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2009年5月

2009年5月22日 (金)

しんぎょう

故説般若波羅蜜多呪、即説呪日、ぎゃ(渇のさんずいを羊)諦、ぎゃ諦、波羅僧ぎゃ諦、菩提娑婆か(言に可)、般若心経。

故に般若波羅蜜多の呪を説くとは、即ち呪して云く、ぎゃーていぎゃーてーはらぎゃーていはらそーぎゃーてい、ぼうじそわか。ぎゃーていぎゃーていとは英語でいう have gone to,あるいはhave been to だそうです、早く行きなさい、到りえて下さい、ぱーらみーたー彼岸に渡って下さい、渡りきって下さい、これあってのちに初めてぼーでぃさっとば修行です、修菩薩行です、般若心経というのです。ようやく修行の途につきます、坐禅が坐禅になって来る時節です、それまでむちゃくちゃ試行錯誤ですか、どうあってもすぐ握り締め、悟ったといい悟らぬといい手放して行くことを知らないんです。それがちらとも知るようになる、一寸手放せば一寸の仏ですか、即刻返って来ます、それがおいそれとは行かぬと思って下さい、毎日朝に夕にあるいは五日七日間とぶっとうしに坐って、わうかに離れる、いわんや全体はるかに塵芥を出ずと、わかっちゃいるけど本来のものにならない、しかも自ずから知れりといいながら、絶えず判断を誤るんです、すなわち判断ある限り不可。もと自分というものないんです、飢えた虎に投げ与えればいい、虎に食われている間を参禅ですか、食われ終わってまったく我なしを仏ですか、仏仏を知らず、はーいどこまで行こうっがまっぱじめの修菩薩行です。

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2009年5月21日 (木)

しんぎょう

故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。

呪とはのろいというんではなしに、言葉な表せば他なしなんです、ものみなぜんたいを云う、一如です。彼岸に渡る心経スートラですか、彼岸に渡るもとに帰る心のありようです、付け加えたり形作ることのないものはたった一つ。無心の教えこれ是大神呪是大明呪、真実不虚です、よく一切の苦しみを除く。みなまた実証して下さい、なるほどと知ってのちに真実不虚能除一切苦です。納棺師がどうのとテレビに出ていた、葬式は究極のセレモニーだという、おんごんにしめやかにというんですか、いずれどのように音楽にし荘厳にしたとて嘘です、死と面と向かい合うことのないパロディ馴れ合いです。相撲がぜんぜん勝てない、モンゴル場所にすりゃいい、モンゴル人が人間の面をしている、かつて双葉山や栃若のほんとうの後継者だ。日本人の相撲取りはわがままで豚面している、おむつを取り替えて貰いながらいいのわるいの文句ばっかり云っている、言い訳申し訳人間、インターネットでもやってくる若い連中のほとんどがこれだ、仏教どころではない、そりゃ相撲やりゃ負けるに決まってる。自分を省みない、自分なしの世界をもって国技です。人の死ぬるのに嘘の申し合わせではない真正面です。坊主が猿芝居と化して、無心が有心になって、無ということの本来が不明になっている、仏の世界であった日本の伝統が滅びる、どうかなんとかして下さい、一人二人ほんとうに継げば次の世代に手渡すことができます、仏如来は衆を頼むことを必要としないです、一箇あればまさに仏の王国です、真実不虚です、能除一切苦です、この是大神呪乃至是無等等呪いつでもたった今でも必ずや花開くんです、片隅を照らすもの国宝なりと、いえ世界宇宙の中心です。

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2009年5月18日 (月)

しんぎょう

遠離一切転倒夢想、究きょう(境の土なし)涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿のく(来に辱)多羅三みゃく(くさかんむりに貌)三菩提。

