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2011年6月 6日 (月)

良寛詩

古仏の教法を留めしは、人をして自ら知らしめんが為なり、如し人自ら了知せば、古仏何の施す所あらんや。
古仏仏祖師方が道を伝えたのは、人が自らに知るためなりと、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり、他宗邪教で はこれから間違うんです、自ら知るのではなく押し着せして余計物にしてしまう、一器の水を一滴余さず一器に移す底のやっかいごとです、大迦葉ねん(てへん に占)華微笑とは無縁です、しかもこれを知る、一人じゃとうてい不可能です、お釈迦さまが身をもって示さなければ、七転八倒ついに別物です。しかもお釈迦 さまを見習うこととは違います。
有智ははるか(しんにゅうに向)に玄会して、頓に象外の人と為れり、愚者は故さらに拘束して、文に因って疎親を分かつ。
実智慧ほんとうの智慧です、はたしてこれでいいのかと回向返照するんです、自分という問題以外にありえない、般若の智慧とはぱーらみーたー彼岸に 渡っていることです、いたずらに思考認識しないんです、頓知という頓に無生を了ずるんです。学者猿の月影を追う、自分を棚の上にのせて仏教なんてありえな いです、それにも気が付かぬ愚かしさ、あるいは禅師師家悟ったさんもたいていこの類です、仏教なんぞありえないんです、腰掛を蹴倒して、赤裸々に浮世を歩 いて行って下さい、悲しく辛いことばっかりです、悲しい辛いがよろしくよく導いてくれます。良寛の無一物まさにこれ。

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