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2009年11月

2009年11月30日 (月)

良寛詩

日夕精舎に投じ、盥漱青蓮を拝す、一灯幽室を照らし、万象倶に寂然たり。
どっかのお寺に泊まったんだな、お寺は修業道場すなわち祇園精舎の末裔だが、一家団欒葬式稼業嘘八百の猿芝居ではないはず、それなりの環境を整え清々として、余計なものを排除する、れっきとした僧堂まで私有財産、葬式稼業の訓練所または観光地であると、そりゃ仏教死に絶えた、ただのでたらめ我田引水です。盥に行脚して来たその足を漱ぐいで青蓮、蓮のうてなにまします本尊仏を拝するんです、托鉢行脚の者拝宿は四時までにという他決まりがあった、わしの雲水のころはもうすっかりすたれて、お寺はただもう嫌悪感あらわにそっぽを向いた。部屋に通されて一灯かすかに照らし、ものみなともに寂然たり、自分というもののまったくないありさまです。
鐘声五夜の後、梵音林泉を動かす、東方漸くすでに白く、きょう(さんずいに穴)寥たり雨後の天。
五夜ののちは午前四時です、出家して四時に鐘を付く、こいつがいちばん参ったなあなんせそれまで面に日の当たるまで寝ていたから、ごーんとわっはっは家鳴り震動響き渡る、お経は六時から、夏はもう四時でも明るい、きょう寥空しい太虚です、太虚の洞然なるが如くという、雨が降っていたんです。

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良寛詩

偏へに愛す草堂の静、薄らく言に佳辰を消す、同調復た相得て、誰か主と賓を論ぜん。
ひとえに愛す草の庵の静けさ、しばらくここにの使い様は詩経国風にある、良寛の愛読書らしい、佳辰を消すとは頼りを消すほどでいいか、只管の消息吐く息吸う息ですか、すると同じような一人二人いて、やって来るとどっちが主でどっちが客だかわからない。鬼やんまが入ってきてホバーリングしてテレビを見ている、うっふっふそんなふうですか。
風は高し松千丈、霜冷ややかにして菊幾輪、手を青雲の外に把って、相忘るる寂莫の浜。
松に風あり、霜に菊ありですか、手を伸ばすと雲の外です、これ普通の人にはできないです、身心脱落自分というものがないんです、手に持ったお椀の中にころっと入っている、すると淋しいとか孤独とかいう識域が失せるんです、寂莫の浜じゃなく月を仰いで忘我です。実在不可思議。

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2009年11月28日 (土)

良寛詩

呼鳴復た何をか道はん、錫を飛ばして独り帰る来る。
ああまた何をか云はん、何を云っても届かない、届かないものこれ、錫杖をついて一人行く、帰るというしばらく帰る所ありと思う。
夫れ人の世に在る、汎として水上のひん(くさかんむりに頻)の如し、誰か心を其の際に容れん、縁有り因無きに非ず。
人間がこの世の中にあることは、広範偏在なきですか、水上の浮き草の如くです、浮世というんですか、それをだからどうの点と線を結んで最短距離して、滑稽ともなんと大真面目のなんのかの、袖刷りあうも縁という、因果必然という、もとこうあるんです、因果を辿ってもそりゃかいないとは云わんが、かきよごし尻切れとんぼの、科学というお釣りが来るのを、そりゃどーしようもないんです。
錫を振りて親故に別れ、手を挙げて城いん(門に切)を謝す、納衣聊か破れしを補ひ、一鉢知りぬ幾春なることを。
良寛托鉢行のいわれですか、たしかに身を養うことは城いん、街なか世の中に謝すんです、額に汗して働かぬものには一文もやらぬと、追い返す門にさえぬーっと鉢の子をつきだす、謝すこと満腔宇宙の如くして、一切因縁を絶つほどにかつがつ生き伸びるんです、わしのようなぐうたらどうしようもなしが、まったくつくずくそう思います、良寛正解です、一鉢知りぬ幾春を、すずめといっしょに托鉢して行く、そんなものは不用とまさに正解。

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2009年11月27日 (金)

良寛詩

良寛詩 全体に公開
2009年11月27日08:38

今日城下に出でて、千門に食を乞ふて之く、路み有識の人に逢ふ、道ふ子黄泉に帰せりと。
今日城下に出て千門、たいてい百門ぐらいでくたびれてしまうけど、托鉢して歩いて行った、そうしたら知り合いの人に出会った、之則が死んだと云う。
忽ち聞いて只夢の如く、思ひ定まって涙衣をうるお(さんずいに占)す、子とは少々より、往還す狭河のほとり(こざとへんに垂れ)。
聞いて夢のようであった、思い定まって涙衣をひたす、彼とはほんのがきのころから、西川の辺を行き来する。
ただ(口に帝)に同門の好きみのみにあらず、共にえん(火に因)霞の期あり、家郷より分飛して後、消息両りながら夷微たり。
同門のよしみだけではなく、えん霞隠棲して山水を愛するはなはだしと、同じくそんなふうであったというんです、家郷をあとにしてから、二人ながらなんの頼りもなかった。
此の揺落の候に当たり、我れを捨てて何処へ行きし、聚散元より分有り、誰か能く永く追随せん。
この揺落の候落ち葉の季節秋です、おれを見捨ててどこへ行っちまったんだ、もとより集散また分あり、いったいだればが永遠につきしたがうものぞ。

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2009年11月26日 (木)

良寛詩

楊柳翠旗を揺かし、桃花金鞍に点ず、市中佳辰に当たり、往来何ぞ連綿たる。
やなぎは緑の旗をうごかし、桃の花は金の鞍に散る、市中もっともよき時、往来は連綿として続き、春の美しい賑やかな風景ですか、柳は緑花は紅という、詩人また成句を連ねて人に訴える。
之を顧みるに相識に非ず。安んぞさん(さんずいに賛)然たらざるを得ん。
これを見るに知った人はだれもいない、さん然さめざめと涙を流すさま。生きていりゃぬくもりがあるかと、良寛さんはついにひとりぼっち。江戸からの墨客も忘れて月を仰いで突っ立つ。

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2009年11月25日 (水)

良寛詩

昔は常に歓言に接せしが、今は亡と存と為れり、三界何ぞ茫々たる、六趣実に論じ難し。
むかしは常に楽しい喜びの会話があったのに、今は死んだ人と生き残った人になった、三界は欲界色界無色会ですとさ、浮世あの世のすべてですか、六趣は六道に同じ地獄餓鬼修羅畜生人間天上です、実に論じ難とは実際です、どうしようもこうしようもない現実は、ただもう目の当たりする以外にないです、これを知るを仏という悟りというんです、三界なんぞ茫々たる、取り付く島もないんです、自分とはこれ坐禅とはすなわちこれです。
之を釈てて道路に就き、錫を振って人煙を望む、青松道をさしはさんで直く、宮観雲中に連なる。
釈という字を捨てるに当てる、ものを知るつまびらかにするとはまさに捨てることです、自我が関わればどんずまりおしまいです。錫杖はこれを引いて托鉢する、たった一つ糧のたのみであり人と付き合うことだった、青松をたばさんで道直くとはまさに実感です、だれがなにしてどうした政治が文学がという、あるいはまったく脇目も振らず、宮観ものみやぐらのような高い建物ですか、雲中につらなると貧富の差なにがなし、鉢の子の一椀ですか、一生不離叢林観音様ですか。

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2009年11月24日 (火)

