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2008年12月

2008年12月31日 (水)

ぜんごぜんご

迷故十方城、悟故十方空

迷い思い込みの中に沈倫して、常識を這いずり回っていやこれでいいんだだってといって、言い訳申し訳ばかりにのたうち回る。人まさにかくの如くで例外はないんですか、愚者も賢者も哲学家も思想家も、悟った悟らぬという人も、ローマ法王もそうです、まったく同じ穴のむじなです。自縄自縛の縄のはしくれを自分だと思って、一盲群盲を引くんですか、世の中真っ暗闇の右往左往、こりゃもうどうにもならんといったって、たった一人十二分です、一人光明ならば四方あまねく照らす。東門西門北門南門。自分というよこしまがないんです。悟ったという、正法眼蔵だからどうだとまあさ、今の世心意識の堕落2チャンネルヤフー掲示板時代ですか、人格形成以前の問題です、そんなのがよったくって悟った悟らぬという、まんがにもならんですか。たとい迷故十方城、悟故十方空と痛切に思い当たって下さい、わらをもつかむ気持ちあって、はじめて参禅です。これなくんば生きている覚えもないと知って、ようやく自分という姿であり、捨てるべきものを見出すんです。そうしてついにほんとうに捨てて下さい。仏が待ち望んでいます。仏の世界これ夢にだも見ず。

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2008年12月30日 (火)

ぜんごぜんご

無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法

まさにこれが行われていることを知る、鼻あり耳ありするのは後から教えられて知っているんです、感覚器官として知ることはできない。意という心はあるではないかという、あるということを知らない、一つ心が一つ心を省みること不可能。これを確かめるのに別段悟りのどうのこうのないんですが、本当に知るには、たとい生き埋めにされちゃかなわんといって、夢中に走って生爪をはがす、痛いことは激痛ですか、ですがどこが痛いのかわからない、激痛を激痛とも云わないんです、身心失せきって、ただこうあるんです。向こうとこっちの区別がつかない。なんだか変だよう、柱がおれなんだかおれが柱なんだかとやっている。おれはどこへ行ったんだ、おれがいないと歩き回った弟子もいたな。するとまあこれがありようが手に入るんですか。手に入ったらもう一度手放して下さい。形影相見るが如くと、向こうが自分なんです、そうしてこっちを見ている感じですか、坐禅は向こうがやるんです、坐禅は坐禅がやるんですか、たといいてもたってもいられなかったり、あるいはまったくの無形容です、箇の無体験とでも云っておきますか。彼岸に渡り切ること先決。此岸でとやこう云ったってそりゃうるさったいだけです。一目瞭然事。

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2008年12月29日 (月)

ぜんごぜんご

謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏といふは誰といふぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。

だれあってお釈迦さまになる以外にないというんです、参禅はただこれです、到らずは七転八倒して下さい、七転八倒お釈迦さまの腹の内と知って直に解消します。即心是仏という、心は宇宙一切ものみなと同じです、渓声山色我が釈迦牟尼仏の声と姿と、ただこれあってほかにはまったくないんです、さあそのように坐って下さい、まっぱじめからものみなです、知らないというぽっかり咲いた花です、自分というけちな是非善悪は用なしです、お釈迦さまという無覚の覚、正にふりかえって世尊大慈大悲、ちらっともおれはとあったら損なうこと、正に仏恩を報ずるにてあらんと、永しなへに坐って下さい。

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2008年12月28日 (日)

ぜんごぜんご

無心

無心心が無い、如来来たる如く。心はたった一つです、たった一つがたった一つを観察することは不可能なんです、にもかかわらずきれいな心だ汚い心だやっている、おれが心はという、坐禅じながら妄想を追い回す、あるいは追い回される。なぜかという問題です。あるときの摂心に妄想煩瑣、ようしこやつにけりつけようとて、やればやるほど妄想です、真っ黒けになって四日間、ついに体力の限界ってんでもうどうにでもなれ、ほったらかした。とたんにぱあっとなんにもなくなる、押しても引いてもなんにも出ない。脳死とは違うんです、念起念滅のまんまです、それを観察するものがないんです、無心とはこういうことと知ったです。たった一つがたった一つになるとゼロです。人間以外みんなこれですか。ホーホケキョと鳴くとき満腔のホーホケキョです、それっこっきり。無心の美しさすがすがしさによって自然界は成り立っています、進化のエアーポケット人間ですか、知らないの達磨さんは花のようにぽっかり咲くんです、その風景は妄想人には思いもよらないんですか、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな。雪舟の絵があるいは如実にこれを表しています、ビジュアルな坐禅ですよ。

