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2009年3月

2009年3月31日 (火)

しゅしょうぎ

次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり。

自堕落我田引水の糠に釘ですか、さっぱり役立たぬことを知る、神さまがいないと何作っても中途半端と、ヨーロッパ人どもが嘆く、人間一人じゃなんにもできない、どうにもならんとは人間始まって以来の大問題です。自分を用なしにする、自分失せるにしたがい、摂律儀戒です、臣は君に奉し子は父に順ずという、順ぜざれば孝に非ず奉せざれば補に非ず、儀に従うべく儀に出入り自由です。摂善法戒、もとよりいいことしか出来ないんですよ、よしあしの判断を他人基準によらぬところが仏観音大士です、よろしくよく保護すべし、自分なければただこれ為人のところ、それ故に僧は勝友たりうる。坊主という寺に生まれりゃ説教という、世の中こんなろくでもないものはなく、嘘とはったりで塗り固めのごんずい塊、そりゃ仏教のぶの字もないです、すでにして滅び葬儀屋の使用人になり終わる、はいそんなもんと付き合っちゃだめです。

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2009年3月30日 (月)

しゅしょうぎ

此帰依仏法僧の功徳必ず感応道交する時成就するなり、設ひ天上人間地獄鬼畜なりと雖も感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、すでに帰依し奉るが如きは、生生世世在在処処に増長し必ず積功累徳し阿のく多羅三みゃく三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ世尊すでに証明しまします、衆生正に信受すべし。

帰依仏法僧とはあれこれ哲学歴史上の知識ではなく、たんにこれ帰依仏法僧です、蛙のかあと鳴くうぐいすのホーホケキョという、ただこれまるっきり他なし、無字の公案を用いる、用いるもなく用いる人も失せるときに始めて透過。これを悟ったといいなんとなればかくの如くと、見る人と見られる人の二分裂は百害あって一利もなし、妄想の延長をはいずりまわって、悟れ悟ったというかつてオウムの弊害はこれ、マインドコントロール辺の我田引水です。帰依三宝とはほど遠いことを知って下さい、大小無数の悟ったさん困ったさんの世の中です、どぶへはまったものはどぶへ突っ込んでおけという、自分一箇まず免れて下さい。感応道交とはいったんは忘我です、天才や直感やなどとは無縁のものです、自分ひとりよがりを免れること根本です。たとい天上人間地獄鬼畜なりともです、環境人種千差万別にはまったくよらぬこと、自分用なしをもって捨身施虎です。虎に食われりゃ痛い命を捨てるには惜しい、痛烈にこれを知って真正面です、神さまに捧げる等の安易あんちょこはないんです。そうしてこれを知る、生生世世在在処処に増長して下さい、日々脱し去り脱し去って下さい、昨日の自分はもうないんです、なんていう愚かであったという、感想といえばこれあるのみ。あのくたらさんみゃくさんぼだい無上正当菩提ですか、お釈迦さまですよ、お釈迦さまの底をぶち破って下さい、まずもってお釈迦さまに出会うにはこれ以外にないです。はーいお釈迦さまを印可したらついでにわしも印可して下さいあっはっは。

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2009年3月29日 (日)

しゅしょうぎ

仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、即ち三帰によりて得戒あるなり。

自然という山の緑も谷の声も我が釈迦牟尼仏の声と姿とという、自然があればいいという自然帰依では百歩襲いんです、自堕落を免れえないことがあります、腹ふくるるわざなり、あやしゅうこそものぐるほしけれという、たとい王朝バサラもいっぺんにしゃきっとする、三帰依です、仏の家に身を投げ入れるんです、自由気侭はないんです、お釈迦さまの手足でいいんです、たとい不惜身命です、はじめっから命なんかないんです、エスさまがいるからという虎の威を借る狐じゃないんです、独立独歩人の命です、喜怒哀楽即ち不惜身命なんです。葉隠れ武士もお国のために天皇陛下万歳もなを未だし、人に利用されているんでははなはだ心もとないです、ましてや人の命は地球より重いとなど、がんじがらめの身動きできないんです、さあ一箇とは何か、心行く参究して下さい、一生まったくにこれ悔いなしw知る。

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しゅしょうぎ

仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、即ち三帰によりて得戒あるなり。

自然という山の緑も谷の声も我が釈迦牟尼仏の声と姿とという、自然があればいいという自然帰依では百歩襲いんです、自堕落を免れえないことがあります、腹ふくるるわざなり、あやしゅうこそものぐるほしけれという、たとい王朝バサラもいっぺんにしゃきっとする、三帰依です、仏の家に身を投げ入れるんです、自由気侭はないんです、お釈迦さまの手足でいいんです、たとい不惜身命です、はじめっから命なんかないんです、エスさまがいるからという虎の威を借る狐じゃないんです、独立独歩人の命です、喜怒哀楽即ち不惜身命なんです。葉隠れ武士もお国のために天皇陛下万歳もなを未だし、人に利用されているんでははなはだ心もとないです、ましてや人の命は地球より重いとなど、がんじがらめの身動きできないんです、さあ一箇とは何か、心行く参究して下さい、一生まったくにこれ悔いなしw知る。

