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2010年1月14日 (木)

良寛詩

八月涼気至る、鴻雁正に南に飛ぶ、我も亦衣鉢を理めて、得々として翆微を下る。
八月は旧暦ですか秋になって清爽の気です、鴻雁まあさかりがねが南に飛ぶ、われもまた得々として衣鉢をおさめて、翆微山ん中を下る、葉あていきさつようもわからんけど、五合庵を下るってわけでもないんだが。
野菊清香を発し、山川秀奇多し、人生金石に非ず、物に随って意自ら移る。
野菊という菊はもっとも種類が多いらしい、菊の香や奈良には古き仏達と芭蕉にもある、山川秀逸ですかなかなかどうして、人の生きるは金石にあらず、だのに金石にしてオリンピックで金メダルですか、自分の能力を発揮することは、ただもうこれこれ秋には秋春には春のみずみずしさです、うっふっふいい訳梨の気用なし人生です。
誰か能く一隅を守らん、ごつ(一にあしをふたつ)ごつとして鬢糸を垂る。
片隅を照らすものこれ国宝なりとは最澄の言葉、秀才が得々として仏を語るんでなしに、どんぐりの背比べのいちばん馬鹿でめちゃくちゃでまるでなっていないのがいちばん偉いがよし。自分というものかくあるべしではない、これ坐禅しかないんです、坐らずにいると必ず三百代言偉くなるばっかりです、ごつごつとして箇の坐状を守る、ただこれ日々に新たにして鬢糸を垂れとは白髪になることです、金石でない人生をまっとうして下さい。一人光明なれば四方を照らす、みんな仲良く平和にというてめえ弁護のお題目じゃないんです、いてもたってもいられぬほどが正解。安楽の法門に安楽椅子なし。

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コメント

せったんさんへ
今夜は、呼吸について書こうと思います。

息を吐くと、次には自然とお腹が膨れて息が入ってきます。
今度は、自然にお腹がへこんで息が出て行きます。

この時、息を吐き終わって其の侭にしておくと、間もなく苦しくなります。
それを避けるために、横隔膜などの筋肉が緊張して、息を吸い込むんです。
吸い終わると楽になります。
その後息を吐きますが、筋肉の弛緩ですから、もっと楽になります。
この楽は、なんとも甘美なものですね。

しかし、この楽も長くは続きません。
それで、また筋肉を緊張させて息を吸います。

知や意や情を伴わないで呼吸してみると、上記のような事が実感されます。

つまり、息苦しくなった時には、筋肉の緊張(吸う)という働きかけ・更なる苦を加えてそこ楽が齎されます。
その楽に筋肉の弛緩(吐く)という楽が加えられると、更に楽になります。
しかし、その楽にも間もなく息苦しいという苦が齎されるのです。

苦を極めれば楽に転じ、楽を極めれば苦に転ずるというような、まあ道教の教えのようです。

ところで、心と体が一体のもので、本来の人の在り様がこの呼吸に表れているとしたら、全ての計らいを取り去って素に成った時に、よくよく見たら、その素が計らっていたのですね。
この辺りが私の知った(狭義の)禅の限界ですね。

人は一時何の計らいも無く、またその事さえも無い最低の何かであり大安楽あっても、やがては苦が現れ、計らうからこそ何かであれるのでしょう。
すなわち、大安楽は精々一息を吐く間ですね。

生きながらに最低の何かになりきって、大安楽を得ようなどという根性が、いけません。
また、最低の何かに成る過程に、省みない事が含まれているということは、俗人からすれば莫迦げた、まさに宗教です。

もし、せったんさんの心に浮かび上がる思いがお有りでしたら、ご感想などお聞かせ下さい。

投稿: アチャチャ | 2010年3月31日 (水) 11時28分

初めに、一心になるという言葉を説明します。
一心になるとは、一事に集中するということです。
会では、伸び続けるということですね。

しかし、その先も有ります。
私の経験では、一心が極を迎えるとき、一事に集中するという思いさえも消えうせて、無に至ることがあります。
わたしはこれを弓に当てはめた時、悟りの射として目標にしています。

さて、一心になる為の方法論ですが、私は呼吸法との関連性を考えています。
人類が言語を持ち始めたのは約12万年前だ、と言われています。
のどの奥に充分な空間が出来て後、呼気を微妙に調整できるように、横隔膜と胸腔の周りの筋肉を随意的に動かすことが出来る制御システムが脳内に出来上がったのだそうです。
その時期が12万年前ということです。

これらによって、呼気に複雑な言語をのせて、自由に話せるようになったのだそうです。
また、本格的な言語の出現以前にも、人類には非言語の感情があり、穏やかで比較的持続性のある気分や激しく一時的な情動や場合によっては原始的な情操というものも有ったのかもしれません。

