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2008年7月

2008年7月31日 (木)

しいどうぶなん

   つみをくるしむ人に
  思ふままにこのみにつみをつくらせて
  ちこくの中へつきおとすへし

罪に苦しむ者には罪の底をぶち抜くによし、やってごらんなさい、たとい平凡上等の人も悪いことはしない罪を背負わないという人も、万死に値するなにがなしの一つや二つあります。もし本当に見るならば、断じて許せない、自分を是とはしない、生きられないってことあります、しかも生きています、さあどうするというのが、あるいは参禅です。知らぬまに自分を閉ざす、仏である我れに反する、いえ反することが出来ないんですか、いたずらに七足八足です。面と向き会うこと、地獄の中へ突き落とすことこれ、よくよくおのれというものを見てください、おのれという掌するに、なんの謂れもないんですか、さあぶち抜くによし、いったい誰か、これに答えるものありやなしや。

   出山のしゃかのうへに
  ひたすらに身は死にはてていき残る
  ものを仏と名はつけにけり

智慧を尽くし修行を尽くすんでしょう、あれこれ記述するんじゃないんです、すべては尽くされたり肉は悲しという西欧流じゃないんです、いいことしいの甘え根性ではない、まったくそんなこっちゃないです。一箇半分これをよく看取って下さい、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよきと、月は月花は昔の花ながら見るもののものになりにけるかなと。ヨ−ロッパアメリカにはまだ仏教は伝わっていません、鈴木大拙が大変な苦労の末にその困難を知る、小浜の雪渓老師でさえ或いは届かなかった。どこまで行っても有心なんです、信ずるものは救われる、いいことしいの頭なでなでです、独善です、無心という夢にだも見ない。インドの聖者どもの脳天気な猿芝居ですか、お釈迦さまとは似ても似つかぬ、なんていうんですかこれ、まったくに詐欺なんです。そういうことではないんです、仏というあとにもさきにもたった一つです、道元禅師以来本当に得た人は、そう数多くはいないです。出山の釈迦の辺に、臘八接心にはこれを掛けます、まずもって人類滅亡前に、人の生きたしるしとして得て下さい、有意義とはこれをおいてないです。至道無難正受と継いで、はたして白隠に伝わったかどうか、飯田とう陰老師が只管打坐を復活したです、由来どうにかこうにか伝わっております。

   しらて法をとく法師に
  をのか身のとがをもしらてとく法を
  聞得る人もをなしちくしゃう

学者坊主のだいたいこんなふうとか、本当は知らずとも遠からずなどいうのは、まったく違うんです、仏を説く畜生です。仏を知らず説かぬ人の万増倍も悪いんですか、どうしようもこうしようもないんですよ、水をタ−ルと説く如く、これをあれと云い、奪い取らねばならぬのを、付けたし塗りたくる、そりゃもうとんでもないことです。四苦八苦ひどい目に会わないように。浜砂の一握にも及かぬ正師に会う僥倖、これを大事にして下さい。

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2008年7月30日 (水)

しいどうぶなん

   りんざいののたまひし聞物を
  耳も聞かず心もきかず身も聞かず
  聞くものの聞くをそれと知るへし

臨済です、無位の真人面門に現ず、智慧愚痴般若に通ずと、いったいどこにその無位の真人があるのかと出て来た僧の、胸ぐらひっとらえてこのあほんだれがと突き放す。呆然自失の僧に、傍らの人がなんで礼拝しないんだと云う、この僧礼拝している最中に、はあっと気が付くんです。耳も聞かず心も聞かず身も聞かずです、聞いているという自覚がないんです、自覚のある間は嘘っことです、わかりますか、聞いていると弁える分が余計です。聞くものの聞くをそれと知る、たった一つになり終わる、全世界掌するんです。まさにこういうことがあります、聞くものの聞くということ、学者坊主どものまったく預かり知らぬことです。

   まよひふかき人に
  をのか身にはかさるるをはしらずして
  きつねたぬきをおそれぬるかな

おのれに化かされるのも知らないで、狐狸を恐れる、欲深い人です、欲によって化かされる自分=人間俗物ですか。俗物と云われて仏は俗人であるべきだといって喜んでいる人、愚かな話です。仏と云われたいという欲深いことは、なにからなにまで化かされ、死ぬまでそれが修行していると思い込む。喜劇役者はさらりとしてますが、俗物さえ知らぬという重ったるいんですか。

