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2009年1月

2009年1月31日 (土)

ぜんごぜんご

難波のことは夢のまた夢

人生五十年難波のことは夢のまた夢と、信長が死ぬ間際に云ったという、真剣真正面のなりふりかまわず生き抜いたってことですか、記憶追憶のわがまま三昧じゃない、あとさきないんです、いいのわるいのの間尺に逢わない。一年365日夢、真剣に生きれば生きるほど夢です。現を抜かすというが、現と知る不可、かえりみるなく現の我を見ている目がないんです。坐ってもあっというまに時間が過ぎる、早く終われ痛いかゆい云ってると、十倍も時間のたつ気がする。無我夢中というはやや近いんですか。投擲の選手が投げ終わったあとに、投げたんだと気がついた、つまり記憶が欠落しているんです、真剣真正面100%ですか、新記録を作った、どういうことかと思い、図書館で調べたら東洋の禅のことを記す、日本までやってきた人がいた。あっちこっちろくでもないのばっかりいてついに老師を捜しあてる、一応の目安はついて帰って行った。この単純得がたく見つけがたし、正師に会う僥倖を思って下さい。三つまでの子に記憶がないのはなぜか。夢のまた夢とは何か。夢だの愛だのいうかき汚れとは関係ないです。

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2009年1月30日 (金)

ぜんごぜんご

仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。

これが仏教のいろはのいです。ただこれの底をぶち抜けば事は足りるんです。仏教学とは絶学無為です。仏教というものがもとないんです、仏を習うとはもと仏である自分を知る、他にはさらにないことを知る、なかんずく大力量です、必ず泳ぎ出して公案だ無事禅だ、行い済ますのだからどうだのやり出す、気がついたら自分というなんの解決もついてないんです。気がつかないんですか、ぶんなぐったら逆恨みするが落ち。痴人に夢を説くなかれと、痴人とは自分というものを認めてそれをもって云々する人です。ウイトゲンシュタインがいくら無心を説いても有心です、哲学しようがなにしようが哲学する自分はという問題が未解決です、ただの俗物です。自分を知る=自分を忘れる、という二二んが四の明白をないがしろにする。法王の演説みたいに妄想まるけを如何ともしがたい、 Ichという理由がどうしてもわからない、西欧無明の文明ですか。自分を知る自分はという無限の合わせ鏡じゃないんです。未だにヨーロッパ、アメリカに仏教のわたっていないこと、これはただこの問題です、今後ともにきわめて困難です。キリスト教がなけりゃもっといいラファエルやダンテができたといって失笑を買った、でもこれ本当です放てば掌に満てり。

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2009年1月29日 (木)

ぜんごぜんご

念仏

念仏は利剣なり、身の業去るによし。かならず仏になると思ふべからず。仏にはならぬが仏なり。車座になって大きな数珠をまさぐり回しながらする百万回念仏は、今でもなを残る。念仏を唱えて法悦にひたり忘我に赴く。なにが喜びか、本来のおのれであることこれ。自分というよこしまを去る、歓喜して無上楽を知る。知るおのれもはやなし。一遍上人は念仏をとなえ、野に臥し山に臥しして行く、従う大勢みな歓喜して無上道を得る。ついには念仏もなく自然ものみなと同時同体です。生まれついての本来事です、生まれる以前からこれ、死んだのちもこれ。身の業のつきはてぬれば何もなし、かりに仏といふはかりなり。念仏という是非善悪の辺の徘徊じゃないです、ついにはエログロナンセンスの門徒ですか、どうしようもないのは曹洞宗門も同じ、言い訳はた迷惑おためごかしは、ただもう人間失格ですか、新興宗教も創価学会も天理教もこりゃ悪という以外になく、数を増やす以外のなんにもないんです、右の頬をうたれりゃ左を出せのあっかましさですか、人間宗教を卒業すりゃ、ようやく地球のお仲間入り。

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2009年1月28日 (水)

