« 2009年7月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年8月

2009年8月27日 (木)

無門関

禅箴

規に循ひ矩を守るは無縄無縛、縦横無碍なるは外道魔軍、存心澄寂は黙照の禅。恣意忘縁は深坑に堕落す。せい(りっしんべんに星)せい不昧は帯鎖担枷。思善思悪は地獄天堂。仏見法見は二鉄囲山。念起即覚は精魂を弄するの漢。ごつ(一にしたにル)然習定は鬼家の活計。進むときは則ち理に迷ひ、退くときは則ち宗に乖く。進まず退かざるは、有機の死人。且らく道へ、如何が履践せん。努力して今生に須らく了却すべし。永劫に余おう(歿のつくりを央)を受けしむること莫れ。

はいこのとうりですよ、ひっかかり屈託あるは面白うもなし。さよなら。

| | コメント (0)

2009年8月26日 (水)

無門関

款によって案を結しは、款は法律の条文案は判決文、微塵もゆるがせにできない、近似値なんてものないんです、仏祖に南北の別なし、はじめからしまいまで剰語、よけいこと無駄ことなし。脳蓋をひっくりかえして目ん玉を引っこ抜く底のこと、かれこれ能書き仏教云々の取り付く島もないんです、人そのものと同じです、他人に追随することがない、虎の威を仮る狐の弁じゃない、使徒行伝感激だ右へならえってことこれっぱかしもないんです。ちらともこれを知り道にいそしむ者ならば、機縁に触れて落処を知るんです、迷妄の皮を幾枚剥いでもまだ残る如き、ついには門に入るなく出ずるなくただもうまったくにこれ、これとさし示すなくに坐すんです、坐禅何段だの階級査定だのろくでもないものはいらんのです、大手をふるって関を通って、関所の番人などには目もくれず、あっはっは世の中大形に出来ていますか、自分という関所の番人はさーてどうなりましたか、なにまだいるんだってそうつはまあお気の毒に、飴でもくれてやりましか、いえ花粉症ですはーっくしょい。玄沙師備また白雲についてはよーもわからんとさ、無門は解脱の門、自分という架空のものにどのくらい苦しめられていたか、地獄餓鬼畜生六道輪廻のたらいまわしからにようやく解脱して仏です、無意の人です、地球ものみなのお仲間入りです、明明として知るにただこれ者箇、なんとしてか透不過なると、もとまったくにこの中にあるんです、道を求めること水の中にあって渇を求める如く、赤土持て牛ねいwぬる、赤土に牛乳を塗るようなわけのわからん無駄っことです、早くこれ無門を鈍置す、かすっともかすらないんですよ、若し透り得ずんば自分という形骸です、もとないものに振り回されているんです。涅槃心は明らめやすく、涅槃というらしいものを得るのはたやすい、そうじゃない個々別々です、差別智という元の木阿弥に住むのは難しいという、国家安泰はいこれ。

| | コメント (0)

2009年8月25日 (火)

無門関

また白雲道はく、明明として知道に、只だ是れ者箇、なんとしてか透不過なると。いんもの説話、また是れ赤土もて牛ねい(女に爾)をね(てへんに茶)る。若し無門関を透過せば、早く是れ無門を鈍置す。若し無門関を透り得ずんば、また乃ち自己に辜負す。所謂涅槃心は暁め易く、差別智は明きらめ難し。差別智を明きらめ得ば、家風自ずから安寧ならん。
時にじょう(糸へんに召)定改元、解制の前五日、楊岐八世の孫、無門比丘慧開、謹んで識す。

| | コメント (0)

2009年8月23日 (日)

無門関

後序

従上の仏祖垂示の機縁、款に拠って案を結し、初めより剰語無し、脳蓋を掲翻し眼晴を露出す。肯て諸人の直下に承当して、侘に従ってもとめざらんことを要す。若し是れ通方の上士ならば、わずかに挙著するを聞ひて、便ち落処を知らん。了に門戸の入る可き無く、亦階級の升る可き無し。膂をふる(てへんに卓)って関を度って関吏を問はじ。あに見ずや玄沙の道ふことを、無門は解脱の門、無意は道人の意と。

| | コメント (0)

2009年8月22日 (土)

無門関

四十八、乾峰一路

乾峰和尚因みに僧問ふ、十方薄伽梵一路涅槃門。未審し路頭いずれの処にか在る。峰柱杖をねん(てへんに占)起し、画一画して云く、者浦に在り。後に僧雲門に請益す。門扇子をねん起して云く、扇子勃跳して三十三天に上って、帝釈の鼻孔を築著す。東海の鯉魚打つこと一棒すれば雨盆を傾くに似たり。
無門日く、一人は深深たる海底に向って行いて、簸土揚塵し、一人は高高たる山頂に立って、白浪とう(稲ののぎへんのかわりにさんずい)天す。把定放行、各一隻手を出して宗乗を扶竪す。大いに両箇の馳子、相ひ撞著するに似たり。世上応に直底の人無かるべし。正眼に観来れば二大老、惣に未だ路頭を識らざる在り。
じゅに日く、
未だ歩を挙せざる時先ずすでに到る、未だ舌を動かざる時先ず説き了る。
たとい著著機先に在るも、更に須らく向上のきょう(穴かんむりに敷)有ることを知るべし。