良寛詩

故園ちゅう(躊の足ではなく田)昔に非ず、朝夜変遷多し、人に逢ふて朋侶を問へば、手を挙げて高原を指す。
故園は故郷ちゅう昔はむかし、世は移り事変わるわけです、これは今の世のほうがもっと激しいんですか、故郷といったって思い出のひとかけらもないそんな風景です、故郷喪失、むかしの川がない、命のないような淋しさ空白ですか、人に出会いだれかれを問えば、高原墓のある高台を指差す。たといなんにもなくっても木の葉一枚雲の流れるさえ故郷です、心無心にして、そこなわれることなし、無心とは心の無いことです、ないもの失われず、たった今さえこれ。
鳴咽して言ふ能はず、良久して涙漣漣たり、昔は同門の友たり、今は苔下の泉となる。
すなわちこういうことがある、死に別れ生き別れするんですか、わしのようなどうしようもない親不孝はた迷惑は、苦いというより折れ釘のように心身を穿つ、菩提を弔うとはどういうことか、生まれ変わり死に変わりを願うんですか、いいや仏まっさらです、たといどうなとこれっから先も傷つかぬのです、するとだれかれ親腹から蓮の葉っぱの露の玉のように。

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2009年11月23日 (月)

良寛詩

子は東都の東に去り、我れは西海の藩に到る、西海は我が郷に非ず、誰れか能く長く滞らん。
東都の東に去り、江戸に赴いたんですか、西海の藩は備中玉島の円通寺です、今も残っているそうです、観光資源ですか、曹洞宗の修行場は観光だけです、本山という仏教のぶの字もなく、格好をつけてらしくの坊主造りのほかなく、淋しい悲しい事件です。禅堂はいたずらにして静けさや涙すなるは出家せぬ尼、尼僧堂のほうがでたらめ破れほっかいですか。西海は我が郷に非ず、誰かよく長く滞まらんと、良寛は托鉢して歩き、清の国までも行くつもりだったらしいです、わしの弟子もぶち抜いた後、托鉢して沖縄までも行こうとて、開門岳から年頭挨拶してきたのをようやく呼び返した、天地あまねく故郷を知る、これ仏。
去去旧りょ(門に呂)に向ひ、杳杳雲端を凌ぐ、聊か一把の茅を得て、居を九上の嶺に占む。
去り去りて九りょ、故郷に向い、ようようとして、わけもわからず雲端をしのぐ、雲をかきわける底の雲水行ですか、九上山の五合庵は大正時代に模して作ったのがあり、今は御多分に漏れずの観光開発です、時に人を案内する、売店でたこあしのから揚げを買ってむしゃむしゃ食い歩き。

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2009年11月22日 (日)

良寛詩

何んぞ況や吾と子と、嘗て先生の門に遊ぶ、行くには即ち車騎を並べ、止まりては即ちいん(くさかんむりに因)筵を同じゆうす。
お前と俺と同期の桜ですか、先生は大森子陽という人、車を並べて行き、同じ敷物に坐ったという、同窓会というよりこれは同郷だから、終生の仲むつまじさですか、わしみたい川流れの馬の骨にはよくわからんです、同窓同郷ようやく疎し。天地空明花あり月あり。
風波一たび処を失して、彼此天淵の如し、子は青雲の志を抽んでて、我㋹は是れ金仙を慕ふ。
青雲の志とじきに幕末ですか、良寛は国仙和尚のあとにくっついて玉島の円通寺に行く。彼此天淵の如し、天地かけはなれる様子。

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2009年11月21日 (土)

良寛詩

之則の物故を聞く二首
人生百年の内、汎として中流の船の如し、縁有り因無きに非ず、誰れか心を其の辺に置かん。
之則ゆきのりは武左衛門という地蔵堂町の庄屋。人生百年のうちです、汎広大はてなきさま、中流の船の如しとはこれ人みなの実感ですか、背まーいこれっこっきりだってそりゃやっぱり同じこってす、因縁の有るというまた無きにしもあらず、そりゃほんとにそうです、だれかれくんずれほんずれじゃないです、誰か心を辺、寄り付く岸ですか、だからこうだおれはという、次にはまったく別の岸ですか、なにがどうあるべき、たとい無二の親友も明日は朝露。
昔二三子と、こう(皇に羽)翔す狭河の間、文を以て恒に友を会し、優遊云に年を極む。
むかし幾人か仲間を語らって、こうしょう、得意がって狭河の間、西川という地蔵堂を流れる川があった、広大無辺の仏の世界ではなく、文をもって付き合う文人才子の集まりです、優雅に遊んでここに年を極める、さようならというんです。良寛の書もあり歌もありなかんずく詩は抜群です、文人として右に出る者なし、おそらく永遠に残るでしょう、ほんとうにただ書く文字、王義之の他にそんな人めったにないです。

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2009年11月18日 (水)

良寛詩

悠々幾多時ぞ、枳刺高堂に生じ、薫蘭草もう(くさかんむりに奔の下だけ)に萎む、陽春たれか復た唱へん。
永平六代にしてようやく衰微すと、枳殻からたちが法堂に生え、せっかく薫草も野草の中に萎む、どうもこれ仏教といういったんは滅びたんですか、形骸ばかりが残ってついに、陽春たれかまた唱えんと嘆かはしい次第になった、臨済宗でも盤桂禅師、至道無難正受老人と継いで跡がないです。明治に到って北野元峰禅師が開示される、飯田とう(木へんに党)陰老師が独力で只管打坐を復興する、そういうことはあったんですが、他まったくのでたらめです、すでに命脈尽きたんですか。
巴歌日に岐に盈つ、呼さ(口に差)余少子、此の時に遭遇す、大か(たれに夏)の将に崩倒せんや、一木の支ふる所に非ず、清夜寝ぬる能はず、反側して斯の詩を歌ふ。
巴歌は野卑なる歌、悟ったさん困ったさんの大勢ですか、印可底などいって仏教のぶの字もないんですか、紙ぺら一枚をもって証拠とする、あるいは坐禅も仏も歯牙にも掛けぬ右往左往の、食えなくなってようやく慌てるらごら坊主ですか。ああ我れ少子、この時に遭遇す、何をどうしようたって圧倒的に力不足です、大かは大家です、崩壊しようとするのに一木じゃ支えにならぬ、清夜寝ぬるあたわず、転々反側寝返りをうつんです。自分というものがまったく失せ切って、理論上は不落安穏がなかんずくそうはいかない、良寛一生不離叢林は、がきどもを先輩にする対大古法です、なんてえまあこんなめちゃくちゃな、すげーもんだってただもう舌を巻く。

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2009年11月17日 (火)

良寛詩

良寛詩 全体に公開
2009年11月17日08:43

大いなる哉択法眼、竜象尚威を潜む、盛んなり弘通の任、幽も輝を蒙むらざるなく。
大いなるかな法眼をつまびらかにす、一言一句たがわざるなし御開山道元禅師、まったく他の追随を許さないです、普勧坐禅義から正法眼蔵その顕はすところは、もとより本来仏です、仏らしいこともこうすべきこうなるはずの推論、離れて遠くに見ることの毛ほどもなし、ただこれ盛んなり弘通の任、幽かそかに暗い見えない隅々まで照らし尽くして余りあり、今にもって最大の任、まさに第一人者です。ただし正法眼蔵を読んで悟ったの真意だのいう人たいていまったくのでたらめです、曲学阿世の徒どころではなく、正法眼蔵に涙のあとを残す良寛禅師の、そりゃもう爪の垢を飲んだって追っつかぬです、どうーしよーもない手前味噌は百害あって一利なす、無心ではなく有心を求めること不可、万里の波濤を超えに入宋沙門の、まるっ裸の不惜身命をまずもって見習うべきです、自分用なしから入って下さい。
輝を垂れて島夷に及ぶ、削るべきは皆すでに削り、施すべきは皆すでに施せり、師の神州を去ってより、
島夷我が国のことですか、仏のない仏道を知らぬ島夷です、そこをもって噂の仏教よこしまの修行を削る
いらんことはいらんことです、まわりくどいことをすればまわりくどいだけです、右の頬を打たれりゃ左を出せのあつかましさ、心して狭き門より入れと、狭い門から入ったら狭いっきり、過った宗教他愛なし、およそこれを宗教とは云わぬ、施すべきは皆すでに施せりと、広大の慈門もって示す、仏の掌です、すでに去りてより久しく。