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2009年3月28日 (土)

しゅしょうぎ

早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。其帰依三宝とは正に浄信を専らにして或いは如来現在世にもあれ、或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す。

帰依するとは至心帰依、発露白仏です、神さまは絶対だから、いいものはいいんだから帰依するという、無理無体ではないんです、数を頼んでのお仕着せでもなく、情痴のよってくるところ、外道の制多じゃない、ただこれ疑いようがないからです、無上呪無等等呪大神呪大明呪能除一切苦真実不虚です、疑うならとことん疑って下さい、疑う自分の底をぶち破るほどに、いいですかついに自分用無死です、もとはじめっからにこうある、真実不虚の中にあって各箇かくの如し。菩提を成就するとは、各箇かくの如しがまったく解消するんです、なんにもないという本来意です、清々比類なきというんでははるかに及び難し、人々これを証拠するんです。如来現在世です、謹んでこれを受けるによく、合掌し低頭して云く、仏はこれ大師なるが故に帰依す、法は良薬成るが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依すと。これイメージングの世界じゃなんです、こうあるべきだからどうのの説明能書きじゃない、色即是空身心ともに脱落です。

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2009年3月27日 (金)

しゅしょうぎ

若し薄福小徳の衆生は三宝の名字猶ほ聞き奉らざるなり、何に況や帰依し奉ることを得んや。徒らに所逼と怖れて山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、彼はその帰依に依りて衆苦を解脱すること無し。

仏法僧に出会うことなければ救いなく、この世に生まれ出た意味を知らず、帰依するという真実無為をも知らず、どうにもこうにもの付和雷同右往左往の一生です。真実不虚信ずることはたとい100%なんです、3%ほど信じては信不信をさまよい歩く複雑怪奇ですか、そうではない信じ切ると忘れる、ものみな忘れ去ることで成り立っています。生活とはこれ、すなわち自然宇宙をよこしまにしないんです。所逼を怖れるたたるとか病気になるとか、創価学会風の弱り目に祟り目を利用する、新興宗教外道の制多いというろくでもないもの、銭かねと仲間意識しかない袋小路です、宗教とはさらにまったくこれです。ただの方法を知って下さい。今たった今目を見開いて見る、これ以外に救い救われる手段はないんです。衆苦を解脱すること如何、一箇半箇正に面と向かい合う、真正面の問題しかないんです。わき見運転じゃない、注意一生怪我一秒じゃないんです、たとい転んでもただでは起きないんです、ついには衆苦を掌する観音大師これはだれと参究する、答えはまっぱじめからたった一つ。

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2009年3月26日 (木)

しゅしょうぎ

第三章受戒入位
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易へ身を易へても三宝を敬い奉らんことを願ふべし、西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。

仏法僧という何か別誂えを人間がこさえたものではないんです、仏あり法あり僧ありは過現未永劫にこうあって、他にはない他は色付けです、真実はただこれ、信不信あるいは言葉に因るも拠らぬも関わりなく、ものみなただこれ仏法僧なんです、これを知らずば贋金を掴まされる如く、一神教や思想主義や天理教などと同じく、でっちあげをもって同じ羽の鳥を集め、数と権力というより暴力をもって、がんじがらめの不愉快です。もとこのとおりあるものは、他なく因果必然による、一騎当千ですか、たった一人よく保護し、たった一人もいない時でさえ、まったくに滅びないんです、さあよくよく仏法僧とは何かを見て取って下さい。仏の掌を見るが如く、あなたというそのものが仏法僧です、見るになし、なんにもないんですよ。おろそかにしちゃならん、等閑にしちぃかんです。

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2009年3月23日 (月)

しゅしょうぎ

我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん痴、従身口之所生、一切我今皆懺悔、是くの如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をしてしょう(金に肖)いん(タに員)せしむるなり。

我昔所諸悪業、皆由無始貪じん痴と、坐禅の俎板の上に載せて、とことん尽くして下さい、真正面に向かいあうと無い、逐一に結果を見て下さい。懺悔という人に白状したって、悔い改めたってそんなものは半分にもならんです、ちらとも残ればまた化けて出ます、だめなら死ねとほどに向かい会うんです、しかも結果を得ない、なんというどうしようもないやつ、おれはさっぱりお話にならんというときに、挙げて仏の家に入れあげて下さい、飢えた虎に食わせて下さい、自分用なしです、発露白仏です、これなくば坐禅にならんのです、坐禅参禅という言い訳申し訳、ひいては坐禅何段というようにひけらかす、もってのほかの罰当たりです。心念身儀とは思いのほかの事実です、体ごともって行かれる、捨身施虎なくば悟ろうたってそりゃ無理です。罪根が消滅するのは死んだらってこと。