   草木国土悉皆成仏
  草木も国土もさらになかりけり
  ほとけといふもなほなかりけり

はいこのように修行して下さい、ちらともあれば日々に失い去って下さい、首くくる縄もなし年の暮れ、ほかに仏のありようとてないのです、以無所得故に修菩薩行、ほかは我慢の七転八倒です。あっはっはいつのまにかえらくなっているんですか。

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2008年7月29日 (火)

しいどうぶなん

   法師に
  衣はこくうになりてきれはきる
  坊主のきるははちうくるなり

衣は糞雑衣という、汚物を拭うて捨てたものを拾い集め、縫い合わせて使った、五条衣七条衣九条衣これです。お釈迦さまはじめ仏祖師方の労苦を忍んで大切にした。法を習い法を広める印が衣です、衣を着るとは身心脱落の印、虚空となり終わって初めて仏法僧宝です。ちらともあればそれによって過つ、嘘を付くんです、罪科これに過ぎたるはなし、俗の人罪軽し、法を説く法師まさに重し。責任重大です、心は両刃の刃です、坊主が衣を着る、格好を付けて猿芝居ですか、冬袈裟五十万円からという、罰が当たるという以外になし。

   仏道にちゑをきらふ事を
  人のうへわか身につけていろいろの
  あしきに出つるちゑと知るへし

智慧という本来心です、愚の如く魯の如くただよく相続するを主中の主と名ずくと、般若の智慧はパ−ラミ−タ−彼岸に渡ることです、自ら作為してもってする知恵というのとは違います。人の辺我身につけていろいろの悪知恵もってする、いよいよ仏に遠いばかりです、今の世まさにこの愚直から始めるにいいです、多数決売らんかなですか、あまりに悪知恵ばかりですか、すると自分の足をさらうばかりです。

   りんざいのうへに
  をのれめかはかいのひくとなる事は
  仏祖をころすむくひなりけり

己めが破壊の比丘=僧となることは仏祖を殺す報いなりけり。仏祖を殺すとは、まったく仏祖の影響を受けない人になることです。生まれ本来のおのれに立ち返る、仏祖という虎の威を仮る狐を脱する、先生の云う通りに出来たということではなんにもならぬ、先生をないがしろにすることですか、仏の道のみこれを云う、門より入るものは家珍にあらず、もとあるものにしか用はないんです、仏祖を殺した報いを受けて下さい、人の物差しによらないとは、人の物差しさえ使いえて妙、責任重大です。如来の一言覆すべからず、仏を殺した報い歴然は、たとい業火の燃え盛る如くです。だれの慰めも受けないんです、仏祖の頭なでなでなんてないんですよ、一神教と違うんです、さあどうぞ。

   後世ねかふ人に
  死て後を仏と人やおもふらん
  いきなからなき身をしらすして

生きながらなき身、なんにもないという担いで帰れじゃないんです、なんにもないを知る人、わしは七十年の生涯にあるいはたった三人しか知りません。だのに大小の師家法師ども仏を云々し悟りをあげつらい、死んだ後をまた云う、云うはしからに嘘なんです、どこかで自分もそれを知っている、渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風をいとはず、響きがないんです、はったりばかりの二枚舌。

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2008年7月28日 (月)

しいどうぶなん

心のありようはたった一つ無心です、有心はうそです、間違いなんです。仏といい仏心といって、いかにもそれらしい慈悲であり博愛めかすとき、有心です、わざとした偽物なんです。一神教の神も有心です、事を起こして騒々しいんです、法王の就任演説が妄想にしか聞こえないのは、色即是空を知らない、いらぬお節介だからです。仏神天道という、あるいは世界の三大宗教という、せんずるところは同じ道という、そりゃまったくの俗説です。至道無難のたといみな共通の心だという思想にする、学者というなんにも知らぬ連中の我田引水です。思想の酒に酔うてはならぬことこれ仏戒、なんで至道無難ともあろう人がいろはのいをおろそかにするものか、本を書いてそれが売れりゃ、仏なぞ二の次三の次というみっともなさ、坊主の御布施稼業も同じです。無心を知ることあまりに遠いんです、困ったものです。

