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2008年8月

2008年8月31日 (日)

しいどうぶなん

 かかる有かたき物なり。上一人をこなひ給へは、天下平なり。国主行ふ時、其国安し。家主行ふ時、其家安し。それをしらすして、万我意にまかせ、身の悪にたまされ、人のうへを色々によしあしにつけてねたみそねみ、我身我心かた時もやすからず、常に苦しみかなしむ事たえず。其悪念にひかれ、死していく世もうかふ事なし。あさましくかなしき事なり。
 仏世に御出有りて、身のとがを去るへしと、とかなけれは身なし、身なけれは直に仏と、御をしへ有がたし。
 修行と云は、人々身のとかを去るへし。立居につけて、我とかをわが心に見せて去る事をこたらねは、つひに去りつくして、我身直にこくう、こくう直に我身なり。うたかひなし。其時、生も死も、万物すきとのかれて、大あんらくなる故、極楽と云。ねかひもとむる事なき故、仏と云。うたかひなし。
  身も消えて心も消えてわたる世は
  つるきのうへもさはらさりけり
うたかひなし。

古い仮名遣いにも馴れて、まことにこれこのとおりそのとおりです、坐禅の仕方まさしくこれです、何も云うことはないです、よくよく身心もって立証して下さい、仏になり終わって下さい、なり終わりまさに始まりです。またたとえば理想社会、理想国家について考えてみて下さい、日本では鎌倉時代ですか、タイでは3世紀から8世紀ごろですか、騒々しくみっともないばかりではない世の中が実現したです、わしはそう思ってます。

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しいどうぶなん


仏と云、神と云、天道と云、如来と云、色々難有名は、人の心をかへて云也。
心本一物もなし。
心の動き、第一、慈悲なり、和らかなり、直を也。
主君に向へは忠を思ひ、親に向へは孝を思ひ、夫婦兄弟朋友にむかへは、其品々に道をたたしくせんと思ふ。是心の本意なり。かく有かたきものなり。
心を妙と云、阿字と云、阿弥陀と云、悟と云。我心に見られては、ゆるす事なし。必ず悪人、とかをうくるは、其身の心ゆるさぬ故なり。疑ひ無し。善人したひによくなるは、其身の心よりよき事をあたふ。うたかひなし。かくあきらかに人人そなはるなり。

心です、これっきりないです、たった一つあることは無です、無心です、心が無い、無いものは痛まず損なわれず、不垢不浄、不増不減、不生不滅、金剛不壊とはこれ、これを得るのに父母未生前、ビッグバン以前のおのれに帰るのがもっとも手っ取り早いです、だれにでも出来ます、ちらともあればまったく役立たず、仏にもならず、天道にもならず、如来来たる如しを外れて、よこそまにするんです、自業自得これ参禅の目安です、自分作っておいて七転八倒する、いえたった今の現象です、じきに消えて、慈悲あり、和あり、直ありです、おのれの取り得なんにもないです、善人悪人という、わが心に見られるをもとこれ基本わざ、それなければ人間とは云えぬです、すなわちまずもって人間から始めて下さい、ついにわが心なしを知る、心なければ知られんです。知っている分を嘘。

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しいどうぶなん

 或人、地獄を問ふ。予云、汝が身にせめらるるを云ふ。極楽を問ふ。身のせめなきを云ふ。仏を問ふ。身心ともになし。かれいはく、死人におなし。予云、生きながら死人になるをいふ。我が宗は悟なり。なんじ古今の苦楽、目前に有りや無しや。かれいはく何もなしといふ。
  人の身の作法をさらにかへすして
  さとりて見れば只何もなし
  人の身の作法をさらにかへすして
  まよへはつねにくるしかりけり
 仏法、天地の内の霊とて大善なり。人は天地をかたちとする故行ふなり。

或人地獄を問ふ。身に責められるを地獄という、極楽を問う、身の責めなきをいう。仏を問う、身心ともになし。それじゃ死人と同じではないか、そうだ、死人と同じ我が宗旨なり。生きながら死ぬること、我が宗は悟りなり。なんじ古今の苦楽、いままでの苦しみや悲しみが目前にあるかと聞く、何もなしと答える。
こんなに完結要を得る後はないです、ほかのなにやかやみな蛇足です、よくよく人々たしかめて下さい、悟りとはなにか、省みるに何もなし、省みる我なし、ちらともあればそれによって迷うんです、苦楽のもとです、よくよくこれを見て下さい、必ず何かあってそれによって振り回されている、迷いと地獄極楽とものまねふりが口を聞いている、なんたる情けなさ。
人の身の作法はさらに変えずして、これがありようのまんまです、悟りてみればただ何もなし。がらりがらりと変わったような気がしている、いっとき、悟ったなんいもないといういっとき、どうぞ坐って坐って坐り抜いて下さい、大悟十八小悟その数を知らずと、その万倍やったとて糠に釘、どんぐりの背比べめったらばかのこのおのれを、そっくり仏にお供えして、まったくの無料奉仕です、ただもう坐るんです、そうなってきてようやくに是是ですか。人の身の作法はさらに変えずして、迷へば常に苦しかりけり。坐っていて苦楽がないんです、つらい悲しいもそのまんまに行く、そのゆえに大聖です、自覚症状がこれっぽっちもないんです、強いて云えば抜きん出て益なしですか、知らぬが仏、廓然無聖個々別々です、なにかしらあれば昂ぶったりして坐は中途半端。
仏法天地のうちの霊として大善なり、自性霊明です、人は天地を形とする故行うあり、一挙手一投足あるんですよ、威儀即仏法という、まるっきり省みないんです、人間という知ったかぶり、俳優の詐欺行為を止めて下さい。あほらしいだけですよ。鶯さへ通身もってホーホケキョです。

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しいどうぶなん

此世にて親のかたきをうたぬハ、一世のはじなり。此身ここにてころさねば、万劫の苦なり。此身をころすは、直に如来になればころすなり。大乗最上乗の人には、如来を教へ、万法を不言。如来は慈悲功徳有、勿論無虚無実無去来。

親の仇討たぬは一生の恥なりと、今の世みんな仲良く平和にだからそういうことはない、もってのほかだという、常識におのれを売って、でたらめめったらの生涯、今もっとも必要なのはあるいはソクラテス、自分という嘘のかたまりを打破すること、まずもって急務です、でなけりゃ仏法もへちまもないですか。なんだかんだ飛び飛び坐って三年も埒開かぬ男に、しゃあない公案だ、ビッグバン以前のおまえのきんたま持ってこいと云った、ちっとは真剣に坐っている。この身を殺すには、直きに如来になれば殺すなり。別の女の子には百万劫年坐っとれと云った、なにかどっかうまく行きそうだ、もと手付かずの方法、だれかこれを得てくれという、なにをどうやったって、なにをどうやるだけがある、即今これ他にはまったくなし、大乗最上乗の人一個半分、如来を教え万法は云わず、慈悲功徳これ、真実不虚、不去不来舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相玩具するが如しと、参ずるんなら自分の外に参じて下さい、自分というとやこうにはまったく用事はないんです、即ち始め終わりです。

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2008年8月27日 (水)