越州乾峰は洞山良かい(にんべんに介)に継ぐ。十方薄伽梵十方の諸仏は一路涅槃門です、ほかまったくなしなんにもなしは死に体じゃないんです、知らぬもっとも親切は大火聚の如しビッグバンの如くですか、もとなんにもなしは200%の現実です。いぶかし路頭いずれのところにかある、どこへ向って鉄砲を撃ったらいいんだという、どうもたいてい学人は先ずもってこれです、なんかしなくちゃいられない、飢えた虎に食われろってのは、ただもうでたらめむちゃくちゃです。ノウハウが欲しいいいことしいの虎になれ、天上天下唯我独尊は、どうあってもこっちからそうなろうとする、近似値は得られるような気がする、作り物は壊れものの積み木崩しをさんざくた繰り返す、ついにこれの役立たずを知る、自分が死ぬんです、するともとっからあるものが現前する、ことは単純なんですがあっはっはなかなかどうして。雲門も乾峰も未だ路頭を知らざるありと、路頭とは何、簸土揚塵しちったあ塵を舞い上げ、白浪とう天す、雨ぐらい降らせてやろうかという、能書き申し訳するには三十棒、一転語あったらどうぞ、なきゃぶっ殺されるよ、歩を出す前にすでに至るこれ、説く先に終わっているこれ、虚空というビッグバンの広大無辺は停滞なしですよ、故に以って向上の一路まるっきりあとかたなし。

| | コメント (0)

2009年8月21日 (金)

無門関

四十七、兜率三関

兜率悦和尚三関を設けて学者に問ふ、撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性甚れの処にか在る。自性を識得すれば方に生死を脱す。眼光落つる時そもさんか脱せん。生死を脱得すれば便ち去処を知る。四大分離して甚れの処に向ってか去る。
無門日く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以って随処に主と作り、縁に遇ふては即ち衆なるべし。其れ或いは未だ然らずんば、鹿餐は飽き易く、細嚼は飢え難し。
じゅに日く、
一念普く観ず無量劫、無量劫の事即ち如今。
如今箇の一念をしょ(虚に見)破すれば、如今み(虚に見)る底の人をしょ破す。

兜率従悦は臨在黄龍下二世宝峰克文に継ぐ。

撥草参玄俗に云う雲水修行です、そりゃまずもって見性せにゃなんにもならんです、常識の至るにあらずむしろ思慮を容れんや、見性は性を見るほうが失せるんです、自分が消えて環境だけになる、環境が自分なんです。即今いずれの処にかあるが答えと云えば答えですか、つまりは答えを持つことも省みることも不可能です、たいていここを間違ってもとの利己主義ですか、却って我利我利亡者です。生死を明らめること根本です。死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよきと、手放すんです、どこまで行って手放すが修行です、握り締めるとかたくなです、坐禅がすんなりとは行かぬ、眼光紙背に徹すというてめえという異物です、どうだどんなもんだという、落ちちまったらそもさんか脱せんという、問うて問うて問うてついに押しても引いてもなんにも出ないんです。四大分離して蛸の七足八足、自分という架空の形骸を離れて下さい、ようやく座禅が坐禅になります、こころゆく味わってただの恩返しです、お釈迦さまあって自分の取りえなんにもなし。いずれのところに向ってか去るというほどのゆとりなし、首くくる縄もなし年の暮れ。どうにもこうにもならんdすよ、そさん荒食いは飽き易く、細嚼よく噛んで食えば飢え難しと、そりゃどうもおおきにお世話様。なにしろちらともあれば参じて下さい、自分どうなとそんなこた二の次三の次。

| | コメント (0)

無門関

四十六、竿頭進歩

石霜和尚云く、百尺竿頭如何が歩を進めん。また古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭、須らく歩を進めて十方世界に全身を現ずべし。
無門日く、歩を進め得、身を翻し得ば、更に何れの処を嫌ってか尊と称せざる。是の如くなりと雖も、且らく道へ、百尺竿頭如何が歩を進めん。さ(口に夏)。
じゅに日く、
頂門の眼をかつ(目に害)却して、錯って定盤星を認む。
身をす(てへんに半)て命を捨て、一盲衆盲を引く。

身を捨て命を捨てて一盲衆盲を引く、これまさに仏のありようです、引くという意識がないんですか、端に為にすとあるように、世のため人のためだいいことしいの反省皆無です、ただもうつまらんですか、毎日ろくでもないことばっかしが、昨日の我は今日の我にあらず、進歩か退歩かまったくわからんたたわわです。むかしの師家だの学者だのお偉いさんの書いた無門関や宝鏡三昧を見ると、なんでそんなに偉がって大威張りかくのかさっぱりわからん、乃至は宗門も坊主も滅びたです、嘘とはったり猿芝居と空威張りのほかになんにもなかった、これを要するに学する修行するなく、仏教あり仏ありする、鼻持ちならぬ俗人糞ったれのまんま、大恥かきを平気でやってきた、そりゃだれかれ見向きもしなくなる。ついに達磨さんも道元禅師も食い尽くして貯金ゼロですか。若し学人ほんとうに求めるときは、これを得た皆人の得がてにすとふうずみ子得たりを、いったんはやるんですか、中途半端な師家に就くと、百尺竿頭に巣食うチンパンジーにもなれんです。得便宜あり落便宜あり、真となすあるうちは落ち着かないです、十方世界に全身を現ずとは失うんです、虎を描いて猫にもならず、元の木阿弥栄蔵生ですか、なにひとつ取りえなしの、まあさまったく存在価値ゼロです、そうねえ満足に坐れなくなったら断食して死のうと思う、はてなあそれだけが取りえですか、とんぼやせみみたいに孤独死は地球ぜんたいこれです。石霜慶諸は青原下五世。古徳は長沙景きん(山のしたに今)。

| | コメント (0)