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2009年3月22日 (日)

しゅしょうぎ

彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり、然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし。

順現報受順次生受順後次受の三時ですか、あの時どうしたこのときどうしたというよりも、痛切に感ずる、刃もて切るほどにです、すると懺悔ということがある、等閑にしない、できないんです。がきのころかごに支えして籾を撒く、雀が中に入るとばったんてやつです。逃れた雀は二度とひっかからぬ。人は反省会だの、生徒に反省文を書かせなどする、たいてい同じことを繰り返す、なぜか、痛棒を食らってもワンパターンです、監獄教育は監獄人間を育てる如く。懺悔ができていないんです。恥は鉄鋼より強いとある、命をもってする懺悔です、坐るよりないんです。坐ってまっさらになる、なんにもなくなるときに免れ出るんです、なんにもない自分を見ているんじゃ、なんの懺悔にもなっていない、担いで帰れと云われる所以です。しかあれば誠心を専らにしてと、即ち坐禅が坐禅になるのはこれが真正面です、わき見運転不可、注意一生怪我一秒です、たといわき見運転も死ねば同じですか、真正面の底をぶち抜いて下さい、前仏に懺悔とはもと仏であった自分に出会うんです、仏に報告すなわち懺悔、仏以外に懺悔しうる所なし、歴史という嘘八百、同じことの繰り返しはとうとう地球ごと監獄教育です、解き放って下さい、一箇半箇専らにするこれが勤めです。

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しゅしょうぎ

其大旨は願くは我れ設ひ過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏書祖我れをあはれみて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん哀れみを我れに分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。

大旨われらがありようこれ、過去の悪業無始劫来ですか、自分覚えのあるいは忘れ去っているさまざま、思い出すだに悪業ばかりです、わがままひとりよがり、思想の酒に酔いあるいはなをざり不真面目です、仏をかき汚し仏に返ろうとする心の障りにんる、たとい出家するだに自分で自分が許されぬ、しがらみのうちのしがらみですか、育ちまっすぐな人が早く解脱する、自分を捨て他人のためにという人が早い、まっすぐなんです、点取り虫がりがり亡者はひん曲がっている、坐相からしてそうです。もとまっすぐ真正面であったものを、まずもって元に復す、仏はほどけ、ほどきはなってやればよい、こうであってはならぬだからというのはもう一つ縛るんです、それよりも痛切に思い当たって涙するがいいですか。仏の掌がそっくり辺に乗せる。無尽法界に充満弥綸せらん哀れみとは、もとこの中におぎゃあと生まれたんです、それを損ない狭め傷だらけに歪む、心無心にして濁りの染まぬ露の玉を、身をもってまずは知って下さい、あるいは号泣に値する、仏は常に不変の仏、だれでもないあなたです。仏祖の往昔はわれらなり、われらが当来は仏祖ならん、はいこれが参禅の大旨です、他にはないんです。

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2009年3月21日 (土)

しゅしょうぎ

いんもするとき前仏懺悔の功徳力我をすくひて清浄ならしむ、此功徳能く無げ(石に疑)の浄信精進を生長せしむるなり。浄信一現するとき、自他同じく転ぜらるるなり、其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。

自分という形骸よこしまなしに坐るんです、坐禅はもしほかに何かあればうまく行かない、ちらともあれば身心のしこり、障りになります、なんにもないをもって標準にして下さい、標準という物差しをあてがうことは、なんにもないとは違います、しゃちほこばって枯渇です。前仏懺悔の功徳力です、父母未生前のおのれに参じて下さい、来し方行く末用なしです、染汚せずとは露の玉の如くですか、いいえなんにもないものは、壊れず汚れず傷つかず金剛不壊です。自分という無始劫来貪じん痴を今皆懺悔とは、雲散霧消するんです、難波のことは夢のまた夢、なんのだれがしは終わるんです、我というもの失せて如来が現ずる、来たる如しです、省みるに我なく省みる我なしです、ただこうあるとき浄信一現するんです、転ぜられるとは、たとい風景が自分でこっちをこう見ている、情非情まるっきり手つかずにあるさま、不思議な実際に意識さえ失せることがあります、すると実際とは何かということが手に入ります。その利益あまねく情非情にこうぶらしむ、仏のありようかくの如し、乃至は千変万化、仏の功徳界は讃揚し尽くし難し。

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2009年3月19日 (木)

