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2009年7月

2009年7月31日 (金)

無門関

二十八、久響龍たん(譚の言のかわりにさんずい)因みに徳山請益して夜に抵る。たん云く、夜深けぬ。子何ぞ下り去らざる。山遂に珍重して簾を掲げて出ず。外面の黒きを見て、却回して云く、外面黒し。たん乃ち紙燭を点じて度与す。山接せんと擬す。たん便ち吹滅す。山此に於いて忽然として省有り。便ち作礼す。たん云く、子なんの道理をか見る。山云く、某甲今日より去って天下の老和尚の下頭を疑わず。明日に至って龍たんしん(陛の比のかわりに升)堂して云く、可中箇の漢有り、牙は剣樹の如く、口は血盆に似て、一棒に打てども頭を回らさざれば、他時異日、孤峰頂上に向かって君が道を立する在らん。山遂に疏抄を取って法堂前に於いて一炬火を将って提起して云く、諸の玄弁を窮むるも、一毫を太虚に致くが若く、世の枢機をつくすも一滴を巨がく(叡に土)に投ずるに似たり。疏抄を将って便ち焼く。是に於いて礼辞す。
無門日く、徳山未だ関を出でざる時、心憤憤口ひひ(りっしんべんに非)たり。得々として南方に来たって教他別伝の旨を滅却せんと要す。れい(さんずいに豊)州の路上に到るに及んで婆子に問ふて点心を買はんとす。婆云く、大徳の車子の内は是れなんの文字ぞ。山云く、金剛経の抄疏。婆云く、只だ経中に道ふが如きんば、過去心不可得、見在心不可得、未来心不可得と。大徳那箇の心をか点ぜんと要す。徳山者の一問を被って、直きに得たり口へん(匡の王を扁)たん(担の木へん)に似たることを。是の如くなりと雖も、未だ肯て婆子の句下に向かって死却せず。遂に婆子に問ふ、近処になんの宗師か有る。婆云く、五里の外に龍たん和尚有り。龍たんに到るに及んで敗けつを入れ尽くす。謂つべし是れ前言後語に応ぜずと。龍たん大いに児を憐れんで醜きことを覚えざるに似たり。他の些子の火種有るを見て郎忙して悪水をもって驀頭に一ぎょう(さんじに堯)にぎょう(さんずいに堯)殺す。冷地に看来たれば一場の好笑なり。
じゅに日く、
名を聞かんよりは面を見んには如かじ、面を見んよりは名を聞かんに如かじ。
鼻孔を救い得たりと雖も、争奈せん眼晴をかつ(目に害)却することを。

龍たん祟信は青原下天皇道吾の法を継ぐ。徳山宣鑑は竜たんの嗣。三心不可得というこれを知って下さい、たった今の心をさえ知らずという、心はたった一つです、一つが一つを知ることはできない、観察不可能を残像を捕らえて善い悪いをいう、俗人とはこれです、いいことしいの一神教が人類不都合の原因とはまさにこれです、人間以外ものみな三心不可得です、反省は命を切る如くするんです、だからどうだでもって煙草は止められないなどのたわごとはないんです。これ知識理屈として弁えてもなんの役にも立たないです、路傍の婆さんにしてやられるのが落ちです。すべからく金剛経を焼き払って下さい、文字上のことを後生大事は世の一般知識学者どもの、百害あって一利なしです、吹き消して下さい、身心ともに黒です、まっくらやみになる、自分という名であり面である架空が消える、金剛経じゃない仏がそこにあります。仏という眼晴を破り捨てて下さい、ただの人というまるっきりの無形容です。よくよくこの則を見て取って下さい、仏教という大真面目ですよ、いえあなたというまるっきりそっぽです。

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2009年7月30日 (木)

無門関

二十七、不是心仏

南泉和尚因みに僧問ふて云く、還って人の与めに説かざる底の法有りや。泉日く、有り。僧云く、如何なるか是れ人の与めに説かざる底の法。泉云く、不是心、不是仏、不是物。
無門日く、南泉者の一問を被むって、直に得たり家私をし(てへんに山に而)尽し、郎当少なからざることを。
じゅに日く、
丁寧は君徳を損す、無言真に功有り。
任従い滄海は変ずるとも、終に君が為に通ぜじ。

人のために説かざる底の法ってなんですか、開闢依頼始めて説くというんですか、どのみち人という見聞覚知のまわりくどいのを免れる、法として絵に描いた餅じゃないんです、それじゃ腹いっぱいにならない、もと法の中にどっぷり漬けですか、坐っていてこうだああだしない、たといどのように物差しをあてがったとて法海を泳ぎ回るだけです、同じこってすなんにもないんです。不是心不是仏不是物です、物として仏として心として確かめるはしから転ずるんですか、記すはしっからない、大安心とは手つかずです。平地に乱を起こす、一微塵わずかに起こってまったく収まるんです。丁寧は君徳を損ずですか、損じてばかりですか、ぶんなぐって叩き出して逆恨みだとか、性懲りもなくやってます、こりゃもうどうしようもないですな、即心即仏ですはいこれ。たとい海変じて陸となろうとも、終に君が為に通ぜじ、通ぜぬものこれ。

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2009年7月29日 (水)

無門関

二十六、二僧巻簾

清涼大法眼因みに僧斉前に上参す。眼手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼日く、一得一失。
無門日く、且らく道へ、是れ誰か得誰か失。若し者裏に向かって一隻眼を著け得ば、便ち清涼国師敗けつ(蕨の門がまえ)の処を知らん。かくの如くなりと雖も、切に忌む得失裏に向かって商量することを。
じゅに日く、
巻起すれば明々として太空に徹す。太空すら猶ほ未だ吾宗に合はず。
争でか似かん空より都べて放下して、綿綿密密風を通せざらんには。

法眼文益法眼宗の祖、羅漢桂ちん(深のさんずいを王)に継ぐ、大法眼文益禅師語録は数万語に及ぶ、法華経に通暁すとある。斉はおとき飯前に簾を指差した、二僧あってこれを巻く、一得一失と。よくよく参じて下さい、得失裏に向かって商量、言い訳申し訳の種が尽きると、あとはただもう面と向かうだけです、答えは向こう合わせに来る、どうあったってたった一つです、通身納得するんです、即ち納得すべき心身が失せている。簾を巻けば太空ですか、下ろせばいぶっせいの自閉症ですか、なあにそんなことはないんです、たとい大法眼も一得一失、二三十年参ずるにいいです、どこまで行ってもたった今悟った、まるっきり生まれ変わるんですか、ほかは知らずわしの生活はこれっきゃないです。

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2009年7月28日 (火)

無門関

二十五、三座説法

仰山和尚夢に弥勒の所に往いて、第三座に安ぜらるるを見る。一尊者有り、白鎚して云く、今日第三座の説法に当たる。山乃ち起って白鎚して云く、摩か(言に可)えん(行のまんなかにン)の法は、四句を離れ百非を絶す。諦聴、諦聴。
無門日く、且らく道へ、是れ説法するか、説法せざるか。口を開けば即ち失し、口を閉ずれば又た喪す。開かず閉じざるも十万八千。
じゅに日く、
白日晴天、夢中に夢を説く。
捏怪捏怪、一衆をおう(言に狂)こ(言に虎のしたを乎)す。

