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2009年2月

2009年2月28日 (土)

ふかんざぜんぎ

かつて観る超凡越聖、坐脱立忘も此の力に一任することを。

心理学やゆいしきあらやしきなどのこと、まったく及ばないんです、デビットという投擲の選手があった、あるとき投げ終わって始めて投げたということに気がつく、記憶がまったくないんです、そうしてハイスクールの州記録を作った。どういうことかと大学に入って後、図書館で調べてみると、東洋の禅だという、海を渡って日本へきた、あっちこっちろくでもなのにたぶらかされながら、老師のもとへ参じた、じきに得ることがあった。不思議な体験なんです、思議によらず、不思量底如何が思量せん、箇の無体験、無覚の覚とはまったく記憶にないんです、だったらどうするかという、もとに収まっているんです、忘我あり意識ありする、これをほんとうにわがものにする、手前味噌ではまず無理です。印下という仏ほとけに単伝するんです。いい加減な手前味噌ばっかりの世の中、なんせうんざりします。超凡越聖というただの人、比較を絶するんです、坐脱立亡と、坐って坐ってそりゃ坐り抜くより方法がないです。ふかんざぜんぎを手前味噌に読んだら、そりゃもう罰当たりのどうしようもないんですが、100人が100人あるいはその類です。まずもって一人じゃどうにもならんのが参禅です。単純を示すがてめえでてめえを見る二分裂になる。

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2009年2月27日 (金)

ふかんざぜんぎ

当に知るべし、正法自ずから現前し、昏散先ず撲落することを。若し坐より起たば徐々として、身を動かし、安祥として起つべし、卒暴なるべからず。

坐禅何段とかいうような人が来て、ふかんざぜんぎでもっとも重要な語は、不思量底いかんが思量せんだと云った、いや他を云ったかも知れん。坐禅を知らぬわしにはどこも最重要で、敷いて云えば坐禅の方法を書いた、尋常坐処にはから、左右揺振してあたりまでだと返した。それよりもっと重要なのはこの項の、昏散先ず撲落ちすることをと、もし坐より起たばの間、なんにも記述してないところだと云った。この間坐っているんです、記載すれば余計ごとですか、即今即今省みるなし、あっというまに過ぎるほどに、ああだこうだだからどうのが撲落して、龍の水を得る、虎の山によるがほどに、そのものそっくり正法自ずから現ずるんです。ただまさにもってこの事の為にあるんです。わずかにこれがために人生生涯、地位も名誉もぜにかねも、いいや世の中親しいものみんな擲って省みないんです。死ぬことこれ、出家は生みの親さえ捨て去るごとく。わずかにとっかかりひっかかりあれば、実にまったく坐にならないんです。今の人仏教云々云うことは云う、坐禅何段他にひけらかして、坐禅ということを知らない、あるいは知っているんですか。かすみたいな糞の役にも立たないのばっかりです。捨てることができていない、此岸にいて彼岸を求める振りですか、おろかしく騒々しいだけの。そうしてはてめえの頭なでなでの、いじましいったらお笑いにもならぬ。坐より起つときは、卒暴なるべからず、飯だってんでどたっと起って腰を痛めたことがありますよ、注意して下さい。

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2009年2月23日 (月)

ふかんざぜんぎ

鼻息微かに通じ、身相すでに調えて、欠気一息し、左右揺振して、ごつごつとして坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底いかんが思量せん、非思量これ乃ち坐禅の要術なり。

ごつごつとしてじゃあ身心ともになしにはならんではないかと、ろくすっぽ坐禅もしない本山後堂が云った、ぶんなぐってやろうと思ったがこっちは一雲水だった。身心失せてごつごつとして坐定して坐りゃいいです、このように坐って、なんにもないんです、安楽の法門筆舌に尽くし難し、自分は如来であったんです。お釈迦さまが現前します、これ漆桶底を打破しなければ、作仏と図るでたらめ無意味の染汚です、でたらめ無意味の自分というたがをはるかにはずれて、箇の不思量底いかんが思量せんです。自由自在の埒外です。手を取り足を取りこうしろああしろ云ったって、たいてい邪魔にこそなれ役に立たんです。すべからく上には上のあることを知って下さい、許すも許さぬもなくなってからにようやく坐禅です、六十二段階あると云われるのもむべなるかなです。非思量これすなわち坐禅の要術なりと知って、始めて達磨さんです。この世に出生した意味を知るんです。