しいどうぶなん

一 ある人、つねのつとめやうをとふ。予いはく、人々、心におそるへし。主君はゆるす事あり。心にみつけられしとかは、ゆるしなし。

常の勤めようとは、お経をあげ托鉢をし行い清ますこといかようかというんではない、下士官一兵卒を問うているんではないです、常のありようなにほど勤しむべし、主君は許すことあり、生きてゆくための何事かは、たとい許されもしようが、心に見つけられし科は許しなし、心=人間とはそういうものです、今の人新成人のわけのわからん、中高年の曖昧な面ぶらさげて、云うことは百万だら云う、しかもどうやら人間というにはすっきりしない、なんでもありありのさっぱり信用ならんです、心のこれをないがしろに、おろそかにするからです、心の科許すに許されぬ、このことあってはじめて一個です、参禅はこれ故になんです、でなけりゃなんにもならんです、一寸もゆるがせに出来ぬもの、これ元来仏。

一 本来をしへの外なれは、せんかたなし。しゃか如来、妙法とのたまひしも、大きなるあやまりなり。
 ある老尼、心経の註のこまやかなるを持来り、是をみれとも、むかしの人ののたまひしは、聞分けかたしとなげく。いとあはれにおもひ、おろかさをかへりみす、ことはをそへ侍るなり。

教外別伝という、不立文字、直指人身見性成仏と言い習わすからに、すでにして習い覚え、むかしの人ののたまひしは、聞き分け難しと嘆くんですか。自分という標準を習い覚えたら、こりゃ切りがないです、どこまで行っても難難の近似値はかえって遠いんです、もと取り付く島もなし、手を触れなきゃ現成しているんです。だからこうこうと説くおろかしさ、ぶんなぐってもなをさら泳ぎ出すだけですか、たいてい匙を投げるよりないです、不思議にこれを得て来たる、何人か、捻花微笑するに、我に涅槃妙心の術あり、迦葉に付すとこれあるんです、手を取り足を取ってするほどに遠いんですか、わしの法を継いで下さい。いまだ心残りあり。

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2008年8月26日 (火)

しいどうぶなん

一 物しり坊主、あるとき予にむかひていふ、その方も禅と聞く、禅も十色なとをおへて禅といひかたし。予無言にして居す。つらつら思ふに、あさましき事なり。大道元来知るはあたまるといふ事をしらず。常に学に苦しみ、覚にくるしみ、己をたかふりて、とかあり。

  物しりは仏に遠くなるみかた
  しらぬはちきにみのおはり也

物知り坊主ですか、仏教につく、禅をやろうという、坊主にかぎらずたいてはこの類です、絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずとは、大道元来知るはあやまるということを知らず、常に学に苦しみ、覚に苦しみ、己をたかぶりて、咎あり。仏もとほどけば仏を、追及し、是非善悪のまな板の上に載せてどうのこうのです、悟ったといえばどこまで行っても、はたして悟ったか、これは違うんではないかといい、悟り得たと思うからに昂ぶるんです、なにをどうやったろうが収まりがつかぬ、これをもって咎というんです、氷です、ものみなも人もよけて通る。十色とは、五根五境のこと、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法という、もとのありようを手に入れるんですか、身心脱落ですか、それを終えたたころで禅とは云い難しという、終えるとはいったいどういうこったですか、いったいまあ仏に出会って仏が見えぬとは何事、自分の仏教でいっぱいになってなんいも見えぬ、気がつかないんです、坊主組合では、仏に出会うとみんあでよったくって爪弾きする、でないと商売が成り立たない、達磨さんに毒を盛る連中ですか、こんなの咎というより燃えないごみの日ですよ。

物知りは仏に遠く鳴海潟
知らぬは直きに美濃尾張

それを知らずば身の終わりですか、知らぬ人身をも心も知らねばおしまいってもとより終わり、鳴り物入りの鳴海潟ですか、美濃尾張と美しい肥沃の地ですか、うっふっふ好きだねえ。

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2008年8月25日 (月)

しいどうぶなん

一 ある人のかたりしは、心経を人のよみてきかせらりし中に、かたちをなくせよと仰せらりしなり。さてもありかたきをしへかな。人はしらず、我たしかにおもひあたりてしる事なり。むかし、朝夕、ふうきを好み、身もやすらかに、子ともにあたへんと、わかきときよりおもひつめて、くるしみ奉公して、主君の御心にかなひ、また家の年老ぬる心にもちかはぬやふにと、仏神にもいのりしが、たた今すきとなくなりたり。今まて身をよくせんと思ひし故なり。釈迦如来の仰のことし。身をおもはねは大あんらく也、こくらくなり。仏のおん、いよいよふかし。さてまた常にたのむ人のあたりへ行きぬれは、いつより心安くまへちかくよひ、今まてはその方なにとやらんものむつかしかりつるが、今はなに心もなしと、ほめられしなり。わかむねあんらくなれは、人も見しれりと思へり。

ある人、心経、般若心経です、そこに形をなくせとあった、さてもありがたき教えかなと云う。人のことは知らず、おのれは朝夕富貴を好み、身を安らかにして、子に少しでも残そうとて、若いころから、苦しみ奉公して、主君の心にかない、家の年寄りの心にも違わぬようにと、神仏に祈って一途に努めて来たが、ただ今すっきりした。今までは身をよくしようとばかり思って来た。釈迦如来の仰せられること、身を思わねば大安楽なり、極楽なり、仏の恩いよいよ深し。でもって常頼む人のもとに行けば、もそっと近うよれとて、今までお前さんは気難しいようであったが、今はなにごともなし、気心もいらぬと云って褒められた。おのれ安楽なれば、人も見知れりと思えりと。はいまことにこのようです、ちらとも解ければ、人が寄って来ますよ、自縄自縛の縄のはしくれを自分と思い違えて、なにをあくせく、仏はほどけ、解き終わればもと仏。まずもっておのれのトゲを抜いて下さい、従い人生なんです。仏を云いながら仏にあらずじゃ、どうしようもないんですよ。

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2008年8月24日 (日)

しいどうぶなん

一 をかしき事なから、むかし、なに人にてかあらん、かまくら殿のまへにて、めつらしきものをうけて、道もて行くに、子ともあつまり、それたまへといへは、とらせて行となん。中々なりかたき事と、かしらふり、めにしはよせて、うちうなつく。われも人も思ひ入てかんしける所に、いとわかき人、何をかんしけるとて、ふところより餅とりいたしてあたへたり。折ふしはらふくれ、くはすして、われもまたふところへ入れている所へ、人きたりて、なににても食せはやと云ひけるに、とり出し、かれにあたへてくはせり。かれも悦ひ、われもよしと思ふにつけて、たしかにおもひあたれり。なにもなき心からなすわさは、むかひもわれもよしとおもふ。これやほとけならん、しらず。

