無門関
非心非仏
馬祖因みに僧問ふ、如何なるか是れ仏。祖日く、非心非仏。
無門日く、若し者裏に向って見得せば、参学の事畢んぬ。
じゅに日く、
路に剣客に逢はば須らく呈すべし、詩人に遇はずんば献ずること莫れ。
人に逢ふては且らく三分を説け、未だ全く一片を施すべからず。
馬祖道一、即心是仏と説き非心非仏と説く、ある人のいう、即心即仏が心が仏であるであれば、非心非仏を心は仏ではないとしたいが、通説に従って心でもない仏でもないを採ると。まさにこれ心を弄ぶの好例ですか、非心非仏の三分を説くところをまったく理解しない、即心即仏もまさにそのものになり終わらなければなんの意味もないです。仏に非ず心に非ずという、命ぎりぎりのところでかつがつに得るんです、坐ってごらんなさい、どこまで行っても自分を取り扱い、仏を取り扱いするんです、これを去るには常識ごと見たふう聞いたふうじゃどうにもならんです、たとい人事を尽くして天命を待ったところでかすにもならんです。お手上げ万歳、お釈迦さまの法なんてとうていおれにはというほどでわずかに見える、すなわちすったもんだごと捨身施虎です、お釈迦さまに捧げるほどのいいことしいじゃさらに届かない、心にあらず仏にあらずとは、自分そのものが虚空に食われ尽くす以外にないです、しかもなをなを足らずと、いくたび地獄に落ちようがただもうまっしぐら、自分というどうにもならんものをただもうこれ、呈剣献詩献は古い成句だとさ、三分を説けまったく一片を施すべからずは、軍略用語ですとさ、非心非仏まったくに施し過ぎ。


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