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2009年7月12日 (日)

無門関

八、けい(渓のさんずいなし)仲造車

月庵和尚僧に問う、けい仲車を造ること一百ぷく(幅の車へん)。両頭をねん(てへんに占)却し、軸を去却して、なに辺の事を明らむ。
無門日く、若し直下に明らめ得ば、眼流星に似、機せい(制に手)電の如くならん。
じゅに日く、
機輪転うるところ、達者も猶ほ迷う。
四維上下、南北東西。

けい仲は夏の人、始めて車を馬に繋いだという、月庵善果は五祖法演下開福道寧の嗣。法綸を転ずるという、別に法綸としてあるものじゃない、ただこれ分析的科学的ドグマみたいなものに依らないんです、だれかれ論破狗するんじゃない、法綸を転ずるんです。両頭をねん却し、軸を去却する、それじゃなんにも残らないじゃないかと、なんにもなくなって始めて一箇です。なんいもないを観察しないんです。これ参禅のありようです、どうしても手段を仮り、行いすますふうです、するとそれが障りになって、眼流星機せい電の自在神通がないんです。ドストエフスキーは今の心理学的混迷の帰り道という、彼から入ってふたたび正邪ですか、いいように見えて不可能事です。朝四本昼二本夕三本それは人間だというスフィンクスの謎です。真実はないんです、陪審員による合議制です。すると一神教にさえ神による選良と受け継がれて、よしあし判断です、色付けです。作り物は壊れ物です。ラスコールニコフからムイシュキン公爵まで、もはやない心の故郷を追う、ピカソの青の時代が破裂する、むき出しの空疎です。アリョーシャという失敗作です。これなんぞ。心という有心の問題です。そうではないんです。心というもとないものを求めないんです。自分を見ない=自分の外だけです。両頭を去り軸をなげうつ、虚空まっただなかです、無心という眼流星機電光です、人格とはこれ、あながち人を要さないんです。ないものは金剛不壊、西欧思想じゃないんです。人ものみなのありようです。真実不虚。

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