仰山慧寂、い(さんずいに為)山の霊祐に継ぐ、併せてい仰宗の祖となる。夢に弥勒の所に行って第三座となる、とやこういわずにそういう夢を見たらいいです、俗人妄想と違うところを知って下さい、いきなり起ってこれはかくの如しとやるんです、諦聴諦聴。白鎚とは今でもわずかに晋山式に持ち出す。木柱と掌にすっぽり入るほどの木鎚です、かちんとやって法を説く。宗門からまったく法は消えて白鎚だけが残ったとは、こりゃまったくお笑いにもならんです。口を開けば即ち失し、口を閉じれば即ち喪すと、開かずと閉じずも十万八千、迷って山河のこを隔てるんですか、はいようっといって遠慮会釈なしつうかあすりゃいい。夢中に夢を説くこと、十年三万六千日夢。彼岸にわたりきったら此岸も彼岸です、口を開くにものうしですか、語を追うのなにがなしか、たとい出入り自由もかすっともかすらないんです。ねっかいねっかい一衆をたぶらかす、はい元来たぶらかされんことを知る一箇半箇。

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2009年7月27日 (月)

無門関

二十四、離却語言

風穴和尚因みに僧問ふ、語黙離微に渉り、如何にせば通じて不犯なる。穴云く、長えに憶ふ江南三月の裏、車しゃ(庶に鳥)こ(古に鳥)啼く処百花香し。
無門日く、風穴機せい(制のしたに手)電の如く、路を得て便ち行く。争奈せん前人の舌頭を坐して不断なることを。若し者裏に向かって見得して親切ならば、自ら出身の路有らん。且く語言三昧を離却して一切を道ひ将ち来たれ。
じゅに日く、
風穴の句を露さず、未だ語らざるに先ず分付す。
歩を進めて口なんなん(口に南)、知んぬ君が大いに措くことなきを。

長しなえに憶う、江南三月の裏、しゃこ啼く処百花香し。依草付木の精霊ですか、そうでなければかつかつに可。いい風景だ心地よいなどいう、腐ってます、ぶった切ってサメにでもくれてやりゃいいです。言うのと黙っているのと両方とも微妙を失う、どういうことですかさあ答えて下さい。云っても云わずともとは聞いたふうの知ったかぶりです、云うも云わずももとこれと、いったいだれがもとこれだって云うんです、黄檗のように一掌を与えるに是しですか。ぶらぶら遊んでるひまないんですか、それとも遊戯三昧ですか、ではもって来て下さい、三十棒。今この世の中の針の筵地獄の沙汰の阿鼻叫喚を、禅だの悟ったの人はこうあるべきなんてかんしけつやってられるんですか。どいつもこいつもおれはおまえよりいいんだの、だからだのやっている。総じて不可、断じて許されるこっちゃないこと、一瞬でも省みたことがありますか。今日のおのれは昨日のおのれとまったく違う、日々新あってかつかつにこうあるんです、是とも不是とも云われんのです。一つ根本に考え直して下さい。仏とは何か。

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2009年7月26日 (日)

無門関

二十三、不思善悪

六祖因みに明上座、追ふて大ゆ嶺に至る。祖明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に投げて云く、此の衣は信を表す。力をもって争うべけんや、君が持ち去るに任す。明遂に之れを挙ぐるに山の如く動ぜず。蜘ちゅう(足に厨)しょう(りっしんべんに束)慄す。明日く、我は来たって法を求む、衣の為にするに非ず。願はくは行者開示したまへ。祖云く、不思善、不思悪、正与の時、那箇か是れ明上座が本来の面目。明当下に大悟、遍体汗流る。泣涙作礼し、問ふて日く、上来の密語密意の外、還って更に意旨有りや。祖日く、我れいま汝が為に説くものは、即ち密に非ず。汝若し自己の面目を返照せば、密は却って汝が辺に在らん。明云く、某甲黄梅に在って衆に随ふと雖も、実に未だ自己の面目を省せず。今入処を指授するを蒙って、人の水を飲んで冷暖自知するが如し。いま行者は即ち某甲の師なり。祖云く、汝若し是くの如くならば、即ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん、善く自ら護持せよ。
無門日く、六祖謂つべし、是の事は急家より出でて老婆心切なりと、譬えば新れいしの、殻を剥ぎ了り、核を去り了って汝が口裏に送在して、只だ汝が嚥一嚥せんことを要するが如し。
じゅに日く、
描けども成らず描けども就らず、賛するも及ばず生受することを休めよ。
本来の面目蔵するに処没し、世界壊する時もかれは朽ちず。

不思善不思悪正与もの時、那箇かこれ明上座が真面目。急家より発して下さい。是非善悪はお客さんです、去来するだけです、正与もの真面目お客をもてなす主ですか、これにぶち当たらなければ参禅も仏もないです。六祖以来の参禅問答考案往来に馴れて、さっぱり箇の本来を知らず、これただ常識の人です、こっちの岸にあって彼岸を云う、応無所住而生其心という絵に描いた餅ですか、額縁作って賛を入れて密語してなあなあ馴れ合いの自閉症ですか、血脈という紙ぺら一枚に猿芝居に、仏教もしあるとすればてめえの弁護のために使うという、どうにもこうにもの云う甲斐なしが、とうとう嘘とはったりの空威張りを見破られて、お寺も坊主も葬式稼業もおしまいですか、遅きに過ぎたです。世界壊滅しても彼は朽ちず、今こそ仏です、六祖の法を継いで下さい。

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2009年7月25日 (土)

無門関

二十二、迦葉刹竿

迦葉因みに阿難問ふて云く、世尊金襴の袈裟を伝ふる外、別に何物をか伝う。葉喚んで云く、阿難。難応諾す。葉云く、門前の刹竿を倒却著せよ。
無門日く、若し者裏に向かって一転語を下し得て親切ならば、便ち霊山の一会、厳然として未だ散ぜざることを見ん。其れ或いは未だ然らずんば、毘婆し(戸のノがない)仏早くより心を留むるも、直に而今に至るまで妙を得ず。
じゅに日く、
問処は答処の親しきに如何、幾人か此に於いて眼に筋を生ず。
兄呼べば弟応じて家醜を揚ぐ、陰陽に属せず別に是れ春。

門前に赤い幡を建てて法灯のある印とする、若し法戦に破れると旗を倒される、インドに古くからある習慣らしいです。阿難尊者第一回仏典結集に羅漢果を証して、鍵穴より入って一坐の前に、お釈迦さまとまるっきり同じに法を説いたという、以来二十年迦葉尊者についてようやく機熟するんです。世尊は金襴のお袈裟のほかに何か伝えたのかと聞く。求めていたものがふっ消えたんです、これなくんば仏といえぬ、迦葉ねん花微笑です、我に正法眼蔵涅槃妙心の術あり、あげて迦葉に付嘱すと、びばしぶつしきぶつお釈迦さま以前の過去七仏といわれる、もと円満に備わっているものが、なを証せずんば露われず。二年間身を横たえずという、一切事において迷わずは、たとい元の木阿弥もこれを得る、そう何人もいあなかったです、今の世一人半かけかろうじてですか、阿難と召す、阿難応諾す、倒却門前刹竿著、倒してこいという、阿難大悟す、あるいは三日耳を聾すとあります、世尊と云われる所以ですか、全世界全宇宙が手に入るんです。問処は答処にありという、往来するたんびに目ん玉に筋が入るってんですか、兄呼べば弟答えて家醜を揚ぐ、どうにもこうにもです、陰陽めりはり順序なしですか、ぼかっと春なんです。ないもの金剛不壊未来永劫にこうあるっきり。過去七仏に継いで下さい。

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2009年7月24日 (金)

無門関

二十一、雲門屎けつ(木に蕨のくさかんむりなし)

雲門因みに僧問ふ、如何なるか是れ仏。門云く、乾屎けつ。
無門日く、雲門謂つべし、家貧にして素食を弁じ難く、事忙しうして草書するに及ばずと。ややもすれば便ち屎けつを将ち来たって、門をささえ戸をささう。仏法の興衰見つべし。
じゅに日く、
閃電光、撃石火。
眼をさつ(目に乏)得すれば、すでにさ(足に差)過す。