この言語と感情は、共に人間の情報処理システムとしての意味を待ってきましたが、更なる共通点として呼吸との深い関係性を持っているようです。

私たちが話をする時、或る感情が起こるとき、心に何らかの考えを浮かべるだけでも、呼吸に反映するようです。
もっと直接的に言えば、心に何かが起これば、胸腔を取り囲む筋肉が動きます。

そして、言語や感情と胸腔を取り囲む筋肉とは、可逆的な関係性を有しているように思われます。

つまり、『心に浮かぶ言語や感情が胸腔の周囲の筋肉を動かし』、『その筋肉の動きを止めてしまうと、思考や感情を止めてしまう』ことが出来るということです。
これは、私の内観的な経験論ですが・・・。

また、偶然にもこの二つの考え方は、或る命題とその対偶の関係に対応していますね。
或る命題が真ならば、その対偶もまた真となります。

さて、私は専門家ではありませんから詳しくは知りませんが、ヨーガや仙学・禅では呼吸法がその修行法に取り入れられ、自己の心(や体)をコントロールする為のものとされているようです。

せったんさんの心に浮かび上がる思いがお有りでしたら、ご感想などお聞かせ下さい。

投稿: アチャチャ | 2010年4月 7日 (水) 16時29分

アチャチャさん
hachifuと申します。ここ和尚様の代行で投稿している方が現在忙しい状況で更新されていません。
和尚様の投稿は主にmixiのほうで行われているので、ご用事がある場合には
http://mixi.jp/list_diary.pl?id=3229375&from=navi
にアクセスされると良いと思います
(その場合mixiに登録済みである必要がありますが)

投稿: hachifu | 2010年4月14日 (水) 18時46分

上記の投稿は、成りすましのコピペですので、ご配慮は不要です。

投稿: アチャチャs | 2010年4月22日 (木) 04時20分

大阪で参禅できるところを探しているのですが、どこのお寺にしようか迷ってます。
どこがいいでしょう。

投稿: a | 2010年6月 7日 (月) 10時58分

範士特別演武などを幾つか見てみたが、からだが使えていない。
打ち起しが腕だけで、足踏みからの伸びがない。
弓手が負けない大三での胴造り、離れに負けない胴造り、これらはいずれも重心移動を伴っている。

不言流では、打ち起した後から大三までを寄せという。
寄せの語源は片寄りで、弓を的方向に移動することで、からだに掛かる力の負担に片寄りが生ずるからである。
打ち起した時の重心は足踏みの中心に在るが、大三に向かう寄せの動作に従って、左足先方向へ重心が移動しないと、左の腰や肩がひけてしまう。
射法八節は、常に各時点での最良の力の均衡を保って行われるものである。
これを上半身だけで行おうとすると、会での詰め合いに繋がらない。
また、不要に過度な力が局所にかかり、疲労によって射の再現性が落ちる。

不言流では、大三からの本格的な押し引きを引分けという。
ちなみに、寄せの1節が増えた分、会と離れが一つの節にまとめられ、射法は八節になっている。

さて、引分けでの両拳や両肘の移動距離を比較してみよう。
弓手拳と馬手拳の移動距離は凡そ、1対2である。
また、左肘と右肘の移動距離は凡そ、1対4である。
水平方向の移動距離だけを比較すると、弓手拳1に対して馬手拳は凡そ4の割合になっている。
つまり、引分けは、弓手は下へ、馬手は大きく裏的方向へという感覚である。

よって、引分けの初めは寄せによる力の負担が大きい弓手が主導になって押し始め、その後は加速度的に馬手の移動距離が大きくなっていく。
ただ、一通りの引分けが終わりに近づくに従い、その速度を落とし、慎重に伸び合いへと繋げていく。
この引分けの主導が、弓手から馬手に移り変わる過程と平行して、左足先方向から右足へと重心の移動が行われる。
この右足への重心移動で離れの衝撃に打ち勝つ胴造りを造るのである。

ところで、発が出る為には、緩んで離さないのだから、テンションを高めなければならない。
そうすると、従来的な詰め合いを完成させて、それから伸び合うというのは間違いである。
なぜなら、一度詰め合いが出来ても、そこから伸び合えば、その分詰め合いが崩れてしまうからだ。

つまり、緩まずにテンションが上がって発が出る為には、・・・。
引き尺を増やそうとする新たな弓とからだの関係・そうした詰め合いを造る変化が伸び合いそのものである、ということだ。
新たな詰め合いへの移行が伸び合いとなって、テンションを高め発が出れば、緩むことは無い。

そうした詰め合い・伸び合いのポイントは、みぞおちだ。
みぞおちに楔を打ち引分けの最終部を安定させる。
そして、みぞおちから臍下丹田へ息の円柱を押し下げて、体幹を伸ばし引き尺のテンションを高める。
吐く息で、この息の円柱を押し下げるという一見矛盾するような呼吸方が逆丹田呼吸法だ。