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2009年2月22日 (日)

ふかんざぜんぎ

尋常坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用ふ、或いは結か(足に加)ふ(足に夫)坐、或いは半かふ坐、いはく結かふ坐は、先ず右の足を以って左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず、半かふ坐はただ左の足を以って右の腿を厚すなり、寛く衣帯をかけて斉整ならしむべし。次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両の大拇指面ひて相柱ふ。乃ち正身端坐して、左に側ち右に傾き、前にくぐまり後へに仰ぐことを得ざれ、耳と肩と対し、華と臍と対せしめんことを要す。舌上のあぎとにかけて、唇歯相着け、目はすべからく開くべし。

坐り方についいて書いてあります、この通りに坐って下さい、標準です、あるいhどうもうまく行かぬようでも、工夫がうまく行けば体も整うんです。体奇妙にねじくれは心も我妄ですか。カイロセラピイとかなんとか、坐禅を利用しようという、医者の卵が参禅に来た、寒いといって毛布をかぶって、前倒れみたいに坐る。およそてめえのことっきりしかない、同室の連中に総好かんを食らっていた。仏教を利用することは出来ない、自他を救うには仏になるしかない。論文を纏めたって歌も俳句もできないんです。それゆえヨガとは違うんです、ヨガはそうやっている自分の身心を見る、坐禅は見ないんです。身心脱落です。ほんとう本来は自分というまったくなくなって、お釈迦さまがあるんです。捨身施虎です。虚空という飢えた虎に食われてしまって下さい。あっはっは食われている間はしょりゃ痛い苦しい助けてくれですか、食われ終わるとなーんにもないんです、虚空が虚空を坐っているんです。坐が坐になります。この通りの形して無心、無自覚の覚ですか、あるいは忘我あるいは無上楽、なぜに坐禅かの答えこれ。各々答えを出すしかない、習い覚えたことがまったく役には立たたんのです。自分をどうにかしようとする必要はない、飢えた虎はなんでも食うんです。どうにかしようという自分がないのを坐禅と云います、はーいこんな簡単なこたないです。

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2009年2月21日 (土)

ふかんざぜんぎ

それ参禅は静室宜しく、飲食節あり、諸縁を報捨し、万事を休息して、善悪を思はず、是非をかんりすること莫れ、心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏と図ること莫れ、あに坐臥に拘らんや。

静室宜しく飲食節ありと、こりゃまったくその通りなんですが、満員電車の中とか、雑踏のベンチで坐って効果あったという、どんなところにいても返って静室ということがあります、その反対にせっかく堂内にあっても心騒ぐ人がいます。諸縁を放捨する、万事を休息すること、なかんずくうまく出来ない、なぜか、一歩堂に入ればたった一人のはずが、何十人を背負い、夢だのあくただのあくせくです。滑稽であほらしく、なんだこりゃといいたくなるんですが、だれかれないはずのものに取っつかれて右往左往ですか。善悪是非すなわち自分です、あれこれ口を差し挟む、今の世の中一億総評論家を通り越して、てめえ本尊女の腐ったのみたい、おっと失礼、だらしのない男どもが、口出しすれば存在価値と思っている、人類滅ぶんですか。いったん死んで下さい、世間=自分からおさらばです。じきに何云わなくたっていいんです。解き放たれるんです。がっくりふわーと太息ついて下さい。善悪是非の皮袋脱いで宇宙風呂です。どこにいたってなにやったって不染汚。たとい心意識の運転もぽっと出ぽっと消えるものを取り扱わないんです、念想観の測量をする自分を捨てる、派あっとなーんにもなくなるんです。なるほど無心とはこれか、心意識が失せるんじゃない、測量し運転するものがなくなる、見事に無心です。なにしろこれを得て下さい。これを得るまではあに坐臥に拘らんやなど云っていられないです。動中の坐禅といってないはずの自分を取り締まるのが落ちです、してはよくなった悪くなったやっている。まずもってこれを破壊して下さい、でないと坐にならんです。