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良寛詩

五家逓ひに鋒を露はし、八宗並びに駆馳す、余波つひに遙に引ひて、殆ど排すべからざるに至る。(漢字が二三違っています)
五家は臨済、い(さんずいに為)仰、曹洞、雲門、法眼宗の五つ、それぞれ秀でた人のあとに就くんですか、互いに交流があったあたりはよかったんですか、八宗は聖徳太子のころにすでに輸入していた、華厳、律、法相、三論、戒実、倶舎に、天台、真言ですか、なんでいまさらっていうんですが、本来本当のほかには余計です、諸門あってもとは同じといったって、五家八宗不都合です、いずれ良貨は悪貨を駆逐するわけで、習慣になりお布施稼ぎになり、たいていは仏教のぶの字もなくなって、仏教をてめえ自堕落の弁護に利用するだけとなる、悟ったといって開き直るものまたもっともこの類です、悟ったおれは色欲を離れ不動心などいうのを、もうろくじっさみたいに人に聞いて貰わなくてはいられん、こりゃ本末転倒もいいところで、自分があるゆえに為人のところが出来ない、基本わざがなっちょらんのです、もうひとつおまけに反省力〇、次第に偉くなっちまうのは、余波ついにひいて排すべからざるに至るの、五家八宗の成れの果てに同じく。
えつに吾永平有りて、真箇祖域の魁をなせり、つとに太白印を帯び、扶桑に宗雷を振るふ。
道元禅師がついにこれを得て帰朝して、越前永平寺に法幡を翻す、真箇祖域の魁となる、太白印です、お釈迦さま明星一見の事です、これなくんば仏教はないです、扶桑我が国に宗雷を揮う、天地同根どかん一発ですか。

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良寛詩

彼の大唐の盛んなる、斯の時より美なるはなし、衆を領し徒を匡し、箇箇法中の獅たり。
六祖禅師からいよいよ盛んに興る、もっとも美しい時であるという、衆を領し徒を匡す、まことにその通り、世の中の規範となることは、皇帝も補佐する官もまさにこれによる、箇箇法中の獅たりというのは、今もお寺には阿吽の獅子があって、そのまあ猛烈比類なきことは坊主というろくでもなしの、これが原本だとは到底思えぬほどに、猿芝居の法戦識やお布施あつめの得度式とはまったく無縁です、タイには七八世紀ごろの、国王が仏陀に会いに行くしきたりがあって、あるいは日本の鎌倉時代、執権が法を具現する、理想社会というのはまさにこれを云うんです、今の中国共産党は一神教のカリカチュアですか、どうにもこうにもがらくたです、はた迷惑お騒がせてめえの保身のためのほかにはなんにも出来ない、しかもそれを知らないんですか、最低です。
頓漸機を逗むと雖も、南北未だ岐を分たず、此の有宋の末に及んで、白璧肇て疵を生ず。
六祖と神秀上座の南北あい別れですか、頓に無生を知ることは自分を省みること不可能です、自分を省みて次第これをよくして行こうという愚かを知る、南北未だ岐を分たずとは、たとい頓悟するもついにこれを得る、朝打参禅暮打八百です、いわば毎日壊変です、これなくしてはただの人にならんです、日々思い上がりを撲滅して下さい、ついにものを得ずです。宋末に於いてようやく玉に疵ですか、いや歴史は何云おうがちゃーんとわしまで伝わったんです、それでいいです。

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良寛詩

大士此の世に方って、論を造って至微に帰す、唯道を以って任と為す、何れを是とし何れを非とせん。
大士というものが払底しちまったから、いくら良寛さんでも云うことなし、あっはっはまあそういうことだけれども人もとみな大士、大士でなければ命も命の喜びもないんです、ただもう生え抜きのそのまんま、仏これ仏教他にはなしです、論を造って至微に帰す、ノーベル賞でも貰いますか、一億総評論家と三十年前には云われて、今は観光観光閑古鳥ですか、せいぜいうまいものを食って云々、いずれを是となしいずれを非となす、なんせあほくさ。
仏法東に漸んで自り、白馬創めて基いを作す、吾師遠く来儀して、諸法頓に帰する有り。
白馬は白馬寺、中国最初の寺です、後漢明帝の代。吾師遠くより来儀してとは達磨さんのことです、ようやく頓に帰するあり、日本と同じです、百済から仏教伝来538嘘の始まりですか、ようやくにして道元禅師仏を伝える、頓知の法です、頓に無生を知る、百万だら仏教教義を並べ立てたとた、なんの仏にもならぬ、まずこれを知る、ことはじめです。

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良寛詩

諸人且らく喧ぐ勿く、我が唱導の詞を聴け、唱導自ずから始まり有り、請ふ霊山従り施かん。
喧騒そうじゃないこうだおれはというやつです、一般世の常平和と云えば戦争の、石を投げれば収拾のつかぬ波紋に干渉ですか、そいつをいったん止めて我が唱導を聴け、もう一つ石を投げるこっちゃないんです、唱導というひとりよがり手前勝手じゃないんです、独創や発明を超える、もとこのとおりにあるんです、霊山界上という、お釈迦さまの会下です、個々別々でありながら寸分も違わないんです、一器の水が一滴余さず一器にという名人芸まだるっこいこといらんのです、ねん花微笑して、我に正法眼蔵涅槃妙心の術あり、あげて迦葉に付嘱すと伝わる、そうして良寛に至る。
仏は是れ天中の天、誰れ人か敢へて是非せん、仏滅五百歳、人其の儀を二三にす。
もとまったく仏です、他にはないんです、これを受けるのにもとまったく受けるよりない、そこを間違うんです、だからおれはという、だからこうだだって云々、すでにして敗壊です、二束三文なんにもならずが却ってひけらかし、難しくなる、次第に偉くなる、一般庶民が拝聴して耳を傾けてやらねば存在できない、もうろくじじいの年を取るにしたがい介護が必要ですか、仏滅五百歳、人其の儀を二三とす、上座部に別け大衆部に別けする、十にわけ二十にわけする、なんの必要があって、学者食わんがための手段です、参禅をするももまずもってこれをかなぐり捨てる、ちらとも我利あっては涅槃は来ないんです、仏滅なんてありっこないです。ほうらこのとうりなーんにもなし。

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良寛詩

師は盛んに宗称を唱へ、資は随って之に和す、師資互ひに膠漆し、死を守って敢へて移らず。
師と資、これを助けるもの弟子信者ですか、新興宗教まさにこんな具合、旧宗教もそりゃたいてい同じ、宗派を作り数を増やしいい暮らしをし政治に参与する、それには宗称を唱え、もとなんにもない仏教をあるあるといって言いふらすんです、言葉の尾ひれにくっついて人数の右往左往、百害あって一利なしの、いわゆる宗教です、若しこれを卒業したら、人類も地球もんみなのお仲間入りが出来ます、平和を唱えて戦争、だれかれ説得して喧嘩喧騒、こんなもんが他にあるはずもなし、その心情説話たるや死に体です、燃えないごみの日に出すしかないどーしようもなし。坐ればわずかに宗称を免れる、膠漆にかわうるしですか、さらりと免れ去ること。
法にして若し宗を立つ可くんば、古聖たれか為さざらん、人々共に宗を立つ、ああ(口に差)我れいずくにか適帰せん。
法というもとまったくないんです、強いて云えば物理法則ですか、物理学は観察者を別の置くのでどうしても近似値です、もとこの我れがありよう記述に拠らんです、これを知る古聖すなわちお釈迦さまです、だれあってお釈迦さまです、良寛も道元さんもお釈迦さまと同じになる、記述じゃない身心もって証拠するんです、百人いれば百人宗を立つ、いよいよもってうるさったいのは、すでにしてみんな物真似です、きまってどこかに定規があると思い込む、花も鳥も雲もそんなふうではまったくないんです、良寛さんが一人っきり子供らと遊ぶしかないのはこれですか、ああ我いずくにか適帰せん、子供らへの対大古法はそりゃとんでもない現実です、よくまあ生涯。

