« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

2008年10月31日 (金)

無門関

非心非仏

馬祖因みに僧問ふ、如何なるか是れ仏。祖日く、非心非仏。
 無門日く、若し者裏に向って見得せば、参学の事畢んぬ。
 じゅに日く、
路に剣客に逢はば須らく呈すべし、詩人に遇はずんば献ずること莫れ。
人に逢ふては且らく三分を説け、未だ全く一片を施すべからず。

馬祖道一、即心是仏と説き非心非仏と説く、ある人のいう、即心即仏が心が仏であるであれば、非心非仏を心は仏ではないとしたいが、通説に従って心でもない仏でもないを採ると。まさにこれ心を弄ぶの好例ですか、非心非仏の三分を説くところをまったく理解しない、即心即仏もまさにそのものになり終わらなければなんの意味もないです。仏に非ず心に非ずという、命ぎりぎりのところでかつがつに得るんです、坐ってごらんなさい、どこまで行っても自分を取り扱い、仏を取り扱いするんです、これを去るには常識ごと見たふう聞いたふうじゃどうにもならんです、たとい人事を尽くして天命を待ったところでかすにもならんです。お手上げ万歳、お釈迦さまの法なんてとうていおれにはというほどでわずかに見える、すなわちすったもんだごと捨身施虎です、お釈迦さまに捧げるほどのいいことしいじゃさらに届かない、心にあらず仏にあらずとは、自分そのものが虚空に食われ尽くす以外にないです、しかもなをなを足らずと、いくたび地獄に落ちようがただもうまっしぐら、自分というどうにもならんものをただもうこれ、呈剣献詩献は古い成句だとさ、三分を説けまったく一片を施すべからずは、軍略用語ですとさ、非心非仏まったくに施し過ぎ。

| | コメント (0)

2008年10月30日 (木)

無門関

外道問仏

世尊因みに外道問ふ、有言を問はず、無言を問はず。世尊拠座す。外道賛嘆して云く、世尊大慈大悲、我が迷雲を開ひて我をして得入せしむ。乃ち具礼して去る。阿難尋ねて仏に問ふ、外道何の所証有ってか賛嘆して去る。世尊云く、世の良馬の鞭影を見て行くが如し。
 無門日く、阿難は乃ち仏弟子、宛かも外道の見解に如かず。且らく道へ、外道と仏弟子と相ひ去ること多少ぞ。
 じゅに日く、
剣刃上に行き、氷稜上に走る。
階梯を渉らず、懸崖に手を撒す。

阿難外道はなんの所証あってかと問ふ、悟ったのかと聞く清清この上なきなにものか、世尊の答えは世の良馬の鞭影を見て走ると、さあどうです、鞭でひっぱたいて走らせるか、なにゆえです、悟り終わればただの人、悟り終わって悟りなしとは、外道も仏弟子もない世界ですよ、ものみなお釈迦さま、山川草木鳥もけものも雲水日月星辰もです、人間だけがてめえに首突っ込んで無様たかして、神さまだ思想だ自意識がなんの苦集滅道です、つまらんこったです、坐っていて自分というもの失せればお釈迦さまです、断然手の届かぬ世界です、丸ごとお釈迦さまですか、世の良馬の鞭影を見て走る、剣刃上を行き乃至は懸崖に手を撒す、はーいそうですよ、鳥や獣や月や花やみんなそうやってます、一としておのれを省みる余裕なんかないんです、絶唱ですすばらしいことこの上なく、是大神呪無等等呪はい無上楽はただの日送りです。

| | コメント (0)

2008年10月29日 (水)

無門関

趙州勘婆

趙州因みに僧婆子に問ふ、台山の路甚れの処に向ってか去る。婆云く、驀直去。僧わずかに行くこと二三歩。婆云く、好箇の師僧又いんもにし去る。後に僧有って州に挙示す。州云く、我去って汝が与めに這の婆子を勘過するを待て。明日便ち去って亦た是の如く問ふ。婆も亦た是の如く答ふ。州帰って衆に謂って日く、台山の婆子、我れ汝が与めに勘破し了れり。
 無門日く、婆子只だ坐ながらに帷あく(巾に屋)にはかることを解して、要且つ賊に著くことを知らず。趙州老人は、善く営をぬすみ塞を劫かすの機を用ふるも、又且つ大人の用無し。点検し将ち来たれば、二りともに過有り。且らく道へ、那裏か是れ趙州、婆子を勘破する処。
 じゅに日く、
問既に一般なれば、答も亦た相ひ似たり。
飯裏に砂有り、泥中に刺有り。

台山にはどう行たらいいか、まっすぐ行けという、二三歩歩く背中に向って、ええ坊さまじゃ、いんもにし去る、まあ同じように行かっしゃるってわけです。婆さんが勘破了也っていうんですか、大法有りや否やというには、自分が大法をひっかついでいるんです、すなわち大法にしてやられ、好箇の師僧いんもにし去ると、ようできたというんですか、趙州またしかり、即ち汝がために婆子を勘破し了ると。ただがただのものにひっかかるわけがない、でははじめから大法なし無知蒙昧如何、帷あくの中にはかる、これ天子の柵という、だれしも意図あれば若しくはそれ、意図なければ清清として妙、婆子と趙州と如何、将軍は塞外ですか、はあていつまでことに当たる、飯に砂あり泥に刺あり、次第そやつをひっこ抜いて、はあてまったくの未だし如何とさ。

| | コメント (0)

2008年10月28日 (火)

無門関

即心即仏

馬祖因みに大梅問ふ、如何なるか是れ仏。祖云く、即心即仏。
 無門日く、若し能く直下に領略し得去らば、仏衣を著け、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ずる、即ち是れ仏なり。是の如くなりと雖も、大梅多少の人を引いて、錯って定盤星を認めしむ。争でか知らん箇の仏の字を説けば、三日口を漱ぐことを。若し是れ箇の漢ならば、即心是仏と説くを見て、耳をおおふて便ち走らん。
 じゅに日く、
青天白日、切に忌む尋みゃく(ノツに見)することを。
更に如何と問へば、臓を抱ひて屈と叫ぶ。

即心即仏、即心是仏と、心そのものこれ仏なんです、達磨さんが毒を盛られ王都から追っ払われしたのはこの為です、学者布教師坊主の類はみな仏教という、有り難い難しいなにかしらあると思っている、よってもってそれを利用して飯の種乃至は身分名分を得て暮らしている。そんなものはないと云えば根底から崩壊する。心だというなんだそんなののはという、ありっこないじゃないか、無心だ心が無いと書く。ところがこれ心の無いことを知る、大事件なんです、たいていどうやってもこうやっても手に入れ難い。一つの心です、一つが一つになったとき省みるなく、すなわち無なんです。ただこれを知る即ち仏です。だれあって仏教を志す人、まずもって無心を知る、でなけりゃ問題にならんです、問題にならん人ばっかり充満して、ただもううるさったいですか。今の坊主宗門人の忌み嫌うものは、道元禅師であり達磨さんです。お布施に利用してやってるんだから出て来るなってわけで、ごんずい固まりして爪弾きする、祖師の苦労のところをすべて使いはたして、もはや宗門の命脈は尽きた、ごんずい塊のまんま滅びて行く。でも道元禅師は滅びないです。即心即仏青天白日の法、大梅熟したりと、たとい非心非仏も生死も涅槃も元かくの如し、更に如何と問えば臓を抱いて屈と叫ぶ、ときに屈託あるんですか、裸足で刀山に上る、うっふっふたまには溜飲を下げて下さい、青天白日四面楚歌ってねあっはっは。

| | コメント (0)

