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2008年11月

2008年11月29日 (土)

無門関

後序

従上の仏祖垂示の機縁、款に拠って案を結し、初めより剰語無し、脳蓋を掲翻し眼晴を露出す。肯て諸人の直下に承当して、侘に従って求めざらんことを要す。若し是れ通方の上士ならば、わずかに挙著するを聞ひて便ち落処を知らん。了ひに門戸の入る可き無く、亦た階級の升る可き無し。肘をふる(てへんに卓)って関を渡って関吏を問はじ。あに見ずや、玄沙の道ふことを、無門は解脱の門、無意は道人の意と。又た白雲道はく、明明として知道に、只だ是れ者箇、なんとしてか透不過なると。いんもの説話、也た是れ赤土もて牛ねい(女に爾)をぬ(てへんに茶)る。若し無門関を透得せば、早く是れ無門を鈍置す。若し無門関を透り得ずんば、亦た乃ち自己に辜負す。所謂涅槃心は暁め易く、差別智は明め難し。差別智を明め得ば、家国自ずから安寧ならん。
 時にじょう(糸に召す)定改元、解制の前五日、楊岐八世の孫、無門比丘慧開、謹んで識す。
 無門関 巻終

款は法律の条文、案は判決文、これは人為のものではなく、もとっからこうあって寸分もゆるがせにならんです。脳蓋をー頭蓋をぶちこわし、目ん玉を抉り出す、知識あるいは見聞の範囲を逸脱する、埒開くんです、いいことしいの光明眼晴を失い去る、でなけりゃキリスト教式ですか、ただの害悪にしかならん。わずかにちらともあるものを落とす。門戸の入るべきなく、階級の上るべきなくと、臨済宗卒業論文じゃないんです、まったくになんのもなしを知る、知るさえなければわずかに役に立つんです。無門はわずかに身心を脱する、はじめから自分用無しです、無意の人万が一もなし、有意の右往左往てめえにしてやられ、声色の奴卑と馳走するんです、仏教らしいことたといちらともあれば同じことです。赤土に牛乳を塗りたくる、余計こと汚すんですか、明明と知るにただこれ、道とはこれ。無門関を透らずとは、自分にしてやられているってことです。涅槃心という、たしかにあるという、そんなこといってたらものみなのありようが見えんです、廓禅無聖個々別々です、不識はなのようにおのれを知らぬ、一箇半箇まさにこれを得る、はーい待ってますよ。

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2008年11月27日 (木)

無門関

兜卒三関

兜卒悦和尚、三関を設けて学者に問ふ、撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性、甚れの処にか在る。自性を識得すれば方に生死を脱す、眼光落つる時そもさんか脱せん。生死を脱得すれば便ち去処を知る、四大分離して甚れの処に向かってか去る。
 無門日く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以って随所に主と作り、縁に遇ふて即ち宗なるべし。其れ或ひは未だ然らずんば、鹿さん(さんずいに食う)は飽き易く、細嚼は飢え難し。
 じゅに日く、
一念普く観ず無量劫、無量劫の事即ち如今。
如今箇の一念を見る底の人を見破す。

兜卒従悦は臨済宗黄龍慧南二世宝峰克文を継ぐ。撥草参玄は師を求めて参学して行く、ただこれ見性を求めることは、物真似猿芝居じゃないんです、習おうたってなんにもならないことをまず知る。今の人たとい何をどう説こうが、らしいこと雰囲気にたすことのみんな仲良く平和にというんですか、決してまっしんに当たらない、こりゃどうにもならんデジタル頭ですか。頭なんかいらんけれども、頭じゃないってこと知らんきゃそりゃだめです。見性、自性を識得すれば生死を脱すと、自分まったく失せてようやくに修菩薩行です、無上楽の法門です、言い訳申し訳不要の世界です、眼光落ちるんですか、あっはっは無眼耳鼻舌身意です、脱するに脱するところなし。四大分離するんです、天地生え抜きという、そういうとからにひっかかるんですよ、随所に主となり、縁に従う宗となる、どこへ行こうが托鉢して飯食えればってんです、がんばって下さい、中途半端じゃそりゃあっはっはやりきれんですよ。鹿食は飽き易く、細噛は飢え難し、できなけりゃ死ぬまでやっとれってことです、たとい明日あの世だたってものはこれのほかにはなし。