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2009年2月20日 (金)

ふかんざぜんぎ

ゆえに須らく言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし。すべからく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。いんもの事を得んと欲せば、急ににんもの事を務めよ。

仏教というもとあるもんじゃないんです、もと本来は我れらそのもの、一切ものみなです。ましてや神あり仏あり、あるいは哲学主義主張や思想の有無じゃないんです、徒党を組んで数を増やしの、いいかげんがさつじゃない、ただこれ一騎当千です、こうありゃこうあるっきり、取り付く島もないんです。一人きりで存分に暮らし尽くす。それにはまず世間=自分というお仕着せを脱がにゃならんです、うそとはったり絶えず自分はどうかと省みる、いぎたない薄汚れを脱ぐ。するともうそのものずばりです。言を尋ね語を逐うの解行ですか、おろかなものほど利口になる世の中、弟子をぶっころした相撲の親方でさえ、おれはいいんだだからといって開き直る、じきにてめえを信じ込む。みっともないことはいえ百人百様同じことしていませんか、意識の退廃これ。言語を奪われたらどうします、まずもって自分が自分に説明不可能、おれはどこへ行ったという、そのとき存分に近いです。自分を自分は知ること不可能、すると赤ん坊のたたわわです。ち(くさかんむりに至)草の味わいの如く金剛の杵の如し、ものみな一目瞭然、オールマイティです。赤ん坊を抱き上げるおかあさんは、赤ん坊に慰められる如くある、すべからく回光返照の退歩を学すべし、そうですよ大人というかさぶた取ればだれあって赤ん坊のまんまなんです。にこっと笑うと百花開く、結局は世の中の力、発明発見も人を動かす才能もこれによっています、知る人は知るんです。身心脱落して本来の面目、自然に脱落するほかなく、脱落しようとして七転八倒、不惜身命もついに向こうあわせです。つまり難といえばまさに難です、まっしぐらにやって下さい、古聖すでに然り、今人なんぞ弁ぜざる、他に人生の目的はないんです。

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2009年2月19日 (木)

ふかんざぜんぎ

いはんや彼の祇園の生知たる、端坐六年のしょう(足に従)跡見つべし。少林の心印を伝ふる、面壁九歳の声名なほ聞こゆ。古聖すでに然り、今人なんぞ弁ぜざる。

お釈迦さまは端坐六年、頭上にかささぎが巣を作ったと云われる、達磨面壁九年はこれだけで成句になっている、慧可大師が肘を切って差し出すまで動かなかった。尋常のことでは得られぬと思って下さい、元の木阿弥はじめっからなんにもないのに、坐らなけりゃどうにもならんです。たといちらとも悟ったって坐をさぼっていると、三百代言です、なんのかの云い募ってついには自分を見失う。雲洞庵は越後一の寺といわれる、直江兼続でまた有名になったが、謙信公に武田に塩を送ることを薦めた和尚がいた。今の雲洞庵主は、坊主どもはなっちゃいない、おれはさにあらずといって、ふんぞり返っている、僧堂の畳は腐れ、だれ一人坐った形跡がない。せっかく道元禅師が法を伝えたというのに、宗門ではすでに命脈尽きた。どうしようもない坊主どもがお寺も、本山も僧堂も私物化して、うそとはったり、銭金だけで暮らしている、情けないこった。たしかに坊主どもなっちゃいない、相手にすりゃてめえもなっちゃいないのさ。朝打三千暮打八百、来る日も来る日も坐って下さい。休みなんかあるはずないです、光陰矢の如し。ついには坐るだけが人生です、無上楽の醍醐味。他は二の次三の次、ものみなに疎くただもうこうあるきり。坐だけが教えてくれるんです、ほとけ仏に授けてよこしまなきときは、自受用三昧その標準なり。坐以外になにかあると思うのは間違いです、未だ遠くて遠し