2009年8月19日 (水)

無門関

四十五、他是阿誰

東山演師祖日く、釈迦弥勒は猶ほ是れ他の奴。且らく道へ、他は是れ阿誰ぞ。
無門日く、若し他を見得して分暁ならば、譬えば十字街頭に親爺に撞見するが如くに相ひ似て、更に別人に問ふて是と不是と道ふことを須ひず。
じゅに日く、
他の弓挽くこと莫れ、他の馬騎ること莫れ。
他の非弁ずること莫れ、他の事知ること莫れ。

東山法演、五祖法演は白雲守端に継ぐ。釈迦弥勒という見本にして習う間は他の奴です、仏の道以外はみな見習う、いかにらしくするかが問題になるんですが、その実ついには脱するんですか、ついには自由の分を得て完成というよりは一つ付け足すふうです。仏の道ははじめから見習い不可です、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなりです。自己を忘れる、まっぱじめっから自分に用がないんです、飢えた虎に身を投げ与えることこれ仏道修行です、まっぱじめっから答えの真っ只中、十字街頭です、坐るには坐るっきりなんです、妄想百般も清々了了もまるっきり関係がないんです、こーんな楽なこたないです、太虚の郭然として洞かつなるが如く、ただもうこれっきりは、他人の物差しじゃないんです、他の弓も他の馬も他は是れ阿誰、自分まるっきりないんです、他の非弁ずるなく他の事知るなく、はいこれ仏本来です。

| | コメント (0)

2009年8月18日 (火)

無門関

四十四、芭蕉柱杖

芭蕉和尚衆に示して云く、汝に柱杖子有らば、我汝に柱杖子を与えん。汝に柱杖子無くんば、我汝が柱杖子を奪はん。
無門日く、扶けては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る。若し喚んで柱杖と作さば、地獄に入ること箭の如くならん。
じゅに日く、
諸方の深と浅と、都べて掌握の中に在り。
天をささ(てへんに党に牙)へ並びに地を柱(ほんとうはてへんに主)へて、随処に宗風を振るふ。

芭蕉慧清は新羅の人、い(さんずいに為)仰衆三世南塔光湧の嗣。柱杖子というもと転ばぬ先の杖ですか、坊主の持ち物になって人を説得の道具乃至は我に大法あり、大法我れにありのしるしになったですか、柱杖を持つやつが活殺自在の権を取るといったぐらいです。もとっこ持ち物は邪魔、不自由のもとです、ないと思うとからにそやつを奪い取る必要がある。扶けては橋のない河を渉り、伴っては月のない真っ暗がりの村へ帰ると、どうですか、仏教をいつかそのようなものと思い込むんでしょう、用のない師家坊主ども学者のおまんまの種ですか、無心が有心になって能書きを垂れ、三百代言です。ひっかかるほうが悪いたって、地獄に入ること箭の如し、あっさりお払い箱にすべきです。禅坊主なんてものこの世にあるわけはないんです、深浅も天地もあっはっはいらんお世話です、枕がいるってんんあら枕して寝りゃいいいです、鼻水出りゃあ鼻紙。

| | コメント (0)

無門関

四十三、首山竹箆

首山和尚竹箆を念(てへんに占)じて衆に示して云く、汝等諸人、若し喚んで竹箆と作さば即ち触る、喚んで竹箆と作さざれば即ち背く。汝等諸人且らく道へ、喚んでなにとか作さん。
無門日く、喚んで竹箆と作さば即ち触る、喚んで竹箆と作さざれば即ち背く。有語なることを得ず、無語なることを得ず。速かに道へ、速やかに道へ。
じゅに日く、
竹箆をねん起して、殺活の令を行ず。
背触交馳、仏祖も命を乞ふ。

首山省念は風穴延沼の嗣。竹箆は今は首座法戦式に使うほどですか、物真似猿芝居の右代表です。喚んで竹箆となさば触れ、なさざれば背くという、言葉の遊び問答の取捨選択ですか、無門関提唱の師家学者さんみたいに、らしいことをくわしく述べようがさっぱり身に応えない、どうでもよいのお遊びです、それじゃつまらんというより無駄ことです、紙数インキを費やすばかりの公害ですか。竹箆をねんじてこれはなんであるのか気がつかない、はてなあという弓の名人が弓を忘れる底と、ただのぼけとどう違いますか。物真似こうあるべきの提唱よりはどっちも実感です。もと大小色合いを離れてものみな成り立っている、いえ成り立っていないんですか、これが本来にいったんは立ち帰っていて、はじめてこの問答があります、知らぬもっとも親切です。わしと同じようなことを云うからだれかれは正だという、わしはなんにも云ってないしましてや仏教のぶの字も知らんです。だからどうのこうあるべきという理屈を助長したってただこれ百害あって一利なしです、なにしろぶち破って底抜けの自由を得て下さい、百人理由を云う中にたった一人無手勝流ですか、箸にも棒にもかからんのです、すると世の中わずかにでも楽しくなるんです、仏とはこれ夢にだも見ぬもの。仏祖も命乞いとは仏祖の爪の垢にあらず。

| | コメント (0)