  なにもなき心をつねにまもる人は
  みのわさはひはきえはつるなり

なにもなき心とは、担いで帰れという無一物とはまったく違うんです、仏を習う人まずもってこれを知って下さい、学者坊主も布教師も師家と云われる人も、ここがいい加減です、なんにもないということを夢にだも知らんです、なんにもないがあるんです。人の振り見てわが振り直せ、いえ本来の人に出会わぬかぎり、夢にも見ないことと思って下さい、どこまで行こうが身のわざわいです。すなわち相対する人、あるいはものへのわざわいです、なんにもない人になって下さい、らちあかんとはこれ。仏を語ることなかれ。

   念仏行者に
  仏とは何ばかやつかいひそめて
  なもなきものにまよひこそすれ

仏とは何だかだ馬鹿厄介なことを云い出してからに、なんでもないことに足を掬われている。ほんとうにまあ門徒さんの説教は堂に入っている、なんだかだ馬鹿厄介に聞こえる、だのに日常茶飯が解決できないんですか。喫茶去に意味を持たせる禅坊主もそりゃ、目くそ鼻くそですか。一一にこれ他なしです。

   あまりによくふかき人に
  ぼんぷめらあまりにものなほしかりそ
  わが身さへわかものとならぬそよ

我身さえ我がものとならぬこと、欲深いだろうが無欲だろうが、たった一つ我と我が身心我がものにならぬ、それじゃなんにもならんです。どうですかこれ、まずもって他にはなし。大欲とはついにこれ、ただちに小欲すら修習すべしとは、ついにもって銘すべきなり。

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2008年7月27日 (日)

しいどうぶなん

   法をとく法師に
  ころせころせわか身をころせころしはて
  なにもなきとき人のしとなれ

実にこういう人皆無です、仏教というもとありもしないものを知ったか振りして、なにしろ生噛り中途半端でとくとくとして法を説く人。法師というおのれどれだけの悪たれいたずらか思って見るにいいです。宗門の特派布教師という、もはやだれも聞こうとはせぬのに、教区お寺で人数を集めて語呂合わせをする、人畜無害でいいですか、自分で自分の首を締めているだけの。まずは問題の、人も聞き少しは影響力のあるという法師、さあやって来なさい、一目瞭然です、至らぬ分を指摘します、逃げないでお出でなさい、ないものには丸見えです。死んでいない=役に立たないんです。キリスト教の宣教師などとはまったく別なんです、個人個性の入る余地はないです。っでたらめやってないんです。

   道ををしへて
  でくるぼうをまはすは人のまはすなり
  人をまはすは一物もなし

木偶人形をでくるぼうというらしい、あやつり人形を廻すは人、猿回しが大好きな日本人は、木偶人形になって人に廻され、人を木偶人形にして廻して見せる、そりゃ滑稽でおのれをだしにして人を笑わせる分にはいいですか、でもどこかでそんなこっちゃない、無位の真人かくの如しと知るからに成り立つんです。宗門猿芝居法要という法の要はおろか、木偶人形になってただもうちんたか動く、みっともないです、愚かなこともはや人とは云えんです。威儀即仏法というのは無心なんです、省みるなし、省みるおのれがないんです、履き違えてます、仏教のぶ字もないんです。

   坐禅の大事
  せぬときの坐禅を人のしるならば
  なにかほとけのみちへだつらん

坐りもしないで坐ったという、悟りを得たと云う、もしそういうことならばなんの苦労もいらんです、ただの人とほんとうにただの人とそりゃ同じことになります。これを学者も坊主も坐禅を知らず、動中の禅だ、坐禅するときだけが坐禅でないなど、坐禅していないときの坐禅を人が悟れば、仏の道と人との隔てがなくなるなど、いい加減以ての外のことをいう、たとい百万回悟ったとて、坐らにゃそりゃなんにもならんのです、心して書物だの学者だののいうことにたぶらかされんで下さい、まったく近似値にもならんのです。坐らないで悟ったという、あるいはおれは悟っただからという、そうやって異を唱え、迷って山河の箇を隔てること、あっちにもこっちにも転がっています、たとい動中の禅無自覚の覚、なにかちらともあれば業障です、いえ近似値ほど悪いんです。

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2008年7月26日 (土)

しいどうぶなん

   念仏行者に
  となへねばほとけもわれもなかりけり
  それこそそれよなむあみた仏と

念仏なみあむだぶつと唱えねば仏も我もなかりけり、そりゃそうなんです、仏という仏の道と知りこれを求めて止まぬ、なみあむだぶつと唱えれば仏なりという思い込みではなく、唱え唱えてやがて仏になるという、向こうに置いては百年河清を待つ、どこまで行こうが向こうの物は向こうなんです、なみあむだぶつという=仏です、たといおうと云いおうと応ずるも、あるいは応ぜぬも仏、まさにこれを知るたった一つの道です。念仏行者念仏を忘れ、行ずるを忘れ、ものみなぜんたいです、ぜんたいを知る、知らぬ人これ。

