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2008年9月

2008年9月30日 (火)

無門関

倶てい(低のイを月)竪指

倶てい和尚、凡そ詰問有れば、唯だ一指頭を挙す。後に童子有り。因みに外人問ふ、和尚何の法要とか説かんと。童子も亦指頭を竪つ。てい聞きて遂に刃を以てその指を絶つ。童子負痛号哭して去る。てい復た之れを召す。童子首を廻らす。てい却って指を竪起す。童子忽然として領悟す。てい将に順世せんとして、衆に謂って日く、吾れ天竜一指頭の禅を得て、一生受用不尽と。言ひおわって滅を示す。
 無門日く、倶てい並びに童子の悟処、指頭上に在らず、若し這裏に向って見得せば、天竜同じく倶てい並びに童子と、自己と一串に穿却せん。
 じゅに日く、
倶てい鈍置す老天竜、利刃単提して小龍を勘す。
巨霊手を擡ぐるに多子無し、分破す華山の千万里。

倶ていは南岳下、天竜和尚の一指頭によって開示す。童子如何なるかこれ道と問われて一指頭を竪てる、その指がないんです、忽然として領悟す。身心ぜんたいが失せるので忽然という、ある人足の親指を自己によって切断し、みっともなくって人といっしょに風呂も入れなかったという、へえそうか足拇指だけ先に悟っちまったなと云ったら、ほんとうの悟る、二三日は興奮して眠れなかった由、もっともこれを長長出させて本来のものになればよし、おのれの取り得などいう中途半端じゃそりゃなんにもならんです。天竜と倶ていと童子とおのれと、一串に穿却せんとは同じなんです、異論異種の仏なし、意趣の仏法なしたった一つを生涯にして下さい、わずかに一指頭一生受容不尽です、さあどういうことかわかりますか。巨霊神は山を引き裂いて華山と首陽山を作ったという伝説、多子なしです、小説はなんとか本を売るこっちゃないんです、一箇半分救えるか田舎の問題です、自救不了のお喋りは首ごとぶった切るにいいです。

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2008年9月28日 (日)

無門関

二 百丈野狐

百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦退く。忽ち一日退かず。師遂に問ふ、面前に立つ者は復た是れ何人ぞと。老人云く、諾、某甲は非人なり、過去迦葉仏の時に於ひて曾って此の山に住す。因みに学人問ふ、大修行底の人還って因果に落ちるやと、某甲対へて云く、因果に落ちず。五百生野狐身に堕す。今請ふ、和尚一転語を代って貴へに野狐を脱せしめよと。遂に問ふ、大修行底の人還って因果に落つるやまた無や。師云く、因果を昧さず。老人言下に大悟、作礼して云く、某甲すでに野狐身を脱して山後に往在す。敢て和尚に告ぐ、乞ふらくは亡僧の事例に依れと。師維那をして白槌して衆に告げしむ、食後に亡僧を送らんと。大衆言議すらく、一衆皆安し、涅槃堂に又人の病む無し、何が故ぞ是くの如くなると。食後に只師に衆を領して山後の巌下に至って、杖を以て一死野狐を跳出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師晩に至って上堂、前の因縁を挙す。黄檗便ち問ふ、古人錯って一転語を祇対し、五百生野狐身に堕す、転転錯らざれば合に箇のなににか作るべしと。師云く、近前来、伊が与めに道はんと。黄檗近前、師に一掌を与ふ。師手を拍って笑って云く、将謂らく、胡髭赤と、更に赤髭胡有り。
 無門日く、不落因果なんとしてか野狐に堕す、不昧因果なんとしてか野狐を脱す。若し者裏に向って一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生をかち得たることを知り得ん。
 じゅに云く、
不落と不昧と、両菜一賽。
不昧と不落と、千錯万錯。