鎌倉殿、西行法師が頼朝に銀の猫を与えられて、それを門前に遊ぶ子供にやったという故事だそうです。まあとやこうのこと、あとさきなく仕出かすこと、今の世の人極度に困難だったりします、やれどうの我はどうのト書き能書きうるさったいほどに、単純な一つことが単純に出来ない、つまりはなにもかもあやしげにつまらなくしてしまう。曖昧な顔くっつけて生きている男ども、オリンピックにゃ勝てないですかあっはっは、一生はたとい生まれ変わり死に変わりでも、おのれみそなわすものたったの一度です、
九のまり十まりつきてつきをさむ十つつ十を百と知りせば
君なくば千たび百たびつけりとも十つつ十を百と知らじをや
まり一つつけない、これを人生と云いうるか、死んでも死にきれないとは、あんまり情けなや、どうか坐って下さい、人生を我が物にして下さい、もともと我が物なんです、借り物人のものじゃないんです。

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2008年8月23日 (土)

しいどうぶなん

一 維摩居士は、一度に二三百人をさとらせたまふ。大唐の六祖大師は、柴をうりて渡世したまひしが、如来のときおかせたまふ、何もなき所より出る心は万事によしと、人のよみけるを聞召して、直に御心ひらけりと、今にいひつたへ侍る。さては物をしらてもなる事とおもひ、何もなき心をたうとみ、よくよくおもへは、いたつらに色をこのみ宝をのそむは身なりけりと、如来仰せられしなり。さて身のなきやうのをしへをひろめたまふ。我人、身死て後ならては身はなくなるましとおもひしに、常は身のなき事を、たれもたれもしる事なり。ほとけのをしへはやすくしてすなほなりと心得て、人にもかたれは、ものしりは、なにとて不学にてならんやとて、聞き入れぬなり。心ある人は、ありかたしといふて悦ぶ。

維摩居士はお釈迦さま在世のころの、在家の菩薩、いっぺんに二、三百人を悟らせたという。水因あり、十六人いっぺんに悟ったということもある、身心失せること別段なし、もと身心なし、たがの外れるように、応無所住、而生其心と、目に一丁字もなかった六祖禅師が、人の金剛経を読むのを聞いて、これがありようを知る。なにもなきを尊び、よくよく思えば、いたずらに色を好み宝を望むは、身なりけりと、あるはずもない架空の身心のために七転八倒する、如夢幻泡影です。これを知りこれを広めること、如来の道人本来のありようです。身死んでのちでなくてはなくならないと思う、百人が百人そう思っている、思い違い悪習慣です、常は身のなきこと、心なきこと、だれもだれも実は知る、それによってものごとが成り立ってます。心は心が見えない、一つ心が見えるはずもない、身という架空の囲いのたがを外れると、本来本当のありようです、自由無碍、学問だのおためごかしではない、単なる実際です、心ある人はありがたいと云って喜ぶ、ものごと人生人間一般にほかの道はないんです、仏というなんにもなしに帰するだけ。

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2008年8月22日 (金)

しいどうぶなん

一 人は名と装束にて、位にのほる。ひてよしは、尾州あつたの宮より五十町へだて、中村と云ふ、かや屋わつかに三十ほとある所の、あさましき下人の子也。天ちくにも、大唐にも、日本にも、これのみの御人なり。実にありかたき事なり。兵法も軍法もしろしめさて、大てきをかたふけたまふ事、風に草のなびくがことし。武士の氏神たるへしと、ある高家ののたまひしを、けにもと思へり。

秀吉のことはまだ生々しい現実で、名もなく装束もなく位人身を極めた破天荒のすがたを、げにもと思うありさま、息付き通へるが如くですか。

一 もろこしに、となり家くつれて、其内の女さむしとて、ふところに入れてふす。もろこしにもかかるめいよのおとこなれはこそ、書きととむれ。我師ゆあひたまへるに、女うしろより前にいたりて、のこらずあらふ。これもわが国にめつらしからんと思ふ。

湯浴みです、入浴したときに、女がうしろより前にいたりて、残らず洗う。隣の家つぶれて、女が寒いというので、ふところに入れて寝た人があるという、セックスのなんの下世話のことなしです、我慢の子じゃなくって、さらりとかくの如くができますか、おのれ仏というんならやってごらんなさい。是非善悪のほかのことですよ。

一 たとへは栗をうへれは栗の木生す。人のたねは白露なり。故に年老ても、法に心ざしなければ、心に絶えず。利欲は色をかさらんがためなり。りよくはなはたしきは、主君をころし、をやをころす事、たしかなり。

栗を植えれば栗が生える。人はもとまっさらです、だれが生んだからどうなるなんてことないんです。法に志なければ、年老いても妄想まるけ、まっさらに帰ることができない。利欲は色を飾るためのもの、利欲はなはだしければ、主君を殺し、親を殺す。たとい今の世のでたらめ殺人、めったら犯罪も、妄想に振り回されの思い込みによるんです、情状酌量などまったく不要のことを知って下さい。

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2008年8月19日 (火)

しいどうぶなん

一 衣をきるほとの人、必す女のあたりへよるへからず。いかに身のあやまらすとも、心にうつるなり。故に女にちかつくは、かならず畜生のけいこなり。老僧の女をいむは、ちくしゃうの心残る故なり。

女のあたりへよるべからず、女犯です、身にあやまらずとも心にふれるなりと、色香というのは抗いがたく打ち勝ちがたいんですか、なら別に女犯なぞと云わずにやってみればいい、たしかに妄想思い込みの世界です、それなくばたいてい物もおったったんですか、即物的面倒くさってほどの、至道無難さんだって、子をなし一家をなした人の、別にどうってこたないのは百も承知、しかもちくしょうの心残るなりというのは、女を断つからってことあるかも知れぬ、女=優しいもの、我が物というには畜生の心残るんですか、あっはっは女優しいもののほうが荷厄介だったり、そりゃどうもこうもならんとこあって三十六計逃げるにしかず=女ですか。一休さんは逃げなかった、どうにもこれがめったやたらを透過する、裏を見せ表を見せて散る落ち葉ですか。衣をきるほどの人、必ず女のあたりへよるべからず=けだし正解です。女を抱いてしかも億劫年の遠くにある人、始めて仏を得べし、なんにもないとはなんにもないんです、ちらともありゃ畜生また人間。

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2008年8月18日 (月)

しいどうぶなん

一 予が弟子、死霊を弔ふ事を問ふ。第一、身を消し、心をけし、しゅぎやう成就して弔へは、うかふ也。年老、色の念なくても、心にうつるうちは、とふらひてもうかふ事なし。必す無念にして弔へは、悪霊もうかふなり。此道成就する人には、たしかなるしるしあり。むかふ時、男女共に悪念消ゆるなり。これを道人といふ。

死霊を弔うこと、葬式法事の根幹ですか、いえなによろずものに処するこれ以外になし、身心共に失せて始めてものみなに触れるんです、身も心もありとはよこしまにするんです、もとなんにもないものを我という架空に囲う、するとなにやっても、我というだけです、我田引水です、平和と云えば戦争、博愛と云えばほかを思い通りにする、支離滅裂の世の中ですか、どうにもこうにもすっきりしない、浮かぶ瀬がないんです。必ず無念にして弔えと、でなけりゃひっかきまわし、かき汚すだけです。このことよくよく肝に銘じて下さい、肝というもの失せて、もと身に就くを知る、これを道人という、対するとき男女ともに悪念消えるなりと、悪霊をも解き放つんです。ただもう坐ってものみなと同生同死底ですよ。目的ただこれのみを知って下さい、無上楽。