無門関

四十二、女人出定

世尊昔因みに文殊、諸仏の集まる処に至って諸仏各々本処に還るに値ふ。惟だ一の女人有って彼の仏座に近ずいて三昧に入る。文殊乃ち仏に日さく、云何ぞ女人は仏座に近ずくことを得て我れは得ざる。仏文殊に告ぐ、汝但だ此の女を覚して、三昧より起たしめて、汝自から之れを問へ。文殊女人をめぐること三匝、指を鳴らすこと一下して、乃ち托して梵天に至って其の神力を尽くすも出すこと能はず。世尊云く、仮使い百千の文殊も亦た此の女人を定より出すこと得ず。下方一十二億河砂の国土を過ぎてもう(網から糸をとる)明菩薩有り、能く此の女人を定より出さん。須ゆにもう明大士地より湧出して世尊を礼拝す。世尊もう明に勅す。却って女人の前に至って指を鳴らすこと一下す、女人是に於いて定より出ず。
無門日く、釈迦老師、者の一場の雑劇を做す、少々を通ぜず、且らく道へ、文殊は是れ七仏の師、甚んに因ってか女人を定より出すことを得ざる。もう明は初地の菩薩、甚んとしてか却って出だし得る。若し者裏に向って見得して親切ならば、業識忙忙として那迦大定ならん。
じゅに日く、
出得するも不出得なるも、彼と我と自由を得たり。
神頭並びに鬼面、敗けつまさに風流。

なんかこういうのあんまり関心せんなあ、かってにしろと云いたくなる、定から出すのにだれかれ不要です、ただこれ物理的などんかちで存分です、もしまた妄想趣味の辺のことなら、そりゃ女のすること計り知れぬってことです、美緒ちゃんはーいっては定に入るによし、はーいってはだれかをおっかけしている、文殊もモーツアルトもさっぱり形無しです。女人というのは男の菩薩よりもそのまんま仏そのまんま見性ってふうです、印可底が却って手玉に取られていて面白い、女人師家の軍団こさえたら世界最強って気がします、でもってまったくあてにならなかったりあっはっは。まあいいようにやって下さい、女も口説けんようじゃとってもとてもってことありますか。はいどうぞ。

| | コメント (0)

2009年8月13日 (木)

無門関

四十一、達磨安心

達磨面壁す、二祖雪に立つ。膂を絶って云く、弟子は心未だ安からず。乞ふ師安心せしめよ。磨云く、心を将ち来れ、汝が為に安んぜん。祖云く、心を求むるに了に不可得なり。磨云く、汝が為に安心し竟んぬ。
無門日く、欠歯の老胡、十万里の海を航して特とくとして来る。謂つべし是れ風無きに浪を起こすことを。末後に一箇の門人を接得して、また却って六根不具。いい。謝三郎四字を識らず。
じゅに日く、
西来の直指、事は嘱するに因って起こる。
叢林をにょう(暁の日のかわりに手偏)かつ(活のさんずいのかわりに耳)するは、元来是れ汝。

謝三郎四字を知らず、銭の上の四文字も読めないぼんくらですか。雪の上に立って膂を断って差し出す、これによって弟子となる、なんでそんなことをといってこの事ただじゃあただが手に入らんです、たった一箇のことはたった一箇の命投げうつとたった一箇という宇宙ぜんたいが手に入ります。一箇として他になんの取りえもないこと、すなわちなんの夢も希望もないことを知る。安心とはなにか、心がなければ安んずる必要がないんです、無心すなわち心が無いんです。ないもの金剛不壊です、仏の救いとはこれです。今の人おむつ取り替えて貰って文句百万だらは、まったくもってなんでもありありです、正反対のことを云って平気でしる、何を云おうが糠に釘、これ達磨さんに似ているようでなんの役にも立たないんです、精神病院行きですか、仏の説得もまるっきり無駄はつまり救いようがないです。こういうのは痛い目に会わせるのがいいんですか、落っこちりゃ足くじく、ようやく言葉ありってことに気がつく、そこから出直し。国が滅んでもおん身大切は、滅んだらおん身もないって悲惨を知る以外にない、仏教の大切は、指一本でも叩き切ると痛切ですか、西来の余計ごと、何故に余計ごと。

| | コメント (0)

2009年8月12日 (水)

無門関

四十、てき(耀の光のかわりに走)倒浄瓶

い(さんずいに為)山和尚始め百丈の会下に在って典座に充たる。百丈将に大いの主人を選ばんとす。乃ち請じて首座と同じく衆に対して下語せしめ、出核の者往くべしと。百丈遂に浄瓶をねんじ、地上に置ひて問を設けて云く、喚んで浄瓶と作すことを得ず、汝喚んでなんとか作す。首座乃ち云く、喚んで木とつ(木に突)と作すべからず。百丈却って山に問ふ。山乃ち浄瓶をてき倒して去る。百丈笑って云く、第一座山子に輸却せらると。因って之れに命じて開山と為す。
無門日く、い山一期の勇、争奈せん百丈の圏き(国の玉のかわりに貴)を跳り出でざることを。点検し将ち来れば、重きに便りして軽きに便りせず。何が故ぞ。にい。盤頭を脱得して、鉄枷を担起す。
じゅに日く、
笊り(竹かんむりに離)をとう(風に易)下して、当陽の一突周遮を絶す。
百丈の重関も欄ぎり住めず、脚尖てき出して仏麻の如し。