ぜんごぜんご

薫風自南来 殿閣生微涼

一休のこの書レプリカ買って掛けておいたら、部屋いっぱいに広がって宇宙と同じ、うわすげえとこりゃもう絶句。薫風南より来たる、六祖禅師南宗の風です、仏のありよう頓に無生です、一休命がけでやっていた、仏像の開眼頼まれてすそめくって小便ひっかけて、婆にぶんなぐられたり、どくろの杖ついて門付けしたりと、今に伝わる一休頓知、常識の夢をぶち破って実際。七転八倒してもってわずかに涼しさをもたらす。これ仏の行です、仏教だの公案だの屁でもないこと持って回っている、今の世豚ども見習うべきです。一休の真似して寺を追い出され。大灯十八年間乞食、うっかり瓜に呼び出され。大灯の梅渓のレプリカも買わされた、なんてえいい書なんだろう、いいなあいいなあと見て、宇宙ぜんたいすっぽり忘れ、これ無事禅やってらんないこと、だれも知らず。今日はまた雪の山を快晴、おうほう鷲が行く。

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2009年1月27日 (火)

ぜんごぜんご

焚くほどは風が持てくる落ち葉かな

良寛さんの俳句には、裏を見せ表を見せて散る落ち葉、というのもある、一生不離叢林はたった一人托鉢暮らしの良寛さんの根本であった、自堕落な一人暮らしじゃないんです、きしんとしていた。しかも対大古法の相手ががきどもです、いったいなにするかわからん、それをまったくに従いつく、一休命がけよりもどえらい姿です。焚くほどは風が持てくる落ち葉かな、よろずものみなこのとおりにある、たとい詩歌の道も向こうからぽこんときてぽこんと去る、たといあくせく四苦八苦もそりゃ同じです、裏を見せ表を見せて散る落ち葉です、たとい隠し立ても嘘ばっかりも同じことです。坊主と付き合うと嘘ばっかり、なるたけ合わぬよう口利かぬようして、あっはっはつまはじきのわしは坊主組合ですが、托鉢暮らしはできなかった、だからまあ因果応報。歌やとんとむかしをこれも対大古法と精出して、今の世さっぱり受け入れられぬのを知ったとは間抜けな話、するとようやくに良寛さんが見えて来たですか、一人遊びぞわれは勝れる、なつかしい故郷とはこれ、雀にからすにばっさまにおねーちゃんにおやじ、お寺ってのはなんとか食えるから助かる、能無しのどうにもこうにも。

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2009年1月26日 (月)

ぜんごぜんご

ある人大乗を問ふ、予いはく、身をただしくして、守る事なきを、大乗といふ。最上乗をとふ。予いはく、身をほしひままにして、守る事なきをいふ。ゆえに大事なsり。かるかゆえに世にまれなるもの也。

至道無難禅師のこれ、まことに実にこのとおりです、わしはまだこういう人を今の世見たことがないです、どうかこうなって下さい、守るべきものなきは自堕落という、自堕落の寸分もないんです、最上無為の法はおおむかしからまったく不変です、身をほしいままにしてなをかつ則に従う、実にこれを実感して下さい、世の中からはみ出して十二分です、はた迷惑ですか、いえ触れるものみな救う以外にないんです、かつかつ息通うほどに、朝打三千暮打八百、たった一人に雪月花です、人ごとをいとうにはあらじ、一人遊びぞ我は勝れると良寛さんの、飯が食えれば生きていられます、食えなくなったら死ねばいいんです、あっはっは無上楽。

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2009年1月25日 (日)

ぜんごぜんご

応無所住 而生其心

六祖禅師がたきぎを背負うて往還を行き、金剛経のこの語を聞いて悟ったという、住むところ無うして、その心を生ず、目に一丁字もない人が、そうだよまったくにその通りだよと知る、神変不思議です。老師に参じてある時応無所住而生其心とはどういうことかと聞いた、老師はおうむしょじゅうにいしょうごうしんと云った。さっぱりわからなかった。わかるとはどういうことか、正法眼蔵の提唱中に悟ったという良寛さん、言葉が消えて現成公案ですか、実際がただこうあるときりしか云いようがないです、娑婆人の理解とはまるっきり関係がないんですか、でもほんとうに分るんです=まるっきり知らないんです。面白いですよ。坐るたんびに悟出し悟入して下さい、いくぶんか取り得があります。天涯孤独というまろやかに身に就くんです、あっはっは一巻の終わりと大ひまの開いてのちの生活です、はーいいよいよ厳しくなるんですか、大麦小麦二升五合。