一 しゃか如来の御心をさして、道心といふ。御かたちを出家といふ。御さほうを乞食といふ。仏法すたりはてしも、ことはりなり。寺につかふ下坊主を道心と呼ひ、非人を乞食といふ。二つの御名は、筆にし及はぬいやしきものにゆつりぬ。今一残る出家は、身のなきをいふ。天下に誰か身のなくなる人あらんや。

お釈迦さまの道は今も昔もまったく同じです、その心を道心と云い、その形を出家と云い、その作法を乞食と云う。仏法廃り果ててもこれ理りなりと。たとい現実生活管理社会、良寛五合庵は無理という、だが良寛五合庵がもっともたやすいんです、乞食には違いぬといえ、離れるにしたがい余計です、七面倒です。坊主という非人という、筆舌に尽くし難い卑しいものになり終わって、しかも仏の名を語る、これは心の崩壊です、心理学病理学上の問題ですか、金襴に塗り固め猿芝居の、ごんずい塊集団自閉症です、今一つ残るは身のなきを云う、天下に誰か身のなくなる人あらんやと、一箇半箇を求めています、無心無身の人。

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2008年8月17日 (日)

しいどうぶなん

一 ありかたき事をおもふ。これほど下部まて何院かいんといへとも、王といふ字をのそく。

そういう世相時代であったんでしょう、差別撤廃なぞ云っている今の世も実はたいして変わらんです、より曖昧で複雑になっているきりの不都合、てめんことっきりのぜにかねですか、責任逃れいい訳申し訳の世の中。赤ん坊は王様です、はいあなたも王様、心という上下四ゆいなく生まれついての無限大です、王である自覚無自覚のはい責任を取って下さい、ありがたきことこれ。

一 その道道のかしこき人にたつねは、よろしかるへし。法師を俗よりよしあしをえらふ、法師より俗のよしあしを云ふ、あらましはしるへし、いたりてはおほつかなし。むかし、わかき時、人ののたまひしをきくに、鐙に名のおほきをおもふに、武士の我家の事さへ、いたりてははかりかたし。ましてわか家にあらぬ事は、おほつかなし。

その道のエックスパートに聞けばたいがいのことはよろしくと、法師、道を説く人も世間の噂ですか、どうもさっぱりあてにならんです、法師も世間人のよしあしを云う、そりゃま世間人だからですか、至り得るにしたがいわけがわからないんです、世間のことは世間に任せというがほどに、源氏物語がよし、お釈迦さまはどうなという、瀬戸内寂聴の文化勲章ですか、世の恥みたいな、うふふ世の中が恥を掻くんですか、鐙に名というのは、馬具というより軒瓦に鐙の形したものを用いて、その家の紋章を示すという、武士という家門のことですか、平民はたいてい明治を過ぎても問題にならなかったり、でも我が家はこうこう、従いかくあるべしといってプライドを持ったにしろ、若い時いっときはなるほどってことがあった、至りてははかりがたしと、そりゃどの道でもそうです、弓の名人が弓を忘れて、まさにもって本物になるたとえ、わがことさえわからず、ましてや他人ことなぞというにおよんで、ようやく大人ですか、そりゃ世間常識、ヤフーだの2チャンネル人新成人どもの、ちっとは煎じ薬あっはっは。

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2008年8月16日 (土)

しいどうぶなん

一 大道、心かくるには、あしき友を去るへし。

悪しき友とは、一に坊主ですか、二に布教師仏教学者どもですか、この連中はどうしようもこうしようもないです、思想の酒に溺れるもの、宗教の毒に感染するもの、つまりは十重禁戒、仏戒にもとるものみなこれ悪です、だらしない人、色欲に溺れる人、あるいは道徳観念一辺倒とか、世にいわゆる先生という観念倒れとか、さまざまある中に若しおのれが得道のものなれば、だれとも付き合うがいいです、触れるものみな解き放つ。

一 ある人、さとりのもとをとふ、よしあしをしるがもとなり。

はいその通りです、よしあし、是非善悪を知ってはじめて大道を求める、そうでなけりゃそりゃなんにもならんです、犬畜生にも劣ると云われて、犬畜生の仏性を知る、云わく無というときに、是非善悪を卒業し得るんです、横滑りは不可です。学者物知りはそりゃいつまでたっても学者物知りです、情けないったら生まれ変わっておいでと云うがほどに。

一 我心をいかかして見んといふ人に
  色このむこころにかへて思へたた
  見る物は誰そ聞く物は誰そ

心はたった一つ、たった一つの心がたった一つの心を見ることは不可能、にもかかわらずたいていの人が、自分という心が見えていいのわるいの、色好みだの剛直だの云っているんです、まったくの嘘八です、嘘に振り回されて、ではこいつをどうにかしようという、信仰道徳刑務所みなまた間違い、人間を捻じ曲げるためにあり、平和を祈願して戦争に突入する如く、たとえて云えば共産中国の狂犬病じみたどうしようもなさですか、人みな根本に於いて省みるべきです、省みるにおのれなし、省みる心なし、無心です、無いものは傷つかず金剛不壊、これを仏如来です。

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2008年8月15日 (金)

しいどうぶなん

一 人にをしへかたきあり、世智の過ぎたる人。

世間智の過ぎたる人、常識情識のまんまそのたがを外れることができないんです、仏の道さえ情識の延長上にある人、こりゃなかなか救い切れんです、弟子にウイトゲンシュタインですか哲学からやってきたのがいて、なかなか坐ってもらちあかん、おまえ止めたほうがいいよ、キリスト教の牧師にでもなったほうが早いといったが、三年四年がんばってます、これを得てドイツに布教に行くんだという、すればそれも情識なんです、どこかで自分という衣を脱ぎ捨てる必要がある、まずまっさきにそれです、単純な生まれついてでいい、それをヤフーだの2チャンネルだのいう人、終始情識のとりこでだからおれはいいんだと、頭なでなでしてるばっかりです、いかにもらしいことを云い、いつか悟り終わってるとうそぶく、なんにもならんことは女子供さえ一目瞭然なんです。

一 人にをしへかたきあり、富貴を好む人。

これは奪い取り、脱し去りして行く、仏道を習うつど富貴になる人がいます、人に説くべき材料豊富、あるいは判断に優れと、しだいに偉い人になるんですか、しかもそれが仏教、仏の道に反することだとは夢にも思わないんです、脳天気というか、仏教をただただおのれ自堕落の弁護に使い、ほかをやっつけ騒々しいんです、これも一目瞭然です、近ずかぬことほっておきゃいいです。あるいは富貴には富貴を、うんと褒めりゃおのれ気がつくんですか、馬鹿らしいってほどにですか。

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2008年8月13日 (水)

しいどうぶなん

一 火のあたりはあつし。水のあたりはひややかなり。大道人のあたりへよれは、身の悪きゆるなり。これを道人といふ。そつじに道人といふ、おそろしき事なり。

火の辺りは熱い、水の辺りは冷ややかだ、大道人の辺りに寄れば、身の悪は消える、これを道人という、率爾に道人というは、恐ろしいことだ。老師はそばへ寄るだけで、外れるものはがっさり外れるからなあと、わしの弟子が云った、ほんとうにそうだった、当時のわしとはたいへんな違いだった。観念をもって知り、ものごと華やかにする、まったく別のこと、ほどけば仏の、仏という、触れるものみな脱落する、救いなんです、悟った、だからどうなという五万といる連中、恐ろしいということをまずもって知って下さい、軽はずみにもてあそぶことなかれ、取り返しの付かぬことをしちゃいかんです。