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ふかんざぜんぎ

たとい会に誇り、悟に豊かにして、瞥地の智通を得、道を得、心を明きらめて、衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すと雖も、ほとんど出身の活路をきけつす。

会という境地ですか、悟ったこうあったあああったというんですか、自分と見られる自分の二分裂なんです。うたた悟ればうたた捨てよという、境地のないのを仏という、悟り終われば悟りなし、仏教というなにがなし転ばぬ先の杖はいらんのです、手足使って五体まるごとありゃ十二分、たとい欠陥あろうがまったく変りなし。大悟十八ぺん小悟その数を知らずという、ちゃんちゃらおかしいんです、大悟数百ぺんしたですようっふっふ、どれも一瞬大騒ぎってだけですか、瞥地の智通というたしかに一目瞭然があります、ではそれをだれに示すんですか、もとあるがようの心行くです、記述さらに不要。道としてこうある、いいえそんなもんさっぱりわからんです。空の雲や水や花鳥がどうして道なんですか、もとこのとおりただちに我が物です、同事です、心を明きらめという無上楽です、ようやく生まれてきた実感は、死んだあととまったく同じ純粋無雑です、触れるものみなふっ消える、衝天の志気を挙しと、力をも入れずただこれ安楽の法門は、なにをどう云ったろうが外れっこないことをおのずからに知る、頭なくなって始めて坐禅です、坐る以外になく、自分というもののない坐禅を楽しんでください、孤独まったくのひとりぼっちよく、逆境世間の無理解等もっともよく、どうにもこうにものさげすみ悪口雑言の渦中、水のようにゆくりなく澄むんです、これ生活。彼岸にわたりきって下さい、まずはそれからです、般若の智慧ぱーらみーたー。

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2009年2月17日 (火)

ふかんざぜんぎ

大都当処を離れずあに修行の脚頭を用ふるものならんや。然れども毫りも差あれば天地懸に隔たり、違順わずかに起これば紛然として心を失す。

もと本来これ、他にあるものじゃないんです、それを見ようとする、知ろうとすると過つ、見るものこれ知るものこれです、本来が本来を知ろう、見ようとする、出来ないんです、これが基本技ですか。花のように知らない、月のように手つかずが正解です。仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。仏教が欲しいんではない自分が欲しいんだという、その自分を追及して答えは忘我なんです。自分を自分は知ることができない。西欧流が無明の文化と云われる所以です。民主主義かぶれの日本人が、てめえ御本尊になってだらしなくうるさったいだけの、元の木阿弥の物真似しかできないのは、自我というもののからくりがわかってないからですか。それは人間だという、もと嘘っぱちの陪審員制度ですか、えげつなく喧嘩をする権謀術数だけのヨーロッパ人には、そりゃついて行けないですよ。そうじゃない、一目瞭然です。自分という絵空事、よこしまがないからものみなあるがように見えるんです。おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭を用いるものならんや。真正直真正面です。無手勝流ですか、勝つも負けるもはじめから勝負はついているんです。不思善不思悪正よもの時、なこかこれ明上座が真底。坐るにはまったく手段工夫なし、数息観も無の公案もついには手つかずです。たいていこれを知るのに一苦労ですか。なにをどうやったってそのものこっきり、外れようがない喜びを知る、ようやく親しいんです、なにもとっからそのまんま。しばらく毫りも差あれば天地はるかに隔たり、違順わずかに起これば紛然として心を失すと知る、あっはっは七転八倒ですか、なに転んでもただでは起きないんです、まっしぐらにやって下さい、不惜身命です。もとないんです

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2009年2月16日 (月)