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良寛詩

今自り熟らつら思量して、汝が其の度を改む可し、勉めよや後世子、自らク(りっしんべんに貝貝ふるとり)怖を遺すこと莫れ。
つらつら思量してという、坐るっていうことはこれなんです、けいげあるかすっとも触れるところへ目をやる、落ちるときに知るんです、いいですか汝がその度を改むべしと、どこまで行っても思い上がりを度すんです、自己改変とか壊滅です、ないはずの自分がどうしてもある、なぜかということです、勉めるしかないんです、おれはこうだからと開き直ったらもうおしまい、すっからかんです、く怖おそれる危ぶむという=人間ですか、すなわちく怖を残すことなかれと、く怖にうち任せるほかなし=生きているということですよ、坐の醍醐味はすなわちこの辺にあるんです、こうあるべきたとい大安心の問題じゃないんですよ。
風俗年々に薄く、朝野歳々に衰ふ、人心時々に危ふく、祖道日々に微かなり。
いつの世にもまさに人はこういう感慨を持つ、つまりはまさにこういうことなんでしょう、現代なぞ日本語も失われ、毎日犯罪の巣窟ですか、人心あるいはまったくまともではなく、サイレントマジョリティというその根底から軽薄ですか、あっはっは祖道日々にかそかなりと、なにさ道元禅師の法を守っていりゃ他のこといらんです、たとい地球滅亡もただ地球滅亡ってだけのことです、仏もとなんにもなしが損なわれることはないです。

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良寛詩

三界は客舎の如く、人命は朝露に似たり、好時は常に失ひ易く、正法亦遇ひ難し。
三界は客舎の如くと知る、人生という七転八倒を一つ抜け出して省みるにいいです、人間もとこれ如来です、人間以外の地球宇宙万物が如来の生命を謳歌しています、人間だけが自分に首を突っ込んであーでもないこーでもないの無様な歩きっぷりです、如来来たる如く、如去去れる如し、本来まったくに後先なしです。形質は草露の如くと、花の命はけっこう長いという、八十が百まで生きて何の結果をも見ず、ただもう銭金妄想に破れ衣つけて行く、人間の尊厳なぞこれっから先もなく、刺身にして食う魚のほうがよっぽど尊厳だ、こんなもの早く滅びたがいい、いえもう滅んでいるんですか、ただもう地球のお荷物ごみあくた。そうではない百歳のたった一日でもいい、目を覚まして下さい、正法とはまったくこれ以外にないたった一つ。
須べからく精彩を著けて好かるべし、手を換へて呼ぶを待つこと母かれ、今我れ苦んごろに口説するも、竟ひに好心の作に非ず。
悟ったさん困ったさんのおおかた悟りというのは、自分という散逸を一つにしたと思い込む、自我の延長天才だというがほどに、そんなわやな精彩じゃないんです、死んで死んで死に切って思いのままにするわざぞよき、自分まったく失せると二00%自分です、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありです、たった一つきりです、あれこれ取捨選択するすべてを包含する、自分用なしです、飢えた虎に身を投げ与えて下さい。ただもうこれ。まずもって乳離れして下さい、色色じゃない、なんにもないんです、ねんごろに口説するも取り付く島なし。

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良寛詩

名利わずかに心に入れば、海水も亦うるほし(樹のさんずい)難し、阿爺汝を度して自り、暁夜何の作す所ぞ。
名利わずかに起これば海水もこれをうるほしがたし、仏を得てどうしようこうしようの心です、ちらともあれば不自由です、もういっぺん初心に返って下さい、初心からして仏教を振りかざす、何物かになろうという心なら、これを捨てて当に初心から入門すべきです。仏たること以無所得元の木阿弥です、阿爺というせっかくおれがと、おれすなわち良寛でもお釈迦さんでもいい、いいえおれすなわちおれなんです、汝を度してより朝夕実になんにもならなかった、坐禅という手つかずではなしに、こうあらねばならぬの明け暮れです、さあ気が付いて下さい。なんでおれは届かんのか、はい名利の故にです。
香を焼ひて神仏に請ひ、永く道心の固きを願へり、汝が今日の如きに似ば、乃ち抵ご(てへんに吾)せざる無からんや。
毎日お経を上げて神仏に請うんですか、そんなことないです、毎日まったく違う自分=環境と向き合うんです、あるいは未だしあるいは忘我あるいは歓喜、たといどうあろうとも端に為にするんです、むちゃくちゃ妄想法界も挙げて無料奉仕です、仏に家に投げ入れて捨身施虎です、抵触けいげあろうともすべてをもってするんです、この身心あればわずかに是と。もとなんにもないものがなんにもないものを坐る。

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良寛詩

頭を聚めて大語を打き、因循旦暮を度る、外面は殊勝を逞しゅうして、外の田野のおう(区に女)を迷はす。
こりゃまあたいて坊主のありようです、今は大語するもなくただよったくって嘘八百のなんせえ反吐のなすりあいですか、みっともないといったらお寺に生まれたから説教で、親父が偉くっててめえもじきふんぞり返って、なんせいお布施稼業は殊勝な面して、じじばばのご機嫌を取り結ぶ、たしかに一定の人間がいる、信心深いというのもどっか化石化して、世の中の出外れみたい問題にならんですか、そーして物真似振りをもってありがたや、類は友を呼ぶ。でもなあこれ張子の虎はなんにもならんです、血の一滴もなく人を見殺しにして、ただもう無関心残酷です。若しや坊主の真似なんぞしないんですよ。
謂ふ我好箇手と、呼嘆何れの日にか醒めん、たとい乳虎の隊に入るとも、名利の道を践むこと勿れ。
ちらとも齧ってどんなもんだいと云う、たとい坊主なりとも無数の悟ったさん困ったさん、こりゃまたどうしようもないです、バットならホームランを打つ、刀なら首ちょん切る、かすっともかすらないのにおれはとふんぞり返り、首ちょん切られてもさっぱり気が付かない、いやはやこんなのばっかり、ああ何時の日にか醒めんです。乳虎の隊とは危険極まりないこと、孤俊イチローたった一人っきりです、これは名利のわざですが、仏はちらとも名利あってはまったく不成立です、名利色の道を捨てることから坐禅は始まるんです、どうしてうまく行かぬか、どこかに欲望があるからです。

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良寛詩

我れ彼の朝野に適くに、士女各おの作有り、織らずんば何を以てか衣、耕やさずんば何を以てか哺はん。
我れかの朝野に行くにはまさに托鉢しもってゆく風です、良寛に机上空論なし、形而上学なしの仏教、現実そのもので面白い。織らずんば衣るなし、耕さずんば食うなし、一日働かざれば一日食うべからずの旗を翻して、鍬を隠されて餓死して死んだ百丈慧懐ですか、良寛のユニークさなんてどこにもないです、だれにでも出来ます、それがなんで真似出来ないか。

今釈氏子と称して、行も無く亦悟も無し、徒に檀越の施を費して、三業相ひ顧みず。
魚屋は魚食ってみてから売れ、坊主は死んでみてから葬式しろって云ったら、教区ご寺院連中に睨まれた、もっともこれ基本技、行い清ますことをもって沢木興道宗ですか、宗門ごと身売りしていよいよもって坊主台無し、人に見せるための坐禅しかなく、らしいことは是本当は村八分、集団自閉症の末に、ついに命脈を絶って久しく、三業とはたとい我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん(怒り)痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔という、懺悔滅罪というこれ坐禅の根本です、口で云い約束ごとでは塵っぱ一つどうもならんです、人に寄食して死出虫稼業がほっときゃ偉くなるっきり、みっともないったらない。

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良寛詩

白衣の道心無きは、猶尚是れ恕すべし、出家の道心無きは、之れ其の汚を如何せん。
白衣は世間俗人です、道心なければ人格が成り立たないんです、遊び戯れてももとこれ人倫です、付和雷同でなく真の批評精神が必要です、ましてや出家に道心無しは、ただのナンセンスです、出家して求道心のないとは漫画にもならんです、坊主らごらどもの人間として不成立は、心理学病理学上の問題ですか、へんなのばっかりこんなんと付き合ったらいかんです、これその汚れを如何せん、実に良寛の時代からまったくどーしよーもないんですか。