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2009年1月24日 (土)

ぜんごぜんご

身の外は仏なり。たとへば虚空の如し。かるがゆえに位牌の上に帰空と書くなり。常に何も思はぬは、仏の稽古なり。なにも思はぬものから、なにもかもするがよし。
 生きながら死人となりてなりはてて思ひのままにするわざぞよき

至道無難禅師は至道無難唯嫌けんじゃくただ憎愛なければ洞然として明白なり、余は明白裏に非ず、汝等かえって護惜すやまたなしや。という趙州のこれに参じてついに得る。何度も何度も倦むことあったと伝える、よくよく見てとって下さい、今に通用する数少ない仏です、死人となりてなりはてることは、実に単純他なしですが、そういう人あるいはまったく皆無ですか、身の外は仏なりと、自分に参ずるんじゃないんです、捨身施虎と、なりふりかまわずただもう坐って下さい、虚空という飢えた虎に食われおわったら成仏ですよ、はーい無上楽なにものをも求めず。

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2009年1月23日 (金)

ぜんごぜんご

孤俊

孤独と云うことないんです、忍耐と云わず忍俊ですか、おそらく大法を得たものまったくの孤独です、右を向いても左を向いても、仏教というもとないものを振り回して、世の中かき汚すっきりのでたらめ、おれがの我利我利亡者です。これ一目瞭然です、ないものには丸見えの原理ですが、悲しく騒々しいだけの、なるたけ避けて通るんですか。だれかれ観念思い込みの手も付けられんです、ほっておくより仕方がない。孤俊忍俊とはこれ。まるっきりの一人ぼっちで、淋しくはないかというと、そりゃ淋しいんでしょうがさ、無一物中無尽蔵花あい月あり楼台あり、自然というものみな釈迦牟尼仏の声と緑と。土台だれかれいけない世間が悪いなんてこと云わないです、前三三後三三鼓腹撃壌ですか、にっこり笑うと百花開く、世の中赤ん坊と同じです。人をやっつける利剣なんていうもの持たぬです、利剣を振るう前にばっさり切ってます、服と不服とは医の科にあらず、死なないのはしばらく生きてるからですか、うっふっふしんどういたってもさ。

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2009年1月22日 (木)

ぜんごぜんご

知らぬが仏

赤ん坊がそっくり仏、生まれる前が仏、死んだ人も仏。美人局にひっかかって田んぼは売る、なにやらかしてもいい加減、はた迷惑だけのじっさが死んだ、その写真見るもおぞましいのに死に顔は厳然として仏であった。よく弔ってやれという他なく。花は知らないという、達磨さんも知らないという、もし花がおれは管巻きの菊といい、なんのたれ兵衛が植え育てて、品評会で三位になった、日照はどうの肥やしはどうの、上を見ればきりもなし、下を見ればきりもなし、まあこのへんでとやりだしたらそれっきり見る気もしなくなる。なぜか、知っている分がみな嘘だからだ。人間だけ地球の余計物、知る分をかき汚す、進化の途中段階毛なし猿です。生きている間に仏になって下さい、単純この上ない元の木阿弥がどんなに困難か、よくよくかんがみるにいいです。

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ぜんごぜんご

知らぬが仏

赤ん坊がそっくり仏、生まれる前が仏、死んだ人も仏。美人局にひっかかって田んぼは売る、なにやらかしてもいい加減、はた迷惑だけのじっさが死んだ、その写真見るもおぞましいのに死に顔は厳然として仏であった。よく弔ってやれという他なく。花は知らないという、達磨さんも知らないという、もし花がおれは管巻きの菊といい、なんのたれ兵衛が植え育てて、品評会で三位になった、日照はどうの肥やしはどうの、上を見ればきりもなし、下を見ればきりもなし、まあこのへんでとやりだしたらそれっきり見る気もしなくなる。なぜか、知っている分がみな嘘だからだ。人間だけ地球の余計物、知る分をかき汚す、進化の途中段階毛なし猿です。生きている間に仏になって下さい、単純この上ない元の木阿弥がどんなに困難か、よくよくかんがみるにいいです。