   ある人仏をねかひねて夢に見るも起き   ても仏のあたりにゐる心地するといふ   人に
  おもふままになせはなりぬる心にて
  後世ねかふる人そはかなき

後世願うという、あるいは今の人仏を願い、悟りを思うこと寝ても覚めてもですか、あるいは仏となり悟ったという、いっときまたしばらくですか。たった今のおのれ仏にもあらず悟りにもあらず無心にもあらず有心にもあらず、満足にもあらず不満足にもあらず、ただ行きすぎる姿をも見ずです。このとき仏と呼ぶなく、日々新にして、たとい省みることなし、省みるおのれなし、思うままにして下さい坐る200%ですよ。

   ごくらくをねがふ人に
  ごくらくの玉のうてなはほかになし
  いきなから身のうてなをしるへし

極楽の蓮の台という、では蓮の台に坐って下さい、いっときよく清々として次には有耶無耶、なんともどうしようもないという。自分というふしだら問題にならん、今様歌も絵筆も持てない、たとい人間のくずあくたですか、くずあくたも次の一瞬有耶無耶ですか、無心ですか。自分というたとい物差しもあてがう甲斐なし。あっはっは情けなし蓮の台、ほんとうに美しいんですよ、お盆が来ますたった一日だけの花。彼岸に渡る花。

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2008年7月25日 (金)

しいどうぶなん

   じゅしゃに
  主に忠おやには孝をなすものと
  しらてするこそまことなりけれ

儒者に、主に忠親には孝を為すものと知らでするこそ真なりけれ。はいそういうことですたとい忠孝よきことなりと知るには、物差しをあてがって是非に及ぶは最低のこと。面白うもなし。

   直きに見直にきく事を
  主なくて見聞覚知する人を
  いきほとけとはこれをいふなり

物差し杓子定規を外せば人もとこれ仏です、三世の諸仏知らず、狸奴白虎却って知ると、仏あるいは仏教について知る人は、ほんとうは知る分が無知なんです、花のように知らぬこれ200%、虎の威を仮る狐の弁、人間だけがするもの、どうしようもないもの常識と云い、あるいは情識という、従うべきという、それが卑怯未練を知って下さい。

   修行におもむく人に
  身のとがををのか心にしられては
  つみのむくひをいかてのかれん

身の科を己のが心に知られては罪の報いをいかで逃れん。修行とはまさにこれが他にはないんです、今の宗門故に修行なく仏教なく、仏のかけらもないです。猿芝居葬式稼業の無理無体、ただのいじめ僧堂です、こんなものは早くおしまいにすべきです。集団自閉症とマンガにもならぬ為体ですか、身のとがを知って、いかにすべきか、ついにとがなしを知る、これお釈迦さまの道です、もとこれ仏です。本来人これ、触れるだけでがっさり落ちるものは落ちる、仏法僧宝のみあって、即ち修行のみちのりです。

   さとりはならぬといふ人に
  さとらねは仏の縁はきるるなり
  一さいきょうはよみつくすとも

悟らねば仏の縁は切れるんです、たとい一切経は読み尽くすとも。だから門徒などいうのはほとんど仏教じゃないんです、言い訳教ともいうべき、自分という口幅ったいものをもって、救いといい救われるという、嘘とは云わぬまでも持って回って、たいていなんいもならんです。間違うと道にそれてひどい陰惨です、あるいはないにしくはなし。

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2008年7月24日 (木)

しいどうぶなん

   しゐて仏をねかふ人に
  さかさまにあびじごくへはをつるとも
  仏になるとさらにおもふな

阿鼻叫喚という阿鼻地獄無間地獄八熱地獄の一ともいう、もうこれ以上の悲惨はないんですか、坐っていると気違いになるかも知れない、もう恐いどうしようもないってことあります、そういうときこそ一歩を進めるんです。狂うんなら狂え死ぬんなら死ねと、自分というたがが外れます、自分という思い込み、自分という架空が失せればもと仏、空の空なるかな、そうしてもって、自由の分ありとは、あらためて仏のたがをはめ込むことじゃないんです。