かんしけつ、糞かきべらと言い習わして、出掛かってかたまった糞のこったとさ。強烈なのと妄想観念まさに他人のものを食って未消化のまんま出てくる糞、あるいは糞をひっかきまわしているが如くです、唾棄すべきさっさとひり出してきれいさっぱりすりゃいい。如何なるか是れ仏と、うんこのまんまかたまっちまったものを如何ともし難し、率直に示されてそうかっとすっきりなんにもなくなりゃ、是れ仏です。仏という身心のきわなし、坐っていてなんにもないんです、なんにもないを知れるなし。家貧にしてお粗末なものも食えん、事忙しうして草書の返事もなおざりにするという、仏仏教辺のこともとなし、そんなものありっこないと知る、じゃまるっきりも元の木阿弥です、取り付く島もないんです。閃電光撃石火とは、気がつくんですか意識の速さっていうのは、光よりも遅いたって人間が気がつくんです、ゼロなんですよ。気がつきゃ跡形もないんです。仏教を滅ぼすのは仏教を持って廻るからです、仏教滅んでも仏は同じ。宗門滅んで飯が食えなくなるんですか、そりゃ当然です、100年来仏教のブの字もなかったです、嘘とはったりの大威張りだけ、やたらかんしけつそのものですか、あっはっは化けの皮よくまあこれまでもったものだ。

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2009年7月23日 (木)

無門関

二十、大力量人

松源和尚云く、大力量の人、甚に因ってか脚を擡げ起こさざる。また云く、口を開くこと舌頭上に在らざる。
無門日く、松源謂つべし、腸を傾け腹を倒すと、只だ是れ人の承当することを欠く。たとい直下に承当するも、正に好し無門が処に来たって痛棒を喫せんに。何が故ぞ。にい(郷のしたに耳)。真金を識らんと要せば、火裏に見よ。
じゅに日く、
脚を擡げて踏翻す香水海、頭を低れて俯し視る四禅天。
一箇の渾身著くるに処無し、請う一句を続げ。

松源祟岳は臨済宗密庵或傑の嗣。大力量の人すなわち平常心是れ道です、なーんにもないんです、なーんにもないとは宇宙全体ですか、山の如くという大海の如くという、かすっともかすらないんです。ほんとうに身心ともに空zしきって坐って下さい。甚によってか脚を擡げ起こさざるという本来が手に入ります。口を開くこと舌頭上に在らざる。たいていの人思想是非善悪に捉えるんでしょう、思想是非善悪はただのお客さんです、去来するだけなんです、もとただこれ。どうしてもこの手付かずを知るのに手間隙がかかります。以無所得故をやまかがしが往来の人に飛び掛るように飛びつく、噛み付いて毒をもって制すという、初めから終いまでやっている、仏とは何かということを知らぬのです、みっともないかぎりです。すると坐がどこまで行こうが近似値ですか、近似値ほど遠いものはないんですか。忘我という手放しあっても元の木阿弥を獲得物質にする、つまりは得ないんです、得ない正解なんですがね。痛棒を喫せよという、飢えた虎に投げ与える、無為の真金たという一瞬をも火裏に見よという、過ぎてはまた戻る如く、香水海あり四禅天ありする、南天して北斗を見ると、渾身つけるに処なし、一句を云い持ち来たれ。

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2009年7月22日 (水)

無門関

十九、平常是道

南泉因みに趙州問ふ、如何なるか是れ道。泉日く、平常心是れ道。州云く、還って趣向すべきや。泉日く、向かはんと擬すれば即ち乖く。州云く、擬せずんば争でか是れ道なることを知らん。泉日く、道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶ほ太虚の廓然として洞かつ(害に谷)なるが如し。あに強いて是非す可けんや。州言下に大悟す。
無門日く、南泉趙州に発問せられて、直に得たり、瓦解氷消分疎不下なることを。趙州たとい悟り去るも、更に参ずること三十年にして始めて得ん。
じゅに日く、
春に百花有り秋に月有り、夏に涼風有り冬に雪有り。
若し閑事の心頭に柱くる無くんば、便ち是れ人間の好時節。

趙州和尚も十八歳に見性して長らくもんもんの日送りですか、この公案もっとも親切、だれかれまったく変わらないんです、どうか言下に悟って下さい。如何なるか是れ道と、ついに問うこと初参も三十年古参もはたしてこれが出来るかなんです、如何なるか是道と問いながらそっぽ向いている、そっぽ向いているとはどこかに答えがあるからです、是非妄想の人です。平常心是れ道と、直に得たり瓦解氷消分疎不下、ちらとも仏教らしいものがあったんです、取り付く島もなくなる、そりゃこりゃどうにもならんです。参ずる以前に帰るんですか、でも参ずる以前の人却って答え十通り百通りするんです、現実というどうやってこれが手に入るんですか、手に入る以前に現実まさにそのまんまです、実に大趙州も更に参ずること三十年です。かえって趣向すべきやと、どうしても趣向です、向かわんとすれば却って背く道理がわからない、四苦八苦して刀折れ矢尽きるんです。すると、道は知にも属せず、不知にも属せずと手を放すんです、知はこれ妄覚、不知はこれ無記と、放てば手に満てり完全するんです。若し真に不疑の道に達せば、200%信ずることは自分用なしです、お釈迦さまと同じに飢えた虎に食われてしまって下さい。猶ほ太虚の廓然として洞かつなるが如くと、どうですかまったくこのように坐って悟入悟出して下さい。あに強いて是非すべけんや、浮世の取り分なんにもないですよ、ミイラになって死ぬ覚悟がいっそいいんですか、州言下に大悟す。

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2009年7月21日 (火)

無門関

十八、洞山三斤

洞山和尚因みに僧問ふ、如何なるか是れ仏。山日く、麻三斤。
無門日く、洞山老人、些のぼう(虫に手のうえにつきぬけたやつ)蛤の禅に参得して、わずかに両片を開いて肝腸を露出す。是の如くなりと雖も、且らく道へ、甚れの処に向かってか洞山を見ん。
じゅに日く、
突出す麻三斤、言親しくして意更に親し。
来たって是非を説く者は、便ち是れ是非の人。

有名な洞山守初の麻三斤、だれでも知っているということはだーれも知らないということですか、知らぬもっとも親切、麻三斤肝腸をさらけ出す。仏とは何か、ほとけ。ぼうは蛤のでっかいやつですか、ぼう蛤の禅とは、仏というもとぜんたいです。二枚貝を開けばぜんたい、なんのかんのじゃないこれが出来ますか、後ろめたく省みるに忸怩たる、すなわちこれ人間ですか、だったら人間さらりとなげうって後始めて得べし、ようやく地球のお仲間入りですか、人間禅公案禅悟りのいい悪いの余計なことやっていたんでは、はるかに及びもつかないです。獲得することはたやすい、捨てることは大才が必要です、小物に用はないんです、いじくりまわしてろくなものにはならない、来たって是非を説く者はこれ是非の人。仏という手つかずを夢にだも見ず。この手つかずの故にああもいいこうもいいせにゃならんのは、ひとまずどうしようもないとして、そんなお粗末をもって参学となす、百害あって一利なし、云えば云うほどに遠く。

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2009年7月20日 (月)