い山の霊祐百丈の嗣、い山宗の始祖。浄瓶はしんびんと読む、浄水を容れる器、木とつは木靴ですか、下語はあぎょと読むならわし。浄瓶と云わずになんと云う、木とつと云うわけにもゆくまいがとは、平行移動みたいでさっぱりです、軽くあっさりすましたと無門先生、でもこれ解釈の問題みたいな語たるに落ちるんですか、蹴倒して去るという、重きを取りますか、いえさ物真似じゃどうもこうもならんです。無と云わずに何と云うと云われて十八年南天棒に突いたとう陰老師は、後に南天棒仏教のぶも知らずと云っています。だのにたぶらかされることがあります。邪師にも惑わされ正師にも惑わされ、よろしくよく浄瓶またてき倒して去って下さい。世尊ねん花す迦葉破顔微笑です。仏麻の如くってわけにはなかんずく行かんですか、一箇半箇しびれを切らして待っています。盤頭孫悟空の鉢巻ですか、ようやく取っ払ったと思ったら大い山の鉄枷ですか、あっはっは大い山なんてけちなもんじゃないよ、仏教他には伝わってないんです。

| | コメント (0)

2009年8月11日 (火)

無門関

三十九、雲門話堕

雲門因みに僧問ふ、光明寂照遍河砂。一句未だ絶せざるに、門遽かに日く、あに是れ張拙秀才の語にあらずや。僧云く、是。門云く、話堕せり。後来死心ねん(てへんに占)じて云く、且らく道へ、那裏か是れ者の僧が話堕の処。
無門日く、若し者裏に向って雲門の用処孤危、者の僧甚んに因ってか話堕すと見得せば、人天の与に師と為るに堪えん。若し未だ明きらめずんば、自救不了。
じゅに日く、
急流に釣を垂る、餌を貪る者は著く。
口縫わずかに開けば、性命喪却せん。

張拙秀才は石霜慶諸に嗣ぐ、彼が開悟したときの冒頭の一節。黄龍死心は晦道祖心に嗣ぐ。光明寂照遍河砂、秀才の語とて大流行だったに違いない、でも他人の云うたことをそっくりまさのそのとおりと思い込むことは、一神教いいことしいの頭なでなで、共産党の我田引水じゃないんです、これ百害あって一利なし。もしこの僧蛤のぱっくり内臓肝胆さらけ出して光明寂照遍河砂ならば、石ころと同じく雲門にぶん投げてぐわこんのやろうめってんで、家醜を揚ぐってわけです、一句絶しおわらず、痛棒食らってりゃ世話はないです。急流に釣を垂れという、学者どのらしい坊主などたとい100点満点も一向に悟らない、いつまでたってもただの取り巻きです、うざったいかぎりです、会社の存続がかかっている、生きるか死ぬかの瀬戸際というやつは早い、あっというまに開示して莞爾とて帰って行く、惜しいかな目先の答えしかなかったりする。ですがこれ遠くにあるもんじゃないんです、もとどっぷり漬けです。水の中にあって渇きを求める譬え、わずかに口を開けば喪身失命です、あに張拙秀才の語にあらずや、はああっと十万億土です、居るに処なく天地の示すに物なく。

| | コメント (0)

無門関

三十八、牛過窓れい(木へんに雨のしたに口三つ)

五祖日く、譬えば水こ(牛に古)牛の窓れいを過ぐるが如き、頭角四蹄都べて過ぎ了るに、なにに因ってか尾巴過ぐることを得ざる。
無門日く、若し者裏に向って顛倒して、一隻眼を著け得、一転語を下し得ば、以って上四恩に報じ、下三有を資くべし。其れ或いは未だ然らずんば、更に須らく尾巴を照顧して始めて得し。
じゅに日く、
過ぎ去れば坑塹に堕ち、回り来たれば却って壊らる。
者些の尾巴子、直に是れ甚だ奇怪なり。

参禅という坐っているとうまく行っている自分と、つまりそれを見ている自分なんです。これじゃどこまで行っても牛過窓れいです。お釈迦さまはそんな参禅はしなかったです、四苦八苦ありこれをどうしたらという問題だったです。標準なんかない、苦しみを免れること、自分というはた迷惑ですか、他人の迷惑よりも自分の仕出かし事がぐさっと来ます。この世は地獄だという通身に感ずる、なぜだ、なぜだといってどうしようもなくこれ六道輪廻です、一歩免れ出て身心脱落、如来仏となりたいんです。もとはじめはこうであった、帰りたい帰家穏坐です。坐禅というこうあるべきの物差しじゃ如何ともし難いんです。たしかに頭角消え四蹄失せとやっている、そうやっている自分は歴然残っている。ただのぼんくらとは思い上がっているんです、今にみていろ僕だってですか、そのうつすっかる牛過するからっていったいこれ何物。通身帰依というなんていうおれはと、反省というほどの生ぬるいじゃ届かないです、死ぬよりないどうしようという大激震ですか、そこに於いて始めて参禅です、お釈迦さまが救いの手をさしのべる、藁をも掴むなんてもんじゃないです、死んだら痛くも痒くもないっていうのと同じですか、こうあらねばならないの臨済禅とはまるっきり関係がないんです。たとい牛過窓れいのこれ過ぎ去れば坑塹に落ち、てめえでなんとかしようというそのてめえがなんともなってないんです、回り来たれば却って破られると、もと人間は正直なものです、絶対にごまかしはきかんです、多数決のなあなあに惑わされたらいかんです、未だしは未だしです。未だしと云って些子の尻尾はなはだ奇怪していないんです、ほっと収まればまったくない、早くこれもとの木阿弥ですよ。

| | コメント (0)

2009年8月 9日 (日)

無門関

三十七、庭前柏樹

趙州因みに僧問ふ、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。
無門日く、若し趙州の答処に向って見得して親切ならば、前に釈迦無く後に弥勒無しと。
じゅに日く、
言事を展ぶること無く、語機に投ぜず。
言を承くるものは喪し、句に滞るものは迷ふ。