しゅしょうぎ

第二章 懺悔滅罪
仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生をしょう(言に登)入せしめんが為めなり、人天誰れか入らざらん。

懺悔とは参禅です、言葉じりをもって是非善悪を問うのは、物差しをあてがっている自分そのものには届かないんです、徒に複雑怪奇になること、キリスト教の牧師みたいです、妄想をかきまわす糞かき箆ですか、妄想そのものの醜悪ですか。そうではないんです、広大の慈門というのは妄想主義主張あるいは宗派の別によらないんです、たといだれ何云ったろうが、母親が我が子をかき抱くようにする、生きとし生けるものいや生物無生物の別なく、広大無辺の慈しみです、愛というもとよこしまにするなし、たとい捨身施虎の如く、虚空に食い尽くされてなんにも残らない、なんにもない時になんにもないという自分がない、すると現成するんです、我と有情と同時成道です、一切衆生を証入せしむるほかに事してないんです、自ずからに為るというほどの意識もないんです、端に為にすという、ただ此れ取り付く島もなし、法を引っ担いで何をどうこうする手続きがいらんのです、触れるものみなとともにある、即ち自明の結果です、中途半端なんてものはない、たといなにあろうと元これっこっきり、糠に釘です、広大慈門まるっきり手つかず、人天誰れか入らざらん、はーいもとその中にあります。

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2009年3月18日 (水)

しゅしょうぎ

当に知るべし今生の我が身二つなし三つなし、徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん惜しからざらめや。悪を造りながら悪に非ずと思ひ、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。

仏道を求めるとは実にまさにこういうことです、今生の我が身二つなし三つなしとは、人みな痛切に知るものです、怪我すりゃ痛い病気は苦しい、身心をよこしまにするとは痛苦であり、他人をもまた風景自然をも巻き込んで不幸です。思想は主義主張宗教思い込みによらぬ仏教だけが、もとよりこれを免れる、生まれ本来生まれる以前、死んだ後もこれをまぬがれる、不染汚の法です、濁りに染まぬ露の玉のたとえのように万象をそのまんまです、ころころと転々するんですかたとい蓮の葉っぱの辺です。無心無身ないものは混合不壊です、傷つかず損なわれない、これを知ること即ち救いです、不生不滅不垢不浄不増不減、善悪業等のあるいはそのまんまに花開き、宇宙を空じ山川草木を掌する、かつてこのとうりあり、今もまさに如来としてこうある、無覚の覚です、たった今これを知るいつだってたった今です、邪思惟も悪業報もこれ取り付く島もないんです。いわんや感得をやと、仏はすなわち仏。

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2009年3月17日 (火)

しゅしょうぎ

善悪の報に三時あり、一つには順現報受、二つには順次生受、三つには順後次受これを三時といふ。仏祖の道を修習するには、其の最初よりこの三時の業報の理を効ひ験らむるなり。しかあらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但だ邪見に堕つるのみに非ず、悪童に堕ちて長時の苦を受く。

これをよくよく見て取って下さい、仏教仏道として他にあるものではなく、まったくに自分の取りえなしです、自分用なしの時に初めて、善悪の報に三時ありと知るんです、色即是空自分よこしまの色眼鏡を外して下さい、物理法則よりも確かに一刀両断です、取り付くしまもなくただこれ善悪の報なんです。いいですか、栂野の明恵上人は紅葉の上に坐す姿が描かれていますが、耳がない。天竺へ行こうとして果たされず、罰だといって自分の耳を切った。今の人これをむちゃくちゃと云うか、でたらめというか、しかし因果を知る人明恵上人です、現代のだれかれ曖昧能書きばかりで、却って因果のいろはも知らないんです、痛烈に省して下さい。もしこれなくば邪見です、我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。とただこれあり参禅です、他になにかあると思うだに不可、公案百則たとい一千透過したとて、自救不了はどこかにてめえ頭なでなでする甘えです、因果必然ちらろもあれば流血、吸毛剣は触れりゃ切れるいえもとぶった切られています。邪師は付け足す、自分というつけたしこれ長時の苦を受けるのみです。

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2009年3月16日 (月)