2008年10月27日 (月)

無門関

非風非幡

六祖因みに風刹幡を揚ぐ、二僧有り対論す。一は云く、幡動く。一は云く、風動く。往復して曾って未だ理に契はず。祖云く、是れ風の動くに非ず、是れ幡の動くに非ず、仁者が心動くのみ。二僧慄然たり。
 無門日く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず、甚れの処にか祖師を見ん。若し者裏に向って見得して親切ならば、方に二僧鉄を買って金を得るを知る。祖師忍俊不禁にして、一場の漏逗なり。
 じゅに云く、風幡心動、一條に領過す。只だ口を開くことを知って、話堕することを覚えず。

風動くか幡動くか、汝が心動くのみとは、実際に木の葉揺れずこっちがこう揺れ動くんです、身心ともになしの姿です、心も動かずとはそれを見る自分がないんです。これをたとえばこのネタ本の作者ですか、西村なんとかさんという人などは夢にだも見ないのです、とくとくとしてだれが何を云ったそれだからとやっている、一言半句そっぽを向きっぱなし。では何が故に六祖であるか、禅か仏かといって、そんなことはどうでもいいんです、ただてめえの本が売れて飯食っていかれるだけのこと。葬式坊主の死人扱いとまるっきり同じです。でたらめでいいかげんで嘘とはったり。こんな手合いばかり多いですか、六祖ここにようやく表に出る、知る人ぞ知ると、これを尊敬し求めて止まぬ人がいたんです、いえいつの世の中だっています、一箇半箇つないで行って下さい。一條に領過して話堕しない、無為の真人面門に現ず、はい。

| | コメント (0)

2008年10月26日 (日)

無門関

龍たんに到るに及んで敗けつを納れ尽くす。謂ひつべし是れ前言後語に応ぜずと。龍たん大いに児を憐れんで醜きことを覚えざるに似たり。他の些子の火種有るを見て郎忙して悪水を将って驀頭に一ぎょう(暁の日をさんずいに)にぎょう殺す。冷地に看来たれば一場の好笑なり。
 じゅに日く、
名を聞かんよりは面を見んに如かん、面を見んよりは名を聞かんに如かじ。
鼻孔を救ひ得たりと雖も、如何せん眼晴をかつ(目に害)却することを。

龍たんに到るに及んで敗けつを納れ尽くす、これ前言後語に応ぜず、大いに憐れんで醜悪を覚えずと、若しこれ正師に会わずばたとい理路整然、人知を尊んでさっぱり埒開かず、なんでも聞いて聞くはしから破れ呆けて、自分城を明け渡すこれあってはじめて、薄皮一枚にぶら下がる、灯りを取ろうとして吹き消す。はあっとなんにもなくなる=ぜんたいです。いいですかただこのことあって仏教なんです、余後のことなし、この宗毫末なれども沙界含容す、金剛経に通暁してたからってわけではないんです、ぱーらみーたー彼岸に渡るのみが般若の智慧なんです、たいていの人この事実を知らない、仏教のぶの字もないってことですよ、諸の玄弁を窮むるとも、一毫を太虚におくが如く、世の枢機をつくすも巨がくに投ずるに似たりと。お釈迦さまの悟りが先にあったんです、一代時経も金剛経もそのあとのことなんです、さあどうですか、婆子の問いに答えられますか、如何せん眼晴をかつ却することを、自分という元の木阿弥です、常に面門に現ず、このどあほうがばかったれってね。

| | コメント (0)

無門関

久ごう(てへんに郷のしたに向)龍たん(譚の言のかわりにさんずい)

龍たん因みに徳山請益して夜に抵る。たん云く、夜深けぬ。子何ぞ下り去らざる。山遂に珍重して簾を掲げて出ず。外面の黒きを見て却回して云く、外面黒し。たん乃ち紙燭を点じて度与す。山接せんと擬す。たん便ち吹滅す。山此に於て忽然として省有り。便ち作礼す。たん云く、子箇の何の道理か見る。山云く、某甲今日より去って天下の老和尚の舌頭を疑はず。明日に至って龍たんしん(こざとへんに升と土)堂して云く、可中箇の漢有り、牙は剣樹の如く、口は血盆に似て、一棒に打てども頭を回らさず、他日異日孤峰頂上に向って君が道を立する在らん。山遂に疏抄を取って法堂の前に於いて一炬火を将って提起して云く、諸の玄弁を窮むるも、一毫を太虚に致くが若く、世の枢機をつくすも一滴を巨がく(頴のしたに土)に投ずるに似たり。疏抄を将て便ち焼く。是に於いて礼辞す。
 無門日く、徳山未だ関を出でざる時、心憤憤口ひ(りっしんべんに非)ひたり。得々として南方に来たって教外別伝の旨を滅却せんと要す。れい(さんずいに豊)州の路上に到るに及んで婆子に問ふて点心を買はんとす。婆云く、大徳の車子の内は是れなんの文字ぞ。山云く、金剛経の抄疏。婆云く、只だ経中に道ふが如きんば、過去心不可得、見在心不可得、未来心不可得と。大徳那箇の心をか点ぜんと要す。徳山者の一問を被むって、直きに得たり口へんたんに似たることを。是の如くなりと雖も、未だ肯て婆子の句下に向って死却せず。遂に婆子に問ふ、近処になんの宗師か有る。婆云く、五里の外に龍たん和尚有り。(つつく)

| | コメント (0)

2008年10月25日 (土)

無門関

不是心仏

南泉和尚因みに僧問ふて云く、還って人の与めに説かざる底の法有りや。泉云く、有り。僧云く、如何なるか是れ人の与めに説かざる底の法。泉云く、不是心、不是仏、不是物。
 無門日く、南泉者の一問を被むって、直に得たり家私をし(端の立をてへん)尽して、郎当少なからず。
 じゅに日く、
丁寧は君徳を損す、無言真に功有り。
任従ひ蒼海は変ずるも、終に君が為に通ぜじ。

馬祖道一は即心即仏、南泉は不是心仏。かえって人のために説かざる底の法有りやとは、溺れる者は藁をもつかむ、人間という便りをもって生死の境をうそぶき歩くんですか、法の櫂にぶんなぐって突き放す、蒼海変ぜず命尽きなんとしてかつがつ得る、不是心、不是仏、不是物、心にあらず仏にあらず物にあらず、仏の大海これです、真空の妙智という、なんにもないんです、でなきゃ使いものにならんです、よくよく見て取って下さい。
使いものになるとは。家私を滅尽して郎当少なからず、無言ですか、ぴいと鳴いてごらんなさい、鳥がぴいと応ずる親切。自我だの自意識だのろくでもないことを自然ものみな云わず。

| | コメント (0)

2008年10月24日 (金)

無門関

二僧巻簾

清涼大法眼因みに僧斉前に上参す。眼手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼日く、一得一失。
 無門日く、且らく道へ、是れ誰か得、誰か失。若し者裏に向って一隻眼を著け得ば、便ち清涼国師敗けつ(蕨を門がまえにする)の処を知らん。かくの如くなりと雖も、切に忌む得失裏に向って商量することを。
 じゅに日く、
巻起すれば明明として太空に徹す、太空すら猶ほ未だ吾宗に合はず。
争でか似かん空より都て放下して、綿綿密蜜風を通ぜざらんには。