麻三斤とか喫茶去とかこの則も有名で祖師西来意、達磨さんはなぜやってきたか、その意義を問うのに、日く庭前の柏樹子という、目の当たりなんでも指し示す式の、まずは問答定型決まり文句になっている。でもってそれでおしまいじゃ、仏教がおしまいです。まるっきりおしまいで、庭前の柏樹子というそれっきりをどうですか、うんそれっきりという、横面張り倒すふうなりゃ、あっはっはどうってこたないです、やっと地球万物のお仲間入りです。思想だ哲学だの宗教だの、おれはだの禅問答などいって、てめえの中に首突っ込んで歩くような無様は人間以外ないです、進化のいびつから発展してついになんにもならずは地球を滅ぼすに至る、地球はたとい核の冬が来て一的の水まで凍りついたとて蘇るそうです、たんびに性別は智慧を得て大発展をするという、では次の世の中はどうなるんですかあっはっは、恐竜のほうが鳥になった分賢かったという、それもなにかの寓意かも知れん、ぴーちく毎朝鳥と鳴き合わせると、どんなもんだろうか、うっふ鳥にすっかり軽蔑されてあばよって気になる、形がでかいってだけかな、これじゃひぐまにであったらもうおだぶつ。死ぬまで生きているよりはミイラになってお先にっての、なんか近所迷惑だとさ。ふん。

| | コメント (0)

2009年8月 8日 (土)

無門関

三十六、路逢達者

五祖日く、路に達道の人に逢はば、語黙を将って対せざれ、且らく道へ、なにを将ってか対せん。
無門日く、若し者裏に向って対得して親切ならば、妨げず慶快なることを。其れ或いは未だ然らざれば、また須らく一切処に眼を著くべし。
じゅに日く、
路に達道の人に逢はば、語黙を将って対せざれ。
欄さい(月に思う)へき(壁の土ではなく刀)面に拳す、直下に会せば便ち会せん。

的的として兼帯無く独り運ぶに何ぞ依頼せん、路に達道に逢はば、語黙を将って対すること莫れとある、どうですかなあなあ申し合わせのなんにもない人です、仏教だから悟ったからなんていうこれっぱかしもないです、鳥に会いけものに会い花に会い路傍の石に会いする、人に会いする、語黙をもってわたること莫れ、らんさいへきめん顎掴んで顔面引き裂くんですか、答えが返ってきますよ、あっはっはどうですか、他日異日孤峰頂上に庵を結びという、そういうらしいことを一切免れているただの人、でもとにかく面皮を引き剥ぐことをのみですか、寒山拾得笑い七通八達ですか、つうかあなんたってなにものにも替え難いんです、こういう付き合いの一つ二つありますよ、目くそ半欠け蚊の涙ってうっふっふ、家醜を揚げってやつですか、そんなこたあまったく知らんです。

| | コメント (0)

2009年8月 7日 (金)

無門関

三十五、せい(にんべんに青)女離魂

五祖僧に問ふて云く、せい女離魂、那箇か是れ真底。
無門日く、若し者裏に向って真底を悟り得ば、便ち知らん殻を出て殻に入ること、旅舎に宿するが如くなるを。其れ或いは未だ然らずんば、切に乱走すること莫れ。驀然として地水火風一散せば、湯に落つるぼう(傍のにんべんでなく虫)蟹の七手八脚なるが如くならん、那時言ふこと莫れ、道はずと。
じゅに日く、
雲月是れ同じ、渓山各各異なり。
万福万福、是れ一か是れ二か。

せい女離魂して体は病に伏し魂は男と結ばれるというのがある、那箇か是れ真底と、五祖法演は白雲守端に継ぐ。ぼう蟹とは蟹を茹でるんです、意識を離れて七手八脚、足がこうかってに動くんです。切に乱走することなかれとは、超能力だのなんだのつまらんことを云うなってんです、じきにそんなふうなの多いです、まったく関係ないんです。驀直去ほんとうに坐ればこれ真底だけなんです、自分という観察し観察される二重構造を免れるんです、すると面白いんですよ、せい女離魂でもとんぼの目玉ぐるーりでもなんでもござれです、あっはっはだからといって大騒ぎしないんです、言うことなかれ言わじ、毎日坐って下さい、自分というものの埒外にあって真底です、これを味わい尽くして下さい、尽くしきること不可能、一柱も二柱もほんの一瞬でもって、地球開闢以前から太陽の燃え尽きるまで、はーい自分という爪っから先の真底です、なーんにもないんです。

| | コメント (0)

2009年8月 6日 (木)

無門関

三十四、智不是道

南泉云く、心は是れ仏にあらず、智は是れ道にあらず。
無門日く、南泉謂るべし、老ひて羞を識らずと。わずかに臭口を開けば、家醜外に揚がる。是くの如くなりと雖も、恩を知る者は少なし。
じゅに日く、
天晴れて日頭出で、雨下って地上湿ふ。
情を尽くして都べて説き了る、只だ恐る信不及なることを。