しゅしょうぎ

造悪の者は堕ち、修善の者はのぼる、毫りもたがはざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。

因果必然によって生きる、そりゃ当然のことです、これあればかれありという、因果をひもとくんではなしに、当然の結果です、これを無視したらめちゃくちゃです、今の世大小となくめちゃくちゃですか、我田引水てまえかっての、赤信号みんなで渡れば怖くないふうの、根腐れ病が嵩じて、たいていこりゃ坊主がまっさきですか、ごんずいかたまりに固まって、お釈迦さまも道元禅師もないです、ついには滅びるよりない。造悪の者とは閉ざされた系です、ひとりよがりせんずりまんずりに世界ですか、修善とは、おのれをさしおいても他が為にという心です。人間の命は地球よりも重いと云い出してから世の中悪たればっかり、命を鴻毛の軽きに置けと云ったむかしは、なつかしく純正な人々が多かった。因果忘じて虚しからんが如きはと、おむつを取り替えて貰いながら文句百万だらの新成人ですか、いえ大人から老人までおおよそそんなふうです。国が滅んだらどんなに惨めか、少なくとも国を守るためには多少の犠牲を払う心がけです。はい仏道とは仏教とはそういう人が習うんです、民主主義履き違え、自分という曖昧どうしようもならんのは、そりゃなにやらしてもどうしようもならんです。マスコミもあるいは現代の旗手という連中も、ただもう醜悪みっともないかぎりですか、戦争に負けて100年、すでに折り返し点を過ぎています。

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しゅしょうぎ

今の世に因果を知らず業報を明きらめず、三世を知らず、善悪を弁まへざる邪見の党侶には群すべからず、大凡因果の道理歴然として私なし。

仏教を知るとは因果を知るということです、そのほかにまったくなし、仏教らしいことなに一つないんです、ここをたいていの人釈然としないんです、必ず何かあるという、あるらしいことを云って、云く無でさえ有にこじつける、これは本当を知らないから予想して慮る、つまり自分が有心なんです、まるっきり思いも及ばないんです、ではまるっきり思いも及ばないものこれ。自分とは何か、取り付く島もなし。たとい因果必然だけがあるんです、因果応報を推量するんじゃない、そのまっただなかにあるんです、あるいは業火の燃えるが如くです。これを免れようとて、宗教だの神さまだの、あっはっは仏さまだのする、かえって間違う傷を深くするだけです、エスさまに頼っていりゃあとて虎の威を仮る狐ですか、なんにもないところ、因果必然に不惜身命ということを知らない、卑怯です。ましてや共産主義だの哲学思想だのいう、現実にそっぽを向いていいことのあろうはずがないんです、世界平和のために、自殺者や悩んでいる人に助けをという、お題目を唱えりゃ救えるんですか、実際にできることをする、空理空論ではない、ではちらとも証拠して下さい、自分に何ができるか、できるかぎりを尽くして、自分自身の生死を問え、とうてい許されぬ、断じて不可というなら、生きながら死ぬ方法がかつかつ残されています、ある人地獄を問う、予答えて云く、身に咎あるを地獄という。ある人極楽を問う、予答えて云く、身に咎なきを極楽という。あるひと仏を問う、予答えて云く、身心なきを仏という、身心なければ死人と同じではないかと云われて、しかり死人と同じ、これわが宗旨なりと。

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2009年3月14日 (土)

しゅしょうぎ

紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするにしょう(足に従)跡なし、熟つら観ずる所に往事の再び逢ふべからざる多し。無常忽ち到るときは国王大臣親じつ(目に巨のコを若)従僕妻子珍宝たすくるなし、唯一人黄泉に赴くのみなり、己れに随ひ行くは只是れ善悪業等のみなり。

過ぎ去ったことはもはやまったくない、これを知るは本来救いです、過去を引きずり自分という性格習癖、よっておこるさまざまこんぐらかりコングロマリットをもって我とする、夢のまた夢です、なんにもないんです。強いて云えばおのれ如来の生まれ変わりです、如来来たる如し、母親の胎内から出て浮世この世のお仕着せを着る、十年何十年腐れおんぼろけ悪臭紛々ですか、ではそのお仕着せ皮袋を脱ぎ捨てりゃいいです、身心虚空そのものになり切って、破家散宅破れほうけの自由自在です、手の舞い足の踏む所を知らず、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありです。国王大臣親じつ従僕妻子珍宝架空のものです、難波のことは夢のまた夢、善悪業等という縄にも縛られない真実底です、不思善不思悪正よものとき、なこかこれ明上座が真底、はい命がけに参じて下さい、直きに得たり茹で蟹の七足八足するが如くと、我という思い込みがんじがらめが去るんです、変だなあってんでどうもこうもならんぐらいに。

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2009年3月13日 (金)