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2009年1月21日 (水)

ぜんごぜんご

葬式

坊主どもの集まりに、魚屋は魚食ってみてから魚売る、坊主は死んでみてから葬式やれといって、えらい顰蹙を買った。坊主どもは生死の問題どころか、仏教を食い物にして葬式家業に精を出す以外になく、達磨さんに毒を盛り道元禅師を足蹴にするごんずいかたまりの、自閉症集団だ。葬儀屋に言わせると人間最後のセレモニーだ、厳粛に優雅に云々という、どう云い繕おうがしようが、それは有為のものだ、死んだやつに届くはずがない、独りよがりのつまりはゼニ儲けですか、坊主は無為のものであった、幽冥境を異にする、あるいはその中継ぎであったはず、それを忘れ去ったら土台意味がなく、商売繁盛の葬儀屋に勝てるはずがない、すでにして坊主というセレモニーの道具立て、もって葬儀屋に使われている。無心のものたよいバッハもモーツアルトも及ぶべくもない、汚れを知らぬ清涼の月、畢竟空に遊ぶ、衆生の心水浄ければ菩提の影中に現ずと、菩薩如来になって血脈であり引導を渡すんです、でなきゃ嘘八百、ただの紙切れをもって後生大事じゃ、そりゃもういい加減ばればれです。面倒くさいほっちゃおけぬから坊主を雇うという無残、もし未だ到らざるともこれあるを知り、絶学無為の人を尊貴し、仏仏の菩提に合踏する志あって、始めて葬式も成り立つんです、でなきゃ詐欺だ。

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ぜんごぜんご

十重禁戒第一不殺生戒

得度式に仏戒を授けられて乃至十重禁戒、殺すなかれ、犯すなかれ、盗むなかれ〜です、汝よく保つや否やと云われて、さて他はやってやれんことはない、でも 不殺生戒殺すなかれは、そんなもん守っていたら一瞬も生きていかれん、どうしようかと思った。保てない否といえば得度式は終わりだ、鳴り物入りで出家した手前、なんしろ保つといって式はすませた。のち寺を持って参禅に駒澤の学生が来た。じき卒業だが四年間疑問に思うことがある、十重禁戒だ、教授に聞くとみだりに殺すなかれ、みだりに犯すなかれだという、おれはそんなこっちゃ納得できない、人にやれんことを押し付けてお釈迦さまは嘘をついたのかと云う。わしは云った、よくこれを見てみろ、いいか十重禁戒は人の作ったものじゃないんだ。そうかといって彼の体倍に膨れ上がる、ちらとも見るものは見て帰って行った。戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、他の山上の垂訓とは字面似ているようでまったく違うんです。よくよくこれを見てとって下さい。これを透過せんけりゃ仏弟子とは云われんです、僧たるもの通身もてあたって下さい。

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2009年1月18日 (日)

ぜんごぜんご

流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者。

出家剃髪のゲです、流転三界とはわれらすべてです、浮きぬ沈みぬほんの一瞬を安楽に思い、六道輪廻のたらいまわしを免れえずに、たとい何かあれば藁をも掴む思いです。七歩歩んで天上天下唯我独尊と、お釈迦さまだけではなくだれしもがこう生まれついている、だのにいつもまにやら盲滅法の悪足掻きですか。恩愛を去るとき、はじめて本来の見性がある、夢から覚める如くです。国王大臣親じつ従僕妻子珍宝助けるなし、ただ一人黄泉に赴くのみなり、おのれに従い行くはただこれ善悪業等のみなり、今の世に因果を知らず、善悪を弁まえざる邪見のともがらには群すべからずと、ものみな因果歴然があるばかりです。邪見のともがらばかりの現代人ですか、六十近くなってもまだ餓鬼です、未成年のたわむれほうけですか。わずかに恩愛を離れる、すると離れた分だけ如実があります。なにゆえに出家なにゆえに仏か、あらためて鮮烈に知る、日々新たに知って下さい。悟り終わってのちの毎日が悟りです、昨日のおのれはないんです、なにをやっておったばかめがと、棄恩入無為の道、即今真実報恩者です。仏仏に単伝し行くもの。