無門関

十七、国師三喚

国師三たび侍者を喚ぶ。侍者三たび応ず。国師日く、将謂へらく、吾れ汝に辜負すと。元来却って是れ、汝吾れに辜負す。
無門日く、国師三喚舌頭地に堕つ。侍者三応光に和して吐出す。国師老ひ心孤にして、牛馬を按じて草を喫せしむ。侍者未だ肯て承当せず。美食も飽人の餐に中らず。国浄うして才子貴く、家富んで小児驕る。
じゅに日く、
鉄枷無孔人の担はんことを要す、累児孫に及んで等閑ならず。
門をささえ並びに戸をささえんと欲せば、更に須らく赤脚にして刀山に上るべし。

南陽の慧忠国師は六祖慧能に継ぐ。辜負するとは、せっかくのこころざしを無にするとある、どっかに負い目があってすんなりとは行かない、つうかあのはずがワンクッションあるんですか、なぜです。うぐいすの鳴き真似をすると必死になって鳴いてくる、しまいどうも申し訳ないから止めるけど、けっこう面白い。こがらやひよどりでも同じだ。そりゃ縄張り求愛のこったから相手は真剣だ。でもこっちに屈託あると鳴き真似にならない。趙州無字と同じむーっとそれだけ。国師於いて心孤独にして牛頭、あの世のお迎えさんですか、そやつに草を飼うっていうんです、なんとかして法を継がせたい、これで絶やすわけにゃゆかんといきおい老婆親切ですか、絶えりゃ絶えるほかないんです、因果必然ですか、美食も飽人、腹いっぱいの人にはどうしようもない、国師という待遇に侍者もあえて承当せずですか。お経を読んでいてぴったりと行く、まずもってそういうことなかったですか、なんとなしあったですか、ただもう読んでいりゃいい、もうなくなった尼僧の一人二人あったです、法として他に説くことないんですけれど、お経の間は断然たる師家でした。そういうことむかしからあったです、今はすっかり失せて、坊主どもこりゃもうどうしようもこうしようもないです。鉄枷無孔を担うよりはまずもって赤脚にして、刀の山を上るんです、幼い尼僧のお経修行はまったくそんなふうだったと思います。

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2009年7月18日 (土)

無門関

十五、洞山三頓

雲門因みに洞山の参ずる次で、門問ふて日く、近離甚れの処ぞ。山云く、査渡。門日く、夏甚れの処にか在る。山云く、湖南の報慈。門日く、幾時か彼を離る。山云く、八月二十九。門云く、汝に三頓の棒を放す。山明日に至って却って上って問訊す。昨日和尚に三頓の棒を放すことを蒙る。知らず過甚れの処にか在る。門日く、飯袋子、江西湖南便ちいんもにし去るか。山此こに於いて大悟す。
無門日く、雲門当時、便ち本分の草料を与えて、洞山をして別に生機の一路あって、家門をして寂寥を致さざらしむ。一夜是非海裏に在って著倒し、直に天明を待って再来するや、また他の与に注破す。洞山直下に悟り去るも、未だ是れ性燥ならず。且く諸人に問ふ、洞山三頓の棒、喫すべきか喫すべからざるか。若し喫すべからずと道はば、草木叢林皆な棒を喫すべし。若し喫すべからずと道はば、雲門またおう(言に狂)を成す。者裏に向かって明らめ得ば、方に洞山の与に一口の気を出ださん。
じゅに日く、
獅子児を救う迷子の訣、前まんと擬して跳躍して早く翻身す。
端無く再び叙ぶ当頭著、前箭は猶ほ軽く後箭は深し。

雲門は雪峰義存の嗣、洞山は洞山守初。どこから来た、査渡からです、夏はどこで過ごした、湖南の報慈寺です、いつそこを出た、八月十五日。汝に三頓の棒を許す、60棒食らわせるところだがその価値もないと云うんです。これ禅はこうだから、なんのなにふうに答えりゃという知ったかぶりでは、そりゃ痛烈一棒で門前払いです。質問だといってとやこうやって来る、甘やかされて育ってがきの三百代言をくっさあいらんといって追っ払うと、たいていそりゃ逆恨み、むきになって別口へ取っ付いたりまあさどーしよーもないです。どこから来たと問われて、はあっとおのれの掌を見る、どこからもなにをしたも頓に失せて、おれといういったいなんだったんだという、ただの現実というまったく生まれて始めての体現なんです、まか不思議ですか知らないというものみなです。一夜必死に提ぜいしておのれの過いずれにありやと問う、問うきりになり終わると答えがあるんです、二三十年参禅してもなんにもならぬ多々、一夜であろうが言下にであろうが大悟する人は大悟するんです、みなまたまったく同じとは自分不要だからです、とやこうおしめとっかえ引き換えから、蹴落とされて断崖絶壁、掴むものは虚空だけです、虚空端無く、死んでのちそりゃものみなまったく同じ、これ我が宗なり。

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2009年7月17日 (金)

無門関

十三、徳山一日托鉢して堂に下る。雪峰に、者の老漢、鐘も未だ鳴らず鼓も未だ響かざるに、托鉢して甚れの処に向かってか去る、と問はれて、山便ち方丈に回る。峰巌頭に挙似す。頭云く、大小の徳山未だ末後の句を会せず。山聞いて侍者をして巌頭を喚び来らしめて、問ふて日く、汝老僧を肯はざるか。巌頭密に其の意を啓す。山乃ち休し去る。明日しん(陛のつくりが升に土)座、果たして尋常と同じからず。巌頭僧堂前に至り、掌をふ(てへんに付)して大笑して云く、且く喜び得たり老漢末後の句を会せしことを。他後天下の人伊を奈何んともせず。
無門日く、若し是れ末後の句ならば、巌頭徳山ともに未だ夢にも見ざるなり。点検して将ち来たれば、好はだ一棚の傀儡に似たり。
銃に日く、
最後の句を識得すれば、便ち末後の句を会す。
末後と最初と、是れ者の一句にあらず。

こんなろくでもない公案はないと云ったら、公案好きがだから面白いんだという、およそ真実不虚面白いとは何事、日々まったく新しい故に面白い、心のかさぶたをひっぺがすぐらいの勢いで坐って下さい。昨日の我はまったく今日の我にあらず、たった今生まれ出るよりない、無心とはこれ手つかず。大小の徳山托鉢してとは、鉢の子を掲げて食堂に行くんです、物の応ずる如くにただこれさしさわりがないんですか、巌頭の傀儡政権にも預かってまさにかくの如し、雪峰がらちあかんじゃとんだ恥っかきですか、雪峰たいへん徳山迷惑、巌頭はそんじょそこらの生半可じゃない、実にしっかりしているんです、天下の人伊を如何ともし難しは、徳山あり巌頭あり虚空あり、末後の一句だのたわけたことは吹っ飛んでしまうんです、自分という架空の皮を一枚でも二枚でもひっぺがして下さい、我今始めてごう山成道は、天地はるかに自分というひっかかりとっかかるが失せるんです、そりゃもうなんともかーとも大声に連呼するよりなく、はい末後も最初もこれです。

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2009年7月16日 (木)

無門関

仏教というのは仏というなにか他にあるんじゃない、目標は自分です、至り得れば解消するというよりなーんにもないんです。神のしもべだのいいことしいがなく、自分を律しようにも手がかりなしです。じゃどうすればいいかといってどうしようもこうしようもないです。主人公と呼ぶ応諾する、その間に他人、第三者という標準が入らないんです。できますか、主人公と云って忘れはいといって忘れ去る、もっとも親しいこれではなんのためにそんなことをする、主人公、はい、他に瞞着されるな、はいはい。わっはっはおんもしろいでしょう、毎日毎日やって下さい、さっき変な人が来て提唱中断したですが、観音様がある、魂入ってるから女房がこわがる、どうしたらいいかってんです、もったいつけて二度三度する、はーいよろしいようにっておっぱなしたら帰って行った。けるつけばおしまい、つかなかったらまたどっかのお寺へ行く。なんでかなあって思うです、人のやってることおおかたこんなふうかも知れん。