  我庵門徒中に法度之事
一 坊主は天地の大極悪也。所作無くして渡世す大盗人也。
一 修行果満ちて人の師とならんとき、天地之重宝也。万渡世の師のみ有り。大道の師まれなり。
一 一紙半銭、をろそかにする事なかれ。
一 平常、身をつつましやかにして、身のためにする事なかれ。法てき仏てきは身なり。
一 人よりものをうくる事、毒薬とおもへ。大道成就之時、人のをしむものをうくへし。其人をたすくるゆへなり。
一 修行之内、人にうたれふまるるとき、過去にてわがなす業つくると悦ふへし。
一 一夜をあかすとも、亭主のきる物かる事なかれ。すみによりかかりてふすへし。大かたはふくすに入れて持ちて行くへし。やくそくの日、あめ雪にも行くへし。
一 大道成就せさるうち、女をちかつくへからず。
一 心さしなき家にとまるへからず。
 右九ケ条常にまもるへし。外は古徳の語にあり。

一 坊主は天地の大極悪なり、為すことなくて世を渡る、大泥棒なり、お経を読むとはいったいなにごとか、お経が何かの役に立つ仕事か、よくよく顧みるべき、田んぼの蛙のほうがよっぽどましだとは道元禅師の語。
一 修行仏果満ちて人の師となる、天地の重宝なり。世渡りのための師だけあって、大道の師は希なり。
一 一紙半銭おろそかにすることなかれ、はい。
一 常に身をつつましくして、我身の為にすることなかれ、法の敵仏の敵は我が身なり。
一 人よりものを受けること毒薬と思え、無心無身の修行、なんにもないを得るための身心に物を受ける、毒薬これ。大道成就のときは、すべからく奪え、彼がもっとも大切なものを奪え、なんにもないというものからなんにもないを奪え、金持ちには大金を乗っけろ、重みでぶっつぶれると、はいこれ。
一 修行中に人に打たれ踏まれることは、過去にておのれなす業が消えると思って喜べ。たしかにそういうことなんです。
一 一夜を明かすとも亭主の着る物を借りてはならぬ、すみに寄りかかって寝ること。大体の物は行鉢、風呂敷に入れて持ち歩くこと。約束の日には雨が降っても雪が降っても行く。
一 大道成就せざるうちは、女を近つけてはいけない。女に負けること必定。
一 志なき家には泊まるべからず。

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2008年8月12日 (火)

しいどうぶなん

一 大名高家に生まる事さへ世にまれなり。過去にて能くよく慈悲をなし、功徳をして、今世に大名高家、そのしなしな、因果をあらはすなり。たまたま大名に生まれては、我意にまかせ、いろいろのあくをし、むかしよりあさましくなるへし。あはれなり。ある人、我に問ふ、生れ替る事慥かなるや。予云、生国はいつくぞ。かれいはく、西国。又とふ、その生まれし所に行きて見たまへといへは、いかにも行きて、我もとのやしき居所、今目前にありといふ。予云、只今身ありやととへは、なにもなしと云ふ。ここにて心得たまへ。その身死すれは、思ふ所にととまるなり。さひこくへつまはしきせさるうちに念行く也。只今これへはなにのためにをはするそ。かれいはく、法のため。予云、法のためには寺へ来る。色をこのめは遊女を尋ねて行く。常にきたなき心あれは、ちくしゃうにかたちをうつす。きれいにじひ心あれは、人に生る。うたかふ事なかれ。念は方々へ行く。仏といふは、かしこへも行かず、ここにも居らず、一念もなし、こくうと一たいなり。かれたしかに心得て去る。

生まれ替わり死に替わりする輪廻転生ですか、ようもわからんですが、生まれ替わって出直して来いと云いたくなることままあります、またよほど前生の因縁がよかったと思える人、悪かったと思える人がいます、過去において慈悲し徳を積むという、すれば大名高家にも生まれ変わるなど、大名高家に生まれても、悪の限りを尽くしてという、哀れなりということ世間体これです。ダライラマのように生まれ替わって出生する、またそれを覚えることありという、そりゃそういうこともあるかも知れんです。ほんとうに仏の生まれ変わりという、そんな人に出会うこともあります。めったら苦労しても得られぬ人、まっしぐらに得る人、そりゃ現世の理屈はあるんですが、にもましてすっきりと並みならぬ生まれと思えるんです。わしはよっぽどろくでもない生まれか、せっかくの前世因縁もよこしまないがしろにして、年月かけてかつがつに仏如来を知る、申し訳なかったと心底思うものです。前のありようと云えば、特別なことはないです、茂みあり川あり山あり、人ありする単純な場面だけです。同じなんですよ、たといいつの世だって、たった今の目前のようになつかしいです、わがものです。ちくしょうに生まれたくないです、鳥獣ではない、でたらめです。思想の酒に溺れ、勝手な主義主張、信心宗教、あるいは共産中国のそれは成れの果てですか、きれいに慈悲あれば人に生まれると、我という中途半端思い上がりをしないんです。疑うことなかれと、仏というあれやこれやないんです、念思い込みは方々に行く、仏というはかしこへも行かず、ここにもおらず、一念もなし、身心もなし、虚空と同じです、思い込み人生じゃないんです、生生世世を尽くしてとは何か、いまだ至らずということです。

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2008年8月11日 (月)

しいどうぶなん

一 ある人、民をなつけん事をとふ人に云く、かわきに水をあたへ、寒きに衣をあたへ、飢に食をあたへは、民なつくへし。

民が懐く法は、渇きに水を与え、寒さに衣を与え、飢えに食を与えれば、民懐くべしという、みんな仲良く平和にというのとどうもたいてい違うんですよ、自己満足は卑しいことです。火中の栗を拾わぬ人、云うこと云えばいいという、現代病ですか、老いも若きもです。

一 少将にてをはせし人、厳子に世をゆつられしとき、
 第一 慈悲
 第二 無欲
 第三 万依怙なく
 此三言をもって国を治めよと也。ものをよまでも心をあきらめられししりしなり。

一に慈悲二に無欲三に依怙贔屓なくという、親が子に接することこれ、どうもさっぱり忘れられています、ゼニカネと生活の他に基本があるはず、心というもののありよう、習い覚えのものではないはず。心をもって心に対する、ほかに説くなし。

一 釈迦にしゃかなし、法なし、教なし、ならひなし。
これを妙と名つけて妙法をとき、
阿字と名つけて真言をとき、
仏と名つけてあみたきゃうをとき、
四十九年一字不説とのたまふ。根本なき故也。元来ここはいふ事ならず。かるがゆえに此一字はとかれず。これを得道を禅といふなり。