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2009年1月17日 (土)

ぜんごぜんご

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義

この法の無上甚深微妙は、坐ってみて始めてわかるんです、自分という邪をすべて去って始めて掌する、ちらともあれば損なうんです。実に百千万劫にも会いがたし、たった今出会っています、我今見聞得受持さあ受け継いで下さい、片手間にするこっちゃないです、たとい全身全霊を挙げようともなを届かんです。ですがもとっから真っ只中です、行く行く修行の末にという、そりゃ修行の末にだけがある、生死を明きらめというには、生死を明きらめがある、そうではない如来真実の義は面門に現ず、自分というすべてを明け渡すんです、如来如去かくの如しというにはなを届かず、捕らえようにもつかみようにもないこれ。ついに知るものだけが知るんです。

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2009年1月16日 (金)

ぜんごぜんご

禅師

他の人は何かをなし立派なこともし、持ってまわり推論しする、自分をなにがしかに見做し、あるいは比較による。禅師はなんにもないんです。歴史上何人もいないと云っていいです。知らないという花のようにぽっかり咲くだけです。大唐国に禅師なし、禅なしとは言わずと黄檗が云うのは、禅師という相手があり、我がある問題ではないからです。知らないとはオールマイティです、汝これかれにあらず、かれまさにこれなんじ。宇宙を云い同根底を説く、思想として物言うこれまったく禅師にあらず、世界平和を説く是非善悪を示すという、複雑怪奇じゃないんです。単純をもって師となす、ただこれ大正解。嘘をつかない真面目、一人二人あればよし、まったくないときはものみな自然そのものです。渇仰するなにものか、どこまで行っても我未だ見ずを知る。

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2009年1月15日 (木)

ぜんごぜんご

心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ

これは有名な西行の歌です、心なきという、原始野蛮人西行が、道理は弁えていようがどうしてもこうしても赴くままにする、それをまた断じて許せなかった、心のない人間だと決めつけながら、美しい鮮烈な風景です。無心という、ではまったく心を省みない人は、絶唱です、風景の美しさは比類なきものがある。自分を許せない、ちらとも省みるあれば不可。人の額に汗したところの上前を撥ねて、お経を読みうそぶき歩く、殺人強盗よりも悪し、なんとなれば彼はなを自らの悪を知ればなりとは、至道無難の語です。頭を剃ってうそぶき歩くぶんなぐってやろうずと云った僧が、西行を丁重にもてなして返す、弟子がなぜにと聞くと、このどあほうがこっちのほうがぶんなぐられそうであったという。徒禅草に出ていた。西行といい兼好法師といい、超ど級の人物だ。そんじょそこらの詩人学者なんぞと桁が違う。生きておったなあと思う、血まみれ傷だらけになってさ。道元禅師も一休さんもまた同じく。悟ったなどいう安楽椅子はどこにもなかった。始めて人間に出会う、まさにようやく生きた甲斐ありと思うべき。
年ふりてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山

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2009年1月14日 (水)

ぜんごぜんご

父母未生前

香巌という一を聞けば十を知る、目から鼻へ抜ける男がいて、何を云っても弁じ立てる、師が困って、おまえさんの父母の生まれる以前のおまえさんの鼻如何と聞いた。さあわからなくなった。これしきわからんようじゃ坊主失格だといって、寺男になって毎日庭を掃く、あるとき掃いた石が竹に当たって音をたてた、香巌爆竹というこれによって悟った。参禅はすべからく父母未生前に参ずべき、つまり生まれる以前死んだあとです。公案も無事禅もなんの役にも立たない、おためごかしも仏教も同じ、社会正義も道徳も不都合、死んだらなんにもないんです、こんな簡単なこたないです。上下なく多種なく、ただこれという百歩遅いんです。智慧という一番大切なものを捨てて下さい。一を聞けば十を知るんではなく、はじめっからすべてです、なんにもない200%です。目から鼻への手続き不要、自分用無し、自分という種も仕掛けもなしに返る、でなけりゃこれ仏教のぶの字もないんです。これを知る人皆無。

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2009年1月 9日 (金)