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無門関

十二、巌喚主人

瑞巌彦和尚毎日自ら主人公と喚び、復た自ら応諾す。乃ち云く、せい(りっしんべんに星)せい著。諾。他日異日人の瞞着を受くること莫れ。諾諾。
無門日く、瑞巌老子自ら買い自ら売って、許多の神頭鬼面を弄出す。何が故ぞ。にい(漸に耳)。一箇の喚ぶ底、一箇の応ずる底、一箇のせいせい底、一箇の人の瞞を受けざる底、認着すれば依前として還って不是。若し他に傲はば、惣に是れ野狐の見解ならん。
じゅに日く、
学道の人真を識らざるは、只だ従前よろ識神を認むるが為なり。
無量劫来生死の本、痴人喚んで本来人と作す。

瑞巌師彦は巌頭の嗣。これ若し他に習はば、惣に野狐の見解ならんということです、たいていの人これを見るにははーんとどっか納得する、落第です。

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2009年7月15日 (水)

無門関

十一、州勘庵主

趙州一庵主の処に到って問ふ、有りや有りや。主拳頭を竪起す。州云く、水浅くして是れ船を泊する処にあらず。便ち行く。又た一庵主の処に到って云く、有りや有りや。主も亦た拳頭を竪起す。州云く、能縦能奪、能殺能活。便ち作礼す。
無門日く、一般に拳頭を竪起するに、なんとしてか一箇を肯ひ一箇を肯はざる。且らく道へ、ごう(言に肴)訛いずれの処にか在る。若し者裏に向かって一転語を下し得ば、便ち趙州の舌頭に骨無きを見て、扶起放倒大自在なることを得ん。是くの如くなりと雖もいかんせん、趙州却って二庵主に勘破せらるることを。若し二庵主に優劣ありと道はば、未だ参学の眼を具せず。若し優劣無しと道ふとも、また未だ参学の眼を具せず。
じゅに日く、
眼は流星、機はせい(制に手)電。
殺人刀、活人剣。

これもっともむずかしいものの一つです、これにひっかからない人はぼんくらか相当の達者かですか、凡くらになり終わって是という、ではなんの役立たずのでたらめですか、仏教はどうした忘れたといって、眼は流星のよう機は電光です、ただの人になり終わる時節、雲のように花のように鳥でありけものであり、生まれ本来仏は、ようやくにして仏足石の上に立つ、如来来る如しのお釈迦さまです、七歩歩んで天上天下唯我独尊です。悟り終わったら停泊しやすいんですか、悟り終わらずんば居所なしですか、よくよく自ずから知る、わしのようにそうさな寺追い出されて行くところなし、ホームレスも億劫となると、こいつは笑えるですあっはっは。

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2009年7月14日 (火)

無門関

十、清税孤貧

曹山和尚因みに僧問ふて云く、清税孤貧乞ふ師賑済したまへ。山云く、税じゃ(門がまえに者)梨。税応諾す。山云く、青原白家の酒、三盃喫し了って猶ほ道ふ、未だ唇をうるほさずと。
無門日く、清税の輸機、是れ何の心行ぞ。曹山の具眼、深く来機を弁ず。是の如くなりと然雖も且らく道へ、那裏か是れ税じゃりの酒を喫する処。
じゅに日く、
貧は氾丹に似、気は項羽の如し。
活計無しと雖も、敢えて与に富を闘はしむ。

曹山本寂は洞山良かい(にんべんに介)の師併せて曹洞宗の祖。以無所得故菩提薩ったと心経にある、およそ参禅者としてまさにもって得難いところです、なんにもない、得るものなしこれ仏教なんです、必ずなにかしら得て、得たからには他にひけらかす、鳥獣山川そんなことしないんです。なんにもなくなるとは捨てて捨てて行く、とりわけ淋しいかぎりです。作り物は壊れもの、門より入るものは家珍にあらずと、架空の我というとりまきを去るんです。すると清税孤貧という言い草が残るんですか、首くくる縄もなし年の暮れ、もう一枚ひっぺがそうっていうんです。輸機とは相手に生殺与奪の権を与える手段ですか、どうだなんにもないんでちったあ振舞えってもんです。そんなことにひっかかる曹山ではない、おいって呼べば、応諾するだけ金持ちですか、青原は銘酒の産地という、青原行思のなんにもないを鱈腹飲んでおいてなにをこきゃあがるってなもんです。なんにもなくなるとようやく全世界宇宙我が物です、いつの世だって一人二人います、氾にくさかんむり丹は貞節先生と呼ばれた後漢の人、項羽は大英雄ですか、なんにもなくなりゃ気宇壮大です、ないがいいってんならこーんな楽なことはない、徹底無責任はーいだれでもなれます、手つかずただこれ急転直下です、飢えた虎に食われてまるっきりおしまい。

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2009年7月13日 (月)

無門関

㈨、大通智勝

興陽の譲和尚因みに僧問う、大通智勝仏十劫坐道場、仏法不現前不得成仏道の時如何。譲日く、其の問甚はだ諦当なり。僧日く、既に是れ坐道場、なんとしてか不得成仏道なる。譲日く、伊が不成仏なるが為なり。
無門日く、只だ老胡の知を許して、老胡の会を許さず。凡夫若し知らば、即ち是れ聖人、聖人若し会せば、即ち是れ凡人。
じゅに日く、
身を了ずるは心を了じて休するに何似ぞ。心を了得すれば身は愁えず。
若也身心倶に了了ならば、神仙何ぞ必ずしも更に侯に封ぜん。

興陽清譲は百丈懐海下八代。大通智勝仏十劫坐道場と、すべて通暁してもって仏法不現前ですか、馬の夜目の如く虎の欠けたるごとくして忘我に至らないんですか、よくそのように自分を省みる人がいます、まったく未だしです、思いももうけぬ自分即ち仏です、生活これ手放しの分ですか、譲日く、その問はなはだ諦当なりと、よくよく純熟することを見る、悟入し悟出する坐道場です、既に是れ坐道場、なんとしてか不得成仏道なる。成仏しないはずがないんです。成仏とは行ったっきりですか、するとこの世に説法の分がないんです、至り得帰り来たって別辞なし、柳は緑花は紅と落ち着かないんですか、なんのこれ不安の真っ只中、しかもまったくの手付かずです。強いて云えば自分という身心素通りですか、自分まったくなくお釈迦さまがあるんですか、虚空という着物を着る一瞬一瞬ですか、彼が不成仏なるが為なりと、どうですか出たり入ったりして下さい、ほんとうの救いはこれからだと云うが如くに。身を了ずるとは身が消えるんです、心を了ずるとはまるっきり省みないんです、神仙なんぞ必ずしも侯のに封ぜん、神仙もうらやましくないんです、あっはっはこれを味わってみて下さい。

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2009年7月12日 (日)

無門関

八、けい(渓のさんずいなし)仲造車

月庵和尚僧に問う、けい仲車を造ること一百ぷく(幅の車へん)。両頭をねん(てへんに占)却し、軸を去却して、なに辺の事を明らむ。
無門日く、若し直下に明らめ得ば、眼流星に似、機せい(制に手)電の如くならん。
じゅに日く、
機輪転うるところ、達者も猶ほ迷う。
四維上下、南北東西。