しゅしょうぎ

最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私に非ず、命は光陰に移されて暫らくも停め難し。

せっかく身心を得るとはたったおのれ一箇です、観念に踊らされ世界平和の宗教のやれなんとやらの、頭の中身ばっかりの右往左往は、みっともないというより百害あって一利なしです。うぐいすのようにホーホケキョと鳴いてごらんなさい、烏のかあでもいいです、我を忘れてまるっきり省みるなしの時、世界平和のなんたるかが始めて手に入ります。自分を救い人を救いうるとは何か、そうか人類以外のすべてが救うも救われるもなく生きていたんだなと気がつく。わずかに自分が成仏すればすべてが仏なんです。ただこれ実地を踏むこと。仏足石の上に立って如来であることを真実にして下さい。無常の風に任せるには身すでに私にあらず、命は光陰です、光陰は光陰を味わうことなし、瑠璃の辺に玉を転がす如くですか、悟ったといって一瞬停まればすでに逆らう、光陰虚しく過ごすこと勿れです。ましてやてめえ思い込みの醜悪をもって他をあげつらうこと下の下です。仮想敵国じゃない、仏の王国です、北朝鮮になるんじゃないです、自分は北朝鮮じゃないと云い切れる人、はたして一人二人いるか。

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2009年3月12日 (木)

しゅしょうぎ

人身得ること難し、仏法値ふこと希れなり、今我等宿善の助くるに依りてすでに受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇ひ難き仏法に値ひ奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし。

人間に生まれることをさして有難いとも思わず、かえって厭うほどの世間ですか、でも人間に生まれることこの上もない幸せです、生まれ変わり死に変わりしてまた人間の生を受けるか、はなはだ覚束ないです。仏法に出会うことはその上の難事です、人間に生まれた目的は仏になることです、そのほかにはない、仏になって全世界を救うんです、一箇仏になれば一箇全世界、地球宇宙が掌する、はいまったく蘇るんです、大死一番大活現成これ、成仏これ、無数の人間の中のたった一人という、いえ一人また二人成仏する以外に全世界を救う方法はないんです。世界平和を叫んだってかえって戦争の種です、歴史が証明するところです。虚しく騒がしいだけです、はいあなた仏になって下さい。地球宇宙が迎え入れてくれます、ようやく人生であることを知る。あいがたき仏法、浜砂の一握の中の一粒にも及かぬこと、全世界見回したって仏教を云い仏を云うお騒がせ困ったさんだけです、仏は皆無です。まさに仏にあう我らを願うべし、まっしぐらに精進して下さい、必ず得て下さいそのほかになんにもないんです、まっぱじめっからこれ。

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2009年3月11日 (水)

しゅしょうぎ

これは道元禅師正法眼蔵の抜粋です

生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但だ生死即ち涅槃と心得て、生死としていとふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。

これ参禅のすべてです、臨済宗印可底であり仕上がったという人、かえって生死をあきらめず、俗物と同じ右往左往は実にみっともないです。大死一番大活現成は絵に描いた餅じゃないです。公案を解こうが無字や隻手妙音もいっそなんにも役に立たない。すべからく初心に帰ってもういっぺんおのれはいかにということです。生死はものみなすべて生死です、もてあそばれていないんです、生死の波間に生死となって揺られもまれする、かえってこれ生死を知らず、無計画であり理由因縁を見ず、まるっきりその日暮らしですか、舌頭たたわわとして定まらず、ついにものを得ず。よく物真似を脱して下さい。生死の中に涅槃あればといって、静かな平穏無事を習うもってのほかの罰当たりです、まずもってそういう自分を失い去る、破家散宅からです。生死としていとうべきもなくとは、虚空という飢えた虎に身心を投げ与えるほかにはなく、通身激痛も七転八倒も其の中に身をさらして下さい。自分なければ痛くも痒くもなんにもないとはこれが激痛苦難が指標であり標準です。てめえを糊塗してらしくの猿芝居は、葬式坊主の唾棄すべきおよそ人間の格好をしないものを作る、先生という嘘八百の思考停止じゃないんです、ただ一大事因縁とたとい棺桶に入るまでも究尽して下さい。動静の坐禅という、ただもう坐るしかないんです、常住坐臥という、自分のなりふりを観察しないんです、来し方行く末もないです、ただもう真正面まっしぐら、てめえの頭なでなで○をつけるなど、赤ん坊はしないんです、大人という破れ腐れ衣脱ぎ捨てて下さいはい皮衣一枚剥げばなーんにもなし、かつがつあーんにもなしが存在理由です、夢にだも見ぬものです。

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2009年3月 9日 (月)

ふかんざぜんぎ

久しくいんもなることを為さば、須らくこれいんもなるべし、宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん。

妄想意見何のかの、生活習慣病すったもんだあったとて、これありこれをやり遂げるただこれです、なにしろ坐って結果を出して下さい、手前味噌の善いの悪いのをしないんです、手前判断はすべて間違いです、判断する自分がある間は、坐禅にならんです。単純を示すこと、二心なし、自分を省みる自分がないんです。あいつもずいぶん叩かれたからなあという、叩かれることだけが退歩の術です。朝打三千暮打八百ついに自分という取り得がまったく失せるんです、すると宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん、まさにこれを受く、ねん華微笑底があります。けちなこと思わないんです、死ぬこと意外に方法はないです。白州次郎よりは鯨太郎です。大きくなって自分というたがを外れる。棺桶に入って仏ですか。

