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2009年11月17日 (火)

良寛詩

落髪して僧伽と為り、食を乞ふて聊か素を養ふ、自ら見るすでに此くの如し、如何が省悟せざらん。
頭を剃って僧の仲間になった、乞食してようやくにその身を養う、自ら見るすでにかくのごとし、どうして悟らずにいられようかということです。出家とは世の中からはみ出して、しかも世の中の世話にならねばならぬ、悟ることだけがたった一つの仕事です、でなかったら生きているいわれはない。悟るとは人間いかにあるべきかの本来本当です、世間の中にあっては難事です、これをもって恩に報いるのです、外にはなんにもないです。

我出家の児を見るに、昼夜浪りに喚呼す、祇だ口腹の為の故に、一生外辺のぼう(矛に欠のしたに鳥=あひる)となる。
我れ出家どもを見るのに、昼夜みだりに喚き呼び暮らす、ただ口と腹のためだけに、一生を外辺のあひるとなるというんです。仏教はどうの悟りはどうの坊主はこうあるべき、喚き呼び暮らすばっかり、うるさったく空威張りとふりのどたばたあひる、まったくに良寛さんのころから、仏教のぶの字もなかった越後坊主ですか、今に至ってただもうだらしなく世俗と同じですか。

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