ふかんざぜんぎ

これはたいへんなことです、ほとけ仏にさずけてよこしまなることなきは、自受用三昧、その標準なり、この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせりと、今心意識の低劣とあいまって大小無数の悟ったさんまことにこれ困ったさんがいます。ちょっとなにかあると悟ったといって、開き直る。弟子を殺しておれは間違ってないんだと云い張る親方みたいに、馬鹿ほど利口なんですか。ついに得たという、得ることなんにもなくなって、得る自分が失せ切って、ようやく道元円通なんです。到底一人でやりおおせることではないんです、自分が自分に関わる、おれはいいんだ悟ったんだとてめえでてめえの頭なでなでしている分には、つまらないただの塵芥です。たとい悟ったという、うたた悟ればうたた捨てよという、あいつもずいぶん叩かれたでなあと、如浄禅師が侍者に云った、道元禅師の大才をもってしても、得たという思い上がり、得られぬというこれも思い上がりを、朝打参禅暮打八百と、そりゃぶったたかれて始めてへっこむんです。どうにもこうにもです。よこしまなきときに況や全体はるかに塵芥を出ず、龍の水を得、虎の山によるが如く、他のなんの証明もいらんのです、おのずからにあります。他なんにもいらん、一生も地位も銭金もないただこれ。やったあやりました、身心脱落来といってすっとんで行くと、脱落身心底、そうじゃないよもとっからこうあるんだよと如浄禅師が印する。ここにおいて大ひまが開くんです。宗乗自在なんぞ工夫を費やさん、仏教だのちらともありゃつうかあです、坐るにつけては何かと注文があったのが、雲散霧消している、敷いて云えば歓喜ですか、無上楽喜びのこれに尽きたるはなし、そのまんま命を絶ってもいいんですか、生きて行くには坐る以外にない、常住坐臥もまるっきり同じです、たれか払拭の手段を信ぜん、宇宙が宇宙を坐る如くして、まるっきり手つかずです。この季節をもって帰朝第一声は、即ちわが国にはじめて仏教が伝わったんです。たいへんな御苦労が待っておったです。

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ふかんざぜんぎ

原るに夫れ、道本円通争か修しょう(言に登)を仮らん、宗乗自在何ぞ工夫を費やさん、況や全体はるか(しんにゅうに向)に塵埃を出ず、たれ(享に丸)か払拭の手段を信ぜん。

これは道元禅師帰朝第一声です、これに付けたし付け足す形で正法眼蔵が成ったといっていいです。原ぬるに夫それ、道を求めてついに得るんです、

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2009年2月14日 (土)

ぜんごぜんご

いまをしふる工夫弁道は、しょう(言に登)上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらんや。

ただこうあるんです、他なしです、まるっきりぜんたいです、かすっともかすらない、脱落身心は各々の方面に知覚を残さず、各々の知覚に方面現れず、悟ったというときに始めて宇宙全体わがものです、生活が始まります、何をどう云ったって我田引水のやからどうにもこうにもならんですが、どこまで行こうが未だ夢にだも見ずです、仏仏に単伝してよこしまなきときは、自受用三昧その標準なり、自分印可なんてありえないんです、もし悟ったというなら持ってきて下さい。仏は一目瞭然です、手前味噌害はなはだ、石ころに説法して如何、自受用三昧これ、自分という袋小路の尽きるとき、この節目にかかわらんや。一人半分出路に一如を行ずるを待つ。さあどうぞ。舌足らずのはい五十問終わり。

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2009年2月13日 (金)

ぜんごぜんご

くは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを。

普回向というこれは、たとい何をどうしたろうが普く一切に及ぶこと、まずもってこの事を知る、坐る以外に知りえないんです、仏とはこれあまねく一切に及ぼすこと、おむつを取り替えてもらっていながら、文句百万だらの未成年、だれかれそんなふうでは国が滅ぶ。我というなんの取り得もなし、雨滴水の辺に落ちて、波紋が広がってまったく収まる、一箇とはただこれ。我ら人みななんのために生きるかといって、ただこれ仏道を成ぜんがためです。たといどのような紆余曲折もみなまた同じ、虚空に山川大地日月星辰あるが如くです。ものみな間違いようがなく、間違いようのないことを知る、これ個人なり、仏なり、仏道の肝心要です。生生世世を尽くしてまさにもって完成する、まさにもって不惜身命です。幸せであり歓喜に満つ、知れるについてはまったくもって他に云うことなしです。