けい仲は夏の人、始めて車を馬に繋いだという、月庵善果は五祖法演下開福道寧の嗣。法綸を転ずるという、別に法綸としてあるものじゃない、ただこれ分析的科学的ドグマみたいなものに依らないんです、だれかれ論破狗するんじゃない、法綸を転ずるんです。両頭をねん却し、軸を去却する、それじゃなんにも残らないじゃないかと、なんにもなくなって始めて一箇です。なんいもないを観察しないんです。これ参禅のありようです、どうしても手段を仮り、行いすますふうです、するとそれが障りになって、眼流星機せい電の自在神通がないんです。ドストエフスキーは今の心理学的混迷の帰り道という、彼から入ってふたたび正邪ですか、いいように見えて不可能事です。朝四本昼二本夕三本それは人間だというスフィンクスの謎です。真実はないんです、陪審員による合議制です。すると一神教にさえ神による選良と受け継がれて、よしあし判断です、色付けです。作り物は壊れ物です。ラスコールニコフからムイシュキン公爵まで、もはやない心の故郷を追う、ピカソの青の時代が破裂する、むき出しの空疎です。アリョーシャという失敗作です。これなんぞ。心という有心の問題です。そうではないんです。心というもとないものを求めないんです。自分を見ない=自分の外だけです。両頭を去り軸をなげうつ、虚空まっただなかです、無心という眼流星機電光です、人格とはこれ、あながち人を要さないんです。ないものは金剛不壊、西欧思想じゃないんです。人ものみなのありようです。真実不虚。

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2009年7月11日 (土)

無門関

七、趙州洗鉢

趙州因みに僧問う、某甲乍入叢林、乞う指示したまえ。州云く、喫粥し了るや。僧云く、喫粥し了れり。州云く、鉢孟を洗い去れ。其の僧省有り。
無門日く、趙州口を開いて胆を見し、心肝を露出す。者の僧、事を聴いて真ならずんば、鐘を喚んで甕と作す。
じゅに日く、
只だ分明に極まれるが為に、翻って所得をして遅からしむ。
早く灯は是れ火なることを知らば、飯熟することすでに多時なりしならんに。

飯食ったら茶碗洗っとけという、他に仏の道はないかというにまったくないんです。わずかにちらともあれば滞る、すっからかんにして始めて趙州の肝胆を見るんです。乍入叢林、修行道場に入ったからには娑婆っけ失せるんです、鬚髪速やかに落ち白衣の坊主です、色気ないんです、ただこれを得んが為のまっしぐらです、ああでもないこうでもないだから云々がなんの役にも立たないことを知る。悟ること畢生の大事が、飯食ったら鉢を洗い去れと聴いてふわーっとなくなるんです。何がなくなったって自分用無しです、省みるとは廻りが自分なんです、大悟というあるいはたった一回きりです。うだうだ能書きの馬の夜目の如く虎の欠けたるやっている、記述し報告する必要はないんです、自知するに可。今の人法のあるなしを知るさえ万分の一ですか。第一言葉の使いようも知らないのは、自分というただもう取りとめもなく、甘やかされておむつ取替えしか物を知らない、うんちしょんべんってだけの人格ですか、こんなもの説得する気はないです、そういうのは右往左往世の害悪きり、どこか他へ行ってくれと云いたくなる、仏教は滅びるのか、いっとき姿を消すのかも知れぬ、仏は増えも減りもせんです、いつかまたこれを得ることがあるんでしょう、喫茶去が仏教だ禅だなど云って、やくたいもない言い草ばかり、そりゃ情けないっていうよりあっはっはこっちがとんだお邪魔虫。

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2009年7月10日 (金)

無門関

六、世尊ねん(てへんに占)花

世尊昔、霊山会上に在って花をねんじて衆に示す。是の時衆黙然たり。ただ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、吾に正法眼蔵涅槃妙心実相無相、微妙の法門有り。不立文字教外別伝、摩か(言に可)迦葉に不嘱す。

無門日く、黄面のぐ(貝貝にふるどり)曇傍若無人。良を圧して賎と為し、羊頭を懸げて狗肉を売る。将に謂へり多少の奇特と。只だ当時大衆都べて笑うが如きんば、正法眼蔵そもさんか伝えん。設し迦葉をして笑はざらしめば、正法眼蔵またそもさんか伝えん。若し正法眼蔵に伝授有りと道はば、黄面の老子りょ(門に呂)閻をおう(言に狂)こ(言に虎)す。若し伝授無しと道はば、なんとしてか独り迦葉を許す。
じゅに日く、
花をねん起し来たって、尾巴すでに露る。
迦葉破顔、人天措くなし。

花をとって示す、大衆黙然あるいは右往左往するんです、独り迦葉のみあって破顔微笑。さあこれが出来ますか、すっかり終わる、まるっきり卒業しえてあとかたもないんです。多子塔前に於いて世尊に出会うときに鬚髪速やかに落ちて白衣出家すとあります、大迦葉尊者微塵も疑いがなかったんです、昼夜に求め尽くして二年間というもの身を横たえることがなかったと云います、まことに大迦葉霊山会上今に至るまで、第一の兄師たるべきその右に出るものなし。ねん花微笑まさにこれありというんです、ねん花微笑せず、まさにもって他なしと云うんです。すっかりまったく終わるとはどういうことか、無一物中無尽蔵とは手つかずです、ただのこれ無悟の極意ですか、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけりという、まるっきり忘れ去っています、たれかあって問えばぶんなぐるんですか、なんというこのあほんだれという以外なく、知らんよ百万年やっとれという、どーもわしみたい杜撰説法にはほか思いつかない、弱ったもんさな毎週二人三人追っ払っている、取り付く島もないところへ取りつくやつはおらんか、なおさらぶんなぐってひっぺがえす親切、さあて如何。正法眼蔵涅槃妙心云々、はーいここへ置いたよ持って行きなうっふっふ。

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2009年7月 7日 (火)

無門関

五、香厳上樹

香厳和尚云く、人の樹に上るが如し、口に樹枝を含み、手に枝を攀じず、脚は樹を踏まず。樹下に人有って西来の意を問はんに、対えずんば即ち他の所問に違く、若し対えなば喪身失命せん。正いんもの時そもさんか対えん。
無門日く、縦い懸河の弁有るも、惣に用不著。一大蔵経を説き得るも、亦た用不著。若し者裏に向かって対不著せば、従前に死路頭を活却し、従前の活路頭を死却せん。其れ或いは未だ然らざれば、直に当来を待って弥勒に問え。
じゅに日く、
香厳は真の杜撰、悪毒尽限無し。
のう(ころもへんに内)僧の口を唖却して、通身に鬼眼を迸らしむ。

香厳智閑はい(さんずいに為)山霊祐の嗣。仏教という樹に上るんですか、手に攀じ足に登りしてついに手を放し足を置かずする、もとなんにもないものを知ろうとする、そりゃそうゆうこってす。懸河の弁も仏教を頼りにしていたんじゃ嘘です、一大蔵教も虚空そのものです。鎌倉時代の仁王像に、あの膨大なマッスとボリュームが空に見えるものがある、東大寺の仁王像とは雲泥の相違です。あるいは雪舟の絵を見る、悟りそのものが現ずるんです、狙ったって出来るものじゃない、本人が仏になる以外なく、仏足石の上に立つんです。手放しです。口でもって噛み付いているのを、祖師西来意、達磨さんはなんでここへ来たんだと問うのに答える。口を開けばまっさかさま。命失うんです。本堂の両柱にあうんの獅子がある、ライオンです毎日見ているこれが法戦問答ですか、口開けば喪身失命、口を結んでも同じです。いいですか能書き申し訳なけりゃ死ぬよりないんです、前後不覚これ。そんなものは人間以外鳥でも蛙でもやっています。かあつと内臓さらけ出してさっさと命失って下さい、はーいあとのこた知らんです。真の杜撰になれますよ、mixiの会話さえ杓子定規なんてあほみたいですよ。