不説の一字を得て下さい。

一 道を修する人、千万人に一人も、道を知る人ありとも、わかものにする人なし。わか物にする人あれとも、それをすつる人なし。

捨てて下さい、自分を押さえ込まないんですよ、飽きる欲しい嫌だ切ない口惜しいいえなにもかも使ってぶち抜いて、これを得てわがものにして、ついには捨てて下さい。もとこうできあがっているんです、安楽椅子なんかないです、一瞬もとどまらない、さあてついにはどうなるか、正に新たなり。

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2008年8月10日 (日)

しいどうぶなん

   神道をとふ人に
一 たかまがはらは、人の身なり。神とまるは、むねのうちあきらかなるをいふ。

高天ヶ原は人の身なり、神止まるは、胸のうち明きらかなるを云うと、どうですか、まったくこのとおりですから、確かめてみて下さい、確かめるとは忘れ去ることです、もとこうあるっきり、ちらともわだかまりあれば、物の役に立たず。

   仏道をとふ人に
一 天命、性と云ふ。身の外は天也。むねのうちなにもなきは、天より命じたると也。即性と云ふ。性次第にするを道といふなり。

天命を性という、性、本性ですか、もとのありようこれ天命、はいまったくそのとおりです、それを我儘勝手よこしまにして、自分といい自分の思い個性といい、もしくは天分の才といい、利用し助長し他にひけらかすというんでしょう、よくみてごらんなさい、なにか自分という中途半端です、もと天命本性をけちって小出しにしている様子です。胸の内なにもなきは、天より命じたることなりと。100%信じ切ってとは忘我なんです、性次第にする、自分というけちな小出しですか、そやつを抛って思いのままにする、これを道と云うと、仏の道他にはなし。

   出家精進をとふ人に
一 出家精進をするは、五辛(にら、ねぎ、にんにく、らっきょう、しょうが)酒肉を以て気血甚しき故に、むねのうち清からず。是一。有情皆我友也。是二。君臣父子夫婦兄弟朋友、なにものか魚鳥にへんせん(生まれ変わり死に変わりする)をしらず。これらを以ていむなり。

はいまことにそのとおりです、申し訳ありません。戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、仏遺教経にあります、はいそのとおりだと思うです、わっはっは。

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2008年8月 9日 (土)

しいどうぶなん

   法語
一 身の外は仏なり。たとへはこくうのことし。かるかゆへに、ゐはいのうへに帰空と書くなり。
一 常に何もおもはぬは、仏のけいこなり。
一 なにもおもはぬ物から、なにもかもするかよし。
  生きなから死人となりてなりはてて
  おもひのままにするわさそよき
 諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽、此歌のこころなり。

法語は法を語る、坊主どもの嘘八百は自分がまったく法に外れているのに、法語し香語する、ただのお経猿芝居を法要という、なんともこれ救いようがないです。身の外は仏なりと、参禅は外に向かってしなさいとわしは云う、もし内と外とあるならです。坐ろうが坐るまいが内のあるはずがないんです、自分の内なんて見えないです、自分を観察することもできないし、自分というものがないんです、あるではないかという、あるという思い込みなんです、外は虚空です、内も虚空です、位牌に帰空と書く、あるいはただ空と書く、もとの姿に帰ったということです。間違えておのれの所有のものと思っていた、死んだらおのれの物なしおのれなし、もとから身心なし、仏とはこれ、我というよこしまを去る。
常に何も思わぬは仏の稽古なりと、たとい妄想百般ももとなんにも思わぬと同じです、妄想思念するおのれを観察しないんです、出たら出っぱなし、無心です、仏という心の無い姿です。常に何も思わぬ、仏の稽古なりと、他に仏教というものないんです、だれかれ他になにかあると思っている、だからおれはという、騒々しいです、稽古を一歩進めて下さい。
何も思わぬものから、なにもかもするがよし、はいこれが正解なんです、やってごらんなさい、これができる人皆無ですか、優れたスポ−ツ選手にたまにいますか、剣の達人などもしやおのれを100%使い切るのはこれです。無心心無しという、先入観念無しのオ−ルマイティです、もっとも技量は習熟する必要があります、生活はただこれ、常にまったく新しいゆえに生き甲斐ですか、生え抜きですか、思いのままにするわざぞよきです。
諸行無常とは、いくらこう決めてこうあるべきだといったってそうはならない、だから面白いんです、是生滅法、生まれりゃ滅するんです、エントロピイは増大するという、増大宇宙か縮小宇宙かという、もと我らはこれを知っているはず、ただとはこれです。生滅滅己、おのれというその上のよこしまを滅するんです、すると万法の中の万法です、涅槃無上楽です、なにものもこれを欠くことができない、不増不減不垢不浄不生不滅です、不生の人と盤珪禅師の云うこれ、一目瞭然事です。

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2008年8月 8日 (金)

しいどうぶなん

   あるとき真実なる人に
  本来はをしへもならすならはれす
  しらねはしらすしれはしられす

真実というんでしょう、仏教以外には真実を知らずという、仏教のいう真実はかくの如し、本来は教えもならず習はれず知らねば知らず知れば知られず。どういうことかというにもと真実なんです、もと本来であるとき、これを教えてもこれを習うのも間が抜けてます、
醒覚する、気がつくんです、悟る他にはなんにもならんです。自分を知るという、知る自分と知られる自分の二分裂では、そりゃ届かんです。無心じゃないんです、無心とは心が無いと読む、どうですか能書したってしょうがないでしょう、悟りというものがあるわけじゃないんです。直かに知って下さい。首くくる縄もなし年の暮れ、貧乏も底抜けですかあっはっは、でもってどうにか物の役に立ちます。

   ある人道をとふ
  松風をあさの衣にとちつけて
  月をまくらに波のさむしろ

松風を麻の衣に綴じつけて月を枕に波のさ筵
まあそういうこったで味わってみて下さい

  ほとけはととへはまよはぬ人そなき
  をのかこころと知る人もかな

仏はと問えば迷わぬ人もなき、おのが心と知る人もがな。おのれの心と知るとは、死んで死んで死にきって=比較検討聞いたふうなこと物差し勘定を抛つんです、人間を止めることです、よってもって思いのままにするわざぞよき=ただです、手付かずなんですよ、どうかこれを得て下さい、人生まさに他にはないんです、取り付く島もなし。

  のりの道ふかくたつぬる人あらは
  あさき所にのこる物なり

趙州因に僧問う、如何なるか是れ仏法の真髄と。州答えて云く、汝が問うは真髄にあらずして、皮袋にあらずやと。どうです、よくよく証左してみて下さい。浅き所に残る物なり、はいこれと知るときにまったく離れます、仏というあとかたもなきを、四智円明の月ですか、たとい聞いた風な物が消え失せるときです。

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2008年8月 7日 (木)

しいどうぶなん

  趙州の無といはれしはおほつかな
  いかにとしてもしられさりしを

無というからすでに有るんです、無というものみな無のレッテルを貼る、もとそんなわけにゃゆかんです。これを知る人いつの世にも一人二人はいるんですか、さて知るということがただこれ日常茶飯を、どんな実智慧よりも真実不虚底抜けなんです。仏の一人二人たしかにいつの浮き世にあります、ぜひ行き合うて下さい、ほかに人生に意義はないんです。あっはっは会いながらにそっぽを向いている罰当たり、情けないですか、あとまた生まれ変わり死に変わりって、そんなおろかなことないです。