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2009年2月12日 (木)

ぜんごぜんご

九のまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば
君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや
良寛さんのまりつきの歌に貞心尼がつけた。一つが完全するということです、はじめて人の生活ですか、地球ものみなのお仲間入りといったらいい。雲や鳥や花と省みるなしにこうあるんです。悟りだの気がついたの、境地や状態をいう人には無関係ですか、公案禅だの無事禅だの、人にひけらかすための商売じゃないです。うたた悟ればうたた捨てよという、悟り終わって悟りなしと、では仏とはいったい何か、仏というがものなく、あるいは一生問い続けるによく、自分という浮世娑婆のものではないところから始めるによく、たった一人のルネッサンスですか、人間復興は人間を出外れるとあるいは完全です。箇の無縫塔をこれ、どこをさがしてもなんにも見えないんです、どうか本当の暮らしを得て下さい。いっそだれが為にでもないんです。

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2009年2月11日 (水)

ぜんごぜんご

浄法界の心元出没なし、大悲の願力古来を示現す。

身心脱落すれば身も心もなし、出没太虚の中と云われる所以です、太虚なんにもなしです。住む所無うして其心を生ず、心とは心が心を見ること不可能、風も揺れず木の葉も揺れずこっちこう揺れ動くんです。歴史といい哲学思想、あるいは文学という、もと出没太虚中が、いずれ形を取り影を宿すとろくなことにならんのですか。人間の歴史我欲と間違いのくんずれほんずれ、残虐になりだらしなくなる他に、おそらくはまったく同じことの繰り返しです。公案禅だの無事禅だのいうエアーポケットからはいずり出て、じかにこのどうにもならぬ現実に直面して下さい、仏教とは何か。如来とは無心とは何か。血まみれずたずたに引き裂かれて、浄法界の心元出没なしです、大悲の願力古来を示現す、仏として現れるんです、お遊びじゃない禅坊主じゃない、裸の一箇です、にってんすいしゅという無防備都市ですか、迷故三界城、悟故十方空。東西南北門です。未だ悟らぬ者はまず悟って下さい、身心脱落してよりほんらいの生活があります。いつの世もよくも悪くもないです、如来来たる如しをまっとうして下さい、これはこれ風力の所転と、なにさあ他になんにもないです。

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2009年2月 8日 (日)

ぜんごぜんご

一切我今皆懺悔

今の世自分で自分が断じて許せない罪の一つや三つ誰でも抱えているか、あるいはたいてい人間失格ですか、一切我今皆懺悔とはただうち坐ることです、これ以外に方法はないです。許せるとは死ぬしかない、腹かっ裂いて果てるほかにはこれっきゃない。出家自体が断じて許されんことはわしがよくせき知っている。第一出家する世の中抜け駆けの功名は、世の中食いつくしはた迷惑破れ法界です。お経を読んで頭剃ったなんてもの爪の垢にもならんです。死ねば罪も罰もかすらない、ただかつかつこれあるのみ。たといどのような断腸の思いも、あるいはうれしいことも一瞬過ぎって跡形なしです。みずとりの行くも帰るも跡絶えてされど法は忘れざりけり。どっかに満腔の喜びのあるのを知る、なぜだ。親殺しも愛人ひっからびもとんだ恥かきも不染汚、これなんぞ。坐ることが救いでなければ人を救う道はない、ほんとうに救われて下さい。根本からです、どこにもお釣りは来ない。故に光明です、片隅を照らすもの国宝たって、宇宙のど真ん中ですよ。

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2009年2月 7日 (土)