南泉普願は馬祖の嗣、南泉因みに僧問ふ、古へより祖師、江西大姉に至るまで皆云く、即心即仏、平常心是れ道と。今和尚は、心は是れ仏ならず、智は是れ道ならずと。学人悉く疑惑を生ず、乞ふ和尚慈悲をもって指示せyと。南云く、若し心を認めて決定すれば、是れ仏ならず。若し智を認めて決定すれば、是れ道にあらずと。ことは単純です、心はたった一つ、これを認めれば二心です、心なし無心です、無心まったくの手つかず、ただです。こね手つかずに手をつけて能書きするを智という、はじめっから嘘です。心を究め智を尽くすをもって人倫となし仏教とする、人類過ちに因です、喧嘩戦争右往左往ろくでもないすべてです、人類以外には起こりえんです、いいことはいいとする是非善悪、線形なんですか理科頭みたいに馬車馬です。宗教といいよってもって収拾がつかんです、参禅のはじめだれかれ決まってこうです、こうあるべきだからこうするという、どこまで行ってもやっていたりする、不思善不思悪正よもの時那箇かこれ明上座が真面目という、たった一つの急転直下がない、それじゃこまで行こうがただの三百代言です、そこらへん坊主のように次第にえらそうになって、箸にも棒にもかからんです。人のふり見て我がふり直せ、付き合いたくない年寄り=物知り観念常識のがいこつですか、まったくいいところなし。

| | コメント (0)

2009年8月 5日 (水)

無門関

三十三、非心非仏

馬祖因みに僧問ふ、如何なるか是れ仏。祖日く、非心非仏。
無門日く、若し者裏に向かって見得せば、参学の事畢んぬ。
じゅに日く、
路の剣客に逢はば須らく呈すべし、詩人に遇はずんば献ずること莫れ。
人に逢ふては且らく三分を説け、未だ全く一片を施すべからず。

非心非仏とはどういうことですか、学者の語呂合わせではなくってほんとうにおのれの辺に思い当たって下さい。どこまで行こうがどこまでもという、納得できない答えが出ない人、納得できない答えが出ないそのまんま答えです、三分を説くとも全部を説くとも未だしです。非心という、たった今の心を省みることの不可能、心はたった一つです、運転したって操ってみたって後の祭り、ただもう出し放しのほかに取り繕う手間もないんです、だからおれはどうだなど根拠を捜す人、有心無心有象無象ですか、ただもうやりきれないんです。非仏という答えはないんです、答えの真っ只中は無反省です、確かめることの不可能、ただもう手つかずです。剣客に出会えば剣、詩人に出会えば詩ですか、そりゃまたご苦労さんです、剣客に出会っても石ころ、詩人に出会っても石ころ、あたし馬鹿だからと云ってはだれかれ親切にする、なんでだかわからんけれどもという、身障者手帳を持った女の子と、阿修羅展を見に行った、行列につかずに付き添い一名ともただで入れる。へえそーなのっちゃ見ている彼女に見ず知らずの客が説明してくれる、こっちも得したあっはっは笑っちまう。仏とは何か、非心非仏とはなにか、いちばん馬鹿でめちゃくちゃでまるでなっていないのがいちばんえらい、どんぐりの背比べですか、どうか火中の栗を拾って下さい。

| | コメント (0)

2009年8月 4日 (火)

無門関

三十二、外道問仏

世尊因みに外道問ふ、有言を問はず、無言を問はず。世尊拠座す。外道賛嘆して云く、世尊大慈大悲、我が迷雲を開ひて我をして得入せしめたまふ。乃ち礼を具して去る。阿難尋ひで仏に問ふ、外道は何の所証有ってか賛嘆し去る。世尊云く、世の良馬の鞭影を見て行くが如し。
無門日く、阿難は乃ち仏弟子、宛かも外道の見解に如かず、且らく道へ、外道と仏弟子と相ひ去ること多少ぞ。
じゅに日く、
剣刃上に行き、氷稜上に走る。
階梯に渉らず、懸崖に手を撒す。

有言を問わず、無言を問わずと聞く人今の世にいるんですか、主義主張と理屈と愛となど云う、自分のはまり込んだ袋小路の是非ですか、同病相憐れむんですか、共産主義がたいていそのなれのはてです、ついには金正日ですか、神さまになって密告と拷問ですか。人みな大小のヒットラー金正日あるいは中国共産党ですか、秋葉原の無差別殺人ですか、必ず理由と正当性がある。まずもってこれを免れること、でなきゃ地球ものみなのお仲間入りはできないです。花のように咲き鳥のように鳴く、ましてや人間です、有言を問はず、無言を問わず、世尊良休す。外道賛嘆して云く、世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて我をして得入せしむと。仏そのものです。仏教とはこれ。仏足石というものがある、足型の上に如来世尊が立っています、風景があるっきりのなんにもなしですか、はい強いて云えば無一物中無尽蔵花有り月有り楼台有り。ではあなたも立ってごらんなさい、如来世尊ですよという。どこにも仏教という安楽椅子はないんです、剣刃上を行き氷稜上を走る、世の中宇宙そのものですよ、地獄絵そのものです、観音さまは宇宙のはての一音もみそなわす、世尊大慈大悲、おのれというものの生まれついての真っ裸を提出して見せる、修行の脚頭よりは飢えた虎の餌、断崖絶壁から手を放すことのみ。仏弟子の姿して仏教のぶの字もない、お寺に生まれたから説教だのいう、どうにもこうにも心理学の対象みたいなへんてこ、そりゃもう問題外です。

| | コメント (0)

2009年8月 3日 (月)