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2009年7月 6日 (月)

無門関

三、倶てい(抵のてへんのかわりに月)竪指

倶てい和尚凡そ詰問有れば、唯だ一指を挙す。後に童子有り、因みに外人問う、和尚何の法要をか説かんと。童子も亦た指頭を竪つ。てい聞いて遂に刃を以てその指を断つ。童子負痛号哭して去る。てい復た之を召す。童子頭を廻らす。てい却って指を竪起す。童子忽然として領悟す。てい将に順世せんとして、衆に示して日く、吾れ天竜一指頭の禅を得て、一生受用不尽と。言い終って滅を示す。
無門日く、倶てい並びに童子の悟処、指頭上に在らず。若し者裏に向いて見得せば、天竜同じく倶てい並びに童子とは、自己と一串に穿却せん。
じゅに日く、
倶てい鈍置す老天竜、利刃単提して小童を勘す。
巨霊手を擡ぐるに多子なし、分破す華山の千万重。

南嶽下天竜和尚(不明)の一指頭によって開悟す、なんで童子の指を切る可愛そうだ残酷だという、腕をぶった切るほどのことがないとそりゃ悟れんです、それほどまでのして悟りたいか、そんなのいやだと今の人百人が百人云うんでしょう、人類滅びに向かってまっしぐらですか、曹洞宗門などとうに滅んでいます。求道心もなくお寺の三代目は、生まれ着いての説教だだからおれは偉いんだなど、しゃばの世には通用しない自堕落、人を救うどころではなく、人格破壊精神病棟ですか。でもまあこれを得たいという人一人でもいりゃ一人でもやりゃいいんです、たとい地球滅亡しようがどうってこたないんです。一指頭を竪起す、竪てたその指がないんです、童子忽禅として領悟すと。バイク事故で足の親指を失った人がいた、風呂へ入るのも恥ずかくという、なーんだ足指が先に悟ったんかと云ったら、忽然悟るところがあった。巨霊神は中国古代の伝説、山を引き裂いて華山と首陽山を作ったという、手数いらんのです、真っ二つにして水流せばいい、むかしの仏像は仏足石だけだった、仏の足型を刻んだ平石です、その上にお釈迦さまが立っておられる、なーんだなんにもないじゃないか、風景雲に鳥に山川通行人が行くばかり。はいそれがお釈迦さまです、仏如来。あなたも足型の上に立ってごらんなさい、ほうら仏如来、まさにお釈迦さまですという、こんな完全無欠の彫刻はないんです。

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無門関

師晩に至って上堂、前の因縁を挙す。黄檗便ち問う、古人錯って一転語を祇対し、五百生野狐身に堕す、転々錯らざれば箇のなんにか作るべき。師云く、近前来、伊が与めに道はん。黄檗遂に近前、師に一掌を与う。師手を拍って云く、将謂らく、胡鬚赤と、更に赤鬚胡有り。
無門日く、不落因果甚と為てか野狐に堕す。不昧因果甚と為てか野狐を脱す。若し者裏に向かって一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生をかち得たることを知り得ん。
じゅに日く、
不落不昧、両采一賽。
不昧不落、千錯万錯。

仏教というなにかしらあるわけはないんです、禅あり悟あり教義あり教義別伝ありするんじゃないんです、強いて云えば因果必然を知るんですか、知るとは因果必然の中に身を置く、もとより身を置くよりないんです、大火聚の如く触れると大火傷ですか、因果とは何か捨身施虎です、思い切って全身をなげうって始めて得るとは無一物中無尽蔵です、花あり月あり楼閣ありです、なんにもないというもとっこなんにもないんです。苛烈です寸陰の身の置き所もなく、このときはじめて清々比類なき、実感なき実感です、たといどのような精神性明澄もはるかに及ばない、不落不昧両采一賽です、不昧不落千錯万錯です。達磨の鬚あ赤いか赤い鬚の達磨か、間髪なく一掌を与えて下さい。一則もおろそかにするなしは、一則まったく終わるんです、始めっからないんです。

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無門関

ニ、百丈野狐

百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦た退く。忽ち一日退かず、師遂に問う、面前に立つ者は復た是れ何人ぞ。老人云く、諾、某甲は非人なり。過去迦葉仏の時に於いて曾て此の山に住す。因みに学人問う。大修行底の人還って因果に落ちるや也た否や。某甲対えて云く、因果に落ちず。五百生野狐身に堕す。今請う、和尚一転語を代って貴へに野狐を脱せしめよと。遂に問う、大修行底の人還って因果に落つるや否や。師云く、因果を昧まさず。老人言下に大悟、作礼して云く、某甲すでに野狐身を脱して山後に住在す、敢えて和尚に告ぐ、乞ふらくは、亡僧の事例に依れ。師維那をして白鎚して衆に告げしむ、燭後に亡僧を送らんと。大衆言議すらく、一衆皆安し、涅槃堂に又人の病む無し。何が故に是の如くなると。食後に只だ師の領して山後のがん(品のしたに山)下に至って、杖を以て一死野狐を跳出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。

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無門関

透関を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫(きょう(穴かんむりに敷)を将って、通身に箇の疑団を起こして箇の無字に参ぜよ。昼夜提ぜい(てへんに斯)して、虚無の会を作すこと莫れ。有無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けどもまた吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久々に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん。且らくそもさんか提ぜいせん。平生の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ。若し間断せずんば、好だ法燭の一点すれば便ち著くに似ん。
じゅに日く、
狗子仏性、全提正令。
わずかに有無に渉れば、喪身失命せん。

無字を透ったという百人が百人まるっきりなってないです、許すほうが決まっていないのと本人が有耶無耶なんです、自分をぶち抜こうという意思が、見本通りににすりかわり、まあこのへんでという、あるいは公案あるいは禅宗無門関という、大学卒業資格のようななにものかあると考える。真正直じゃないんです、世間世渡りです、仏彼岸じゃなく利己此岸です。たといどんなに通暁しようとそれは嘘です。見るものが見れば一目瞭然です。仏は徒党を組まない、如来来たる如し、たった一箇まるっきりこうあるばかりです、悲しく淋しい限りというわけです、おれは坐禅何段だ今にわかるなど、下らないこと云ってるひまないんです、観音菩薩は世間すべての一音を観ずる、悲痛この上なしなんでしょう、それをしも無傷でいられるのは無心だからです、無心心が無いんあです、あらゆる一切が現じます、しかもなをかつ無いものは壊れない、金剛不壊=仏。とやこうとろくでもないことを云ってないで、まずもってこれを得て下さい。正令全提ただこれ。おれは得ただからといっているかぎり遠くて遠し、おれというものなく、だからの取り付く島もなし。

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無門関

一 趙州狗子

趙州和尚因みに僧問ふ、狗子に還って仏性有りやまた無しや。州云く無。

無門日く、参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。且らく道へ如何が是れ祖師の関。只だ者の一箇の無字乃ち宗門の一関なり。遂に之を目けて禅宗無門関と日ふ。透得過する者は、但だ親しく趙州に見えるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛あひ結んで同一眼に見、同一耳に聞く可し、あに慶快ならざらんや。