みなまた転倒夢想ゆえにと、本末転倒です、妄想が悪いんじゃないそれを取り扱う自分がいる、いいえ取り扱われている自分があるんです。声色の奴卑と馳走すと云います、主はこっちなのに思想観念という客にのっとられている、どうしようもないこんぐらかりコングロマリットです、坐禅をする、四六時中妄想を追っかけている、これでいいのかと聞く、いいはずがない、いいかわるいかてめえでわかるはずが人頼みですか。妄想を追っかけ追っかけられていると思い込むそいつにけりをつけて下さい、けりをつけようなんとかしようとするといよいよ妄想まっくろけです。対峙を双眠すと云います、手をつけない工夫なんです。ただ坐りゃいいのにそれが出来ない、人みな大苦労しますかあるときはあっとなんにもなくなります、でもなんにもなくなったのを見ている自分がある、それじゃやっぱり不可です、悟ったという自分のスフェーレを後生大事に見守ったりする、次にはそいつが反乱を起こすんです。悟るなら百万回悟って下さい、悟らぬならどうしようもない根回しをぶった切って下さい。彼岸にわたりきる、風景だけあって自分がないんです、単純一つこと、気がつくとは次にはもうないんです、摩訶不思議三世諸仏、ものみなたなごころする、あのくたらさんみゃくさんぼだい無上正当菩提です、なんにもないのを知るものもなし、ゆえにもってあなたから過去七仏へ、そうしてお釈迦さまへと継ぐんです。

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2009年5月15日 (金)

しんぎょう

無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽。

無明もなく無明の尽きることもなしは、他の宗教にはないんです、もっともこれなくば宗教とは云えない、妄想だ悪いやつはポアしてしまえ、魔女裁判だ拷問して財産をふんだくれ式ですか、根拠があってやることは残忍で容赦がないんですか、無明もなく無明の尽きることもなしは、坐るんでしょうするとたった今で100%いいんですよ。自分以外のものは自分が死んでもまったく変わらないんでしょう、悟る以前も悟ったあとも同じです、だったらなんだなんにもならんじゃないかという、ほんとうになんにもならんのです、これじゃどうにもならん、満足できない、なんとかしようとして七転八倒する、たんびに元の木阿弥ですか、するとどうしようこうしようというものが失せる、手も足も出ないんです、ただうち坐るによって向こう合わせに来る、はあっと気がつく、身も心もまったくないんです、無明もなく無明のまっただなかにしてこうある、取り扱う自分が失せるんです、神変不思議です、摩か不思議という、200%自分ですか、あっはっはどうにかこれ仏です、仏の修行です、おれがいいおまえが悪いじゃないんです、自信満々という、そうではない自信がなくなる、何物も得てないんです、ただ無老死亦無老死尽を知る、生老病死また同じです、因果必然のまっただなかにあって、たたわわついに物を得ずです、なんの根拠もなく生きて下さい、なにがどうあるべき、堂あったらいいということがない、さあ生きて行かれますか、生きるということさえ知らないんです、おれは悟ったというときかたくな、始めっから安楽椅子なんてないんです、悟るとは強いていえば安楽椅子、転ばぬ先の杖を擲つということですか、若い人はまずもっておむつを脱いで下さい、人に文句云うだけの過保護役立たずじゃあ坐禅どころじゃないです、身心挙げてということはもと身心がないからなんです、木に登って魚を求める不都合、もとまったくにこの中にあり、仏の大海とは坐禅をする以前と同じなんです、飢えた虎に投げ与えること、特別はいらないんです。

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2009年5月14日 (木)

しんぎょう

無眼界乃至、無意識界。

目で見る耳で聞くという、教えられてそのように知っている、実際には知らないんです、そんな感覚器官はないです、にもかかわらず目で見る、見られる物と、見るこっちの区別、耳で聞こえる、どこから聞こえるなど、都合よく交通整理です、それを生活と云っている。実はまったく違うんです。自分という架空現象なんです。いったんこれを去ってごらんなさい。自分がないと云って捜して歩く人に、ぽんと打って、これだという、はあっと気がつく、もとまるっきりないんです。変だようあっちもこっちもないという、あるいは寝込んでしまったりする、茹でた蟹の七足八足するが如くという、手足動かしながらだれが動かすのかわからない、あるとないの区別がつかない、元の木阿弥状態です、不思議です、思いのほかにこうある、無眼界乃至無意識界です。これがほんとうです、ここにおいて真相なんです、ものみな掌するあるがまんまのオールマイティです、でもはじめはむちゃくちゃです、あんまりに従来の習慣が長かったんですか。無意識界という、意識するときそれを観察できないんです、にもかかわらずおれはこう考えこう云っただからとやる、すべてこれ間違いのもとなんです。心は一つです、一つの心がその心を見ることの不可能、一つがたった一つに返るすなわちゼロです、これを無心という、無心心がないんです。坐禅とはこれです。単を示すんです。仏教があり自分がありする、本末転倒事、百年川清を待つの譬え。