髪は三界の愛を断ち、衣は有相の色を破る、恩を棄てて無為に入る、是れ等閑の作に非ず。
出家剃髪は恩愛を絶つ、出家もすこぶる曖昧なれば帰って難しいんですか、母親を免れえぬ人は悟りに縁遠いです、いったん世間情識を絶つ、有心から無心へです、これができないのはたとい坐禅を物扱いして、出家ではなく出世の手段のように思う、まったくどうしようもないんですが悟ったさん困ったさんのめったくさ、喚呼もって喧々諤々。棄恩入無為、真実報恩者これが基本技、いいですか仏の道なんです、なんにもないんです、なんにもないを知る、無覚の覚世の中のエリートの百生分の仕事を終えるんですか、イチロー松井がわずかに匹敵するがほどに、ものみなまさに現実。

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良寛詩

落髪して僧伽と為り、食を乞ふて聊か素を養ふ、自ら見るすでに此くの如し、如何が省悟せざらん。
頭を剃って僧の仲間になった、乞食してようやくにその身を養う、自ら見るすでにかくのごとし、どうして悟らずにいられようかということです。出家とは世の中からはみ出して、しかも世の中の世話にならねばならぬ、悟ることだけがたった一つの仕事です、でなかったら生きているいわれはない。悟るとは人間いかにあるべきかの本来本当です、世間の中にあっては難事です、これをもって恩に報いるのです、外にはなんにもないです。

我出家の児を見るに、昼夜浪りに喚呼す、祇だ口腹の為の故に、一生外辺のぼう(矛に欠のしたに鳥=あひる)となる。
我れ出家どもを見るのに、昼夜みだりに喚き呼び暮らす、ただ口と腹のためだけに、一生を外辺のあひるとなるというんです。仏教はどうの悟りはどうの坊主はこうあるべき、喚き呼び暮らすばっかり、うるさったく空威張りとふりのどたばたあひる、まったくに良寛さんのころから、仏教のぶの字もなかった越後坊主ですか、今に至ってただもうだらしなく世俗と同じですか。

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山頭念じゅ

是の日即ち新帰元(   )信士有って、既に縁に随って寂滅す、乃ち法に依って荼毘す。百年虚幻の身を焚いて一路涅槃の径に入らしむ。仰いで清衆を憑んで、覚霊を資助して念ず。
清浄法身毘蘆舎那仏、円満報身蘆遮那仏、千百億化身釈迦牟尼仏、当来下生弥勒尊仏、十方三世一切諸仏、大乗妙法蓮華経、大聖文殊菩薩、大乗普賢菩薩、大悲観世音菩薩、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。
上来、聖号を称揚し覚霊を資助す、唯願くは、慧鏡輝きを分かち真風彩を散ず。菩提園裏に、覚意の華を開敷し、法性海中に無垢の波を活動す、茶三てん(尊の寸を大に)を傾け香一路に焚き、雲程に奉送し、聖衆を和南す。

百年虚幻の身です、世間人にとってはそういう言い草であっても、参禅するとはまさにこれを知る、自分という破家散宅です、自分というなんかしら取りえが消えるんです、取り付く島もないんです、すると涅槃が見えます、ちらともあったら不都合です、」まるっきり見えなくなったら本来事です。四大に帰ると等しく地水火風に戻るとは、個人というものなし、十仏名はいわば人間らしいことへの執着ですか、最後のお別れですか、そうして次の世への手がかりです、仏の一端として生まれ変わって下さい、聖号を称揚し覚霊を資助すとはこれです。慧鏡とは法宝三昧です、自分というなければ世間宇宙鏡です。生きながら実感して下さい、仏教とはまさにこれです。輝きを分ち真風彩を散ずと、死に行くに従い色神が失せます、なんにもなくなる途方もない体験があります、透過して下さい。菩提園裏に覚意の華を開く、法性海中に無垢の波を活動すということがあります、仏です。道元禅師の正体ですよ、我が釈迦牟尼仏の声と姿とです。はいはなむけのお茶です。

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引導法語

生死去来一夢の中、忽然として醒覚せば自ずから円通、本源晦まさず天真仏、穢土浄邦異同を絶す。
以みるに(   )信士南か(木へんに可)の愛情尽きて、西方の妙蓮紅なり、念無念に至りて風清く月白し、法法位に住して海深く山高し、故に渓声山色般若を談じ、烏鳴雀躁真空を説く。正与もの時、末後の牢関に到りて、如何が重功を露さん。とつ。
脱退無依活卓卓、縦横自在威雄を振う。

これはずいぶん古い例を挙げたんですが、基本はつまりこんなふうです、人の葬式に自分の悟境を披露する、ただそれだけ、しかり死人と同じ我が宗旨です、故人生前の毀誉褒貶を延べたってそりゃ民間の弔辞です、仏として仏を紹介すりゃこと足りる、だが嘘ついたらダメです、悟りもせぬ真空の妙智というより、常識ごとらしいふうにお茶を濁すのはもっともぶしつけです、死んだ人に対して許されぬことです、生前の塵労を謝すに持っては仏のものさしをあてがうんです、でなけりゃ帰依僧和合尊の意味がない、葬式にならんです、乃至は千百の葬式を出そうとも、常に初体験です、死ぬ人はじめてなんです、花一輪を取ってするのも金輪際これっきりです。約束ごとがあって、はじめの詩は自分で作る、これ平仄あわせをやっていると不勉強のわしは3時間かかる、韻を合わせるぐらいでいいです、かっして後の一句は成句を使うんです、もっとも古くから詩句は洗練されていて、どのようないいまわしもちゃーんとすっきりしたのがあります。
老師の葬式のとき、坊主何人も(七仏師)法語を言う、へーえと感心したです、ふだん坊主どもの嘘八百が老師にはぴったりなんです、法であり仏であった人でした、すると坊主どもらしいようの成句がそのものずばり。

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回向

上来、念じゅ諷経する功徳は、新帰元(   )信士に回向す。伏して願くは、神浄域を超え、業塵労を謝す、蓮は上品の華を開き、仏は一生の記を授く。再び清衆を労して念ず。

神浄域を超えとは意識無意識にかかわらず、人間の取り計らいを止めることです、すでにまったく手が届かない、死ぬとはそういうことです、たましいだの神だの浄穢という問題じゃないんです、大悟するとは頓に無生を知る、ついでに業塵労を謝すんです、僧かなんと言うごったらすたらやっておったんだ、要らんことをまあ仏の目をくらますことばっかりって、なくなってはじめて気がつく。いっぺんに知る、仏は一生の記を授けるんです、はーい一巻の終わり、死んで花実が咲くものかというんでしょう、死ぬとぽっかり花咲くんです、和は花よりも美しいという、自分まったくなくなると、蓮は上品の花を開くんです、よくよく見てとって下さい。

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大夜念じゅ(踊の足ではなく言)

切に以んみれば、生死交謝し寒暑互いに遷る。其の来るや、電長空に激し、其の去るや、波大海に停まる、是の日即ち新帰元(   )信士有って、生縁すでに尽きて大命俄かに落つ。諸行の無常なることを了って寂滅を以って楽と為す。恭しく現前の清衆を請して諸聖の洪名をじゅす、集むる所の鴻福は、覚路を荘厳す、仰いで清衆を憑んで念ず。
清浄法身毘蘆舎那仏、円満報身蘆遮那仏、千百億化身釈迦牟尼仏、十方三世一切仏、大乗妙法蓮華経、大聖文殊師利菩薩、大乗普賢菩薩、大悲観世音菩薩、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。