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2008年12月27日 (土)

ぜんごぜんご

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五うん(薀のさんずいをいとへん)皆空、度一切苦厄。

心経の冒頭の一節です、これにて仏教終わりというふうです。自在に観る菩薩とは赤ん坊のようにまっさらです、なんのとらわれもなくです、観世音というでしょう、世界のはてに一音起こったとしてもみそなわす、もとこれ人間本来の生まれつきです、悟るとはお仕着せのフィルターをとって見る、そのものずばりです、無防備都市ですか、だからおれはという言い訳がない、根拠もなく信仰や神様主義主張の隠れ蓑もないんです、仏教だといういわれもない、こんなんじゃとってもやりきれない、無残に死ぬよりないですか、大死一番大活現成、無心です、心無い故にまさにこうあるんです、心無いとは心はたった一つ、たった一つになるときに省みる不可能です、ゆえにゼロですか、無心の所以です。無心とは赤ん坊以前に立ち返ることです。般若波羅蜜多ぱーらみーたー彼岸に渡るという梵語です。此岸といってもとあるはずもない自我によって泳ぎ出す、それをもとに返して下さいというんです、仏はほどけ、ほどき終わればもと仏。五うん皆空とは自縄自縛の縄をほどくんです、なに一本切れればさらりほどけます、自縄自縛の縄のはしくれを自分と思いたがえている、哀れ情けなやの七転八倒、これ免れること畢生の大事。自分を救い得るすなわち人も救うんです、蟷螂の斧の仏説を振り回して、公案がどうの悟りがどうのという、そりゃ此岸のこと、自縄自縛の縄を付け加えるだけです、お笑いにもならんですか。

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2008年12月26日 (金)

ぜんごぜんご

一年365日夢という、現実であればあるほどに夢なんです、自分を省みることなければないほどに、ものごと100%いや200%ですか。アルタミラ洞窟壁画のように、命のやりとりを通して忘我の瞬間ですか、涙のしずくのような野牛の絵です、力強いことは後の芸術等の比較を絶するんです、これもし宗教というならこんなにいいものはないですか、神様仏様善いの悪いのだからどうなと、お為ごかしタブーだのヒエラルヒーだのとはまったく無縁です、ましてや一神教のがんじがらめうさんくさいのとは別天地です。エトルリアの絵のように極楽浄土ですか、夢を見るのに難波のことは夢のまた夢、人が現実といっているまじめだの誠実や正直などないんです、それは嘘なんです、歴史という教科書思い込み不完全文章はないんです、ホメーロスや平家物語のほうが真実ですか、夢とはなんであるか、今様の人もちらとも考えてみりゃいいです、夢にも見ぬことこれ夢。悟出し悟入する、自分というお仕着せのたがのはずれた真相です、無上楽といい歓喜という、寒山拾得摩尼宝珠は如来親しく収攬すと、これ仏の実際です、なんだかんだ言い草したってこれなけりゃただのかす。

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2008年12月25日 (木)

ぜんごぜんご

錯を以って錯に著く

錯とはあやまち、間違いです。真実不虚という無上とい無等等というこれがなぜ。あるとき無と云いあるとき有という、是と云い不是と云う、いずれも用い得て妙です、麻三斤といい、蛤が内臓をさらけ出す如くといい、かんしけつという、春は花秋は紅葉という、一転語まさにこれによって転ずればよし、でなきゃ矢新羅を過ぐですか。教外別伝不立文字、直指人身見性成仏。もとこれをもって示す以外にないんです。仏になること、すなわち仏あって他なし。これが真実である、仏教はこうあるべしと云うものがない。常識の夢をぶち破ることから始める、破壊的革命的なんていう生易しいものじゃないんです。達磨さんが毒を盛られ、一休がぶんなぐられる命がけですか。今の宗門の現れて欲しくないのは御開山禅師で、ごんずいかたまりして排斥する、俗人一般も坊主ほどではないにしろ、仏という自分本来を忌み嫌うんですか。自分失せりゃあ為人の所、どうにもこうにもさんざんな目に会うきりです。真実という絵に描いた餅は転がってないんです、さあどうしますか、はい思いのままにするっきゃないです、間髪を入れずです。でもってさんざくたです。薫風自南来、殿閣生微涼。一休のレプリカが床の間にぶら下がると、部屋を圧するんです、通るだに呼吸もせず。錯を以って錯に著く、よくまあ一休さん生きていられたもんです。