法眼文益は羅漢桂ちん(深のさんずいのかわりに王)継ぐ、法眼宗の祖、法華経に通暁する、大清涼法眼と。同じに簾を巻くんですか、それとも別なんですか、得失ありという、でなきゃ世間をわたっていかれないという、世間わたって行かなくともいいってことになると、がっさり肩の荷が外れますか、得失是非を離れて大安楽ですか、同じことまったいらは個々別々ですか、廓然無聖真空の妙智、ろくでもない日常人とはまったく別ですか、いいえ同じですか。簾を巻けば太空に徹す、太空さへなほ吾宗にあらずと、いかでか似かん空よりすべてを放下して、ただの人の清涼日月未だ思いも及ばぬことと知れ。

| | コメント (0)

2008年10月23日 (木)

無門関

三座説法

仰山和尚夢に弥勒の所に往いて、弟三座に安ぜらるるを見る。一尊者有り、白槌して云く、今日弟三座の説法に当たる。山乃ち起ちて白槌して云く、摩か(言に可)えん(行のあいだにさんずい)の法は、四句を離れ百非を絶す、諦聴諦聴。
 無門日く、且らく道へ、是れ説法するか、説法せざるか。口を開けば即ち失し、口を閉ずれば又喪す。開かず閉じざるも、十方八千。
 じゅに日く、
白日青天、夢中に夢を説く。
捏怪捏怪、一衆をおう(言に狂)こ(言に虎)す。

白日青天真昼間です、夢中に夢を説くと、今の人ただもう白昼夢のうわごとです、説くさえなく自堕落、しかも仏だの仏教だのたわけたことを云っている。学者仏教が一言半句とっぱずれているのは、仏の道ではなく妄想すったもんだ、正しいか正しくないかなど立場と主張ですか、仏はもとなんにもなし、立場なく主張する自分がなく、ただこれ仏為人の所です、ふんぞりかえってだからどうのとは程遠いんです、そりゃ金輪際わからないのは、まずもって学者を捨てる以外に仏を知る方法はないからです。夢という、仰山慧寂はい(さんずいに為)山の霊佑に継ぐ、夢が現実なんです、お釈迦さまと弥勒さまの弟三座になって、かくのごとく説法する、昨日もそうであったし、明日もそうなんです、ほかにはなく、これ説法か説法にあらざるか、日月星辰山川草木日々に新たにして永遠です、諦聴諦聴これおのれであり仏教です、捏怪捏怪一週をおうこすとうっふっふ、飢えた虎に身を投げ与えて下さい、仏もとなしを知るは食われ終わって後。

| | コメント (0)

2008年10月22日 (水)

無門関

風穴和尚因みに僧問ふ、語黙離微に渉る、如何が通じて不犯なる。穴云く、長えに憶ふ江南三月の裏、しゃ(鹿に鳥)こ(古に鳥)鳴く処百花開く。
 無門日く、風穴機せい(制のしたに手)電の如く、路を得て便ち行く。争奈せん前人の舌頭を坐して不断なることを。若し者裏に向って見得して親切ならば、自ら出身の路有らん。且らく語言三昧を離却して一句を道ひ将ち来たれ。
 じゅに日く、
風骨の句を露はさず、未だ語らざるに先ず分付す。
歩を進めて口なん(口に南)なん、知んぬ君が大いに措くことなきを。

風穴延沼は臨済下四世、南院の嗣。語黙離微にわたる、喋っても黙っていても不具合、仏を犯すというのです、仏というもとないものを弄ぶんですか、あげつらおうとする、そりゃどうにもならんのは、もとないはずのものがあるからなんです。ちらともひっかかりとっかかりある間は何をやっても犯すんです。まるっきりないものになり了れば、ないをどうやったろうが不犯です。長なえに憶ふ江南三月のうち、しゃこ鳴く処百花開くと、聞いたふうな決まり文句を云おうが独創だろうがかまわんです。詩歌は先人を踏まえて言うのが建前ですか、良寛さんの歌に新規の草花や風景がないという、若し新規に付け足す発明は芭蕉であってもこりゃ大事件なんです、良寛さん人の作った歌だろうが平気で用いる、舌を巻く底の大機略です。ここのまりとうまりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば。どうですか云うも云わずもそのものこっきり、月を仰いで遠来の客を忘れ、如何が通じて不犯なるこれ、実証ものみな全般です、でなくば仏ではなく、おおよそ仏教の意味がないんです。どこを向いても良寛なく、風穴まったく見えず。

| | コメント (0)

2008年10月21日 (火)

無門関

不思善悪

六祖因みに明上座、追ふて大ゆ(やまいだれに由にひげ)嶺に至る。祖明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に擲げて云く、此の衣は信を表す。力をもって争ふべけんや、君が将ち去るに任す。明遂に之を挙ぐるに山の如く動ぜず、ち(足に知)ちゅう(足に厨)悄慄す。明日く、我れは来たって法を求む、衣の為にするに非ず。願はくは行者開示したまへ。祖云く、不思善、不思悪、正よもの時、那箇か是れ明上座が本来の面目。明当下に大悟、遍体汗流る。泣涙作礼し、問ふて日く、上来の密語密意の外、還って更に意旨有りや否や。祖日く、我れ今汝が為に説くものは、即ち密に非ず。汝若し自己の面目を返照せば、密は却って汝が辺に在らん。明云く、某甲黄梅に在って衆に随ふと雖も、実に未だ自己の面目を省せず。今入処を指授することを蒙って、人の水を飲んで冷暖自知するが如し。いま行者は即ち某甲が師なり。祖云く、汝若し是くの如くならば、則ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自ら護持せよ。
 無門日く、六祖謂ひつべし、是の事は急家より出て老婆親切なりと。譬えば新れいしの殻を剥ぎ了って、核を去り了って汝が口裏に送在して、只だ汝が嚥一嚥せんことを要するが如し。
 じゅに日く、
描けども成らず画けども就らず、賛するも及ばず生受することを休めよ。
本来の面目蔵するに処没し、世界壊する時もかれ(さんずいに巨のしたに木)は朽ちず。

 六祖大鑑慧能禅師もと目に一丁字もなく、五祖黄梅禅師のもとに米撞き行者をしていた、それが大法を継いで印のお袈裟を持って去ったと聞いて、大衆あとを追う、中にもと将軍であった明上座が追いついた。これは信を表す、力をもって争うべけんや、君が持ち去るに任す、乃至遂に山のごとくに動かずと。今の人まずもってこれを見習うべきです、心というもの失せて腐りきって、信というかけらもなくうそ八百のてめえぜにかねです、こりゃ仏教どころじゃないです。坊主どもつまりはそれが最低ですか、心地開明を忘れて猿芝居ばっかり、いよいよ付き合っていよいよ虫唾が走るばかりですか、こんなんどうしようもない、今の六祖まずこいつらを知らぬ存ぜぬから始めるこったな。でたらめばっかりのごんずいかたまり、どこにも仏教のぶの字もないです。しかも大法は不変です、よく保護して自他ともにこれを伝えて行かにゃならんです。是非善悪によらぬ汝が真面目、臨済宗の連中も本当に本来面目を示せば、上来の密語密意のほかに、かえって意旨ありやと聞くんです、何かあるでなきゃ商売にならない、ただじゃつまらんというんです、どこかでまったく履き違えています。箇のなんにもなしどのくらいの力があるかまるっきりわからんのです、ちらともありゃ錆びついて使いものにならぬ、莫耶んじょ剣、真空に切るんです、目に一丁字もない六祖の方便、よくよく見るによし。描けども成らず画けども就かず、毀誉褒貶あるいは天才等の入り込む余地はないんです。はーい世界壊滅するとも彼は朽ちず。

| | コメント (0)