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2009年3月 8日 (日)

ふかんざぜんぎ

直指端的の道に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏仏の菩提に合とう(踏の足がない)し、祖祖の三味を嫡嗣せよ。

直指端的の法なんです、この道以外にはないことを知ってはじめて参禅です、自分流ひとりよがりはないんです、坊主と学校の先生はたいてい次第に偉くなる、鼻持ちならないのは、従前の我を認めて、ちょうど直指端的の反対ですか、ものまね観念生活、うそとはったりに終始する、しかもそれに気がつかない、どうしようもないじっさばっさに成り終わるんです、世の中のくずこれ。精進とは何か、我昔所造悪業、皆由無始貪じん(いかり)痴、従身口之所生、一切我皆今懺悔と、何をやってもやらいでもどうしようもない、どうしようもないどうにかしてくれえと、身心挙げて坐る以外にない、始めはそうしたからって始めも終わりもないんです、わずかにゆるがせにすればもうどうしようもないんです。絶学無為の人を尊貴して下さい、他には一切目もくれず、人類あらゆるこれ余計物とほどに、歴史というがらくた、あるいは業火に燃える火の如くです。仏仏の菩提に合とうし、祖祖の三昧を嫡嗣する、かつがつに息付くんです、他になんにもありはしない、良寛に会い一休に会い大とうに会い道元禅師に会いする、ほかに一生何らの意味もないんです。梅の咲くころに梅渓という大とうのレプリカを手に入れた、そうかい梅渓なあ自らに彷彿とする。

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2009年3月 7日 (土)

ふかんざぜんぎ

しかのみならず、形質は草露の如く運命は電光に似たり。しゅっ忽として便ち空じ、須ゆに即ち失す。翼くは参学の高流久しく模象に習って、真龍を怪しむこと勿れ。

死ぬというなんにもなくなるんです、しゅっこつとして便ち空じ、しゅゆに失す、これ仏です、死ねばいい大死一番してという、意図あり慮りあるうちは役立たず、死ぬという甘えの辺に身を置いては、そりゃひとりよがりです。なんにもない醍醐味を味わうにはまったくになんにもないんです。なんにもないと知るものなく、見るものなくです。どうかまっしぐらにおやり下さい。久しく模象に習って真龍を怪しむことなかれ、参学の高流も絶えて久しいんですか、参学という物真似なんですか、曹洞宗のように命脈すでに尽きて猿芝居と、ふんぞり返って御坊稼業ですか、ただもうばかったい人間の格好もしてない集団、たといそうではなく、求めるには求めてもまったく真龍には届かぬ、もしやしてそれが現代流だったりします、根っから腐って偽者、嘘ばっかり、いいですかたとい現代流だったって、嘘じゃあ死ぬまで嘘ばっかりです、毎日一枚あて脱いでラッキョウの皮ですか、ついにはなんにもないに逢着して下さい。常識の至るにあらず、むしろ思慮を容れんや、手前味噌の頭なでなでしていないんです、仏仏に単伝すとはまさにこれ、もとかくの如しには違いぬが、手前味噌では皮つら一枚剥けないんです、清水の舞台から飛び降りるほどでやっとこさ死ねます。

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2009年3月 6日 (金)

ふかんざぜんぎ

なんぞ自家の坐状を忘却して、みだりに他国の塵境に去来せん。もし一歩を錯れば当面にさ(足に差)過す。既に身心の機要を得たり、虚しく光陰を度ること莫れ、仏道の要機を保任す、誰れか浪りに石花を楽しまん。

自家の坐状という、どう転んでも斜めでも縦でも自家の坐状なんです、それをこうすべきああすべきという、既に他国に塵境です、よくよく見てとって下さい。自分という絶海の孤島に擲って下さい、だれ一人いないんです、はーい仏教もへちまもないです、さあ一心に坐って下さい、一心という、心といって記述する必要もなし、だれと会話もないんです、はー仏教は会話です、どうしますか、どうしようこうしようともすべてぜんたい、これを無心という、あっはっはないんですよ、ゼロというだにあるんです、もし一歩を錯まれば当面にしゃかすと知るは、まさにこのときです、絵に描いた餅はどこにも転がってないんです。人身の機要としてこうあるんです、特別も平凡もない、ただこれ因果歴然ということがあるんですか、だからどうなと云うには死人に口無しですか、むなしく光陰をわたることなかれと、まったくのその日暮らしを、強いていえば周りだけがあるんです、机や窓や木草や鳥や雲、それが自分でかえりみるに自分なし、仏道の機を保任するとは、たいていこれです、得るも得ないもない、伝家の宝刀をふりかざして、蟷螂の斧をしないんです、まるっきりそんなひまないんですよ。