   庭前柏樹子
  草木も国土もおなし法の道
  実ありかたきをしへなりけり

常に法の大海にどっぷり浸けです、だからなにもしなくていいんだという、ではほんとうになにもしないで下さい、それができない、不幸これに尽きたるはなし。なんだかだと泳ぎ出しては、かき汚しごみあくた、ろくでもない騒々しい世の中を作る。反省もなければ自覚症状もなし、一人半分庭前の柏樹子の真剣にぶち当たって下さい。人ものみなの救い他にはないんです。まさに反省も自覚症状もなし。

   麻三斤
  仏はととへは答ふる麻三斤
  なにかほとけの名にもれぬへき

何を仏と云っても漏れることはないという、俗物はだからわしらものみな仏なんだ、このまんまでいいという、このまんまじゃさっぱりよくもなんともないのを、一朝事あれば痛烈に知る、いったん破家散宅しなけりゃどうにもならんですか。それゆえに学者坊主ども仏を棚に上げて安楽椅子やってるだけです、大威張りかいています、安楽椅子ってまあそういうもんですか、仏を問うつもりの世間一般もまずはこの類です。夢にも見ないところです、無心という手応えを知る、赤ん坊とお釈迦さまです、音でいえば雷の落ちる如く、色でいえば世界のはて通身これ、目で聞き耳で見るのたとえ、いったいまさにこれを得て下さい。

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2008年8月 6日 (水)

しいどうぶなん

   念仏行者に
  みた仏のちかひのあみはひろけれと
  われからもるる人そはかなき

南阿弥陀仏と唱えるんでしょう、唱えている人と唱えられている物とあるんですか、あるいは唱えるがあって、期待する人がいるんですか、漏れるとはこういうことです。阿弥陀仏という、そういうものがあるんですか、有り難いとはないことですか、誓いとは阿弥陀仏になることですか、それとも阿弥陀仏の云うことを聞くんですか、するとどこかで漏れる、漏れないようにするにはどうしたらいいか、我というものを忘れる以外にないんです、唱名とはほんとうに唱名すれば終わり。

   己身弥陀唯心浄土
  一すちになみあみた仏ととなふれは
  ほとけも見えず身もなかりけり

大きな念珠を十人二十人でつまぐってなむあみだぶつなむあみだぶつと百万回唱えることがあった。忘我に入るんです、これが修行の本来であり、言い訳申し訳ただもううるさったいきりの門徒物知らずじゃなかったはずです。今は禅宗もまったく滅んだと云い条、門徒もだらしなく悪たれです。双方とも焚書坑儒にいいですか、世の中ちったあさっぱりします。

   趙州和尚因僧問云狗子
   還仏性有也無州云無
  無といふもあたら詞のさはりかな
  むともおもはぬときそむとなる

わしらのお寺の新入りさんにはホ−ホケキョと鳴いてみな、蛙のかあでいいからという、鳴ければお経がさまになります、鳴けないとそういうのどだいお経って云わないです。自分という裏腹ありの猿芝居、らごじゃあるまいしってわけです。らごお釈迦さまの息子、転じてお寺の子、世襲になって四代仏とはなんの関わりもなくなったです。あっはっはお寺を不法に乗っ取っているわけですか、出家が邪魔物なんですってさ。座禅という商売道具を、てめえの修行の為にする以ての外。

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2008年8月 5日 (火)

しいどうぶなん

   生死即涅槃
  生死もしらぬ所になをつけて
  ねはんといふもいふはかりなり

生死というんでしょう、生はよし死はわるしといつのまにか決め込んでいる、生死といって楽しい苦しいあざなえる縄の如しと思う、そりゃ暑いときには涼しいがいいんでしょう、病気のときには健康を願う、でもそれ比較検討することなければ、ずいぶん違うんです。死来たれば死がよろしく、地震来たれば地震がよろしくと良寛さんの言葉です、他にはないんです、比較してとやこうあげつらうしかない。涅槃もそうですか、実際の涅槃は出入の周辺に知る、涅槃のとき無心です、箇の無体験ですか、しかもなをなにものにも変えがたいと思うのは、自分という100%いえ200%だからです。生死を知るとは生死そのものじゃないんです、脇見運転ですか、われらはなにものであるか、知るにはほんとうに知って下さい。でなきゃなんのための人生なんです、いつだって嘘偽りを、強いてそれでいいんだ、人なんていつだって悟ってるんだだからなど云っている、つまらんです。

   仏をとふ人に
  世中の人の心のかなしきは
  なきをたつぬる仏なりけり

もとないんですよ、なんにもないのを仏というんです、なんにもないからものみな現ずるんです。実感というおのれが関わらないんです、仏を求めておのれが関わろうとする、哀れはかなし、いっそなんにもいいことがないんです、どうか痛切にこれを知って下さい。

  いかにせんわれらさへしらぬものなれは
  ひとにをしへんことのはもなし

正師と邪師を見分ける方法です、実にはっきりしています、仏は仏としてこうあるきりです、知ったか振りがなにもない人、仏説というもってまわったことをしない、すなわち一目瞭然です、仏をたぶらかすこと不可能です。

   たるまのうへに
  いかにしてこれほとうそをつきぬらん
  さりとてはなきさとりなりしを

悟り終わって悟りなし、これをほんとうに知る人がいかに少ないか、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありというさえに、なにかしらあると思い込む。老師に食ってかかったことがあった、あるあると云うからあると思って来たのに、な−んだなんにもないんじゃないかと、しかもそれまだあったことに気がつく、なにゆえですか老師の苦笑。

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2008年8月 4日 (月)

しいどうぶなん

   生死をとふ人に
  いきて居る物をたしかにしりにけり
  なけとわらへと只なにもなし

生きている実感というんでしょう、自分というものに確かめるものこれ嘘なんです、実感を確かめるものがないとは100%実感です、夢のようです、ほんとうであればあるほどに夢。一年365日夢とはこれです、幼児の記憶がないのはあるいは正にこれです。泣けど笑えど只なにもなし、忘れもしないというのは、どこかに別口があるんです。

  死て後をたしかにおもひしりにけり
  只なにもなしなきものもなし

死んだのちはどうなるかという、生死別段のことなし、まったく変わりのない実感があります、それは自分というものがないからです、ないという担いで帰れじゃない、だから死ぬと同じなんです。これ人間の、いえものみなの生の実感なんです、実感まったくなしのただ、もとのありようです、生死という思い込みを離れること。

   応無所住而生其心
  すみ所なきを心のしるへにて
  そのしなしなにまかせぬるかな

身心脱落というんでしょう、ほんとうにそれが行なわれるさま、観察する自分がないんですよ、一念起こってこれを知る、その間のことまったくないんです。デビットというアメリカ人がいて、投擲の選手であった、あるとき投げ終わってから、始めて投げたことを知る、州のハイスク−ル記録を作った。大学へ入っていったいどういうことかと調べると、どうも東洋の禅らしい、海を渡って日本へやってきた、あっちこっち食わせものの師家に出会い、明きらめずに老師のもとへ来た、面白い男だった、ついに確かめ得て帰る。これがどういうことか、もとこれっきりなんですよ、学者坊主の儲け口なんてないです、人生生死もとこれっきり、哲学宗教詩歌なとみなもとこれっきり、身も蓋もないんです、よくよく知って下さい。

