともこれ。どうですか真似してみますか、古轍真似事じゃかすっともかすらんです、いえかき汚すだけです。一宗を樹立するという真人間これ、さあやってごらんなさい。

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2008年5月 8日 (木)

ほうきょうざんまい

其の顛倒に随って、緇を以って素と為す、顛倒想滅すれば、肯心自ら許す。

顛倒夢想という、かつてはまさにこれと指示したものが、今のわしには顛倒なるものがわからない、なぜだろうかといってそれもわからない、妄想も顛倒もそういう影らいなきにしもあらず、はてなっていう感じの、あっはっはこれじゃ提唱にならん、なんとか振り返り見るによし。顛倒夢想の故に、仏を求むるのに遠くて遠いんですか。主客転倒という、妄想思想はいわば客です、主は自分であるのに軒を貸して母家を取られ、思想分別が主となって、それにひっかきまわされてさんざんな目に会う。声色の奴卑と馳走すという、やれ共産主義だ、オウムの真理だ、イエスさまだ、だからといって奔走するんですか、せいぜいが妄想思想の種類別け、こっちの神さまのほうが信じやすい、担ぎやすい時流に合っている、あるいは歴史が古いなど、人間は何かに囚われるを以て人間となすんですか。殷の神さま饕餮もインカ帝国の心臓を食う神様も、人間が生み出したものだ、エジプト四千年の宗教も今になってまったくわけもわからん、キリスト教二千年もこりゃいったいなんだといいたくなる。本末転倒事、共産党の如く、未だもって見るに耐えない現実がある。人のふりみて我が振り直せ、顛倒夢想元凶です、緇という黒い布をもって白布となす、どうですか毎日日にちそんなことの繰り返しやっていませんか。もっともこりゃ参禅のノウハウです。禅という単純元の木阿弥に参じて始めて知る。自分というこのものをなんとかしようというのでしょう、それを自分がこっちにいながら、自分というまた対象を眺め暮らしている。妄想煩瑣だよくないという、妄想煩瑣が見えっこない、妄想している自分を自分が眺める、おかしな話です。やれ静かになったうんまい具合だという、そりゃ同じこってす、一つしかない自分=心の二分裂ですか、囘互と不囘互と囘してさらにあい渡るという、なんぼあいわたったところでなんにもなし、見えないのが本当です、さあどうですか、参禅のノウハウこれですよ。いえ心の救い、人間の救いはたったのここにあるんです、仏の手を差し伸べるまさにこれ。仏はどうしたらいい、あなたはどうしたらいいんです、差し伸べる手を引っ込めりゃいいんです、元も子もないんですよ。もとあるはずのないことをやっている、だから悩み苦しむんです、顛倒妄想です。

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2008年5月 7日 (水)

ほうきょうざんまい

先聖之を悲しんで、法の檀度となる。

もと仏の大海の中にありながらこれを知らず、あるいはこれを知り、求め求めつくして繋駒伏鼠する、これを悲しみ哀れんで、先聖仏祖諸仏諸菩薩ありといえどもみなまた同じです、手をさしのべるというのです。如来というビッグバンの三つぐらいポケットに入っているんですか、如来見えず隠れてあるときは、これを渇仰し咸皆懐恋慕する。衆生既に信伏し質直にして意柔軟に、一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまざれば、時に我れ及び衆僧霊鷲山を出ずと、如来寿量品偈にある如くは、人類すべてにこうあり、一箇の辺にまさにこうあるんです。この世は如来現ずるか否かということです、自分の一生とは何か、如来を見ずに七転八倒する何十年、まちがいだらけの親不孝はた迷惑ですか、ものみなないがしろにして省みず、ついに支離滅裂ですか。一箇まさにこれに気がついた時に、速やかに世法すなわち自分です、架空の思い上がりですか、よこしまを去って仏法に帰依する。帰依とはもとあるがように返るんです、帰家穏座するんです。人間の如来は人間に同ずるが如し、諸仏の常にこの中に住持たる、各々の方面に知覚を遺さず、群生のとこしなへにこの中に使用する、各々の知覚に方面露はれず、このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事をなすをもって、その起こすところの風水の利益にあずかる輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかき悟りを顕はす、是れを無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、これ発菩提心なりと。信不信の埒外に信ずるとはこういうことです。始めて真人間になります。

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2008年5月 6日 (火)

ほうきょうざんまい

宗通じ趣極るも、真常流注、外寂に内動くは、繋げる駒、伏せる鼠。

これのありようを知って、師の指竿針槌、払拳棒喝をもってほしいままにする、ついには押しても引いてもなんにも出なくなる、かすっともかすらなくなる、しかもなおかつ自由の分がないんです。真常流注ですか、真を云うからに完全しない、どっかに漏れ出るんですか、悟りを知り、仏のありようを知る、ついにこれに拘泥するんです、悟っても悟っても皮一枚残っているような気がする、外寂に内動くんです。外界宇宙まったく納まっている、そりゃ始めっから納まっている、ものみな悟り切っている、仏を知り悟入し悟出するにしたがい、よくよく見てとれても、どこかに自分というなにかしらです。ちらともあれば内動くんです、なんでというからに更に動く、繋げる駒伏せる鼠です、どうしてか、さあよくよく省みて下さい。仏の太い綱に引っ張られないと、てめえかってじゃどうにもならん、雪担さん信じなさい仏さまをと、さんざくた云われてどうにもこうにもだった。お釈迦さまを信ずる、信不信の埒外に信ずるんです、いえこれなくばなんにもならん、至心帰依です。仏の教えです、坐禅見性じゃないんです、どうですかこれ、なんのための坐禅なんのための見性、本末転倒事していませんか。

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