仏教とは生死を明らめること、すなわち因果歴然を知ること以外になく、おのれの取り得ちらともあれば因果を昧ますんです、まずもってここをはっきりさせて下さい、仏教という仏というたいてはまずは自己弁護です、おれは悟っただからという、ありもしないものの上に胡坐をかいて、因果に落ちずとやる、五百生野狐底です、もののわがまま畜生道に堕すことに気がつかない、そういう類多いです、あるいはお寺に生まれたから説教で坊主まるもうけだという、心理学病理学の対象にしかならない有耶無耶、こりゃまあ野狐どころじゃないんですか、因果必然を知るとはこれあればかれあり、だからどうしてどうなったという経緯じゃないんです、ただこれを知る、業火の燃え盛る如くですか、あるいは死に絶えてのち始めて得るんですか、この則まずもってこれが理の当然を知って下さい、そうしてもって黄檗の一掌あり、赤髭胡胡髭赤です、不落と不昧と両菜一賽あり、不昧と不落と千錯万錯です、ごっちゃにしてこの則のいい加減をなじるんじゃないんです、剣刃上を行く、ないということ夢おろそかにするべからず、触れりゃぼろり手指落ちるんです。

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2008年9月27日 (土)

無門関

仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作も生か透らん。あに道ふことを見ずや、門より入る者は是れ家珍にあらず、縁に従って得る者は始終成壊すと。いんもの説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡をえぐるに似たり。何ぞ況や言句に滞って解会をもとむるを得んや。棒を棹って月を打ち、靴を隔てて痒をかく、甚んの交渉か有らん。慧開、紹定戌子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。のっす(ニンベンに内、子)請益に因んで、遂に古人の公案をもって門を敲く瓦子と作し、機に随って学者を引導す。竟爾として抄録するに、覚えず集を成す。初めより前後を以て叙列せず、共に四十八則と成る。通じて無門関と白ふ。若し是れ箇の漢ならば、危亡を顧みず単刀直入せん。八ぴの那た、他を欄れども住まらず。縦使い西天の四七、東土の二三も、只風を望んで命を乞ふことを得るのみ。設し或いは躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似て、眼をさつ(目に乏)得し来たらば、早く己にさ(口に差)過せん。
じゅ(公頁)に日く、
大道無門、千差路有り。
此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。

仏語心とはあなたそのものなんです、心というもとよこしまなきを知る、どうしようがこうしようが妄想無明も仏です、まるっきり穢れなきを知る、これを宗とす、他にはまったくないんです、杓子定規の物差しじゃないんです、ついには取り付く島もなし。無門とはこれなんらの規定、あるいは聖俗がないんです、ちらとも仏教あり法ありでは落第です、落第しきって底が抜けて下さい、かすっともかすらんです。既にこれ無門、しばらくそもさんか透らん、透るともうはや無いんです、何を透ったかというて、しばらく透らなかったなにかしらあったんです、不都合を去れば都合ですか、あとかたもなしによって、自由無碍もと仏です、自縄自縛の縄をほどけば仏。門より入るものは是れ家珍にあらず、無門出入りなし、虚空によって虚空に参じて下さい、直きに得るも得ないもないことを知る、無自覚の覚。縁によって得るものは始終成壊す、世の常まさにこれです、成ったり壊れたりの繰り返しを人生積み重ねという、間違いが間違いを生む、アメリカの醜悪あるは宗教による、中国も無知の故にめったやたら、いんもの説は風無きに波を起こすに似たり、好肉に傷をえぐるに似たりと、傷をえぐるも波を起こすももとまったくに掌の辺、みしこれを知るあるいは成道に近いですか、近い遠いといっているうちは言句に滞り、解会の際限なしをもってする、棒をとって月を打ち、隔靴掻痒ですか、ただじかにふれ、じかにふれるということを知らぬ、日常茶飯です、地球ものみなのお仲間入りですよ、慧開ついに古人の公案四十八則をもってす。なんのさわりもなければ一即万即通ず、さわりあれば瓦礫、引導するとは機縁あるなし、学者とは滞るなし、ついに無一物、危亡を顧みず単刀直入です、他なしです、慧開を証明して西天四七、東土今に至るまでをただこれ唯一の仲間うちですか、肩を並べて行く、ほかには尊敬するものなし、社会なし世間なしなんです、でなけりゃそりゃ嘘とはったりです、すでに出家すでに帰り着くところなし、もとのもくあみだけです。
ジュに日く
大道無門、千差路有り、省みるなければ可し仏道。
此の関を透得せば、乾坤に独歩せん、もと独歩のほかにはなく、しかも万人志して一かニかかつがつこれを得る。

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2008年9月25日 (木)