どうも、全身全霊を使った射が、現役の範士にも見られない。

投稿: アチャチャ | 2011年1月10日 (月) 22時02分

射手は、立ちの時でも基本体の時でも常に重力の影響を受け、更に寄せ以降では弓力を感じ射を行っている。
こうした状況下で、射の目的を果たすには、常にからだや道具類が一体となって、最も安定した状態を保ち続けなければならない。
それが筋骨の詰め合いであり、基本的にからだと道具類の十文字の構成である。
こうした時には、最も少ない力でその姿勢が保たれ、また動作の移行も滑らかに行われる。

射法八節は、1射の中を姿勢や動作や力の変化に注目して、8つの節に分けている。
これは、筋骨の詰め合いが八節の節毎に変化するからである。
つまり、或る節から次の節に至る過程は、元の詰め合いから新たな詰め合いへの移行過程であって、かつ無限に連続した小さな詰め合いの集合体ということが出来る。

これを実現するには、不言なる感覚しかない。
連続した詰め合いの変化をどれだけ細分化して感じ取れるかに掛かっている。
それは、最小の労力で滑らかさを感じるものである。

射は弓を押し引きして行われるものだから、一つの詰め合いから、次の詰め合いへの移行を伸び合いと言い、その伸び合いの過程も常に詰め合いが保たれつつ、無数で微小な新しい詰め合いへの変化ということが出来る。

初心者と熟達者では、無駄な動きや体や弓矢のブレ、動作の速度などに、詰め合いの良し悪しが見て取れるものだ。
心(の詰め合い)や眼球やまぶたを無駄に動かしてはいけない。
その元は、安定した呼吸の習慣から来る。
ところが、多くの者は矢を番える時でも弓倒しの時でも、弓の動く軌跡にさえ配慮が無く、無駄な所が動いている。

小笠原は呼吸だが、浦上系には呼吸が無い。
浦上は弓道の名に値しない、前時代的な弓術としての地位しか持っていないと思われる。

投稿: アチャチャ | 2011年1月10日 (月) 22時03分

仔細な能書きテクニックはいらんでしょ、射るとき射るっきりきゃできねえんだからさ。

投稿: 支店長 | 2011年1月11日 (火) 16時32分

自分の射法八節を書くこと。
そして、そのように考える理由や根拠を付し、詳しい運用の説明を加えること。

私は、巻き藁で工夫稽古を3年やったら、それが出来た。
逆に言えば、10年・20年・30年以上も弓をやっていてそれが出来ない奴は、的紙破りに現を抜かしていたということだ。

例えば、打ち起こしから大三への移行は、馬手は張りつつも弦に引かれて的方向に移動する。
これは、大三以降の引分けとも異なり、引分けな訳が無い。
この事が理解できないと、大三前後のことが上手く出来ない。

また、八節の写真を見ると、会と離れが同じ写真を使っている。
なぜか考えたことがあるかな。
会は8秒が良いとかの話もあるが、離れる瞬間が会だ。
持っていた8秒は引き分け。

本来、会と離れは射裡見性・悟りのことで、物事というのは人の思惑(会)とは無関係に変化していく(離れ)という理を含んでいる。
つまり、大きく引き分け続けていたら、自然に離れてしまった。
これが、本来の会と離れの在りようだ。

まあ、元は仏教というより道教の「極に至れば他方の極に転ずる」という原理から来ている。・・・不言流では、会と離れは一節。

弓道教本の半紙十段も、その殆どが、無為の離れを知らない。
悲劇だ。
そして、お前らは弓道を知らないその半紙にも遠く及ばない。
喜劇だな。

奮い立つものが、出て来い。


投稿: アチャチャ | 2011年1月18日 (火) 11時15分

アホタレ、能書き振り回したいんなら余所行ってやってくんろ。
坐禅は自分捨てる方向、あんたには無理です。

投稿: 支店長 | 2011年1月24日 (月) 16時26分

今日は、愛人兼恋人のパートナーさんがゆっくり眠っていたので、
私が炊き込みご飯を作ってしまいました。

マツタケが無かったので、エリンギとシイタケをメインに、
お肉や野菜、それにフノリも入れましたよ。
味付けは、マツタケのお吸い物とお醤油、みりんなどです。

おかづなんていらないくらい美味しいデース。

昨夜は、深夜まで1930年から1940年代のアメリカ映画を二人で観ていました。
アフリカの女王とか、オーケストラの少女とか、ビングクロスビーのGoing my wayでした。
好いね。
あの時代のは、やわらかな優しさがあって。

昨日は雨だったから、今日は弓も楽しもう。

投稿: アチャチャ | 2011年11月23日 (水) 08時06分

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