狗子犬に仏性ありやまたなしや、州云く無。仏を云う嘘八百を突然断じて下さい、むーとまるっきり仏丸出しは、鶯のほーほけきょでも蛙のがーこでも花の開く雲の行くも同じです、省みることなければ200%答えの完全無欠です、はいこれが地球のお仲間入り、平和といい戦争という無駄っこと抜き。
参禅はすべからく祖師の関を透るべし、あっちこっち自堕落手前かっての悟ったさん困ったさんです。第一に祖師が皆無です、印可底などいってやれ無事禅だ見性禅だの云う、下ぶっ切らにゃならんです、悟りにも見性にも遠くて遠し、まれでなってないのをおれはといって開き直る。仏じゃないです。花も雲も鳥もだからいいの、こうあるべきなんてつまらんこと云ってないです。なぜに人間だけがという基本問題です。祖関透らず心絶っせずんば、ことごとくこれ依草附木の精霊ならん。自然はいいのすばらしいの、神さまはどうの芸術詩歌だのよってもって現を抜かしている、それじゃあもって生まれた仏にほど遠い、如来じゃないんです。禅宗無門関をもってしてなを能書きト書きじゃそりゃどーしようもないです。わずかにこれあって長々し夜明けにけるかな、無明の夢を破るんです、せっかく七歩歩んで天上天下唯我独尊と生まれて、妄想の闇を右往左往してくんずれほんずれに一生を終わる、なんという情けない哀れなことですか。参禅とは無心です、心の無いことを知る、悟りだの印可だの洩って廻った隔靴掻痒じゃないんです、心はたった一つ、一つが一つを観察する、見ることの不可能、ゆえにゼロなんです、無心というこれを実際に知って下さい、夢覚の覚です、仏祖師と共に行くただこれが本来のために、生活も命も擲ってください、なんならたった今死んだっていいです、あに欣快ならざらんや、仏とはこれ。

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無門関

禅宗無門関

仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麻生か透らん。あに道うことを見ずや、門より入る者は是れ家珍にあらず、縁に従って得る者は始終成壊すと。いんもの説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡を抉るに似たり。何ぞ況や言句に滞って解会を求むるをや。棒をふるって月を打ち、靴を隔てて痒を掻く、甚んの交渉か有らん。慧開じょう定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。のっす(のうはころもへんに内)の請益に因んで、遂に古人の公案をもって門を敲く瓦子と作し、機に従って学者を引導す。竟爾として抄録するに、覚えず集を成す。初めより前後を以って序列せず、共に四十八則と成る。通じて無門関と日う。若し是れ箇の漢ならば、危亡を顧みず単刀直入せん。八臂の那だ(陀の口へん)他をさえぎれども住まらず。たとい西天の四七、東土の二三も、只だ風を望んで命を乞うことを得るのみ。設し或いは躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似て、眼をさっ得し来たらば、早くすでにさ(口に差)過せん。
じゅ(公に頁)に日く、
大道無門、千差路有り。
此の関を透過せば、乾坤に独歩せん。

人間が人間としてこうあるべきというにとどまらず、一箇一箇としてあるべきそれ自体です。もとこうあるそのまんまに帰り着くのに、能書き言い訳などいらんです、まっしんにあたるんですか、だからこうだおれはいいんだということ不要です、無門関とはこれ、ただじゃあただになれんのです、信仰や宗教や哲学や神や思想やの余語のことはいらんです。禅宗単純を示すんです、自分という観察関係の学問じゃないんです、無心です、心がないんです、ないものは金剛不壊です、門より入るものは家珍にあらずをほんとうに知って下さい、手続きはいらんです。なた三面六臂の阿修羅さんです。かくあれば大安心ですかあっはっは、乾坤に独歩して下さい。無門関もと門なし。

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無門関

表文

じょう(糸に召)定二年正月初五日、恭しく天基の聖節に遇う。臣僧慧開、預め元年十二月初五日に於いて、仏祖の機縁四十八則を印行ねん(てへんに占)提し、今上皇帝聖きゅう(身に弓)万歳万歳万万歳を祝延したてまつる。皇帝陛下、恭しく願はくは、聖明日月に斉しく、叡さん(竹かんむりに弄)乾坤に等しく、八方有道の君を歌い、四海無為の化を楽しまんことを。
慈い(壱に次心)皇后功徳報因佑慈禅寺、前住持、伝法臣僧、慧開謹んで言す。

じょう定二年は1229年、天基は天子、聖節は天子の誕生日。無門慧開は臨済宗月林師観の法を継ぐ。理宗より仏眼禅師の号を賜る。皇帝陛下はあなたそのものです、しかも私することのない公然です、まさしくそう思って下さい。そうして修行に邁進して下さい、ついにはただ修行のみ、さあこれ。

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無門関

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第一幾箇の注脚を添えるは、笠上に笠を頂くに似たりと、でっかく一則完結してこれをもってすべてです、狗子に仏性ありや、いわく無全宇宙無なんです、全宇宙有なんです、花の花開く、うぐいすの鳴くただもうこれっきり、自分を省みることがないんです、はたしてこれができるか、さあやってごらんなさい、言い訳も理屈もなしにただ突きつける、できればよし、できなければてめえの中に頭突っ込んで歩く不細工です。そんなもんに余計な脚注するとは笠の上に笠をのせる、無意味です、いざりに歩けといっておいて腰掛をあてがう愚。硬く習翁が賛揚ですか、無門関ができたじっさに賛をしてくれとせがむ、乾いた竹から汁を絞るようなものだ、すっからかんです、栄養分もいいところもなんにもないよって云うんです、人間やめたやつに人倫を説けというあほらしさ。こう(口に孝)は吠える意、吠え立てて無内容ですか、まったくの無内容是、ではならば不要ですよ、故に以って子供だましですか、ひっかかる間は役に立たないんです、仏教とはこれです、かすっともかすらなくなって始めて修行ですか、他の道徳宗教あるいは思想正義が有害無実の大騒ぎであることは、さんざくた歴史の証明するところです、よくよく鑑みて下さい、馬鹿につける薬はないんです。せっかく大腐心の末の余計物、こいつを江湖に落とすな、江湖すなわち今に至るまで修行道場です、それみたことか無門関だ壁巌だろくなことはない、そんなかすと仏を交換して省みないやから、いえ悟っただからのぐうたらばっかりの世の中です、爪から先の仏法なしとはなんたる情け無や。

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無門関

習庵序

道は無門と説けば、尽大地の人得入せん。道は有門と説けば、阿師の分無けん。第一強いて幾箇の注脚を添ふは、大いに笠上に笠を頂くに似たり。硬く習翁が賛揚せんことを要す。又是れ乾竹に汁を絞る。這些のこう(口に孝)本を著得す。習翁が一擲に一擲するを消ひず。一滴をして江海に落とさしむること莫れ。千里の烏すい(推のてへんの代わりに馬)も追い得ず。

習庵陳そん(土に員)宋の寧宗嘉定年間の進士、科挙の試験に合格すれば破天荒と云われるほどに、天子の補佐役であり実力ともn有名人であった、禅門を叩いてだれの会下であったか、これだけの序文なまなかのものではなく、序を以ってするにもっともふさわしい人物であった。道は無門、門なしと言えば尽大地の人みなまた門に入る、そりゃほんとうにそうなんです、だれかれみな無門関です、知ると知らずに関わらず余計者、外れ者なんかいないんです。悟り終わって悟りなし、もう一つも二つも悟って下さい、もう一千も万も悟って下さい。ついにはこれを知るすなわち、仏門に入る前とまったく同じであるとほどに。何一つ取りえなく、生活手段といえば托鉢のみですか、浮き世にのさばるいわれなきやから。道は有門と説けば阿呆の師、阿師おのれのことです、てめえの入る分がないというんです。よくよくこれを知って下さい。キリスト教も共産党も道徳もなにもかも一切有門です、すなわちいいわるいを四六時中やってるんです、妄想はいかんだからという、妄想のまんまいることが出来ない、有心のあとかたがつかないんです、いるかいないかと云われて、あるいはまったくいないんです。

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