無門関

表文

紹定二年正月初五日、恭しく天基の聖節に遇う。臣僧慧開、預め元年十二月初五日に於いて、仏祖の機縁四十八則を印行ねん提し、今上皇帝聖身弓の万歳万歳万万歳を祝延したてまつる。皇帝陛下、恭しく願はくは、聖明日月に斉しく、叡さん(竹弄)乾坤に等しく、八方有道の君を歌い、四海無為の化を楽しまんことを。
慈い(壱次心)皇后功徳報因祐慈禅寺前住持、伝法臣僧慧開、謹んで言す。

天基聖節は天子の誕生日、無門慧開は臨済宗月林師観の嗣。慈い皇后は理宗の母、母の追善供養のために建てた寺。紹定二年は1229年。叡簪乾坤ー日月のように智慧が明らかなこと。四十八則の有道のありようを歌い、世界ぜんたいが無為をもってすることを願う、無為の化を楽しむことこれ政治の根本です、理想社会これ。皇帝という今は二束三文ですか、アメリカの大統領選挙も中国共産党も勝れりとはさっぱり思えんです、いずれ物笑いにしかならんです、いえさものみなに目くじら立てるよりは、祈るにしくはなし、空騒ぎで一生を棒に振らんこってす、はい。

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2008年9月24日 (水)

無門関

習庵序

道は無門と説けば、尽大地の人得入せん。道は有門と説けば、阿師の分無けん。第一強ひて幾箇の注脚を添ふは、大いに笠上に笠を頂くに似たり。硬く習翁が賛揚せんことを要す。又是れ乾竹に汁を絞る。這些のこう(口考)本を著得す。習翁が一擲に一擲するを消ひず。一滴をして江湖に落さしむること莫れ。千里の烏すい(唯の口のかわりに馬)も追ひ得ず。

道は無門、門がないと説けば猫も杓子の門に入る、だれあって仏は仏のはずが、気がつかねば使えない道理です、なお証せざるは顕れず、門というにはこれだけが門です。門有りと説けば阿師、師というには出家修行の事、他の追随を許さぬものあり、無門関を説きこれを修めて、あるいは千人のうちの一人も卒業できないんですか、無門というのにどうしても有門です、どこまで行ってもなにかしらあると思っている、身心なしを未だ夢にだも知らんです、即ち使いようがないんです、使いようにないのを使っている、使う手段です、手段都合ありゃ落第なんです、それを知らないからただもう騒がしいだけです、臨済宗だの曹洞宗だのいってかす、くずあくたの集積です、強いて幾箇の注脚という、ないものが云えば多少は取り得あり、有るものが云えば邪魔です、仏をよこしまにし、達磨さんに毒を盛る、ついではごんずい塊にかたまって端にも棒にもかからんです、自分で自分の首を絞めて、かくのごとくの宗門の衰退です、嘘と張ったりばかりの坊主渡世は、死出虫稼業の欲やかりいじましさのほかになんにも残らんです、これみな無門を有門とするが故による、人々厳に謹んで下さい。習翁とは習庵和仲という宋代の進士だそうです、破天荒といわれるほどの進士に及第して世間一級の人物でしょう、禅門を叩いてこの文章も並のものではないです。賛文を書けと云われて、乾竹から汁を絞るようなものだと云い、這些のこう本子供だましの本が出来上がったが、一擲捨てるなげうつんです、二回も捨てるんですかあほくさ、捨てる値打ちもないという、こんなものを江湖揚子江と洞庭湖江湖会と未だに法戦式のことを云うんですが、これは転じて世間ぜんたいですか、江湖にこれが一滴の序を落とさないでくれ、広まったら最後一走り千里を行く名馬うすいも追いつけぬというのです。なんだかもって回った序ですか、なんにもない人なんにもない日送り如何、どうですかちゃんと答えが出ますか、はい当たり前ってねアッハッハ。

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2008年9月11日 (木)