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2008年8月 3日 (日)

しいどうぶなん

   道をしへけるに
  道といふことはにまよふことなかれ
  あさゆふおのかなすわさとしれ

道本元円通、道というただ大手を広げるだけです、道は籬の外にあり、垣根の外にある、なんの変哲もないアスファルトの道ですか、そうかと云って気がつく。道という特別なものはなかったんだ、ただの現実ほこりまるけのでこぼこ道。あるいは自分という、道を追い求めるは、すなわち閉ざされたものです、自分という囲いを外す、垣根をとっぱらう、求めていたものがもとまったくなかったんです、解決済みです、全体はるかに塵芥を絶す、ほこりまるけが信じられぬほどの清々です、清々の埒外です。我が問うは大道なり大道通長安。朝夕おのがなすわざと知れ、閉ざすも閉ざさぬもない、ただこれうち坐る、他にはないことは、他に求めるということしなければもとこれっきり、いいのわるいのないんです、すると無上楽。

   あまたに道を尋ぬる人に
  いろいろのをしへにまよふ法の道
  しらすはもとの物となるへし

知らなきゃもとのおのれきり、はい根も葉もないこれが仏です、仏道というただこれっこっきりです、仏教多種あり、宗派ありする、すべてまったくの間違いです、そんなものに用はないんです。鳥や獣の仏を説いてごらんなさい、山や川に仏教を示してごらんなさい、鳥が逃げて行かず、山川がそっくりにわがものです、清々比較を絶するんです。禅宗も門徒もなくキリストもマホメットも騒がしくうるさったいだけです。絵画も詩歌も別段のことはないです、我ら底無しのすばらしい世界に住んでいます、無心という尽くせども尽くし得ない心です。多数に道を尋ねる貧相ですか、そんなものおぎゃあと生まれて、まったくに余計なお世話。子供は三つまでに親の恩を返すという、ほんとうにそう思います。大人という貧相です、いいえ赤ん坊のほうが大人であったりする、おかしなこれ本末転倒事。

   むなんかつねをとふ人に
  月も月花もむかしのはななから
  みるもののものになりにけるかな

至道無難これです、花は花月は昔の月ながら見る者の物になりにけるかな。はいなり終わって下さい。まったくに夢にも見ぬ世界があります。

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2008年8月 2日 (土)

しいどうぶなん

   ある法師に
  さとりても身より心をしはりなは
  とけさるうちはほんふなりけり

悟っても身より心を縛りなば解けざるうちは凡夫なりけり。おおかたまあこういう師家法師ばかりです。自分で自分を縛る、ちらともけい礙あれば、それにて不自由です、だれ知らずとも自分が知っています、夢にも見ぬ本来があります、自由無礙です、これを得るためにあっはっは釈迦力になって下さい、地位だの名誉だの、仏の為人を説得せねばなど二の次三の次です、なにごとかなすにつけ過つんです。云っていることは同じではないか、正しいではないかという、仏から見ると泥で泥を洗うような間違いです、凡夫でいいではないかという、断じてそんなことはないです。誤魔化したってごまかし切れんです。

   大道のかたきを
  世の中の人のかたきはほかになし
  思ふわか身はわかかたきなり

応無所住而生其心という、身心まったくなきを知る、すると無いという身心があるんですか、まったくないとはものみなです、宇宙全体というときなにかしら宇宙とあるんです。風動幔動という、それを見ている自分があるときに、やっぱり繋げる駒伏せる鼠です、自分が承知しています、とことん納得して下さい。いいわるい、是か非かを云わなくなります、閃電光撃石火、眼流星に似てと古人のいう、打てば響くんですか、一瞬の滞りもない、生まれついての本来人です、仇持ちしていないんですよ。

   物をくるしむ人に
  何事も修行とおもひする人は
  身のくるしみはきえはつるなり

参禅とはまさにこのようにするんです、結果こうあらねばならぬという、たしかにそういうことあります、でももとっこ標準なんです、朝に晩に坐って悟入し悟出する。身の苦しみ心の苦しみ、あるいはこれ生活自体です、あるときよくあるときわるくという、もと標準なしです。自ずからに知るとは、まったく知らぬ自在底です、一生を通じて実にこれ、故郷の山河大地ですか、月を見て忘我あり、星とともに覚悟ありする、ただもうこれっきりとは、もとほんとうにこれっきりなんです。

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2008年8月 1日 (金)

しいどうぶなん

   後は人の師とならん人に
  無一物になりぬるときに何事も
  とかにならぬと見るそかなしき

無一物となりおわる時に、いいですか如来観音さまです、するとおのれを如来とし観音さまだと云うことないんです、成り終わって無一物とは直ちに悲しいだけです。身に科なきは科をも責めず科をなくすることさえ是としないんです、生まれついての本来です、人みな凡俗という妄想という、凡俗だろうが妄想だろうが、だれをも自然のものみなをも傷つけないです。害意敵意は無知による、我がままによる不自由、水の中の氷です。一目瞭然事、忍耐もなく我慢もなく十字街頭です、磔という他に見せしめもないです。無いものは傷つかないという、ただこの道理あるだけです、しかもたった一人なんでしょう、一休の他に一休なく、良寛を知る貞心尼も、君なくば千たび百たびつけりとも十つつ十を百と知らじおや。その絶学無位の閑道人たることを、かつがつに知るんです。ついには如何ともし難し。

   心のおにをとふ人に
  世中の人はしらぬにとかあれは
  わかみをせむるわかこころかな

科あれば我身を責めるという、たいていの人正しくそうです、世の中の人は知らぬに科あれば我身を責むる我が心かな。けだし実感なんでしょう、夫が癌で死ぬのに看病し尽くして身も心もずたずたになって、しかも死んだあとに愛情が足りなかった、行き届かなかったと我身を責める妻。鬼です。どうしたらよいか、忘れるにはどうしたらよいか、坐って下さい、救いがあるかも知れぬと。坐ってなおさら我身を責める、泣きたいだけ泣きなさい、仏さまの警策です、二度と同じ苦しみはない、同じ苦しみもまた変わるんですと。

   われなれはこそじひすると思ひし人に
  つねつねに心にかけてするじひは
  じひのむくひをうけてくるしむ

自他ともになんです、これを知るずいぶん仏に近いです、今の人慈悲というすら知らないんですか、みんな仲良く平和にという、ただもう自己弁護の安穏しかない、そう云いながら極悪のことさらに平気でやる。心以前の問題ばかりですか、成人していない、おむつを替えて貰いながら文句百万だらです、こういう大勢にどうしたらよいか、もしくは社会刑罰の問題ですか、目には目をから習うべしと、我と我が身心にじかに聞く以外にないです、観念有耶無耶の試験問題からまず目覚める。慈悲を心がける人、必ず慈悲を勘定に入れる、しっぺ返しを食うわけです、そうですなあ人間になってからの心配ですか、はいでは心配とはいったいなんです。

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