無門関

迦葉刹竿

迦葉因みに阿難問ふて云く、世尊金襴の袈裟を伝ふるの外、別に何物をか伝ふ。葉喚んで云く、阿難。難応諾す。葉云く、門前の刹竿を倒却著せよ。
 無門日く、若し者裏に向って一転語を下し得て親切ならば、便ち霊山の一会厳然として未だ散ぜざることを見ん。其れ或いは未だ然らずんば、毘婆し(尺の一本ないやつ)仏、早くより心を留むるも、直に而今に至るまで妙を得ず。
 じゅに日く、
問処は答処の親しきに如何、幾人か此に於いて眼に筋を生ず。
兄呼べば弟応じて家醜を揚ぐ、陰陽に属せず別に是れ春。

 遂に成ずるになんなんとして、なんにもないんです、仏教として求めてきたもの、あるいは得来たったものの跡形もないんです、ちらともあれば未だし、異物他物です、ですからお釈迦さまは伝法の印金襴のお袈裟の外にいったい何を伝えたのかと、まじめに聞くんです。迦葉阿難と呼ぶ、お前だっていうんです、阿難応諾す。門前の旗竿を倒して来い、阿難三日耳を聾すとあります、しまいのうす皮が外れたんですか、赤い旗を建ててここに大法在りのしるしとした、古代インドの習慣です、法に負けると旗を倒す、すなわち代替りです。迦葉ねん華微笑から阿難倒刹竿著と伝わって今に至る、寸分も違わぬのです、いいですか有るものは千変万化します、無いものは不変です、いつだってまったく同じです、よくよく見て取って下さい。眼に筋を生ずるむだっこと、家醜を揚げる要なし強いて云えば春風駘蕩ですか。

| | コメント (0)

2008年10月19日 (日)

無門関

雲門屎けつ(木に蕨のくさかんむりをとったやつ)

雲門因みに僧問ふ、如何なるか是れ仏。門云く、乾屎けつ。
 無門日く、雲門謂つべし、家貧にして素食を弁じ難く、事忙しうして草書するに及ばずと。動もすれば便ち屎けつを将ち来って、門をささえ戸をささふ。仏法の興衰見るべし。
 じゅに日く、
閃電光撃石花。
眼をさつ(目に乏)得すればすでに磋過す。

 如何なるか是れ仏、かんしけつ。糞かきべら、いえ出かかって固まったうんちだとさ。わかりますか、てめえ食ったものの未消化老廃物です、さっさとひり出せばさっぱりするのに、とっつけて臭いの汚いの=はい仏教いかん、おれはどうなんだ、道はどうなんだとやっている、見たふう聞いたふう、仏祖師がどうのの老廃物です、いえ世間一般まさにこれかんしけつ、よくよく見てとって下さい。閃電光撃石花はなに神経シナップスの一つなぎですか、つまりゼロ時間です、気がつくとはそういうこと、能書きらしいことやっていたって、そりゃなんにもどうにもならん=かんしけつ。

| | コメント (0)

2008年10月18日 (土)

無門関

平常是道

南泉、因みに趙州問ふ、如何なるか是れ道。泉日く、平常心是れ道。州云く、還って趣向すべきや。泉日く、向かはんと擬すれば即ち背く。州云く、擬せずんば争でか是れ道なることを知らん。泉日く、道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶ほ太虚の廓然として洞かつ(害のい谷)なるが如し。あに強ひて是非す可けんや。州言下に大悟す。
 無門日く、南泉趙州に発問せられて、直に得たり、瓦解氷消、分疎不下なることを。趙州たとひ悟り去るも、更に参ずること三十年にして始めて得てん。
 じゅに日く、
春に百花有り秋に月有り、夏に涼風有り冬に雪有り。
若し閑事の心頭にか(てへんに圭)くる無くんば、便ち是れ人間の好時節。

 平常心是道はまったくこれっこっきり他にはないんです、それを大趙州ですらしばらくは思いも及ばなかった、如何なるか是れ道と問う、まるっきり思いも及ばなかった南泉が、瓦解氷消分疎不下です、へえそうかいとて云うには云う、もとまったくないところに道と求める、なぜに。還って趣向するや否や、向かはんと擬すれば即ち背く、世間一般の人これです、道として何かあると思っている、あるいはこれでいいんだと思いこむ、趣向するしかやることがない、なぜか。擬せずんばいかでか道なることを知らん。いったいまあ死ぬまでこれです、正師に会わねばどうにもならん理です。道は知にも属せず、不知にも属せず。知はこれ妄覚、不知はこれ無記。若し真に不疑の道に達せば、本当本来心です、太虚の廓然として洞かつなるが如し、あに強いて是非すべけんや。州言下に大悟す。いったいこれ以上どうやって説くんですか、太虚の洞然たる、まるっきり自分という内外が失せるんです、仏というあに強いて是非すべけんや、捨て去る以外になく、未だ捨て切れていないという不都合。若し閑事の心頭にかくるなけんば、これ人間の好時節、小人閑居して不善をなすしていないんですよ、これさ。

| | コメント (0)

2008年10月17日 (金)

無門関

洞山三斤

洞山和尚因みに僧問ふ、如何なるかこれ仏。山日く、麻三斤。
 無門日く、洞山老人些のぼう(虫に手のつきぬけたやつ)蛤の禅に参得して、わずかに両片を開いて肝腸を露出す。是の如くなりと雖も、且らく道へ、甚れの処に向ってか洞山を見ん。
 じゅに日く、
突出す麻三斤、言親しくして意更に親し。
来たって是非を説く者は、便ち是れ是非の人。

この洞山は洞山守初、これは無門の云うことまたじゅによってけりです、ぼうは蛤のでかいやつですか、蛤両片をまっくり開ける、虚空に内臓をさらけ出す、これがどだいできないんです、仏のふりをしないはずの仏教を振りかざす、蛤の両片を閉ざして四の五の云っている、ものみな仏本来心の開けっぴろげなのに、なぜ人間というてめえだけてめえに首突っ込んで歩く。如何なるか是れ仏、山日く麻三斤。馬鹿を云うなって大喝を食らったんですか、いえ虚空ただこれ、菩薩清涼の月畢竟空に遊ぶと、若しこれあらずんば修行もまったく修行にならぬ、まずもって仏という底をぶち抜いて下さい、でもってようやくに日々新たなり、水を掬すれば月掌に在り、菊をねんずれば香衣に満つ。はらわたさらけ出すとはこれ正令全提です。

| | コメント (0)

2008年10月16日 (木)