ぜんごぜんご

顛倒相滅すれば、肯心みずから許す

仏道を成ずるになんなんとして十劫樹を観ずという、どこまで行っても仏はこうあるべき、だからの物差しをあてがうんですそうではない、自分真っ先にあって、次もその次もなんにもないんです。だから手を放してやればいい、参禅とはこれなんです。思い切って捨てる、自分というどうにもこうにもわけわからんちんのまま、飢えた虎に食わせれば終わりなんです。たとい何をどうするとて、自分の手には負えないまずこれを知る、さんざくた苦労の末にようやく手付かずですか。人間はこうあるべきという標準以前に人間です、だったらそのまんま使えという到って単純です、ただとはこれ、ただうち坐る只管打坐です、始めも終わりも同じです、途中段階なんてないんです。仏これ。

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2009年1月 8日 (木)

ぜんごぜんご

宝鏡にのぞんで、形影あひ見るが如し。

問答しあげつらい四の五のいう人、たいていは自分のことを云ってるだけです、なんにもないところへ自分の姿形が映るだけだということを知らない、自分で自分を罵倒するんですか。ややこれを知って礼拝し一言一句するも、まだ自分と一人相撲です、刀折れ矢尽きて、こりゃどうにもならん手も付けられんとなって、なんにも見えなくなる、するとわずかに親しいんですか。身心脱落来る、身心脱落して来ました、やったあやりましたという、これに答えて脱落身心底、脱落せる身心底、なにさもとっからこの通りだよと示す、はあっと見りゃ、宝鏡に臨んで、形影あひ見るが如しです、わずかなひっかかり失せて、ぴったりするんです、水に映った影が自分でこうこっちを見ているんですか、天地宇宙が天地宇宙とこうあるっきり、あるときは浮世という来し方行く末まったくないんです、あっはっはほんにこの世とおさらばですか、あるときは必死になって施設し法を説くんです。なるほど他にはなんにもないわけです。

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2009年1月 6日 (火)

ぜんごぜんご

菩薩清涼の月畢竟空に遊ぶ 衆生の心水浄ければ菩提の影中に現ず。

捨てて捨てて捨て切って行く、そうしている自分を捨てる、開いて開いて開き切って虚空そのものです、虚空は虚空を知らぬ、虚空が虚空を坐禅する、奇妙なわけのわからん体験ですか、自分をまったく観察しないんです、そういう人をわしはあんまり見ないです、必ず自分という我利我利亡者ですか、虚空といい色即是空といい五薀皆空が却って薀蓄です、うるさったいかぎりだ、聞いてくれる人がいないと成り立たない。一人遊びぞ我は勝れると、たった一人地球宇宙からはみ出すほどです。無情の説法誰これを聞く、あるときは現成公案、あるときは存在そのものが失せるんです、活仏観音大師という、朕に対するものは誰そ、磨云く不識、知らないという花のようにぽっかり咲くんです。衆生のこれを知るごくごく稀です、しかもこれのほかにはなく。

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2009年1月 5日 (月)

ぜんごぜんご

邪師にも惑はされ、正師にも惑はされ。

自分あるかぎり惑はされるんです、その自分なるものを正師は奪い叩きこわす、破家散宅ぶっこわれ破れほうけるまで。邪師は付け加え妄想のピラミッドをこさえるんですか。一盲群盲を引くという、世界平和を説き隣人愛を説く、すなわち喧嘩と他をないがしろにする、法王という妄想百般、二千年来の不作ですか。無明の文明どん底です、なんとかしなけりゃにっちもさっちも行かん。北朝鮮とアメリカがつるんで日本を牽制する、そんな姑息な手段をとって、そりゃろくなことはない。単純に真正面が自然です。みんな仲良く平和教盲者の日本も、因果必然どうもこうもならんです。一人光明なれば四維を照らす、生死を明らめ得て却って一言ありやなしや、まさにこれ一盲群盲を引く、政党のスローガン君子豹変ですか、だったらちったあ役に立ちますか、照顧脚下。有るあるというからそのつもりになってやってきたのに、なーんだなんにもなかったと老師に食ってかかったことがあった、老師苦笑。

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2009年1月 4日 (日)