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2009年5月12日 (火)

しんぎょう

舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
諸法は空相なりと知るのは、そのゆえにだからという観念知識ではないんです、自分というよこしまを去って知るありのまんまです、どこかに色眼鏡あり我利我利に汚れる、趣向であり味わいであり天才だの個性だのいうそれがきれいさっぱりになる。淋しいんですか、気が遠くなるほどに空ろです。空ろに住するとただもうこれっきり。ちらとも見てあるときまったく空じ、あるとき我田引水ですか、とやこうすったもんだの末に仏ですか、応無所住、而生其心とたったもうこれっきりある、六祖禅師五百生の大善知識です。木の葉揺れずこっちがこう揺れ動く、清々比類なきことわれなくしてものみなです。これを云うに、不生不滅不垢不浄不増不減と仏の実感です、云うはじからすでに役立たず。

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2009年5月10日 (日)

しんぎょう

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五うん(くさかんむりに温のさんずいではなく糸)皆空 度一切苦厄

自在に観る菩薩、人また自分という殻を破って他のためにするあればこれ菩薩、自分という架空理論に振り回されて無差別殺人などする、あるいはおむつをして貰いながら世間親に文句百万だらの新成人ですか、そんなのは菩薩どころか人間の形してないです。坊主というお寺に生まれたから説教で、死出虫稼業にふんぞりかえって仏教のぶの字もない、嘘とはったらばかりの、そんなのも人間じゃない、いぎたなくだらしがないっきりです、求道心のない出家なぞナンセンスです、どうにもこうにもしようがないですか。およそ人たるあれば修菩薩行です、ついに自在に見る赤ん坊のようにまっさらに見るんです。とやこうのことはいらんです、おぎゃあと生まれて正にこうあるべき、他は二の次三の次です。物心つくにしたがいもって生まれた本来仏を離れる、なぜか知らぬ泳ぎ出して、淋しい騒がしい騒々しい架空の自分です。そうしないと世間を渡れない、しゃば世界という此岸です。いったんもとの仏に帰ってみよう、ぱーらみーたー彼岸に渡る、般若波羅蜜多です。般若の智慧とはこれを人為による習得批判等じゃないんです、ぱーらみーたーをいかに深く行ずるか、彼岸にわたえいきりこと=智慧です。目から鼻へ抜けるんではなくて目鼻なし、一を聞いて十を知るんではなくいっぺんに全てです。すなわち五うんは皆空と見て一切の苦しみ厄介ごとが消え去る。五うんという色受想行識うん、見え感じ思い行ない識るよりこんぐらかりコングロマリットですか、人類歴史社会宗教哲学云々生活ものみなですか、一個をがんじがらめに縛る人生そのものですか、生活という日常です。ほどけば仏、自縄自縛の縄を解く、身心脱落解脱の道です。

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2009年5月 9日 (土)

しんぎょう

摩か(言に可)般若波羅蜜多心経

まか、まはー大きいという意です、簡にして要を得ているというたったこれだけで仏教のすべてを尽くす、他にはなし、大心経です、まはー大には方所を絶し小には無間に入るという、即ち我れという架空のたがを外すんです、するとものみなと同事です、手に取った茶碗の中にころりと入っている、あるいは三十三天に到って雨降らすというほどに、蓋天蓋地無際限です、観念でとやこう納得じゃない実際です、ただこれ。般若波羅蜜多とはパーラミーター彼岸にわたるということです、三蔵法師が梵語をそのまま漢字にうつしたんです。彼岸にわたる、人間という概念観念化以前、自我の発生以前に戻したんです、元の木阿弥です、此岸から彼岸へ、色即是空の本来のありようを知る、心とはまさに他のことはなしというんです。それ故に大心経です、まかはんにゃはらみったしんぎょう、他のなんにもいらないというより、一切合財すべてがあるんです、心身のオールマイティです、嘘は云わんまずもってこれを見ろと説く。おのれを省みること。

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