無門関

国師三喚

国師三たび侍者を喚ぶ。侍者三たび応ず。国師日く、将謂らく、吾れ汝に辜負すと。元来却って是れ、汝吾れに辜負す。
 無門日く、国師三喚、舌頭地に堕つ。侍者三応、光に和して吐出す。国師年老ひ心狐にして、牛頭を按じて草を喫せしむ。侍者未だ肯て承当せず。美食も飽人のさん(さんずいに食)に中らず。且らく道へ、那裏か是れ他が辜負の処ぞ。国浄ふして才子貴く、家富んで小児驕る。
 じゅに日く、
鉄枷無孔人の担はんことを要す。累児孫に及んで等閑ならず。
門をささへ並びに戸を柱へんと欲せば、更に須らく赤脚にして刀山に上るべし。

 国師は南陽の慧忠国師、三たび侍者を呼び三たび応ずる、辜負とは人の期待を裏切る、せっかくのこころざしを無にする、どうもぴったり行かない、何かがおかしいんです。朝にお経を読んでもしっくりしない、何か別物が入っているんですか、おれという別物です、お経をうまく読もう、相手に合わせようとする意図ですか、自然に陰日向なくすっきりと行く、人間を卒業するんです、たとい鉄枷無孔、国師の法を担う累児孫に及ぶ、どうにもこうにも荷厄介ですか、そりゃ辜負す、なんにもならん、師のほうが先ずもってなんにもならんと知る、どっかおかしいぴったり行かない、元来却って汝吾れに狐負すと云う。門をささえ戸を支えんと欲っせば赤貧洗うが如くせよと、裸足で刀の山に上れという、地獄の刀山ですか、はいこれ仏教です、大安心のところなど他愛もないこと云ってるんじゃないんです。たとい鶯のホーホケキョ。

| | コメント (0)

2008年10月15日 (水)

無門関

鐘声七條

無門日く、世界いんもに広かつ(門がまへに活)たり。甚に因ってか鐘声裏に向って七條を被る。
 無門日く、大凡そ参禅学道、切に忌む、声に随ひ色を逐ふことを。縦使い聞声悟道、見色明心なるも也た是れ尋常なり。殊に知らず、のう(ころもへんに内)僧家、声に騎り色を蓋ひ、頭頭上に明らかに、著著上に妙なることを。是くの如くなりと雖も、且らく道へ、声耳畔に来たるか、耳声変に往くか。たとい響と寂と双び忘ずるも、此に到って如何んが話会せん。若し耳を将って聴かば応に会し難かるべし。眼処に声を聞きて方始めて親し。
 じゅに日く、
会するときんば事同一家、会せざるときんば万別千差。
会せざるときも事同一家、会するときんば事万別千差。

 世界いんもに広いかつ、広大無辺です、だのにどうして鐘が鳴ったら七條、お袈裟を掛けて行く。こりゃそっくり鸚鵡返しがいいです、不思議なんです、まったく答えようのないのをよくよく味わって下さい、はあっとそれっこっきり。無門老婆親切なにゆえにくどくどと御託する、耳に見て眼に聞く底のなんだかんだ、そりゃ無眼耳舌身意、無色声法味触法、自分という用無しです、省みるになんにもない、打てば響くというさえ百歩遅いんです、同一家万別千差とまあさろくでもない能書き、坊主法堂こと鐘が鳴ったら七條を着て行く、だれかれ毎日です、しかも省みるに不思議、鳥もけものもまさにそうしています、雪月花然り、無心心無うして、はじめて本来事、これを和と云うんです。人間という余計な斟酌を止めて早く地球ものみなのお仲間入り。

| | コメント (0)

2008年10月14日 (火)

無門関

洞山三頓

雲門、因みに洞山の参ずる次で、門問ふて日く、近離甚れの処ぞ。山云く、査渡。門日く、夏甚れの処にか在る。山云く、湖南の報慈。門日く、幾時か彼を離る。山云く、八月二十五。門日く、汝に三頓の棒を放す。山明日に至って却って上って問訊す。昨日和尚三頓の棒を放すことを蒙る。知らず過いずれの処にか在る。門日く、飯袋子、江西湖南便ちいんもにし去るか。山此に於て大悟す。
 無門日く、雲門当時、便ち本分の草料を与えて、洞山をして別に生機の一路あって、家門をして寂寥を致さざらむ。一夜是非海裏に在って著倒し、直に天明を待って再来するや、又た他の与に注破す。洞山直下に悟り去るも、未だ是れ性燥ならず。且らく諸人に問ふ、洞山の三頓の棒、喫すべきか喫すべからざるか。若し喫すべからざると道はば、雲門又おう(言に狂)語を成す。者裏に向って明め得ば、方に洞山の与に一口の気を出さん。
 じゅに日く、
獅子児を救ふ迷子の訣、前まんと擬して跳躍して早く翻身す。
端無く再び叙ぶ当頭著、前箭は猶を軽く後線は深し。

洞山守初は雲門の嗣、どこから来た、江を渡って来た、夏(修行期間)はどこにいた、湖の報慈。いつ出た、八月二十五。おまえに三十じゃなくって六十棒だとさ、放は免除してやろう、打つほどの価値もないっていうんです。わかりますかこれ。どこでどう過ごしどう修行したか、いえさ今までこうあってあああって生まれ来し方を云う、汝に三頓の棒を放すです。わかりますか、自分というこの世はまったく仮の世です、たしかそんなことがあったようだ、そんなふうな仮面も被っておったなあというんです、強いて云えば嘘八百、難波のことは夢のまた夢です。自分というそういうものをまったく擲ってごらんなさい、お釈迦さまが現前します、如来来たる如しとこうある、無自覚の覚です、あなたというほんとう本来の姿です。仏足石というかつて完全無欠の彫刻がありました。石の辺に足型を刻む、そうですその上にお釈迦さまが立っておられる。そんなことはない山河風景村あり鳥獣また人の行くあり雲あり花の咲く有り、はいそうですそれがお釈迦さまです、如来現前、あなたもその上に立ってごらんなさい、はいお釈迦さま。いいですか坐禅はこのようにするものです、まっぱじめっから自分になんか用はないんです。何云い持ち来たって三頓の棒を許す、さあたとい一夜必死に提ぜいしようが、なししろこれを得て下さい、後箭は深し、再起不能の万死を迎えて下さい、いったいいつまでうじうじ架空のうじむし、情けないったらに。

| | コメント (0)

2008年10月12日 (日)

無門関

南泉斬猫

南泉和尚、因みに東西の両堂猫児を争ふ、泉乃ち提起して云く、大衆道ひ得ば即ち救はん、道ひ得ずんば即ち斬却せんと。衆対無し。泉遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に挙似す。州乃ち履を脱ひで頭上に安じて出ず。泉云く、子若し在らば即ち猫児を救い得んと。
 無門日く、且らく道へ、趙州が草鞋を頂く意そもさん。若し者裏に向って一転語を下し得ば、便ち南泉の令、虚りに行ぜざりしことを見ん。其れ或ひは未だ然らずんば剣。
 じゅに日く、
趙州若し在らば、倒しまにこの令を行ぜん。
刀子を奪却して、南泉も命を乞はん。