お通夜のことです、切におもんみればとは同一です、人と同じになるとは妄想思想の内容ではないんです、坐禅は捨身施虎、自分という世間体思惑には一切無関係です、自分用無しにして坐って下さい、如来としてこうある生死交謝し、寒暑互いに遷るが実感です、あるいはそのほかにはまったくないんです、一生とはなにか、春は花夏ほととぎす秋紅葉冬雪降りて涼しかりけると。身命とはなにか、汚れなき心の水に澄む月は波も砕けて光とぞなると。歓喜これに尽きたるはなしを知って下さい。その来るや電長空に激し、その去るや波大海に停まる、如来の実感です、如去のすがたです、諸行の無常なることを了って寂滅をもって楽となすは、参禅のありようです。ある人地獄を問う、余答えて云く、身に科あるを地獄というと。ある人極楽を問う、余答えて云く、身に科なきを極楽というと。ある人仏を問う、余答えて云く、身心ともになし。身心ともになければ死人と同じではないかというに、しかり死人と同じこれわが宗旨なりと、至道無難禅師の語です、よくよく見てとって下さい。諸せいじんの洪名とは、かくのごとくこれみな自分自身なんです、あるいは自分というよこしまにするなくして、十仏名があるんです、大夜念じゅに即ちこれを唱えます。

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入がん(合のしたに龍)諷経

上来諷経する功徳は、新帰元(   )信士に回向す、伏して願はくは、入棺のいで、封地を荘厳せんことを。

棺桶へ入れるから荼毘に付してしまい位牌安置まで儀式があって、しきたりがあって坊主丸儲けの仕組みが、繁文縟礼式にできあがっていて、坊主たるものただもう必死にお経と所作とにしがみついて、外のことなんかこれっぱかしもないです、人の救いの弔いの悲しみもまるっきる吹っ飛んで、ただもう杓子定規のよってもって次第に偉くなる、あほらしいったら付き合っちゃいられんです、人間のくずだな。戒名は生前のおもかげ、リルケが云ったが人はその名の通りになるそうの、名前とおもかげをあるいは残し、人の願いとしては名前通りの人間以上を望むんです、そうして仏子になったんだから、仏の名です、三島由紀夫の戒名がテレビに出た、なんだこりゃ文学一辺倒みたいそれじゃ戒名にならない、そんなんなら三島由紀夫でいい、俗名は世の穢れ垢まみれです、せめても払拭してやるべきです、一に生前のおもかげ、二にその願い果たせなかったほどのこと、三に仏の名ですか、新帰元というもとに帰るんなら、秋露童子とか露柱明道とか元の木阿弥に人の世の過ぎるふうですか、一つだけ無断で戒名を紹介させてもらうと、松寒印心月夢想居士という、地方の名家の主でよく人のために尽くした、死ぬるころの風格が松の大木然としていたによる。印号は世間称号ですか、あるいは感じ入るところがあった坊主がおくりなする。信ずるから信士信女、一応羅漢果を証拠したによって居士大姉なんですが、まずはそんなこととまるっきり無縁になっています。

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葬式8受戒

衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じゆうしおわる、真に是れ諸仏の子なり、南無大慈大悲哀みん摂受。

お寺い生まれて小学校何年かのころ、得度式があって親族檀家集まって師匠たる父親に頭を剃って貰う、するとかくの如くの位大覚に同じゆうしおわる、まことに是れ諸仏の子なりと、格好思い込みだけのことそりゃ人格を破壊する、修行も知らず仏も知らず、嘘八百ばかりの肉系相続です、求道心もなければ、出家したくてもできない情けなさ、せっかく純粋まっすぐであっても、じき腐れて付和雷同の集団自閉症です、おおかた病理学の対象にしかならぬ。仏戒を授かるとは、人間芦の成長点です、かくの如くあるとたとい今は知らずとも、必ず得る、もと大海の中にあって水を求める哀れ、痛切に大慈悲を思うんです、イチローの200本安打大リーグ新記録への道というドキュメンタリーをやった、実にこれもしわしが印下するとしたら孤俊イチローだと思ったです、年はわしのせがれと同じだが、実際というものとものがぶつかりあって生死のきわですよくやりおおせている。日米野球の恐怖と戦ってついに忘れる、なにか齟齬があると必ずふりかえる、坐禅とは自ずからこういうものです、ただこれ現実です、ついに打法に完成はないと知る、一瞬ごとに変わる、これ仏道極妙の法則です、師家禅師だの無数の悟ったさん困ったさんとは別世界のすがたです、よくよく見習って下さい、イチローは野球です、人天の大導師という帰依僧和合尊、あるいは仏を志すもの畢竟如何、出家はた迷惑断じて自分を許されんのなら、まずもってそこが出発点です、自分というこのものは決してごまかされんです、ついにはなんにもないものになりおわって下さい、かつがつに存続の分があるんですか。

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葬式7血脈授与

此れは是れ、仏祖正伝菩薩大戒の血脈なり。仏仏祖祖嫡嫡相承して、我れに到る、我れ今新帰元(   )に授く、汝今身従り、仏身に至るまで、頂戴護持し上るべし。
血脈というのは過去七仏といわれるお釈迦さま以前の仏から、わしに至る嫡嫡相続底86代を、受ける人の血をもって書き記すのでこの名がある。継法の儀式はしまいに千拝遙拝を含めておうよそ一週間かかる、たいへんな事業だが紙きれ一枚じゃ、どんなに荘厳にしたところで猿芝居だ、宗門のしきたり二束三文、だれもその内容を知らず、お釈迦さまにそっぽを向き、道元禅師に後足で泥をかけして、お寺に生まれたから説教で、得度したから出家で、継法したから大和尚でという、嘘とはったり空威張りだけの、三つの子供にも見破られる他愛なさです、ついに宗門坊主地に落ちて、花を飾っただけの、空中散布の、好きな音楽葬をといって、葬儀屋の儲けになるきり。釈迦牟尼仏明星一見の事、摩訶迦葉ねん(てへんに占)花微笑、阿難倒折背刹竿著以来、今に至るまでだれ彼まったく同じに相続するんです、だれ彼命を賭けることなければ得られないです、すべてを捨てることあってはじめて門戸です、慧可大師断臂摂心の如くに、自分の命を切って差し出す覚悟がないと無理です、たとい印下底何人もいやしないといったって、これが基本わざです、これなくば引導を渡そうにもなんにもなりはせんです、浮かばれないといってぶん殴られた坊主もいた、今はただもう胡散臭く死出虫稼業の、ぜにやるから早く去れというだけです、人の死を荘厳する手段なし、なんという情けないこと、たとい大法を継ぎ得ずとも、お釈迦さま道元禅師に跪拝する、格好付けごまかしではない心が必要です、でなけりゃ葬式の意味がないです。いじましくどっ穢いだけです。どう糊塗したっって露われるよりなく。

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葬式6受戒

次には応に十重禁戒を受け上るべし。
第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不貪淫戒、第四不妄語戒、第五不こ(酉古)酒戒、第六不説過戒、第七不自讃き(股の月ではなく白にエ)侘戒、第八不けん(樫の木ではなくりっしんべん)法財戒、第九不しん(目に真)い(圭のしたに心)戒、第十不謗三宝戒是れなり。
上来、三帰、三聚浄戒、十重禁戒、此れは是れ先仏の護持したまう所、嚢祖の伝来したまう所なり。我れ今汝に授く、汝今身従り仏身に至るまで、此の事能く護持し上るべし。