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2008年12月24日 (水)

ぜんごぜんご

ぜんごぜんご 全体に公開
2008年12月24日06:59

以無所得故 菩提薩た(土に垂)

無所得を以っての故にボージイサットバ修菩薩行、心経にあるこれを知る人はほんとうに稀です、かならず得るだからおれはとやる、自我を離れる一箇半箇仏となる四、五人もいりゃあと思うんですが、悟り終わって悟りなし、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよきと、これようやく修行が始まるんです。今の世心意識の低劣ごきぶりみたいがさごそ恥知らずが、おれは悟ったのオーム真理教の、まあさ掃いて捨てるほどいる、色の道というより色餓鬼ですか。一人で成仏するのは難しいんです、自分が自分にかかわるからです。お釈迦さまのように満足は得られない未だしと知る大力量です、道元禅師が印可を受けられるときに、なんで外国人がという、あいつもさんざうたれたからなあと師。じきにてめえの頭なでて○するんでしょう、たんびにぶったたかれて去る、これなくばどうしてどうして。無所得を以っての故にはそう簡単には手に入らぬです、この簡単が手に入らぬ理由は、人間てのはどうもそういうふうに出来ているとしか云いようがなく。趙州六十歳再行脚、日々に新たなりとはこれ、日々にまったく生まれ変わるほどに、ようやく修行ですボーディサットバです、ゆめ思い違えぬようにたって、思いそれ自体の問題だから手に負えないんです。

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2008年12月23日 (火)

ぜんごぜんご

法要

なんでお経を読むんだと聞いたのがいる、お経があるからさと答えた、読むのが楽しいからと、ほんとうに無上楽、楽しく読んだ人は小浜の雪渓さんだった、あとさきなく鶯の鳴くようにも、そうこれがわしのとこの初関です。趙州因みに僧問う、狗子に仏性有りやまた無しや。州云く無。むーと趙州消えてまるっきりむーだけです。これができないとお経にならない。曹洞宗門は行事綿密威儀即仏法といって、いじめ修行で判子捺印みたいな人格破壊ですか、お経というより裏声だみ声張り上げて、むごたらしくむきつけの我欲日常をさらけ出す。すべてが嘘です。たとい人間です、だれだっていやになる。田んぼの蛙のほうがよっぽどまし。威儀即仏法とはおのれを省みないんです、省みるにおのれなし、無心無身にして始めて行事綿密です、でなけりゃどんなに習おうが鋳型に嵌めようがだらしなくみっともないんです。法要という歩歩清風起こる、ほんとうに清風が目に見えるようです、盤珪さん隠元禅師を迎えに行って踝を返して帰る、なぜにと問うと、あれは不生の人にあらずと云った。一目瞭然なんです、どんなにうまいこと云ったって云う前から破れ法界、仏が一挙手一投足これが法要です、お経は間違いもなくある、間違いもなくあるのを確かめる喜び、娑婆流の確かめるとは断然別ですか、無上楽これです、また日々に新たなり。

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2008年12月22日 (月)

ぜんごぜんご

仏心

仏心は法界に充満し、普ねく一切群生の前に現ず、縁に隋い感に赴いて周ねからずということなし、しかもこの菩提座に処したまう、仏の功徳界は賛揚し尽くし難し。これは仏開眼式の回向です。仏=心、心も見えず仏も見えないんです。物扱いしたり思想のよしあしではないです。摂心に大学院生の女の子が来た、ヘルスだとかセラピイだとかいって精神医療に仏教を使うと効果があるという。坐るにはみみずののたくったような、寒いといって山のように被る、すぐにノートを取ってパソコンを抱えて論文を書く、大姉寮の顰蹙を買った、作務には外れてたいていなんにもしない、云うことだけはしゃしゃり出る。我侭というより自閉症ですか、仏教というもとそんなものないんです。ないものを使うことはできない、人を救うにはおのれ仏になる他はなく、まずもって自分を救うとは、自分という自我のまったく失せる時を待つ、自分失せればあまねく一切群生です、たとい何をしたってしなくったって、為人の所、縁にしたがい感に赴いて周ねからずということなし、触れるものみな救うんです。それをヤフー掲示板みたいに、仏教云々おれは悟ったんだからという、たといあばずれ女も引き裂いて理非を糾すという、こりゃただのがりがり亡者です、仏を云いながら仏に遠くて遠いです、恥じ入る心をもって仏入門です、いったい何を重い何をなすったって、ただの心理学の対象じゃみっともないですよ。