南泉斬猫はこれも有名な則で知る人ぞ知る、猫が可哀想だ云々切らなくてもいいではないか、むかしの人はなと、東西両堂争うの周辺今様論議よりははるかに勝っていたにちがいない。しかも無対です、対するとはなにか、南泉から刀を奪って道へさもなくばとやるんですか、ものまねはくそ坊主どもの法要でやくたいもない自閉症です、草鞋を頭の上に載せて出て行くんですか、意味あいを懸命に考えるんですか、では考えて下さい、もってきたものすべて不可の時如何、答えなくば首ぶった切ると、さあどうしますか。仏教とはことさらにもってまわって面倒臭いんですか、いいえ真正面ただこれ、おうといって全世界おうと云えるか。わしが得度の師に向って子供が声をかける、何度もかけるんです、師は別段閉口もせずに答えていた、子供は見るんです、大人の嘘がないただまっすぐ、生え抜きのなつかしさを確かめるんですか。蛙のケーロと鳴くもよし鶯のホーホケキョよし、通身全霊もってまったくのただです、これを仏という、無自覚の覚を趙州示すにはまさにもってす。仏教とは何か、ほどけば仏というまったく他にはなし。蛇足ながら猫について百万言も猫にとっちゃうるさったいだけ。

| | コメント (0)

2008年10月11日 (土)

無門関

徳山托鉢

徳山、一日托鉢して堂に下る。雪峰に、這の老漢、鐘も未だ鳴らず鼓も未だ響かざるに、托鉢して甚れの処にか向かって去ると問はれて、山便ち方丈に回る。峰巌頭に挙似す。頭云く、大小の徳山、未だ末後の句を会せず。山聞ひて侍者をして巌頭を呼び来たらしめて、問ふて日く、汝老僧を肯はざるかと。巌頭密に其の意を啓す。山乃ち休し去る。明日しん(こざとへんに升と土)座、果たして尋常と同じからず。巌頭僧堂前に至り、掌をふ(てへんに付)して大笑して云うく、且く喜び得たり老漢末後の句を会せしことを。他後天下の人、伊を奈何ともせず。
 無門日く、若し是れ末後の句ならば、巌頭徳山ともに未だ夢にも見ざる在り。点検し将ち来たれば、好はだ一棚の傀儡に似たり。
 じゅに日く、
最初の句を識得すれば、便ち末後の句を会す。
末後と最初と、是れ者の一句にあらず。

 托鉢、鉢の子をかかげて行く、応量器と四つ組、飯を食う道具です、応量器はお釈迦さまの頭蓋をかたどると云われ、落としたりしたら下山と、良寛さん托鉢も同じ格好して歩く。なんだ鐘も太鼓も鳴らぬのに、食事または作務の合図です、どこへ托鉢だという、徳山すなわち方丈に帰る。どうだどんなもんだといって兄弟子巌頭に挙す。巌頭の云う、大小の徳山末後の句を会せず。こりゃそっくり雪峰のことなんです。徳山なんにもなしの人、大小の徳山あるは雪峰です、だからどんなもんだいしてやったりがある、未だ末後の一句を会せず、ほんとうには知らない、仏教といううさんくさいもの、悟りだ聖人だのいう荷物を担ってよたよた。ではこいつを下ろしてやろうってんで、徳山と巌頭と組んで人形芝居、一棚の傀儡に似たりやるんです。はたして徳山尋常と同じからずと、さあどういうことですか、よくよく見てとって下さい、見れば見るほどになんにもないんです。ちらともありゃそれによって七転八倒、地獄に堕すること十万億土、早くこれを免れて下さい、かか大笑するによく、最初からまったくお釈迦さま不変です、春は花夏ほととぎす秋紅葉冬雪降りて涼しかりけると、かき汚すは自分というものないものを邪まにするんです。

| | コメント (0)

2008年10月10日 (金)

無門関

巌喚主人

瑞巌彦和尚、毎日自ら主人公と喚び、複た自ら応諾す。乃ち云く、せい(りっしんべんに星)せい著。諾。他時異日、人の瞞を受くること莫れ。諾諾。
 無門日く、瑞巌老子自ら買ひ自ら売って、許多の神頭鬼面を弄出す。何が故ぞ、にい(暫の日のかわりに耳)。一箇の喚ぶ底、一箇の応ずる底。一箇のせいせい底、一箇の人の瞞を受けざる底。認着すれば依前として還って不是。若し他に倣はば、惣に是れ野狐の見解ならん。
 じゅに日く、
学道の人真を識らざるは、只だ従前より識神を認むるが為なり。
無量劫来生死の本、痴人喚んで本来人と作す。

瑞巌師彦は巌頭の嗣、毎日自らを喚んで主人公となし、他に瞞ぜらるることなかれ、諾と。無門関が終わった壁巌を卒業した、ずいぶんかかったさあてなど云ってないで、かくの如くにやって下さい、お釈迦さまになるんならまさにお釈迦さまです、へにゃむくれ言い訳申し訳仏教しているんじゃないんです、葬式稼業も猿芝居もない、禅問答なんてさらさらないんです、強いて云えば独立不羈ですか、男一匹あとさきなしですか、毎日三拝して額をごんと打ちつけて、額に胼胝ができるまでやって下さい、威張るななんてえていたらく、仏のホの字もねえくせになんたらてめえをわけへだてごんとやって下さい、ちいっとは取り得あり、取り得のないほどに分あり、まだまだまだ。たしかに無門云くです、一箇の喚ぶ底、瞞を受けざる底、応ずる底、認着すればかえって不是、まずもってこれが基本わざです、娑婆流じゃそりゃ漫画にもならんです、無量劫来生死の本、痴人喚んで本来人となす、見性し無門関百則を卒業し、師家だの和尚だのひけらかしてもって、痴人喚んで本来人となすをやっていませんか、生死の本をぶった切ったつもりがべったりうんちにとっついて。

| | コメント (0)

2008年10月 7日 (火)

無門関

清税孤貧

曹山和尚因みに僧問ふて云く、清税孤貧、乞ふ師賑済したまへ。山云く、税じゃ(門のなかに者)梨。税応諾す。山云く、青原白家の酒、三さん(さかずき)喫し了って猶を道ふ、未だ唇をうるほさずと。
 無門日く、清税の輸機是れ何の心行ぞ。曹山の具眼深く来機を弁ず。是くの如くなりと然雖も且らく道へ、那裏か是れ税じゃりの酒を喫するところ。
 じゅに日く、
貧ははん(くさかんむりに氾)丹に似、気は項羽の如し。
活計無しと雖も、敢て与に富を闘はしむ。

 曹山は洞山良かい(にんべんに介)の嗣、ともに曹洞宗を興す。清税孤貧、ひとりぼっちで貧乏だ、和尚賑済せよ、たっぷりふるまえってわけです、税じゃり、あじゃりという僧形のこと、と呼ぶ、税応諾す。ここで問答は終わりです。徒党を組んで右往左往しないひとりぼっちです、おまけに首くくる縄もなし年の暮れ、なんにもないんです、無一物中無尽蔵、なんにもないからものみなあらんです、よく人が質問して来る、てめえの数限りない持ち物をもって問う、向こうの計略に合った答えしか受け付けない、まったく今の人他に問うこともできないんですか、知ると知らないの区別もできない、いいかげんな知識ばっかりの曖昧うすら馬鹿、知識ありゃそれでおしまいと思っている、なんたる不都合、平成維新などまったくおぼつかないです。税じゃりと呼ぶ、間髪に答えが返る、なんでもありの糞詰まりじゃないんです、渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風を厭わず、だからどうのじゃない打てば響くんです、青原行思の酒、青原というのは酒の名所にひっかける、三盃喫し終わる、まずは見性し悟りを得るんです、ついでこれを脱するんです、ついでまったくただの人になる、」三さん喫し終わるにわしみたいなろくでもなしは何十年かかったか、ようやくにして孤貧を知るんですか、知らないんですか。
貧ははんたん、はん丹史雲という清貧をもって人も知る古人、項羽は英雄豪傑です、活計なしという輸機ですか、相手にやらせるんです、曹山その手は食わぬとちいっと図に乗りすぎた、金持ち面してりゃそりゃ一掌を食らうです。

| | コメント (0)