得度式の時は、汝今身より仏身に至るまでこの事能く保つや否やと聞かれて、よく保つと両三度答える。死人に口なしで、なに死んだものは仏になっているで慌てるこたないと、わしが葬式ことはじめに老師が云った、わっはっはそういうわけたってとやこう滞る。十重禁戒のうち外はどうにか守れるかも知れぬ、だは第一不殺生戒はまったくこりゃ無理だ、草木も命だし大腸菌も命だ、こんなん保ったら一瞬も生きていかれんどうしようたって、親類縁者集まっている、鳴り物入りの出家も否といったらおしまいだ、よく保つと嘘をついてすませた。後年寺を持って駒澤の学生が来た、おれは大学四年間これが気になっていたという、第二以下はなんとかなるかも知れん、でも第一不殺生戒だけはどうもならん、教授に聞くと妄りのい殺すなかれ、妄りに犯すなかれだと云った、だがおれはそんなこっちゃ到底納得できん、お釈迦さまは人に守れんような嘘を教えたんかと云う。よくみてみろとわしは云った、第一不殺生戒第二不偸盗戒〜いいかこりゃもとっからこうあるんだ、人の決めたこっちゃないと、そうかと云って彼の体倍にも膨れ上がる、かれこれ悟るところがあって帰って行った。番たびわしはこの話だが、理屈はどうであれ若し仏を志すもの、たとい十重禁戒と真正面に対決して下さい、うやむやにしたら一生有耶無耶です。いわゆる山上の垂訓とはまったく違うんです、守って守りきれぬのを無理強いという契約宗教じゃないんです、いいことしいだからいいんだというのは、不こ酒戒を破っています、思想の酒に酔うこと共産主義の如くにして、はた迷惑は拷問密告政治ですか、魔女裁判というろくでもないこと、よくよく見てとって下さい、人間押さえ込んだらだめですよ、参禅なんでもありありは、まさになんでもありありの自分100%をもって、ついには十重禁戒等の犯しても犯され得ぬことを知るんです、自分というまったく無いんですよ。

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葬式5受戒

既に仏法僧の三宝に帰依す、次には応に三聚浄戒を受け奉るべし。
第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒是れなり。

身心のおのずからこうであることを知る、律とはものごとを邪にふしだらにするなということ、ものごとはもとそれがありようの如くにある、我侭にすりゃ我侭が跳ね返ってくる、我慢というわがままの裏返しです、律するこうなくてはならぬというとき、かえって摂律儀戒をそこなうんです、摂善法戒も同じく、不思善不思悪正よもの時那箇かこれ明上座が真面目と、六祖禅師が道う、明遍体汗流れ、当下に大悟泣涙作礼して問うて云く、「上来の密語密意の外、かえって更に意旨有りや。」と、六祖云く、「我れいま汝が為に説くものは、即ち密にあらず、汝若し自己の面目を返照せば、密はかえって汝が辺に在らん。」と。律として善として仏教としてどうこうせねばならんというのは、自己をかえりみればかえっておのれが辺にありというのです、よくよく見てとって下さい。ただこれ手放しで摂衆生戒なんです、自分というよこしまを去って下さい、実にまったく外にはないんです。只管に打坐につとめて下さい、三聚浄戒を知るたった一つの方法です、修証一如です、強いて云えば因果必然を知るんですか。

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葬式4受戒

すでに身口意の三業を懺悔して大清浄なることを得たり。
次には応に仏法僧の三宝に帰依し上るべし。三宝に三種の功徳有り、いわゆる一体三宝、現前三宝、住持三宝是れなり、一たび帰依する時、三種の功徳悉く皆円成す。
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。
帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊。
帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。
帰戒を授与すること此の如し、今より以後如来至心等正覚は、是れ新帰元(   )信士が大師なり、更に余の邪魔外道等に帰依せざれ、南無大慈大悲大哀みん故。

大清浄とは自分を観察しないんです、身口意の三業なにをもってか悪業となす、参じ尽くして下さい、どうあったって身口意から逃れることは不可能です、しかもただちにこれを免れている、人間以外鳥もけものもみな大清浄です、虫けらから花から空の雲までまったくの大清浄です、人間だけなんで穢れ汚れるんですか。
一たび帰依するとき三種の功徳悉く皆円成すと云い終わって、仏性水といって水を注ぐ、これ仏教以前からの水です、唐草模様や火炎式土器の水の溢れ返るさまを映し出す、生きとし生けるもの、いえものみな水をもってす、無心これです、大清浄の卍ですか、よくよく思慮みて下さい。
坐禅はこれ通身帰依です、そのほかには微塵もないんです、みなまた思い違えています、以無所得の故に修菩薩行です、うたた悟ればうたた捨てよ、まさにこれ仏恩を報ずるにてあらん。南無帰依仏です、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけり。ただほんとうにこうあるんです、帰依僧和合尊と、仏にあらずは和ということを知らんのです、ものさしをあてがっての狂信ですか、鯨は人間に近いから食うなとか、労働のみ価値ありの共産党とか、結果すでに歴史の証明するところです、早く人間も地球ものみなのお仲間入りをして下さい。帰依仏無上尊と死って帰依仏竟です。
如来来る如しただよく相続するを主中の主と名ずく、愚の如く魯の如くして只管打坐です、更に余の邪魔外道等に帰依せざれ、南無大慈大悲大哀みん故に、残念ながら余の邪魔外道等になんの影響も受けぬ人をわしはあんまり知らんのです、哀れですか。

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葬式3受戒

夫れ新帰元(   )信士、帰戒を求めんと欲せば、先ず当に懺悔すべし。右両懺有りと雖も、先仏の護持したまう所、嚢祖の伝来したまう所の懺悔の文有り、罪障悉く消滅す、吾が語に随って之を唱う可し。
我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん(目に真)痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。
我という罪障悪業の集大成です、みな貪り怒り愚かしさによる、これ身口意に従いよって起こる、一切を今我は懺悔するというのです。我という自分というものないものをあるとして架空の一生です、仏でありぜんたいであるものを独り占めする、貪り怒り愚かさです、有色声香味触法です、有心といういつか知らぬ間に自分という後生大事です、これを元の木阿弥に返す、ぱーらみーたー此岸から彼岸に渡る、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見語薀皆空、度一切苦とあるように、これが仏教の根幹です、人間としてものみなとして他にはないんです。右両懺ありと雖もとは、只管に打坐するをもって正門となすとあるように、懺悔は坐禅による、墓には先ず無理です、我昔所造諸悪業と、痛烈に思い知ることただもうなんにもなしのまっしぐらに坐るよりないんです、公案だの無事だの手段を用いるとき思い上がるだけです、なんていう思い上がりはた迷惑であったか、血を吐く思いに懺悔する、ようやく坐禅の始まりです、彼岸に渡って下さい、無色声法味触法です、身心脱落してはじめて本来を知る、寂滅安楽です、戒を第一安穏功徳の諸住所となす。

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葬式2剃髪

葬式は剃髪して仏弟子となることから始める、仏弟子となって戒を授かることは、生まれ本来生まれる以前からの姿に帰ることです、真人間になることですか、他の宗教は迷いの上に迷いを載せるだけです、すでに仏弟子として戒名を持つ人はこの項を省く。
剃髪のゲ
流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者。三界に流転するあいだは、恩愛を絶つことはできない、恩を捨ててなんの為にもせず、真実の恩に報いる人となって下さい。
剃除鬚髪、当願衆生、永離煩悩、究竟寂滅、(三度となえる三度目を安楽)髪を剃り落として、願わくは衆生とともに、永しなえに煩悩を離れ、ついには寂滅すべし。安楽なるべし。
三つの子供までは仏そのものに近く、寂滅相を示して安楽です、よくよく見てとって下さい、物心つくに従い恩愛不能断ですか、いつのころからかなぜにそうなったかわからぬうちに迷い出して、六道輪廻たらい回しの流転三界中です、七歩歩んで天上天下唯我独尊、お釈迦さまの降誕会です、願くは元のありように戻して下さい、それ以外に人生の希求としてないことを知って下さい。寂滅と安楽と。

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葬式1

人の死ぬるやその言や良しという、生きている間は曖昧模糊、妄想観念が皮被って歩く如き、年取るにしたがってがらくた出し殻というのが、あるいは相場でさっさと荼毘にふせすっきりするという、死ねば仏です。人間仏から生まれて仏に帰る、新紀元なんのだれかれと戒名するのはこれです、戒名です俗名じゃないです、戒名のつけ方も知らない坊主どものただもうゼニカネ貼ったりじゃ情けない、引導をわたすなんてものじゃない、さっぱり浮かばれぬ、ただこれ死体はほっておけぬので、死出虫稼業なんとかしてくれという、だったら葬儀屋だけでいいです、葬儀屋のらしい嘘八百に空涙ですか、人間の尊厳などからっきしも残ってないんですか、どんな人間でも死に顔は仏、わしは坊主になってたった一つよかったと思うのは、人の死に顔に出会えるからですといって、あるとき棺桶の蓋を開けると、猛烈な暑さで二目と見られぬほどに膨れ上がる、さーてさて。死人に接するにはてめえも死人、魚屋は魚食ってみてから売る、坊主は死んでみてから葬式しろ、うっかり坊主組合に演説して総スカンを食った、わっはっは馬鹿どもめが。