ぜんごぜんご

工夫してわが身の悪を如来にさらせよ。かくの如くつとむることたしかなれば、仏になること疑いなし。

裏を見せ表を見せて散る落ち葉かな。参禅というものみなすべてさらけ出すんです、善悪是非もなしすべては来る如しと知る、あるいはお釈迦さまに救っていただく、どうにもこうにもしようにない自分、お手上げ万歳です、わが身どうしようもない、仏だけがあるという、ちらとも他あればお粗末です、単純を示すにならない。やがて知るんでしょう、焚くほどは風がもてくる落ち葉かな。宇宙の果てを尽くしたろうが観音さまの五本の指、孫悟空だろうがわしのようなけしつぶだろうが、生涯なんの足しにもならず、やげて死ぬ景色も見えず夏の蝉。どっかに夏があったんです。

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2009年2月 6日 (金)

ぜんごぜんご

ぼう(茹でる意)蟹の七足八足するが如し

茹でた蟹が自分の意思に関係なく足を動かしているさま。手足五体身も心も自分のものだと思っているんでしょう、ところがそうではなかった、観念思い込みをちらっとも離れるとこんな現象が起こる。初体験の人は右往左往する、なにごとだというわけです。もとからそういうことだったと知るとぴったり収まる。自分がなくなった俺はどこへ行ったと探し回る人もいる、はいこれぽんと叩くと落ち着く。古代インドから同じようにあります。無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。よくその実際をたしかめてみて下さい。ほんとうに悟るとはどういうことか、悟らないと同じことかも知れんです。六祖大鑑慧能禅師、慧能もと技量無し、おうむしょじゅうにいしょうごうしんとたったこれだけです。風も揺れず幡も揺れずこっちこう揺れ動くんです。はーい答えはたった一つ。

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2009年2月 5日 (木)

ぜんごぜんご

汝今これを得たり、よろしくよく保護すべし。

洞山大師宝鏡三昧の冒頭です、このお経をまるで悟ったように読む新到がいたと老師が云っていた、そりゃそういう人いてもいいんですが、もとはじめからどっぷり漬けです、何をどうしなけりゃならんということなし、何をどうしようがこうしようがそのものこれ。ダライラマの生まれ変わりという、もしやこれ正解です。みなまた如来の生まれ変わりです。それがどういうものかそうは行かない。せっかく悟った様子がどこかでおかしくなってしまう、そこへ俺様は如来、生き仏だというとなおさらおかしくなる。なぜか、なんの理由もないはずが、新興宗教のように数を頼み、人の弱り目祟り目につけこむ、こりゃどうしようもないですか。悟るのはそう難しくない、これを保護するほうが難と云われる所以です。坐っていてなにかしらちらともあればうまく行かない、微妙とは女の子のごまかしじゃない、ほんとうに微妙なんです。ただということです。お釈迦さまでも達磨さんでも、そりゃ絵に書いた餅のようにはいかんです。あるとき本当に此れ、あるとき周辺ということあります。面壁九歳端座六年のしょう(足に従)跡見つべしとはこれ、頭にかささぎが巣を作った、あるいは慧可大師が肘を切って差し出すまで動かぬという、自分=世間をまったく縁切りする、どうも人間というのはそうでもしなけらさまにならんことあります。うっふっふ一生死ぬまでやってりゃいいんです。

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2009年2月 4日 (水)

ぜんごぜんご

色即是空

色不異空と知って修行ですか、自分という囲いの敷居を跨ぐ、すると広大目変の世界です、なるほどと知って省みる、空不異色という色がないんです、自分という囲いが消えている。これそういう思い込み能書きではなんの役にも立たんです、思想仏教云々の延長ではそりゃ無心じゃない有心です、空即是色にはならんからです。身心脱落来、脱落身心底と帰り来て、ほんとうにどうあったろうがこうあったろうがまったくないんです。坐だけがこれを知るんです。坐らずしてどうの云ったって云うている自分があるだけです。色即是空空即是色と悟入し悟出する生活があります。如来の現実です。自分という世間というあるいは出入り自由ですか、子は父に順じ、臣は君に奉すと、世の中のことは世の中に任せ切りということは、際限なしの自由があります。もと本来このとううりに生まれていたという自覚です。不生の人というべきですか、生死の底をぶち抜いて、生まれる以前死んだあととまったく変わらないんです、ああだこうだあっちこっち齟齬があるのは障りですか、見事に脱落して下さい。