しいどうぶなん

 右此一冊、寛文庚戊末秋、是をあつめぬるにつけて、此上加筆あやまりににたりといへとも、ふしきに命なからへて、よはひ七十四才に及て、釈迦如来御説法、少も説法せずと仰られし事、生も死も万物直ニなき事なと、のへをかれしにつけて、予ふとおもひ出て、世か一世のなす事一もなし、是れたれもたれもしることなれは、もしはおもむく人もかなとねかふにつけ、辞しかたく、筆をくはへぬるも、わかことくおろかなる人のたすけにもやならんかし。七十四才にて、此一枚のおく書をと、しいて門弟このむねにまかせ、筆ヲそめ侍る也。
  延宝四年丙辰仲夏      無難花押

釈迦如来少しも説法せず、もとはじめっからあるこれを損なわず、予が一世のなすこと一つもなし、これ誰も知ることなればと、もし赴く人あれば、予の如くにおろかな人あれば、しるべにもせよと至道無難七十四才奥書して花押です、わしもすでに七十ニ才、おろかなることはようやく日々を過ごす、わがなすこと一もなし、まったくにそのとおりです、あっはっは花押もなしの。

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2008年9月10日 (水)

しいどうぶなん

  人つねにあやまる事
人にたまされてくるしみ、我にたまされて悦ふ事。
人の死をしりて我死をしらず。
人の是非をえらひ我無作法の事。
本来無といへは無としる事。
仏道に法をたつる事。
仏道に不入は身守る事ならず。
きねんする人有、身の仏を不敬。
貧をくるしみ、のかるる事しらず。
悟を以て仏法と云。悟る人まれなり。
一念悪気ひるかへす事ならず。

これは絶品です。この最後の項行われている人まったくになしといっていいです。でもまさにこれ仏道です、一つあやまればすでに不可。人に騙されて苦しみ、我に騙されて悦ぶ事。空手還郷、眼横鼻直にして、他に瞞ぜられずは、仏のありようです、一神教から共産党までまさにこれ、人に騙されて苦しみ、我に騙されて悦ぶ以外にないです、あるいは世間一般これです、平和といっては戦争を起こす、人類めったやたらの教育美徳ですか、せっかくお釈迦さまがこれを知り、仏を示してのちも、めったやたらのでたらめ無明暗黒です、多少とも気がつく人は、この数箇条よくよく身心もて省みて下さい。
人の死を知りて我死を知らず、万事あやまりのこれが元なんです、いったん死ぬること以外に生きる道なく。
人の是非を択び我無作法の事、すなわちこれ生活の基本ですか、それじゃまったくに収拾がつかんです。つまらんこってす。
本来無と云えば無と知る事、師家とか坊主学者の類、あるいは悟った悟らぬ人100人が100人これが類ですか、担いで帰れというわけの、まさにこれ試金石、無と言えば無を知る人も無しなんです、単純数学ですよ、1は0になるんです、1を観察するものあれば2ですよ。
仏道に法を立てる事。以無所得故にぼーじーさっとば、修菩薩行です、わしがありようありていに白状すれば、たった今悟った、昨日までのおのれはまったくなっちょらんとこれ毎日やってます、人は呆れて口をあんぐり、知らぬが仏ですか、仏は仏こっきりまるっきり取り得なし、無上楽あり。
仏道に不入は身を守る、仏道に入らなければ身を守る事が出来ないと思うこと。仏は身を守るすべばし、わずかに守るべき身心なしをもって長らえるんです。これをたいていの仏者は、おれは悟っただからといってふんぞり返る、あるいは仏道をもって自己弁護に当る、てめえ自堕落に二重丸つけて、俗物と不識をごっちゃにする、こりゃ害悪もまあ云う甲斐なし。
祈念する人有り、身の仏を敬わず。仏を願うとは100人中100人これ、自分を捨ててというとかえって握り締める、捨てるということさえ出来ぬ、情けなや。
貧を苦しみ、逃れることを知らず。とにかく工夫して下さい、もっともたやすいことですよ。
悟りをもって仏と云う、悟る人まれなり、残念ながら未だ一人にも会えず、悟りという本来を知らぬだれかれ、云ってみりゃ偉い人ばっかりですか、ほっときゃ偉くなるばっかり、いちばん馬鹿でめちゃくちゃでまるでなってない人やや親し。
一念悪気、チラッとも念あればこれを翻すことならず、これは基本わざです、一念起こったらもはやそれっきり、だのにあくせくというのが万ず病のもとです、無心は心無し、かえりみること不可能、無いもの痛まず金剛不壊これ仏法。

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