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総回向

菩薩清涼の月は、畢竟空に遊ぶ、衆生心水浄ければ、菩提の影中に現ず。〜翼(こいねが)ふ所は、こう(口広)劫の無明は、当下に消滅し、真空の妙智、即ち現前することを得、頓に無生を了じて、速かに仏果を証せんことを。

自分という架空のものを眺め暮らす坐禅を止めるんです、真空の妙智とは絵に描いた餅じゃないんです、なんにもなくなったなんぼでも坐れるという、そういう安楽椅子じゃない、担いで帰れといわれる所以です、それをもって悟った人にゃわからんだろうがおれはという、醜悪です、それがわからんという大恥さらしです。世の中すさんで信心失せる、仏教もお寺もないがしろににされる云々は、そう云っている坊主が仏教のぶも知らんからです、畢竟空に遊ぶをもって、衆生の心水を呼ぶんです、空に遊ぶとは遊んでいる覚えがないんです、自覚がないことをもって正等覚です、それゆえに自信もなく思い上がる寸分もあれば崩壊です、行けば行くほどに取りえなし、どうしようもこうしようもないその日暮らしですか、明日食うものもないんですか、みっともなくだらしなし。こう劫の無明が当に消滅することを知らんのです、無明妄想めったやたらの中にあって自覚症状がないんです。頓に無生を了じてより久しくして、妄を除かず真を求めず、絶学無為の閑道人ですか、能無し用なしもって取り付く島もなし。

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正忌回向−2

一周忌三回忌という年忌の回向です、世間因縁のためのお参りですか、それとも心の届く手向けですか、生き残ったものはこれしか出来ないという祈りですか、なくなった人に出会うのですか、虚空そのものですか、虚空とは何か。浄極まり光通達すると、有心から無心に変わるんです、坐っても坐っても手放すことができない、よくなった悪くなった悟ったどうだと云って、見る自分と見られる自分の二分裂ですか、単純を示す禅にならない、積み木崩しの賽の河原をやっているんです。浄極まりという絶対です、自分を見ないんです、するとなーんにもない、光通達するという、心が無いんです。これを死ぬるとまったく同じですか、生きながら死ぬるんです。仏道です。死んで死んで死にきって思いのままにする業ぞよき、死んだものは生き返らないんですよ、到りえ帰り来たってとふんぞり返らない、でなくば思いのままにはならないんです。却来して世間を観ずれば、猶ほ夢中の事の如しの実感です、難波のことは夢のまた夢、ぱーらみーたー彼岸に渡り切るんです、これなくば仏教とは云えず、法事も葬式もあるはずがないことを知って下さい。年忌の本人とまったく同じです、するとお経がお経になります、葬儀屋のいう究極のセレモニーなどいう嘘とゼニカネの穢れじゃないんです。伏して願うんです、生死の流れに処して、馬麗樹独り滄海に輝きと、生死海中の一宝樹として我を観ずるんです、六道輪廻を免れ出る願いそのものです、桂綸ひとり碧天に朗らかにと、若しいまだしならばかつてこんなに悲しいことはないんです、悲しみ極まれば朗らかにです、すると今生契はずんば次の世必ずということがある、年忌回向とはまさに普ねく世間を導き導かれて、同じく覚路に登らんことをと以て示すんです。

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正忌回向

浄極まり光通達し、寂照にして虚空を含む。却来して世間を観ずれば、猶ほ夢中の事の如し。仰ぎ翼くは三宝、俯して照鑑を垂れたまえ、家門今月今日伏して〜の辰に値ふ、虔んで香華灯燭を備へ、経呪を諷じゅ(踊の言べん)す、集むる所の功徳は、覚霊を資助し、封地を荘厳す。伏して願くは、生死の流れに処して、り(馬に麗)樹独り滄海に耀き、涅槃の岸に跪して、桂綸孤り碧天に朗らかに、普ねく世間を導いて、同じく覚路に登らんことを。

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本尊上供

上来摩訶般若波羅蜜多心経を諷じゅ(踊の足を言)する功徳は、大恩教主本師釈迦牟尼仏、高祖承陽大師、太祖常済大師に供養し奉り、無上仏果菩提を荘厳す。伏して願くは四音総て報じ、三有斉しく資け法界の有情と同じく種智を円にせんことを。

本尊さまに供える、お粥にお茶に密湯をですか、いいえあなたそのものを供えるんです、飢えた虎ですよとって食われてしまって下さい、仏道をならうというは、自己を習うなり、自己を習うというは、自己を忘れるなり、もともと自分というものには用無しです、自分という架空をもてあそんでも、もてあそぶという余計ものがあるだけなんです、いいことしい哲学宗教あるいは道徳の類ではないんです、そういうものにたずさわるのを恥と知る心が必要です、なんでおれは六道輪廻を免れえないんだという痛恨の反省です、これなくば仏教とは云えんです、悟ったの大法を得たのいうよこしまものとは違うんです、即今お釈迦さまです、謂ゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり釈迦無尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏共に仏と成る時は必ず釈迦尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏といふは、誰といふぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。すなわちこれ本尊上供です、無上仏果菩提を荘厳する以外にまったくなんにもないことを知る、仏弟子えす、邪道外道その他大勢じゃないんです。四恩とは父母国王衆生三宝の恩ですとさ、すべての恩個々別々の恩より深くも浅くもなく報ずるには二ールバーナです、彼岸に渉る道摩訶般若波羅蜜多ぱーらみーたーしかないんです。三有という、欲有色有無色有ですとさ、あらゆる一切をもって四智円明の月冴ゆる、無覚の覚です、日々是好日です、七転八倒です、生活とは仏そのものなんです。

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普回向

願はくはこの功徳を以って普く一切に及ぼし我らと衆生と皆ともに成仏せんことを

お経を読む功徳はたとい何をしようと同じです、ほーほけきょと鳴くうぐいすはたとい子孫繁栄のためにするといったってほーほけきょです、端に為にするんです、なにより証拠にほーほけきょと聞く我れらが喜ぶ、なんで喜ぶか、天地雲水に聞いてごらんなさい、ただこれ是というんです。ものみなあまねく一切に及ぶんです、これを知る、願はくはなんです、願いとは結果を知らないんです、たといお経も行きて帰らぬ無心です、功徳を礼拝敬忝すべしという、省みる穢れを知らないんです、すなわち人みなものみなの目的は成仏です、妄想めっちゃくちゃもたぬきもみみずも即今成仏です、たった一人成仏すれば世界宇宙成仏です、これを知るが普回向です、回向とは人みな回向です、妄想世迷いごとあるなしにかかわらず、植えた虎に身を投げ出すいわれ。

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法要

法要とは法の要です、大法そのものとは仏丸出しです、田んぼの蛙より悪いと道元禅師の云われた坊主お経のだみ声じゃないです。蛙の鳴くように鳴いてみろ、うぐいすのほうほけきょと云ってみろというのが、因みにわしらの弟子に与える課題です、趙州無字の公案ですか。威儀即仏法という、らしくの物真似じゃない、無理やりしんこ細工の猿芝居じゃないんです、本山修行が人格破壊の半端物しか生まないのはまったく情けないことです、仏教のブの字もない空威張りはったりのいじめ僧道ですか、つまらんことです。役者にゃまねのできないことがたった一つあります、自分を省みないんです、省みる自分がない、無心です。箇の無縫塔という、法要とはこれをもってする、端に為にするんです、究極のセレモニーという葬儀屋は有心です、死んだ人間に届くわけはない、すなわち嘘です。バッハもモーツアルトも嘘ですと云い切れる法要です、仏法僧の僧にしかできないことです。

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