2008年10月 6日 (月)

無門関

大通智勝

興陽の譲和尚因みに僧問ふ、大通智勝仏、十劫坐道場、仏法不現前、不得成仏道の時如何。譲日く、其の問ひ甚だ諦当なり。僧日く、既に是れ坐道場、なんとしてか不得成仏道なる。譲日く、伊が不成仏なるが為なり。
 無門日く、只だ老胡の知を許して、老胡の会を許さず、凡夫若し知らば、即ち是れ聖人。聖人若し会せば、即ち是れ凡夫。
 じゅに日く、
身を了ずるは、心を了じて休するに如何ぞ。心を了得すれば、身は愁えず。
若し也た身心了了ならば、神仙何ぞ必ずしも更に侯に封ぜん。

興陽譲和尚は百丈会下八代、大通智勝という、すべてについてつうかあですか、虎の欠けたるが如く、馬の夜目の如くと、十劫坐道場やっているんです、もとたといどうあったって仏は仏、なに云うことはないんですが、捨て去ることができない、任せ切れない気がしている、はなはだ諦当なりです、あるいは彼が不成仏なるが為です。でもまあ意識と無意識と交互に来るんです、悟入し悟出することは、身を了じ心を了ず、心を了得すれば身愁えずと、あるときかくの如く、あるときめちゃくちゃ、あるとき物差しをあてがい、あるとき云々です、たんびにそれっこっきり、忘れ去って今日のおのれはまるっきり昨日のおのれにあらず、日々始めて悟ったという、あっはっはわしは無責任でそんなふうですか、大通智勝仏なんだおまえはってなふうの、さっぱりどうも思わんですか、神仙なんぞ必ずしも侯に封ぜん、てめえなにがしかとレッテル貼らんのですよ、いちばんばかでめちゃくちゃでって、毎日凡人凡夫に頭下げっぱなし、どこまでいっても自堕落ですか、しょうがないやつの見本がわしかもってさ。

| | コメント (0)

2008年10月 5日 (日)

無門関

けい(渓のさんずいなし)仲造車

月庵和尚僧に問ふ、けい仲車を造ること一百ふく(福のしめすへんを車)。両頭をねん(てへんに占)却し、軸を去却して、なに辺の事をか明む。
 無門日く、若し也た直下に明らめ得ば、眼流星に似、機せい(制の下に手)電の如くならん。
 じゅに日く、
機輪転ずるところ、達者も猶を迷ふ。
四維上下、南北東北。

けい仲は車を造る名人という、黄帝の七佐にけい仲あり、車を造ると、坐っていて首のないお地蔵さんのようにするがよいという、思想頭念を去ることまずもってこれです、なかなか頭でっかちの人そうは問屋が卸さない、坐禅にならない、すると無字の公案、心機丹田にムの字を書いてみつめみつめして行くなど、あるいは隻手妙音など手段を仮るんです。けい仲造車もそんなふうです、首から上なくなって吐く息吸う息だけになっている、うっふう若しや車の両輪みたいです、およそ六百軸ぐらい造ったら飽き飽きしますか、両頭をねん却し、軸を去却する、自分というなにかしら影を置くものが失せるんです、見ている自分が失せる、忘我底です、すると本来仏です。若しや手段を仮ると手段倒れです、ただもう坐るもっとも端的です。眼流星機せい電を得て下さい。目から鼻へ抜けるんではなく、目鼻なし、一を聞いて十を知るんではなく、もとまっただなか。彼岸に渡り切るとは、われというなんにもなしです、触れなば切れる吹毛剣です、ぱーらみーたー彼岸に渡るという般若の智慧です、人為の取り得なしをもってする、如何なるかこれ趙州城、東門西門南門北門。なんにもないの妙門間髪を入れず、禅のハタラキなどいうこと百歩遅いんです。

| | コメント (0)

2008年10月 4日 (土)

無門関

趙州洗鉢

趙州因みに僧問ふ、某甲作入叢林、乞ふ師指示したまへ。州云く、粥を喫し了るや未だしや。僧云うく、粥を喫し了れり。州云く、鉢孟を洗ひ去れ。其僧省有り。
 無門日く、趙州口を開ひて胆を見はし、心肝を露出す。者の僧事を聴ひて真ならずんば、鐘を喚んで甕となす。
 じゅに日く、
只だ分明に極まれるが為に、翻って所得をして遅からしむ。
早く灯は是れ火なることを知らば、飯熟することすでに多時なりしならんに。

 喫茶去、洗鉢し去れと聞いて、そういうものだとレッテルを貼る、そりゃどうしようもないです、僧省ありというには、あるいは飯熟するすでに多時が必要ですか、灯は火なることを知るとは、もとはじめっからです、仏という仏教というなんら特別はないんです、強いて云えば因果歴然です、それをどうしても何かあると思いこむ、如何なるか是れ道、道はまがきの外に在り、そうさそう問はずばいられぬおのれというものを失い去れ=おのれという囲いがおのれです、おのれというかきねの外にある、なんとまあほこりまるけのアスファルト道ですか、いえそんなん聞いているんじゃないんです、我が問うは大道です、大道長安に通ず。すべてを尽くしてのちまっ平らです、大道長安に通ず、手放しの坐禅です、自分消えるに従い世界宇宙ぜんたいです、かすっともかすらないんです、これを云うに喫茶去です、飯食い終わったら椀を洗っておけというんです、触れりゃ切れる吹毛剣という、剣という不細工を要さないんです。口を開けば肝胆露呈する底の那一著あって、始めて喚んで甕となさず省ありですか、悟ったというがほどに未悟ですか。

| | コメント (0)

無門関

世尊ねん(てへんに占)花

世尊、昔霊山会上に在って花をねんじて衆に示す。是の時衆皆黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、吾に正法眼蔵涅槃妙心実相無相微妙の法門有り。不立文字教外別伝摩か(言に可)迦葉に付嘱す。
 無門日く、黄面のぐ(貝二つの下にふるとり)曇、傍若無人。良を圧して賎と為し、羊頭を懸げて狗肉を売る。将に謂へり、多少の奇特と。只だ当時大衆都べて笑ふが如きんば、正法眼蔵そもさんか伝へん。設し迦葉をして笑はざらしめば、正法眼蔵またそもさんか伝へん。若し正法眼蔵に伝授有りと道はば、黄面の老子、りょ(門がまえに呂)閻をおう(言に狂)こ(言に虎のひげのかわりに乎)す。若し伝授無しと道はば、なんとしてか独り迦葉のみを許す。
 じゅに日く、
花をねん起し来たって、尾巴すでに露はる。
迦葉破顔、人天措くなし。