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2008年11月25日 (火)

無門関

乾峰一路

乾峰和尚、因みに僧問ふ、十方薄伽梵一路涅槃門、未審し路頭いずれの処にか在る。峰柱杖をねん起し、画一画して云く、者裏に在り。後に僧雲門に請益す。門扇子をねん起して云く、扇子勃跳して三十三天に上って、帝釈の鼻孔に築著す。東海の鯉魚打つこと一棒すれば雨盆を傾くに似たり。
 無門日く、一人は深深たる海底に向かって行いて、簸土揚塵し、一人は高高たる山頂に立って、白浪とう(稲の禾をさんずい)天す。把定放行、各一隻手を出だして宗乗を扶竪するに似たり。世上応に直底の人無かるべし。正眼に観来れば二大老、總に未だ路頭を識らざる在り。
 じゅに云く、
未だ歩を挙せざる時、先ずすでに到る。未だ舌を動ぜざる時、先ず説き了る。
たとい著著機先に在るも、更に須らく向上のきょう(穴に激のさんずいなし)有ることを知るべし。

越州乾峰は洞山良かい(にんべんに介)に継ぐ。ばぎゃぼん世尊の意、十方諸仏だとさ。いぶかし路頭いずれのところにかある、路頭無しと云えば納得しますか、人陸沈さるという、坐っていて得るんではなく益々失って行く、思想分別いいことしいとはまったく反対ですか、叩かれ叩かれしてかつがつに知る、どうやってもこうやっても不可なんです、路頭ではなくぜんたいですか、しかも云はずばなんにもならぬ。画一画してここにありと示す、余計なこったというより未だ知らざるありと。扇子を投げたら三十三天に上り帝釈天の鼻にとっついた、東海の鯉魚一棒すると盆をくつがえすような雨を降らすと、いいですかこれなくば無事禅、みんな仲良く平和にの仏です、仏じゃない嘘で塗りたくっただけです、今の世どうしようもない校長訓示ですか、ぶった切ったって赤い血が出ない、男一匹一生を棒に振って始めて応分の処分あり、なんにもしなけりゃうじむしののたくり汚すだけです。十方ばぎゃぼんというだれ一人知らんのです、一人不惜身命です、飢えた虎に身を投げ与えて始めて知る、世尊とはおのれ以外になく、おのれは世尊以外に生きるすべなく、たった一箇まさにこれたった一箇。歩まざる先にすでに到り、舌を動かさざ先に説き終わる。冬鳥一羽ちいと鳴く、いえさ他にあるべくもなく。

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2008年11月24日 (月)

無門関

竿頭進歩

石霜和尚云く、百尺竿頭如何が歩を進めん。また古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭須らく歩を進めて、十方世界に全身を現ずべし。
 無門日く、歩を進め得、身を翻し得ば、更に何れの処を嫌ってか尊と称せざる。是の如くなりと雖も、且らく道へ、百尺竿頭如何が歩を進めん、さ(口に夏)
 じゅに日く、
頂門の眼をかつ(目に害)却して、錯って定盤星を認む。
身を拌て能く命を捨て、一盲衆盲を引く。

石霜慶諸は青原下五世、これのみが仏教なんです、仏教を学ぶとは余計なもの、いえ自分というよこしまにするものを払い落として行くんです、得便宜あり落便宜ありという、まるっきり払い落とすと、見性する悟るということがある、ちらともあったり、まったくに自分失せ切ったりする、天地同根ですか、するとこれ元の木阿弥だのに天下取ったような気分になる、すなわちまたこれを払い落とす必要がある、なんにもなければ可、ちらともあれば動きが取れん理屈です。それを人天の導師だのいう嘘とはったりの猿芝居だの、無門関壁巌録卒業したの印下底だの道具立ては、なんの役にも立たない仲間うちだけの集団自閉症ですか。百尺竿頭進歩は、坐ってごらんなさい、自分というものなしは、想像を絶するんです、取り付く島もないとき、かつがつに自然そのものです、生き甲斐面白さという、身を捨て命を投げ出して、盲です、なんにも見えない、光明もなんにもない、だから大活現成なんですよ、わっはっはでもって衆盲を引いて下さい、宗教としてまったくその他のことはないんです、あったら詐欺です、共産中国のどうしようもなさと似いたか寄ったか、弊害はなはだし。

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2008年11月23日 (日)

無門関

他は是れ阿誰

東山演師祖日く、釈迦弥勒は猶ほ是れ他の奴。且らく道へ他は是れ阿誰。
 無門日く、若し他を見得して分暁ならば、譬えば十字街頭に親爺に撞見うるが如くに相似て、更に別人に問ふて是と不是と道ふことを須ひず。
 じゅに日く、
他の弓挽くこと莫れ、他の馬騎ること莫れ。
他の非弁ずること莫れ、他の事知ること莫れ。

東山演師祖は五祖法演と同じ、三十五則にあり。他の弓ひくことなかれ、他の馬騎ることなかれ、これが禅の基本わざです、キリスト教みたいにいいことしいの見習いじゃ死んでも死にきれんです、カリカチュアの共産主義のように、目的のためには手段を選ばぬという、てめえだけよけりゃの見本です。虎の威を借る狐の弁ですか、もし仏教ありお釈迦さまありじゃそりゃまったく同じことです、ついにはヤフー掲示板みたいに箸にも棒にもかからんです、なんにもならずは話堕。よくわしの示すのは、そうです、自分にはなんの関係もないんです、自分用なしに坐って下さい、もし内と外とあるんなら外ばっかりに参加です、内をすっからかんに明け渡してください、他はこれ阿誰です、すなわち他の非弁ずることなかれ、他の事知ることなかれ。仏はまったくにこと足りるんです、これほんとうです、だまされたと思って参じて下さい。そこらへんの人間みないいやつってね、うっふっふお化けみたい狂いみたい顔して、わしは歩いているのかな。まあさてめえの顔なんか見えないよ。

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2008年11月22日 (土)

無門関

芭蕉しゅ(柱の木のかわりにてへん)杖

芭蕉和尚衆に示して云く、汝に柱杖子有らば、我汝に柱杖子を予えん。汝に柱杖子無くんば、我汝が柱杖子を奪はん。
 無門日く、扶けては断橋の水を過ぎ、伴なっては無月の村に帰る。若し喚んで柱杖と作さば、地獄に入ること箭の如くならん。
 じゅn日く、
諸方の深と浅と、都て掌握の中に在り。
天をささえ並びに地をささえて、随処に宗風を振るふ。

芭蕉慧清は新羅の人、い(さんずいに為)仰衆三世南塔光湧に継ぐ。あるものに与えないものから奪う、これ常套手段といって、どっちからもきりきり奪うんです、もんちは悟ったという、では女の子を口説いてみろといった、口説けない、徒らにするんじゃない、真正面から当たれそうしたら無一文に気がつく。あるいは悟ったという、捨てるべきおのれが見つかったに過ぎない、さあ坐れといったらそれっきりになった。ふうりんさんはなんにつけても薀蓄を傾ける、それのみが自分の存在価値と思い込む、ではそいつを奪え、根拠を失えば虚空、ようやく楽に坐れる、安楽の法門の入り口のはず、でもってやっぱりそれっきり。あっはっは世の中中途半端が多いんですか、わしの力不足ですか、容易なこっちゃないんです、ちらっともひきはがれたらますますもって食らいつけ、でないとなんにもならんです、柱杖子を天地宇宙、もとのありのまんまに返す。命投げ出して始めて得るほどに。

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2008年11月17日 (月)

無門関

女子出定

世尊昔、因みに文殊、諸仏の集まる処に至って諸仏各各本処に還るに値ふ。惟だ一の女人有って彼の仏座に近ついて三昧に入る。文殊乃ち仏に日さく、云何ぞ女人は仏座に近つくことを得て我は得ざる。仏文殊に告ぐ、汝但だ此の女を覚して、三昧より起たしめて、汝自ら之を問へ。文殊女人をめぐること三匝、指を鳴らすこと一下して、乃ち托して梵天に至って其の神力を尽くすも出だす能はず。世尊云く、仮使ひ百千の文殊も亦た此の女人を定より出すことを得ず。下方一十二億河沙の国土を過ぎてもう(網のつくりだけ)明菩薩有り。能く此の女人を定より出さん。須ゆにもう明大士地より湧出して世尊を礼拝す。世尊もう明に勅す、却って女人の前に至って指を鳴らすこと一下す。女人是に於いて定より出ず。
 無門日く、釈迦老師者の一場の雑劇を做す、小小を通ぜず。且らく道へ、文殊は是れ七仏の師、なんに因ってか女人を定より出すことを得ざる。もう明は初地の菩薩、なんとしてか却って出だし得る。若し者裏に向って見得して親切ならば、業識忙忙として那伽大定ならん。
 じゅに日く、
出得するも出不得なるも、かれとわれと自由を得たり。
神頭並びに鬼面、破けつ(蕨のくさかんむりたれを門)当に風流。

これなんかがせねた、もっとも女人の様相はお釈迦さまでもご存知あるまいと、お釈迦さまはちゃーんと弁えているんです、たとい定という単に物理的なものを利してかくの如くに説く、みよちゃんを誘うにはみよちゃーんおっかけの彼氏と云えばすっ飛んで来るごとく、だからといって仏の座に遠いかというと、時には文殊のほうが疎遠です、なぜか、納得行くまでよくよく参じて下さい、仏の智慧は文殊至理の延長上にあるんじゃないんです、もう明菩薩さえたとい掌の辺にあらず、世のおろかな大人ども右往左往と世尊と一般、まさしくこれを知る本来ほんとうに坐れるんです。

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2008年11月16日 (日)

無門関

達磨安心

達磨面壁す。二祖雪に立つ。ひじ(壁の土のかわりに月)を断って云く、弟子は心未だ安からず、乞ふ師安心せしめよ。磨云く、心を将ち来れ、汝が為に安んぜん。祖云うく、心を求むるに了に不可得なり。磨云く、汝が為に安心し竟んぬ。
 無門日く、欠歯の老胡、十万里の海を航して特特として来る。謂ひつべし是れ風無きに浪を起こすと。末後に一箇の門人を接得して、又却って六根不具。いい(口に夷)。謝三郎四字を知らず。
 じゅに日く、
西来の直指、事は嘱するに因って起こる。
叢林をにょう(てへんに堯)かつ(耳舌)するは、元来是れ汝。

謝三郎四字を知らず、玄沙師備は文字を知らず銭の四文字も読めなかった。心を求むるについに不可得。禅宗の単純を示すはただこれ、心はたった一つです、たった一つを一つが知ることはできない、したがい無なんです。とやこうああだこうだあげつらっていないで、心を求むるに不可得を知って下さい、心なければ知ることができないと、けだし正解です、ものみな知らないによって成り立っていること、達磨廓然無聖個々別々ですか、不識知らんわいこれ。地球宇宙ものみなの平和です、よくよく見てとって下さい、人間窮極元の木阿弥の大智慧です、他は自堕落曖昧模糊です。じゅはまさにこれ自ずからに知る。

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2008年11月15日 (土)

無門関

てき(擢のてへんでなく走)倒浄瓶

い(さんずいに為)山和尚、始め百丈の会中に在って典座に充たる。百丈将に大いの主人を選ばんとす。乃ち請して首座と同じく衆に対して下語せしめ、出格の身往くべしと。百丈遂に浄瓶をねんじ地上に置いて問を設けて云ふ。喚んで浄瓶と作すことを得ず、汝喚んでなんとかなす。首座乃ち云く、喚んで木とつ(木に突)と作すべからず。百丈却って山に問ふ。山乃ち浄瓶をてき倒して去る。百丈笑って云く、第一座山子に輸却せらると。因って之に命じて開山と為す。
 無門日く、いやま一期の勇、いかんせん百丈の圏き(口のなかに貴)を跳り出ざることを。検点し将ち来れば、重きに頼りして軽きに頼りせず。何が故ぞ。にい(漸のしたに耳)。盤頭を脱得して鉄枷を担起す。
 じゅに日く、
笊り(竹かんむりに離)並びに木杓をよう(風に易)下して、当陽の一突周遮を絶す。
百丈の重関もさえぎりとどめず、脚尖てき出して仏麻の如し。

浄瓶は水を蓄える器。てき倒すは蹴倒す。木とつ木のきれっぱし。盤頭はちまき。当陽は南に正面して座る、天子の座、転じて真正面。まあ語の解釈はそのへんでよかろう。なんのかんの云うやつは大勢いるし、所作だの物まね師家もそこらじゅうにころがっている、だにしらみの類だな、商売の足しにしかならん仏教なぞあるわけがないのにさ。なかんずく浄瓶を蹴倒して去る、これができるのは万人のうち一人です。そういう人になって下さい。知はこれ妄覚、無知はこれ無記、だからどうのの申し訳言い訳仏教を早く卒業して下さい。百丈のけんきーわなですか、そんなものもとっこないんです、はいよって云ってうまそうに水を飲む、重きを転じて軽きにおく、どうしたっても自分という仏教きちがいを去るんです、いったいなんのための仏教か、自分一個一生のすべてを入れあげて、無一物中無尽蔵ですか、わっはっはけったくそわりいやっていらんねえってさ、どうですきれいさっぱりしましたか、なにきれもさっぱりも欠の穴、でもって朝夕坐るっきりが。

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2008年11月14日 (金)

無門関

雲門話堕

雲門因みに僧問ふ、光明寂照遍河沙。一句未だ絶せざるに、門遽かに日く、あに是れ張拙秀才の語にあらずや。僧云く、是。門云く、話堕せり。後来死心ねん(てへんに占)じて云く、且らく道へ、那裏か是れ者の僧が話堕の処。
 無門日く、若し者裏に向って雲門の用処孤危、者の僧甚んに因ってか話堕すと見得せば、人天の与に師と為るに堪えん。若し也た未だ明めずんば、自救不了。
 じゅに日く、
急流に釣を垂る、餌を貪る者は著く。
口縫わずかに開けば、性命喪却せん。

張拙秀才は石霜慶諸に継ぐ、科挙の試験に及第して官吏になった人。黄龍死心は黄龍寺晦道祖心に継ぐ。話堕せりとは腹の減ってない魚ですか、急流の釣を垂れ、雲門の壁立万侭です、取り付く島もないとはもと自分そのものなんです、それを今様能書きト書きやっていたんではそりゃ屁のつっぱりにもならんです。わずかに口を開けば喪心失命、これを機と云い用と云う、すなわち地球万物のお仲間入りです。たとい張拙秀才の名言だろうが、これをもっておのれ乾坤、身を捨ててこそ、雲門の痛棒に適うんです、仏教という浪花節じゃないんです、いつまでがきじゃあるまいし2チャンネル人ヤフー掲示板やってないんです、参加するんです参ずるとは取っ組み合いの七転八倒ですか、ついに得たりというまでは不惜身命です、得たらこれ始めて修菩薩行です、日々まったく新たにの実生活です。

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2008年11月13日 (木)

無門関

牛過窓れい(木へんに雨のしたに口三つ)

五祖日く、譬えば水こ(牛に古)牛の窓れいを過ぐるが如き、頭角四蹄都べて過ぎ了るに、なんに因ってか尾巴過ぐることを得ざる。
 無門日く、若し者裏に向って顛倒して、一隻眼を著け得、一転語を下し得ば、以て上四恩に報じ、下三有を資くべし。其れ或いは未だ然らずんば、更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。
 じゅに日く、
過ぎ去れば坑塹に堕ち、回り来たれば却って壊らる。
者些の尾巴子、直に是れ甚はだ奇怪なり。

 窓れいは窓枠ですか、牛が通って行く、頭角も四足もすっかり行ったのに尾っぽの先が残ったという、だれかれたいていこれやってます、なんsですっかりなくならないんだという、云ってる限りはなくならないんですか、一転して下さい、これのみが仏の道です。どうしても見ている自分がある、では不都合なんです、投げ与える工夫です、自分そのものを手放すんです。仏教も悟りも捨ててようやく端緒です。過ぎ去れば坑塹に堕ち、回り来たれば却って壊られやってないんです、方法はというと簡単で虎に食われ終わるってこってすか、なにしろこれ終わらんきゃ醍醐味ないです、はなはだ奇怪のまんま三百代言です、まずもってお釈迦さまです、そうして釈迦も弥勒もないんです、地球宇宙のものみなですよ。

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2008年11月12日 (水)

無門関

庭前柏樹

趙州因みに僧問ふ、如何なるか是れ祖師西来意。州云く、庭前の柏樹子。
 無門日く、若し趙州の答処に向って見得して親切ならば、前に釈迦無く後に弥勒無し。
 じゅに日く、
言、事を展ぶること無く、語、機に投ぜず。
言を承くるものは喪し、句に滞るものは迷ふ。

 祖師西来意、達磨さんはなんでやって来たかという、庭前の柏樹子あるいは目の前の机とか、答えが決定して法戦問答ですか、そりゃたいてい漫画にもならんです。学者の卵のおねえちゃんがやって来て、仏教を使ってなんとかセラピーだのヘルスだのという、参禅するのに同部屋の女たちの総好かんを食らって、しかもなを気がつかない。掃除をするにも質問するにも、てめえだけ特別ってなもんで、坐るにはへんてこりんにひん曲がって、こりゃ坐禅じゃなくってなんていうんだろ妄執自慰か、けったくそわりいいたらげじげじ。仏教を使う、利用することは不可能です、もとないものは使えない。人を救うんならてめえ仏になるんです、他に方法はない。庭前柏樹子なら柏に成り終わるほかなく、まったく完全に自分を明け渡して下さい。明け渡し成り切る自分を見ているんじゃないんです、そうです、上には上があるとほどに思って下さい。前に釈迦なく後に弥勒なしです、祖師西来意とはこれ。もとまったくの手つかず。

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2008年11月11日 (火)

無門関

道逢達道

五祖日く、路に達道の人に逢はば、語黙を将って対せざれ。且らく道へ、なにも将ってか対せん。
 無門日く、若し者裏に向って対得して親切ならば、妨げず慶快なることを。其れ或ひは未だ然らずんば、也た須らく一切処に眼を著くべし。
 じゅに日く、
路に達道の人に逢はば、語黙を将って対せざれ。
らん(欄の木をてへん)鰓へき(壁の土を刀)面に拳す、直下に会せば便ち会せん。