無門関

三十一、趙州勘婆

趙州因みに僧婆子に問ふ、台山の路甚れの処に向かってか去る。婆云く、驀直去。僧わずかに行くこと三五歩。婆云く、好箇の師僧又いんもにし去る。後に僧有って州に挙似す。州云く、我が去ってなんじが与めに這の婆子を勘過するを待て。明日便ち去って亦た是の如く問ふ。婆も亦た是の如く答ふ。州帰って衆に謂って日く、台山の婆子、我れなんじが与めに勘破し了れり。
無門日く、婆子只だ坐ながらに帷幄にはか(竹かんむりに寿)ることを解して、要且つ賊に著くことを知らず。趙州老人は、善く営を盗み塞を劫かすの機を用ゆるも、又た大人の相無し。検点して将ち来たれば二人ともに過有り。且らく道へ、那裏か是れ趙州、婆子を勘破する処。
じゅに日く、
問既に一般なれば、答も亦た相ひ似たり。
飯裏に砂有り、泥中に棘有り。

婆さん台山にはどう行きゃいい、まっすぐ行けという、三歩五歩行くと、ありがてえ坊さままた同じに行くってんですか。ぎゃふんとなるのは、禅問答だのいんもだの、てめえの影にしてやられるんですか、それとも婆さんほんものですか、あっはっはほんものってなんです、てめえ到らずってどういうことです。趙州和尚、よしわし行っておまえらのために見てこようっといって、婆さんとまったく同じ問答して帰る。はいおまえらのために勘破してきたぞという。わかりますか。はいご明答。婆子帷幄にはかるとは、天子のはかりごとです、いながらにして掌し指図する。だれでも同じじゃ賊の首切ることは覚束ないんですか、営をぬすみ塞を劫かすは、将軍の仕事ですか、だっていうのに一言もなしに過ぎるとは大人げないっていうんです。どうですか平地に乱を起こすこと、勘破了の基本です、いったいなにをしてきたんだどっちもどっちだつまらん。でもこれ坐禅の基本技ですよ、かすっともかすらなければ頂上です、飯んなかに砂粒あり、泥中の棘、だったら抜くか捨てるかしにゃならん、おれにも気がつかないなんておよそ人間じゃないです、人間禅というんならその人間を抜いて下さい。

| | コメント (0)

2009年8月 2日 (日)

無門関

三十、即身即仏

馬祖因みに大梅問ふ、如何なるか是れ仏。祖云く、即身是仏。
無門日く、若し能く直下に領略し得去らば、仏衣を著け、仏飯を喫し、仏法を説き、仏行を行ずる、即ち是れ仏なり。是くの如くなりと雖も、大梅多少の人を引いて、錯って定盤星を認めしむ。争でか知道らん箇の仏の字を説けば、三日口を漱ぐことを。若し是れ箇の漢ならば、即心是仏と説くを見て、耳をおう(俺のにんべんのかわりにてへん)ふて便ち走らん。
じゅに日く、
青天白日、切に忌む尋みゃく(菜の采のかわりに見)することを。
更に如何と問へば、賊を抱ひて屈と叫ぶ。

馬祖道一六祖下三世、大梅法常馬祖に継ぐ。即身是仏も非心非仏もただこれ仏の姿ですが、仏といい即心即仏という、どう云ったところでそりゃどうにもならんです、即身是仏のまんまついになり切ってまったくあとなしです、大梅熟したりとついにこれを得る者実に稀です、定盤星とは天秤棹の起点にある星印、無駄目です、仏といい生死といい無駄目ばっかりして、ついに坐禅見性という無駄っことに生涯終わる、なんにもしないに如くはなし、なんでこれ大真面目にこういうことが起こるか、彼岸に渡れぱーらみーたーというのを、此岸にいてとやこうするからです。見性した坐禅何段だと言いふらす、記載の問題にすりかわる、どこまで行ってもやったやりました、だからの世界です。そうじゃない我と我が心身に立ち返って下さい、省みるとないんです、省みるものもおのれもないんです、即心是仏がようやくに露れるんです、朝に夕に坐ってまるっきり新です、跡なしなんです、坐らなきゃ遠くなるばかりですよ、じき定盤星の世界です、箇のなんたるかを知るただこれ。青天白日を知る、なかなかに知られないんです、必ずどこかにのしをつける、ただの手つかずにならないでは、賊を抱いて屈と叫んでいる、気がついたら捨てる、捨てて捨てて捨て切って行く。ただこれ。

| | コメント (0)

無門関

二十九、非風非幡

六祖因みに風刹幡をあ(風に易)ぐ。二僧有り対論す。一云く、幡動く。一云く、風動く。往復して未だ理に契はず。祖云く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くのみ。二僧しょう(りしんべんに束)然たり。
無門日く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず、甚れの処にか祖師を見ん。若し者裏に向かって見得して親切ならば、方に二僧鉄を買って金を得るを知る。祖師に忍俊不禁にして、一場の漏逗なり。
じゅに日く、
風幡心動一状に領過す。
只ダ口を開くことを知って、話堕することを覚えず。

風動くか幡動くかという、現実なんです、科学的真実という嘘じゃない、見て感ずるその確かさを云う、つまり不確かなものだから往復して未だ理に契はずなんです。風も動かず幡も動かず汝が心動くなり、これをよく確かめて下さい。幡が停まっていてこっちがこう揺れ動くんですか、このときこれを見る心が消えると驚天動地です、あながち心あってもかまわんですがね、要は身心脱落底を知る、自分という架空の囲いが敗れ去っているのです。するとたしかに、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず、いずれの処にか祖師を見んということです。だからどうの、公案禅だ無事禅だろくでもないことを云ってないで、たった一回きり、いえなんべん見たろうが一回きりなんです、ただこれ直かに見ればいいんです、見ている自分がないとき可。鉄を買っても金を得て下さい。かくかくしかじか一場の漏ら、大恥かきですか。一状に領過す罪状認否ですかあっはっは。

| | コメント (0)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年11月 »