無門関
一 趙州狗子
趙州和尚因みに僧問ふ、狗子に還って仏性有りやまた無しや。州云く無。
無門日く、参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。且らく道へ如何が是れ祖師の関。只だ者の一箇の無字乃ち宗門の一関なり。遂に之を目けて禅宗無門関と日ふ。透得過する者は、但だ親しく趙州に見えるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛あひ結んで同一眼に見、同一耳に聞く可し、あに慶快ならざらんや。
狗子犬に仏性ありやまたなしや、州云く無。仏を云う嘘八百を突然断じて下さい、むーとまるっきり仏丸出しは、鶯のほーほけきょでも蛙のがーこでも花の開く雲の行くも同じです、省みることなければ200%答えの完全無欠です、はいこれが地球のお仲間入り、平和といい戦争という無駄っこと抜き。
参禅はすべからく祖師の関を透るべし、あっちこっち自堕落手前かっての悟ったさん困ったさんです。第一に祖師が皆無です、印可底などいってやれ無事禅だ見性禅だの云う、下ぶっ切らにゃならんです、悟りにも見性にも遠くて遠し、まれでなってないのをおれはといって開き直る。仏じゃないです。花も雲も鳥もだからいいの、こうあるべきなんてつまらんこと云ってないです。なぜに人間だけがという基本問題です。祖関透らず心絶っせずんば、ことごとくこれ依草附木の精霊ならん。自然はいいのすばらしいの、神さまはどうの芸術詩歌だのよってもって現を抜かしている、それじゃあもって生まれた仏にほど遠い、如来じゃないんです。禅宗無門関をもってしてなを能書きト書きじゃそりゃどーしようもないです。わずかにこれあって長々し夜明けにけるかな、無明の夢を破るんです、せっかく七歩歩んで天上天下唯我独尊と生まれて、妄想の闇を右往左往してくんずれほんずれに一生を終わる、なんという情けない哀れなことですか。参禅とは無心です、心の無いことを知る、悟りだの印可だの洩って廻った隔靴掻痒じゃないんです、心はたった一つ、一つが一つを観察する、見ることの不可能、ゆえにゼロなんです、無心というこれを実際に知って下さい、夢覚の覚です、仏祖師と共に行くただこれが本来のために、生活も命も擲ってください、なんならたった今死んだっていいです、あに欣快ならざらんや、仏とはこれ。
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