 らんさいへきめん、顎を掴んでぶん殴ること、へきめんは悲しみのあまり顔を刀で切り裂くこと。達道同士が行き逢うとどうなるかって、道なく達なく三つの子供のこやつは面白さ、こないだかめちゃんとみおちゃんがやってたらしい、わしは寝てしまった、双方まだちいっと残ったがなんのけれんみもなくばよし。寒山拾得はこれまったくはじめて人間同士、よくよく見るによし、嘘もはったりもなく作りごと猿芝居なく、あっはっは師家葬式坊主のちょうど正反対、世の中すっきり清清はようやくにして地球万物のお仲間入り、だれあってもとっこなんにもなし、妨げず慶快ならんことを、一切処に眼を著けるに従い失せ。是是。

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2008年11月 2日 (日)

無門関

せい(にんべんに青)女離魂

五祖僧に問ふて云く、せい女離魂那箇か是れ真底。
 無門日く、若し者裏に向って真底を悟り得ば、便ち知らん殻を出でて殻に入ること、旅舎に宿するが如くなるを。其れ或いは未だ然らずんば、切に乱走すること莫れ。驀然として地水火風一散せば、湯に落つるぼう(傍のにんべんのかわりに虫)蟹の七手八脚なるが如くならん。那時言うこと莫れ、道はずと。
じゅに日く、
雲月是れ同じ、渓山各々異なり。
万福万福、是れ一か是れ二か。

五祖法演は臨済下白雲守端の嗣。せい女は魂と肉体が分離して、一は王宙という男と結婚し、一は病に伏す、あるときまた元に返ると。せい女離魂、那箇かこれ真底。自分というまったく失せる身心脱落です、殻を出て殻に入ること旅舎に宿る如くと、汝これ彼にあらず彼まさにこれ汝という、手に取ったお椀の中にころっと入っている、入っているんじゃまだこっちにあるんです、直きによくせい女離魂を手に入れて下さい。超能力だの悪戯をするんとは雲泥の相違です、そのような意図あってするのを邪教というんです、いずれ中途半端が類を呼んで害甚大です、ひっかからないように。ぼうかいは茹でた蟹です、自分の手足が自分なしに七足八脚するさま、ふっとそりゃ面白いんです、無心無身そのまんまですよ。雲月これ同じ、谷と山は各異なる、万事めでたし一かこれ別か、はーいたしかめて下さい言い草いくらいったって醜くく悪意に満ちることあり、あっはっはトヨさんみたいのなあなんとかなんねーか。仏の道はたった一つ他の入りようはないんです。

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2008年11月 1日 (土)

無門関

智不是道

南泉云く、心は是れ仏にあらず、智は是れ道にあらず。
 無門日く、南泉謂ひつべし、老ひて羞を識らずと。わずかに臭口を開けば、家醜外に揚がる。是くの如くなりと雖も、恩を知る者は少なし。
 じゅに日く、
天晴れて日頭出で、雨下って地上湿ふ。
情を尽くして都て説き了る、只だ恐る信不及なることを。

心は省みることも弄ぶことも不可能です、なんとなれば省みるもの、弄ぶもの心です、たった一つきりが二分裂するわけがない、にもかかわらず是非善悪やっている、清濁きれい汚い飽きもせずにです、狂いと正常人の区別のつかない道理です、架空のおのれに振り回されるんですか、幽霊と二人三脚じゃそりゃどうしようもないです。しかも知識智慧に根拠する、どこまで行こうが切りのない泥沼ですか、架空のおのれが思いあがる、金剛王宝剣をもってずたずたに引き裂く、架空のそやつをめったらにぶっつぶす、ぎゃあとわめいて百たびも死ぬ思いをせなけりゃ、正常には戻れないんです。そいつを仏教だ悟りの云って心を助長し、知識にふんぞり返る、安楽椅子に揺られて仏教だと思い込む、どうしようもこうしようもなしです、お釈迦さまの袖に触れるさへ恐ろしいこと千尋の谷へまっさかさま、生きてなんかとってもいられぬほどのことだれも知らない、恩を知るとは如何なることか、わずかにおのれというなければ可、ちらともあれば刺し貫かれ、悲鳴激痛そりゃまったくに七転八倒です。仏の慈悲まさにこれ。

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