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2009年3月 3日 (火)

ふかんざぜんぎ

趣向更にこれ平常なるものなり、凡そそれ、自界他方、西天東地、ひとしく仏印を持し、一ら宗風をほしいままにす、唯だ打坐を務めてごつ地にさえらる、万別千差といふと雖も、祇管に参禅弁道すべし。

趣向というんでしょう、どんな趣向でも同じなんです、仏教だからいい、外道はいけない、一神教もなれのはてのポルポト派も、そりゃまったく同じ、神経シナップスの点滅だけです。捉われなければいい、信不信ではないことを知る、鯨取るな牛なら食っていいんなら、だからどうだってんで大騒ぎしないんです、おろかしくはた迷惑です。いったん全面対決すりゃいいです、おれはどうなんだということです、すっからかんになります、妄想の内容ではないことを知る、強いて云えばそれを容れる器の問題ですか。自界も他方も失せるんです、汝これ彼にあらず、彼まさにこれ汝、お釈迦さまがあなたに仏印するか、あなたがお釈迦さまに仏印するか、はーいいずれ同じことです。でなきゃ宗風でなくただの我田引水です、人間から宗教をなくせば世界中即平和ですか、ようやく地球天地宇宙のお仲間入りです、知らないといって花のようにぽっかり咲いて下さい。ただ打坐に務めてごつ地にさえらる、千差万別も祇管に参禅すべしと、ただこれっこっきり、疎外人間です、人類のまったくの食み出し物ですか。

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ふかんざぜんぎ

声色の外の威儀たるべし、なんぞ知見の前の軌則にあらざるものならんや。然れば即ち上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ、専一に工夫せば正にこれ弁道なり、修証自ずから染汚せず。

声色、見たり聞いたりのほかの威儀、形と心ですか、威儀即仏法と曹洞宗では虎の首でも取ったように猿芝居、葬式稼業のモットーにしているが、見たり聞いたり習い物じゃないんです、まったく自らを省みない、省みる自ら無うして始めて然り、染穢なき心と形です、無心箇の無体権です。ものみな知見のさきの軌則です、どうあらねばならぬこうすべきだの人間慮りの前に厳然としてあります、だったら虎に食われてしまって下さい、身心脱落です、脱落身心して始めてこれを得る、自分が自分を操縦するという不都合、不真面目を擲つんです、無為の真人面門に現ず、智慧愚痴般若に通ずと、無為の真人いずこにありやと問うて出て、胸倉掴んでこのばかったれと突き放される、なんぞ礼拝せざると云われて、礼拝中に気がつくんです。忘我ですか、すると実に声色のほかの威儀を知る、知見の前の軌則を見るんです。これ人のとやこう仏教という逐一じゃない、専一に工夫するそれだけです。馬鹿でも利口でもかかわりなく、修証自ずから染汚せずを知る、ようやくに親しいんです、自分はどうであった悟っただからという、云っている間は自分があるんです、繋げる駒ですよ。

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2009年3月 1日 (日)

ふかんざぜんぎ

況やまた指竿針鎚をねんずるの転機、払拳棒喝を挙するの証契も、未だこれ思量分別の能く解する所にあらず、あに神通修証の能く知る所とせんや。

竿さし針鎚する、どうだと聞くには間髪を入れずこれ、もと答えの真っ只中です、ちらと逡巡するあれば自分です、守るべき省みるべき異物です。もしまったくなかったら為人のところ、老師に初相見して、問うより先の答えが返るのにぶったまげた記憶があります、壁に跳ね返って来るごとく、これはなんだというより、まるでカフカのようだと思うからおかしい、妄想の人は妄想のよりどころが欲しい、すると老師を見ずに曖昧模糊とした自分の影を見る。いつかその影がまったく映らなくなる、するとようやく親しいですか、宝鏡三昧、なんじこれかれにあらずです。たとい探竿影草もこれ転機、自分というこっちがわから彼岸へです。払子で触れる、拳でぶんなぐる、痛棒ですか、かーつと喝する、これだおまえだというんです、あるいはおまえいらん、まったくなんにもないと証拠するんです。他にないんです、仏教というものもとなしは、あなたが即ち仏教です。一器の水が一滴余さず他の一器にというようなまだるっこしいことないんです。ねん華微笑ですか、もとまるっきりです、わずかに省みるあれば損なうんです。思量分別というもと200%です、廓然無聖個々別々ですか、解るというだけ解らないんです、よくよくこれを見てとって下さい。神通修証という天才だの超能力だの、勘がいいだのいうのを春かに超えるんです、ただ自分という架空借り物失せればもとまっ平ら。

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