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2008年12月21日 (日)

ぜんごぜんご

無事禅と公案禅

二つとももとそんなものありっこないんです。無事禅と云うとからにだめ男ですか。公案と云うとからに信用ならんですか。無事禅という、なんにもない自分を眺め暮らす、二分裂です、禅という単を示すにはならない、担いで帰れと云われる所以です。大悟十八っぺん小悟その数を知らずという、やっぱり二分裂です、悟ったという自分がある、どこまで行っても本来のものにはならんのです。見せるための座禅、売らんがための座禅ですか、自分も救はれなければ、人も救い得ぬ、これ仏ではなく自閉症です、笑うべき猿芝居をふりかざして、とやこうという、自然に背くんです。花のように知らないという、達磨さんを駆逐し毒殺しようという連中。そうではなく、なんにもないとは見る自分も見られる自分もないんです、このときはじめて禅です。無心とは心が無いんです。無上楽これ、すべてを捨てて始めて得られます。しかも日々新たです、だからこれでいいなんてものがこの世にあろうはずもないんです。座禅を履き違えないで下さい、白隠依頼のあいまいを脱して下さい。獲得物質じゃない不識です。そりゃもう比較を絶するんです、他の演説を敷衍して安楽椅子じゃ、犬の糞にもならんですよ。

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2008年12月20日 (土)

ぜんごぜんご

捨身施虎

お釈迦さまが修行中に飢えた虎に身を投げ与えた、この因縁によって先に衆生済度に現れたという、他に同じい譬えが二、三あって、シルクロードを伝わってついには日本の玉虫の厨子になる、これ仏教の本質です。他のインドの聖者だの諸宗道徳思想の違い歴然です、飢えた虎に投げ与えるのに、人格の完成や妄想のあるなし、ましてや真実だの仏教だの云う必要はまったくないんです。これが坐禅です。自分用無しにしてただもう坐って下さい。虎に食われる方法です。食われ終われば痛くもかゆくもない、虚空そのものです。太虚の洞然たるが如しです。四の五の云おうが云うまいがまるっきり関係ないんです。只管打坐これ、はじめっからなんにもないんです、悟りを得るだからどうのとやってるかぎりはものにならんです。安楽の法門これ、大安楽が待っています、坐って坐り抜く、捨てて捨てて行く、なりふりかまわずのただもうこれ。直きにあけわたして下さい、如来来たる如し、無心とは心無しです、無心無身はーいお釈迦さまです。

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ぜんごぜんご

捨身施虎

お釈迦さまが修行中に飢えた虎に身を投げ与えた、この因縁によって先に衆生済度に現れたという、他に同じい譬えが二、三あって、シルクロードを伝わってついには日本の玉虫の厨子になる、これ仏教の本質です。他のインドの聖者だの諸宗道徳思想の違い歴然です、飢えた虎に投げ与えるのに、人格の完成や妄想のあるなし、ましてや真実だの仏教だの云う必要はまったくないんです。これが坐禅です。自分用無しにしてただもう坐って下さい。虎に食われる方法です。食われ終われば痛くもかゆくもない、虚空そのものです。太虚の洞然たるが如しです。四の五の云おうが云うまいがまるっきり関係ないんです。只管打坐これ、はじめっからなんにもないんです、悟りを得るだからどうのとやってるかぎりはものにならんです。安楽の法門これ、大安楽が待っています、坐って坐り抜く、捨てて捨てて行く、なりふりかまわずのただもうこれ。直きにあけわたして下さい、如来来たる如し、無心とは心無しです、無心無身はーいお釈迦さまです。

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2008年12月17日 (水)

2008年12月 接心提唱

2008年12月の接心にて、宝鏡三昧の提唱です。

2日目
3日目
4日目
5日目

※1日目がありませんがご容赦下さい。

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2008年8月 接心提唱

2008年8月の接心にて、般若心経の提唱です。

1日目
2日目
3日目
4日目
5日目

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