迦葉尊者、お釈迦さまに出会うにはすみやかに髭ほつ落ちとある、お釈迦さまの説くを聞き姿を見て、微塵の疑いもなかった、即ち出家して、二年間というもの身を横たえることなかった。弟二祖です、のちのまた我に至るまで弟一座と仰ぐ所以です。だれかこのような人がいたか、わしなんぞは不信疑い自堕落わがまま三昧、いたずらに時を失し、ものみなをよこしまにする、どうにもこうにもです。もと仏足石、その足型の上に仏が立つと知って、他にはないこと無等等覚です、正法眼蔵です、涅槃妙心です、不立文字、教外別伝、ただもうまっしぐらにする。花をねんじてもって示す、なにをもって示すともそれあるいは余計ことです、無駄っことです、迦葉破顔微笑。大衆黙然右往左往するなかにたった一人すでにこれを受く。大迦葉今に至るまで大迦葉、今より以後人の世尽きたるのちまで大迦葉です、ほかになんにも云うこたないです。人天措く無し、身をもって彼が爪の垢になるがよし。

| | コメント (0)

無門関

香厳上樹
 
香厳和尚云く、人の樹に上るが如し。口に樹枝をふく(口に卸)み、手に枝を攀じず、脚は樹を踏まず。樹下に人有って西来の意を問はむんに、対へずんば即ち他の所問に違く、若し対へなば又喪身失命せん。正いんもの時、そもさんか対へん。
 無門日く、縦ひ懸河の弁有るも、惣に用不著。一大蔵経を説き得るも、亦用不著。若し者裏に向って対得著せば、従前の死路頭を活却し、従前の活路頭を死却せん。其れ或いは未だ然からざれば、直に当来を待って弥勒に問へ。
 じゅに日く、
香厳は真の杜撰、悪毒尽限無し。
のう(ころもへんに内)僧の口を唖却して、通身に鬼眼を歩と奔らしむ。

樹の上に上って足を放し手を放し口に枝をくわえてぶら下がる、樹下に人あって仏を問う、さあどうするっていうんです。仏祖師西来意を学んでかくかくしかじか、たとい一大蔵教を覚えるという、高い樹を攀ずる如しですか、いいですか仏とはおのれ=おのれの外を研究するんですか、研究するとは忘れ去る以外になく、もとはじめっからにてようやく使えるんです、でなけりゃどこまで行こうが他人の物差し、一大蔵教です、複雑怪奇な関係学すなわち学者猿の月影を追う、云ってみりゃ何をどう説こうがてめえをひけらかすっきりです、人のためほかのためにするってことが出来ない、見え見えの心理学は女の取り得、女に見破られぬほどの仏でなけりゃそりゃ漫画です、するにはくわえた口を離して喪身失命するしかない、自分失せてはじめて仏です、死んだやつを仏というんです、何云おうがでたらめめったらだろうが、人のためほかのためは、そりゃ自分ないからです、単純な理屈です、仏とはなにか、仏教とはほかのためです、仏教というほとけという一物もないんです、あっはっは女に持てるようになるよ〜面倒臭いだけだったり。
香巌、い(さんずいに為)山の霊祐に継ぐ、真の杜撰とはかくの如し、杓子定規の名文ではちりっぱ一つ救えんです、真実とはよって件の如し、悪湯注ぐとき、口をあんぐりどうもこうもならん、自分というなにかしらあると思い違える、そやつがいっぺんに吹っ飛ぶ、はい参禅はもとっこおのれいらんのです。

| | コメント (0)

2008年10月 1日 (水)

無門関

胡子無髭

或庵日く、西天の胡子、甚んに因ってか髭無き。
 無門日く、参は須らく実参なるべし、悟は須らく実悟なるべし。者箇の胡子、直に須らく親見一回して始めて得べし。親見と説くも、早く両箇と成る。
 じゅに日く、
痴人面前、夢を説くべからず。
胡子無髭、せい(りっしんべんに星)せいにもう(りっしんべんに蒙)を添ふ。

 達磨さんに髭あるかという公案、ひげがあるかないか自分で確かめて下さいってことです、達磨絵を描いて筆のすさびありや、書を書くにものまねなし、自分という納得なし、ただはまったくのただ、するとそいつは書なんですか、文字ですか、うっふっふ誰が誰に問うんです、答えはあるんですか、試みにやってみりゃいいです、一生を棒に振ること請け合い。
 親見一回無字の公案ですか、早く両箇となる、自分を自分が認めるという余計なことをしているんです、自分をどうやったら認められるんです、不可能事は擲つによく、執着するば身心疲れるんです、あるいはこれ狂人の道、うちわ太鼓でも敲いてほっつき歩けば、なにがしか答えが出る気がするんですか。
 痴人に夢を説くなかれと、観念妄想の人に、すなわち夢見る人に実を説くなかれというんです、あっはっはせいせいのもうを添え、とかくさんざんな目に会うんです。もうっていう字はどうも奇妙なつくりです。

| | コメント (0)

無門関

一 趙州狗子

趙州和尚、因みに僧問ふ、狗子に還って仏性有りやまた無しや。州云く、無。

無門日く、参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず心路絶せずんば、尽く是れ依草付木の精霊ならん。且らく道へ、如何が是れ祖師の関。只だ之を目けて禅宗無門関と白ふ。透得過する者は、但だ親しく趙州に見えるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛あひ結んで同一眼に見、同一耳に聞く可し。あに慶快ならざらんや。透関を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫きょう(うかんむりに敷)を将って、通身に箇の疑団を起こして箇の無の字に参ぜよ。昼夜提ぜい(てへんに斯)して、虚無の会を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久々に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打発せば、天を驚かし知を動かさん。関将軍の大刀を奪ひ得て手に入るるが如く、仏に逢ふては仏を殺し、祖に逢ふては祖を殺し、生死岸頭に於ては大自在を得、六道四生の中に向って遊戯三昧ならん。且らくそもさんか提ぜいせん。平生の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ。若し間断せずんば、好だ法触の一点すれば便ち著くに似ん。
 じゅに日く、
狗子仏性、全提正令。
わずかに有無に渉れば、喪身失命せん。

無字の公案といって臍下丹田にムの字を置いて見つめ見つめして行く方法がある、たしかに見性というなにものか離脱する、開けることがあるんですが、どうもほんとうには行かないようです、無理無体狂人も出る始末というのは、心路を絶するに機械的にしても今一つですか、祖師の関を透るには、全人格を必要とする、全人格を超える必要がある、人間を卒業するには人間を用いるほか手段はないんです、さすがに慧開という、すべてを尽くしてもってする本来が見えます、眉毛あひ結んで同一眼に見る、同一耳に聞く、独創だの個性信仰だの思想のはるかに届かぬ世界です、独創なければ天才なしと、いえ自分というこれを捨て去るんです、天才という中途半端、独創という目くそ半欠けを望まないんです、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき、自分という来し方、いえ未来永劫用なしです、淋しいつらい取り得まったくなしです、でなきゃ仏に行き逢えないんです、ちらともなにがしか欲しいとなら、無門関は止めたがいいです。有無の会をなすことなかれ、虚無の会をなすことなかれ、正令全提です、無と無になりきって下さい、生き甲斐というけちな着物を脱ぎ捨てるんです、ちっぽけな蛙さえ天地乾坤に鳴く、地球ものみなの喜びを知って下さい、てめえに首突っ込んで歩く無様は人間だけです、ろくでもないこったです。さあおやり下さい、ただじゃあただにならんです。

| | コメント (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »