さんどうかい

2008年4月16日 (水)

さんどうかい

謹んで参玄の人に白す、光陰空しく度ること莫れ。

玄玄微妙という、玄とは実にこれ仏の姿です、心のありよう身のありよう、まさに他のどんなものとも比較を絶するんです。ただ如来のみこれを知る、摩尼宝珠如来蔵裏親しく収覽すと、筆舌に尽くし得ぬことは人々自ずからに成す以外にないんです。筆舌に尽くし得ぬこと、ただこれ実際のみです、言葉思想、あるいは宗教信不信の遠く及ばぬことです。坐のみこれに応ずる、光陰空しく渡るとは現を抜かすことです、現実にありながら外方を向いている、共産党みたいなふうですか、滑稽で残酷です、必ずやおれいいおまえ悪いの、絶え間なし実況報告ですか、まったく馬鹿らしいです。そんな馬鹿らしいことをまずもって照顧脚下です、自分はやっていませんかということです。光陰空しく渡ることなかれ、早くぶち抜いて悟って下さいという、ほんとうはそうではないんです。悟り迷いそのものまさに現実です、これを取りあれを取らないという、現を抜かすとはこれ。迷悟中の人若し取捨選択なければ、光陰そのものです、光陰と自分と同じなんですか、は−い生まれてっからこのかた同じです。棹差すこともできなければ、光陰の舟乗り捨てることもできない道理、万事お手上げが正解です、手付かずに行く玄玄微妙を知って下さい。すべてこれ坐中のことですよ、坐以外のことがあると思わないんです、よくよく坐って証明すれば、坐以外に実地あることを知るんです。坐以外に求めても却って不都合が多いです、学者道徳家の胡散くささじゃないんです、取り付く島もなし。悟入し悟出するに跡かたなしは、日々まさに坐って下さい、他のことたといおろそかにしても坐だけはゆるがせにせんのです、こうして始めて少応の分があります。はいよろしく。

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2008年4月13日 (日)

さんどうかい

触目道を会せずんば、足を運ぶも焉んぞ路を知らん、歩みを進むれば近遠に非ず、迷ふて山河の箇を隔つ。

触目道を会すとは、ものみなあって自分がないんです、触れるというたとえようもない実感は、無自覚の覚です、これ終着点ですか、仏向上事はこの辺にあるんです、そうです日々新たに、上には上があると思って下さい。足を運ぶには即在即処、覚えのない覚えです、学者のように見解を深めるとは、ただの右往左往です、悟った、境地が深まるというのも同じ、歩みを進むれば近遠にあらず、迷ふて山河の箇をへだつんです、これがどうにもわからない人は、まったくの一人ぼっちになってみりゃいいです。記述するとか他にひけらかすとかのない世界、そこに本来自足し得るか。いずくんぞ路を知らんとは、多種多様の交通整理、博学多識の大権威という、とんだ恥っかきだったりします。あなたはだあれ、知らないと花は応ずる、仏とは何か、ほどけば仏、達磨の不識また廓然無聖、これ元の木阿弥です。舌頭たたわわとして定まらず、しかも一目瞭然です。至草の味わいの如く、金剛の杵の如し、虚空そのものですか、一切を容れてもってあるがまんま、迷いという余計がないんです。迷いとは何か、ただ我欲の故に目がくらんでいるんですか、詐欺師はそやつが狙い目、弱り目に祟り目の新興宗教ですか、いえさ種々雑多無宗教の雑念ですか、なにしろお粗末。

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2008年4月12日 (土)

さんどうかい

言を承けては須べからく宗を会すべし、自ら規矩を立すること勿れ。

これが坐禅の基本わざです、たいていだれもできない、だから悟れないんです。自分というものの関わるなし、坐るにつれてどうしても得たいんでしょう、自らを運んで万物を証するをこれ迷いという、まずは決まってそうする。すると近似値として大法のありようが見える、祖師の語録がつうかあになる、公案百般立て板に水と、だがなんにもわかっちゃいない、迷うて山河の箇を隔つことにまったく気がつかない。これあるいは初発心による、仏教が欲しいのか自分が欲しいのか、心が欲しいのか物が欲しいのか、師家というでたらめ稼業、禅師というかき登るだけという、銭金の他まったくなしの曹洞宗は云うに及ばず、印可という卒業証書の二束三文にしがみつく臨済宗、いずれ仏とはなんの関係もないです。自分というこのものを勘定に入れる、必ず我田引水です。心は誤魔化しようがない、隠すよりは顕れる事実、彼岸にわたることぱ−らみ−た−般若の智慧はまったく単純、生まれたまんまのまっさらですか、生まれる以前の真実ですか、為には得ようとしないんです、坐っているとどうにも我がものにしたい、それを放し放しして行くんです。いいですかついに悟ってまっさらになったという、ではまさに第一歩なんです。言を承けてはすべからく宗を会すべし、仏向上事という、修行とはこれです、他にはないんです。自ら規矩を立することなかれ、難事中の難事ですか、自らを与え任すこと、飢えた虎に施す如くせよと、与え任すべきおのれが失せる、失せるに従い無上楽です。仏の生活箭鋒あいあう、もとこれ宗を会す他になく、自らを持て運ぶなし、たとい持て運んだとて宗を会すんです、こうなって初めて物の役に立つんです、することなすこと是非善悪を超え、にっこり笑えば百花開く、赤ん坊のようにまた、梃子でも動かず、須弥山の如く、宇宙と同じ大きさです。すなわち針のめどをくぐる。

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2008年4月11日 (金)

さんどうかい

事存すれば函蓋合し、理応ずれば箭鋒柱ふ。

事存するということをだれも知らないんです、九このまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば
良寛の辞世と云われるこの歌に、貞心尼が付けて、
君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや
と激しい口調です。ほんとうに良寛さんの他には、そののちも一人二人十ずつ十とまりがつけたですか、数息観という参禅の方法があって、一つ二つと十まで数えて繰り返す、単純に繰り返すうちに忘我です、なかなか行かないです、でもそりゃ忘我するまでやってりゃできるんです。良寛さんはまりをつく、まりをつきながらまりと一つになる、忘我ですか、忘我しなくったっていいです、函蓋合するということが起こる、天地とおのれとまったくそのものになる、これ生まれ本来のありよう、あるいは父母未生前の消息、あるいは死んだのちですか、生死を脱してあるんです。生活とはこれ、ちりあくたのない太虚の洞然として明白、いいですかどうでもこれを得て下さい。狙っても得られぬという、狙わなきゃ得られないんですか。
死んで死んで死にきって思ひのままにするわざぞよき
ほんとうに死ぬことがあって大活現成です、まずもって、
月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな
ということあって、初めて本当に物に触れ、事存し理応ずるを知る、あとさきなしを知って、そのあとかたを失い去って下さい。以無所得故菩提薩垂です、おれは悟っただからじゃないんです、ましてや学問知識等なんのいいこともないです。死ぬとはたった今死ぬ。自分という自分よくなることを願わない、あっはっはそっくり仏という棺桶に投げ入れて下さい。弓の名人が互いに射て、ことごとく箭の先鋒がぶつかりあって落ちたという、これは技術思慮の先端をもってする、かつがつ理に契うんですか。ところがものみな日常全般箭鋒あいあっているんです、蝶も知らず花も知らず帝の法に契う、飯を食う用便をなす、何をどうしようとすればかえってしくじる、ただやりゃそのまんまです。キリスト教の牧師が複雑怪奇な面して、ついには神を一00%信ずることだと云った、この人五%も信じてないんではないか、信ずるは不信の始まり、一00%信ずるとは忘れることです。忘我しなけりゃ我を知らず、用いえずいたずらに複雑怪奇、未だ生きた覚えもなしの種種雑多。

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2008年4月10日 (木)

さんどうかい

万物自ずから功有り、用と処とを言うべし。

ものみな各々役に立つというとき、人の得手勝手が入るんですが、そりゃ用と処を云えとは人間さまの勝手です、そりゃまあそうなんですが、得手勝手我ままによらぬによって、万物の成り立っているところを知る、これ人間として大切です。思想分別の届く与はざると、個々別々廓然無聖は、ものみなあるがまんまという、たいていの人知っているようでそうでもないです。しかり色眼鏡おのれの利害得失による、まったく自分を離れるということがないと、本当には手に入らないんです。ものみな親しく不可分の姿、昨日よりは今日と、あるいはがらりと変わって我がもの、おらあがんになる、仏向上事。人のまた夢にも見ざるところ、ほんとうに時処位を知る、仏というまったくに彼岸に渡って下さい。常識の至るに非ず、むしろ思慮を容れんや、坐禅の醍醐味はまさにここにあります、捨身施虎おのれ食らわれ去って初めて知る、無限無辺際たとえようもなし。これなくば仏事なし、求尽の所証なし、万物自ずから功有り、用と処とを言うべしとは無体験です、無体験の如実この上もなし、手に触れる真実とでも云うべきか、他の仏教学者師禅師どものまったく与り知らぬところです。どうかこれを得て下さい、でなければ修行、また仏道の甲斐がないんです。

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2008年4月 9日 (水)

さんどうかい

明中に当たって暗あり、暗相を以て遭ふこと勿れ、暗中に当たって明あり、明相を以て見ること勿れ、明暗各相対して、比するに前後の歩みの如し。

明暗というんでしょう、意識下でも意識上でもいいです、あるいは思想として取り扱い、行動として為す、主義主張し、欲望のままに動く、みんな仲良く平和にのように、事なかれ好都合、または異を唱え、心配し不可と云い是と云う、こりゃきりがない多種多様の人間のありようです、きりがないといったってたいていお定まりのケ−スです。明と暗に分けた、たとえば共産主義というのがある、すべてを労働力に換算するという荒っぽいやり方ですが、それなりに説得力があった、清潔に見えてわかりやすかった、わかりやすいとは明暗の明ですか、とんだ落とし穴です。理想をかかげて現実を見ない、理想だから我らはいいという、一神教のカリカチュアですか、いい子は何をしてもいい、目的の為には手段を選ばず、あいつらは悪いからサリンを撒け、チベットなぞぶっつぶすべきだなど、明暗の暗のほうは、蓋を開けてみたら酒池肉林。小数エリ−トが王侯貴族の生活をする、北朝鮮のようにどんなひどいことをしても省みるなし。明暗おのおの相対して比するに前後の歩みの如しとは、まさに一般人のありようです。思想主義主張、あるいは宗教の独善ですか、明暗こうあるところをどめくらにする、意識下に於てがんじがらめにし、無意識下に於て粗暴に我欲の欲しいままにする。あるがまんまというのはまったくの手つかずなんです、意識上の手つかずは同じ縛りです、無意識上の手つかずは、もしそれあれば本能剥き出しです、そうではないんです、これを仏教だけが知る。いいわるいじゃないんです。六祖禅師、明上座に追いつかれて、この衣は信を表す、力を以て争うべけんやと云って、伝法の袈裟を石上に置く。明これをあげんとするに、力を尽くせどもあがらず。おののきおそれて日く、我れ法の為に来たる、衣の為に来たるにあらず。作礼して、行者、望むらくは我が為に法要を示せと。師日く、不思禅不思悪正与麼の時、那箇か是れ明上座本来の面目。明言下に於て大悟すと。いいですか、こうなってはじめて明暗乃至は前後の歩みの如しが掌するんです、まずはたいていできんです。でなけりゃだれかれ大なり小なり共産党やってるんです、オウムと目くそ鼻くそですよ、なぜか、しっかり省みて下さい、思想判断力を誇る、実に中途半端、いいことしい頭なぜなぜのだれかれ、まったく和を知らず。

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2008年4月 8日 (火)

さんどうかい

本末須べからく宗に帰すべし、尊卑その語を用ふ。

尊いものあれば卑しいものあり、これがしゃばの世世間です、たとい時所位による、あるときダイヤモンドであるとき土くれ、あるとき天才であるとき凡人、どっちだろうがよしとするときよし、傍迷惑役立たずのとき、不要です。これを悟りに入ろうとするときに、宝几珍御、狸奴白虎するんでどうにもぴったり行かんのです、よく坐れたうまく行かないやる、悟るとはこうあるべきする、尊いことと卑しいことをいう、そうじゃないどっちも同じ、うっふっふ神経シナップスの電圧ですか、つまりそう云っている自分を捨て去る、手つかず万事お手上げとはこれです、挙げて仏の家に投げ入れる、本末宗に帰すべしとはこれです。坐禅のノウハウを問う人に、ノウハウなしと示す、蚊子鉄牛を咬むと示す、だのにどうしたらという、手つかずをどうしても手をつけたがる。なぜか、自分をなにがなしかにしたい、悟りたいという、それらごたくさを止めればもと仏の大海です。なんでもありありわがまま三昧、すっちゃかめっちゃかで坐る、むしろまさにこれがノウハウです、あるいは自分という内なし外ばっかりというふう、こうして、でも悟る、ちらとも見ることあると却ってまた迷うんです、それは尊卑あり、本末かくかくだからです。仏の家に投げ入れる、至心帰依ができてないからです、だってそうでしょう、仏の道です、仏です、てんから文句付けるなし、だから救いです、自分にあるたといひとっかけらなぞまったくお呼びじゃないです。そんなものあるにしたがい遠くて遠し、どうですかさあ省みて下さい、坐る時間もわしのたいてい十分の一にもないんでしょう、しかもなんだかだと余得云っている、こんなの仏の鼻つまみですよ。うたた悟ればうたた捨てよ、悟りも知らないで悟りなしなんていうのは、らごら坊主と曹洞宗門だけです、なんという恥さらしな。

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さんどうかい

本末須べからく宗に帰すべし、尊卑その語を用ふ。

尊いものあれば卑しいものあり、これがしゃばの世世間です、たとい時所位による、あるときダイヤモンドであるとき土くれ、あるとき天才であるとき凡人、どっちだろうがよしとするときよし、傍迷惑役立たずのとき、不要です。これを悟りに入ろうとするときに、宝几珍御、狸奴白虎するんでどうにもぴったり行かんのです、よく坐れたうまく行かないやる、悟るとはこうあるべきする、尊いことと卑しいことをいう、そうじゃないどっちも同じ、うっふっふ神経シナップスの電圧ですか、つまりそう云っている自分を捨て去る、手つかず万事お手上げとはこれです、挙げて仏の家に投げ入れる、本末宗に帰すべしとはこれです。坐禅のノウハウを問う人に、ノウハウなしと示す、蚊子鉄牛を咬むと示す、だのにどうしたらという、手つかずをどうしても手をつけたがる。なぜか、自分をなにがなしかにしたい、悟りたいという、それらごたくさを止めればもと仏の大海です。なんでもありありわがまま三昧、すっちゃかめっちゃかで坐る、むしろまさにこれがノウハウです、あるいは自分という内なし外ばっかりというふう、こうして、でも悟る、ちらとも見ることあると却ってまた迷うんです、それは尊卑あり、本末かくかくだからです。仏の家に投げ入れる、至心帰依ができてないからです、だってそうでしょう、仏の道です、仏です、てんから文句付けるなし、だから救いです、自分にあるたといひとっかけらなぞまったくお呼びじゃないです。そんなものあるにしたがい遠くて遠し、どうですかさあ省みて下さい、坐る時間もわしのたいてい十分の一にもないんでしょう、しかもなんだかだと余得云っている、こんなの仏の鼻つまみですよ。うたた悟ればうたた捨てよ、悟りも知らないで悟りなしなんていうのは、らごら坊主と曹洞宗門だけです、なんという恥さらしな。

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2008年4月 7日 (月)

さんどうかい

而かも一々の法に於て、根に依って葉分布す。

法というものが別にあるわけじゃないんです、ものみなのありよう個々別々ですか、しかも不識知らないんです、知らないんだけど厳然、おろそかにすればしっぺがえし、いやさ天罰覿面です。物理学の法則に似ていますが、物理学の法則もこの中にある、仏教を知るとは因果必然を知ることですか、すなわち独特なものはなにもないんです、あっちの神さまこっちの神さまなし、クジラ取ったらいけない、豚は食ってもいいなんてことない、これあればかれあり、順現報受、順次生受、順後次受という、三時の業報の理を習い明きらむることこれ、しかあらざれば多く錯りて邪険に堕つるなりと、歴史も世界もなんという邪険だらけ、どうにも始末におえぬようです。これをなんとかしようとする、わずかに一箇半箇七通八達です、自分という余得なし執着なしの風穴ですか。因果必然だけを知る、さらりさらりとした心ぞよけれと、良寛さんの竹の讃にある如くです。このときはじめて六根清浄を知る、根によって葉分布する、他にはないありようです。本末すべからく宗に帰すべしという、信仰、宗教の独り善がりではない、真箇の大法です。通身帰依という、われら生まれついてのありようです、これを知るようやくわずかに和です、人の地球のお仲間入りができます。外道仏に問ふ、有言を問はず、無言を問はず。世尊良久す。外道讃嘆して云く、世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて、我れをして得入せしむ。外道去って後、阿難、仏に問ふ、外道何の所証あってか、而かも得入と言ふ。仏云く、世の良馬の鞭影を見て行くが如し。これはどうですか、仏教の本来を見るにいいです、若し坐禅を志す人、良久してもって外道讃嘆すと、花のように鳥のように、そうです、本来ほんとうの和を得て下さい、他に向かってひけらかしたり、馴れ合いコンセンサスじゃないんです。

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2008年4月 6日 (日)

さんどうかい

火は熱し風は同様、水は湿ひ地は堅固、眼は色耳音声、鼻は香舌は鹹酢。

これらのこと身も蓋もなし、まさにこれ火は熱し風は動揺です、なんでこんなことを云うのかというと、一に身も蓋もないただの現実すなわち仏教です、超能力も個人の天才性も問題にならんです、あるがようにあるところへ落着、一にはまた人という独善余得物質の入る余地がないんです、たとい破家散宅というに同じ、まずもって自分を返上すること、これ仏教、後にも先にもまったくそれ以外にないんです。仏教を学ぶもの、学者のように知識を得る、あるいは悟りを得る、なにがなし世の役に立とうとする、他にひけらかしたい、いっぱしのものになりたいというんでしょう、歩みを進むれば近遠にあらず、迷って山河の箇を隔つと、これ仏じゃないです、此岸の道です、彼岸に至るをもって大般若です、知識の交通整理点と線じゃないこと、仏教学者には金輪際わからないです。せっかく参同契を見て、まったくにもって別様を説く、あるいはただもう不明を露呈する、あほらしいです。そうではないそう云っている自分を、打ち砕くんです。目から鼻へ抜ける、一を聞いて十を知るという、それじゃまったく届かない、目から鼻じゃない、無眼耳舌身意です、ただこれ一目瞭然は、以無所得の故です、一を聞いて十よりは初めっから全体です。香巌和尚、実に怜悧で何を云ったとて答えがある、どうしようもないとて師家が、父母未生前のお前の眉毛はどうなっていると問う、さあわからなくなった。これしきがわからないでは坊主やっておれんといって、寺男になって庭を掃いていた、あるとき石を掃いて、そやつが竹に当たって音を立てた、これが因縁によって大悟する。香巌爆竹という、どう思いますか、畢生の大事を捨てる、死んだも同然の寺男です、無になるとはこれです、俗にいうおのれを無にするに近いです、なんにもないを眺め暮らす禅坊主じゃないんです、自分というなんの取り柄もなくなる、火は熱し風は動揺乃至鼻は香舌は鹹酢です、ほんとうに自分が失せると、カチ一声機縁に触れて、大活現成するんです。自分という身心なくてものみなある、我と有情と同時成仏、水はうるおい地は堅固、眼は色耳は音声が、心意識を通さずに現前するんです、その筆舌に尽くせぬことは、そりゃやってみなけりゃわからんです。声聞縁覚のこれ夢にも見ぬところです。

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