ぜんごぜんご

仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖なり、我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん(目に真)ち(やまいだれに疑)、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是くの如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をしてしょう(金に肖)いん(一にタに員)せしむるなり。

とても今の世悟れるなんてもんじゃない、生生世世を尽くして生まれ変わり死に変わりして云々といわれて、そんじゃわしのようなどうしようもないのはそれっこそどうしようもない、仏教止めようかと思った、そうではない念起念滅するただそれに捉われなければいいと知って、ようやくやる気になった。たしかに念起念滅ぽっと出ぽっと消えに任せて、とらわれ観察し追いかけることなければ無心、心としてまったくないんです。でもこれを知って何十年ようやく少しはさまになったかというと、まだまだまだです。心念身儀発露白仏、まさにこれ仏の本来です、たとい朝打三千暮打八百かつがつに仏法僧宝として現前するにはあるいは現前するんですか、自分というちらともあればそりゃもうどうしようもなく。

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2009年1月 3日 (土)

ぜんごぜんご

生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり

どこまで行こうがただこれです、公案百般透過しようとも、たとい会に誇り悟に豊かにして、瞥地の智通を得、道を得、心を明きらめて衝天の志気を挙しも、一朝ことあれば二束三文ではなんにもならんです。ましてや禅家という禅師師家といいい、大小の物真似どもがああだこうだいいのわるいのの戯れごとは、およそ仏教とは縁がないんですか。すべては生死たった一つのおのれの生死、ただこの辺にあります。ですからたとい些少爪から先のことも、不遇であり失い奪われることをもって真正面する、悟りを得たといっておのれ別格のエアーポケットはもっとも唾棄すべきです、無理無体の無神経は仏に悖ることです、坊主と先生にはろくなものがいないと云われる、人格破壊人を育てることのできないがらくた。そうではないんです、生死を知ること死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき、たとい思いのままにするわざも坐下三尺を穿つ。

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2009年1月 2日 (金)

ぜんごぜんご

観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音暮念観世音 念念従心起 念念不離心

十句観音経です、いちばん短いお経ですか、これを唱えて朝に番に鐘を撞く。朝は四時、六時、昼は十一時、夕の六時と九時です。鐘子当番は新到のつとめだったな、夏はけっこう爽快だったけど、冬もまあけkっこう爽快過ぎて一声撞いては鐘楼下にちじこまっていたっけかな。鐘というものは撞く人によってぜんぜん音色がちがう、さすが堂頭さんの撞く鐘は鐘音尾を引いてすべるように軽やかに雪の辺に消える。渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風を厭わずは、風鈴のじゅだが、身心消えて虚空にんりおわる、ようやく信ずるんですか、常楽我浄ですか、人間というものはどこまで行こうが中途半端です、深入禅定、見十方仏と、一寸坐れば一寸の仏と知る、大自然のお仲間入りと実感する、無覚の覚ただただまったくにこれをのみ。

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2009年1月 1日 (木)

ぜんごぜんご

帰家穏座

坐る以外にまったく方法がないと知ること先決、ほかに言い訳申し訳があったらそりゃ言い訳申し訳の人です。自分が自分になったと知ることあって、じきにこれをなげうつ。捨てて捨てて捨てきって行く。頼りなく自信なくただもうへんてこでなにがどうなっているのかわからない、するとややいいんですか、自信なく頼りないところへ向かって身心を捨てる。原ぬるにそれ道本円通いかでか修証を仮らんという、宗乗自在なんぞ工夫を費やさん。況や全はるかに塵埃を出ず、誰か払拭の手段を信ぜんと、まさに実にかくの如くあるんです。如来来たる如しと現前する、自分という何十年かの生涯が雲散霧消するんです、今の世歴史科学だの社会だの常識の埒外です、そうかおのれとはこの世界の百個分がほどは掌する、出入り自由ですか、帰家穏座とはまさにそんなふうです、朝に夕に坐って去来おもむくままです。しかれども毫りも差あれば天地懸絶と、自分というなにがなしの推理あったんでは、そりゃなんにもならんです、ぎぎたる金相、堂々たる覚王、三界の独尊万霊みな仰ぐと、わずかに自分というなければ現前します。

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