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2009年2月 3日 (火)

ぜんごぜんご

仏祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん。

今の世なぜか無数の悟ったさん困ったさんがいる、心意識の低劣とあいまって靴でも履き替えるようなふう、一人じゃまず絶対に無理です。不立文字教別伝というには、正師を見つけ出しこれに就いて不惜身命も、そう簡単には得られないのは、自分が自分に関わるからです。なんで外国人に印可をと侍者が食ってかかる、あいつもさんざん叩かれたからなあと如浄禅師。道元禅師ほどの大才でさえ、身心脱落来、やったあやって来ましたと行けば、脱落せる身心底、そうじゃないよもとっからこの通りだよと示されて、落ち着くことは落ち着く。これを得るこれを脱却する、悟入し悟出す日んがな毎日です。いいですか人間も人間以外も生死のさかいになんの安楽椅子もないんです。無思想無性格という、自然という自己満足じゃない、ましてや仏教というけつの穴じゃないんです。触れりゃばっさり大火聚の如く、そりゃ大火傷です、はいわしがいうんだからたしかです、大小無数一箇としてお釈迦さまを継ぐものはいないです。さあ心してかかって下さい、無心これ取り付く島もなし。

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2009年2月 2日 (月)

ぜんごぜんご

教は大きにあやまる、それを習は猶あやまる。只直に見、直に聞け。直に見るはみるものなし、直に聞くはきくものなし。

正師は奪い邪師はつけたす、もと仏であるはずのものに、思想宗教哲学歴史社会などこんぐらかりコングロマリットですか、五薀というもと空のものをがんじがらめにする、自縄自縛の縄のはしっくれを自分だと思い込む。どこまで行ってもこれしきです。なんとかならんのか、無為の真人面門に現ず、智慧愚痴般若に通ず、ぶんなぐり胸倉をひっとらえて突き放す、茫然自失するのへなんで礼拝しないのかという、礼拝中に気がつくんです。手つかずでいいってことに気がつく。手つかずでいいという言い訳能書きがないんですよ。接心とは自分用なし、すなわち七転八倒して下さい、人の百生分生き抜いて下さい、なんでもありありです、悪でも善でも底抜けにして下さい、なにほどか得ることあったらそやつをぶんなぐる、飽き飽きしてなげうってください、そうです自分をなげうつ、わずか五日間一瞬の間。直に見直に聞くことがなんでできない、どうしてかできない、なぜか。答えはおのずからにあるんです、言い訳能書きの記述不要。

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2009年2月 1日 (日)

ぜんごぜんご

人間の如来は人間に同ぜるが如し

和は花よりも美しいと老師が云った。和というなにかしらじゃないです、みんな仲良く平和にという事なかれ主義の裏返しじゃさらにないです。和というものみなの姿です、他にありようのないことを知る。会津八一が和楽互尊という酒の銘柄を書く、どうも百歩遅いんです。仏教があればすでにして和ではない、これは思想の酒じゃないです。人間であるからというには人間を損なう、必ず根拠を持ち立場を云う、和といいながら諍いの源ですか。花知らず蝶知らず、知らず知らずして帝の則にかなう、和という壁立万じんですか、取り付く島もないんです、ただ因果必然を見る。もと我らは如来です、物心ついてよりこのかた、人間という馴れ合いに組して、本当本来事を忘れる、しかもなをかつそれが不都合をかこつ、万が一にも正師に出会いもと如来であったことを知る、至り得帰り来たって別事なし、花は紅柳は緑と、たまたま人間の形をして暮らす、和とはこれ。

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