   大道のもとをとふ人に
  おもはねはおもはぬ物もなかりけり
  おもへはおもふものとなりけり

思わねば思わぬ物もなかりけり思えば思うものとなりけり
これ無心にしていれば無心ということすらなくなるなんていう、学者の愚をしちゃだめです、無心なんてものあるわけはないんです。無心心の無いことを知る、お坐なりじゃどうにもこうにもなんです、思わぬことができるか、ではやってごらんなさい、たしかにできますよ、ただじゃあただにならんですよ、どうあったって思い込み決め込み人形をする、どこまで行こうがこれです。さあどうするという、命がけの問題です、さあやって下さい、学者布教師坊主どもが逆立ちしたって、届かぬものです。初発心の問題ですか、法を得て一旗上げようという、すると思えば思うものでしかないんです。ひとまず人間を去って下さい。

   大道聞得て行はぬ人に
  とく法に心のはなはひらけとも
  そのみとなれる人はまれなり

説く法に心の花は開けどもその実となれる人は稀なり
法を得たという人、たしかにこれ我がこと他にはなかったと知る人、あっちこっちいます、得たというそれっきりになってしまう、仏はこうだからこうだという、天才だというものみなかくの如くあるという、それは未だ認知の辺のことなんです。色即是空の色なんですよ、知らぬ人になって下さい、元の木阿弥です、虚空なんの取り柄もなし、わずかに鼻先頭のてっぺんで仏と云っている、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。日夜に弁道して怠らざること、心の花という実という雲泥の違いをどうか知って下さい、相手は人間だけじゃないんです、とんぼも雀も空の雲も仏ですよ、ものみな各仏とは云わないんです、却ってまったく自覚症状なしは地球宇宙これ。

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2008年7月23日 (水)

しいどうぶなん

   ゆめをとふ人に
  ねてもゆめをきても夢の世中を
  ゆめとしらねはゆめはさめけり

寝ても夢起きても夢の世の中を夢と知らねば夢は覚めけり
どういうことかわかりますか、人生五十年難波のことは夢のまた夢と、死ぬ時には人生もまた夢ですか。生きながらの平常心一年三百六十五日夢ですか、では夢が覚めたらいったい何ものなんですか。女子中学生が父親を刺したという、夢であればよかったと痛烈に思うんですか、刺している即夢なんですか、現実であればあるほど夢という、どうぞお答え下さい。
   あまた人をつかふに
  心得しみちにつかへはつかふ人の
  あやまることはつねになきなり

イチロ−にバッテイングをやらせればあやまることはないかというに、三割超えているあれほとんどあやまりがないんです、人力人知の究極みたいな所があります。たいていの仕事はもっと平常です、適材適所に人を使えばよし、仏の道は常に100%いえ200%当たるんですよ、一目瞭然木人まさに歌い石女立って舞う、むしろ思慮を入れんやとこれ、ものみな思いの他の事実です。

   もののふの道をたしなむ人に
  いきしにをのかれはてすはもののふの
  みちもかならすあやまるとしれ

生き死にを逃れはてずは武士の
道も必ず過ると知れ
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとはこれもののふの道、はがくれですか、老師を剣道七段が切ろうとして切れなかった、隙がないというんです、老師の云く、なに切りゃ切れるんですとさ、あっはっは。

   とせいをくるしむ人に
  世の中はふくべのしりになまずのを
  をすがごとくにわたるべらなり

瓢箪鯰です、瓢箪に鯰を捕えるようにするがよかろうという、各人どういうことかお考え下さい。今の人西欧式の論文等却って至らず隙だらけ、人為のものは届かずを知るによし、関係ないんですか、もっとも精確な論文は芭蕉の俳句、もっとも正当な評論は兼好法師のつれつれ草ですか、ともに人間としてのぎりぎりをさらに一歩超えて、優しく弁えがあります、あっはっは、仏として舌を巻いてばっかりはいられんです。

   仏道ありかたしといふ人に
  ものことに心とむなととくのりの
  法にこころをとむる人かな

物事に心留むなと解く法の
法に心を留むる人かな
はいこの公案を透過して下さい、わずかに自由の分があります。たとい坐はここからに始まりですか、仏仏を知らず、長長出させて下さい。

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2008年7月22日 (火)

しいどうぶなん

一 出家は、内外打成一片とて、かたちのすくやかなるをいふなり。ひっきょう死人のいきかへることくなるを云ふ。死人は物をほしからず、人にこひせず、人をきらはず、大道成就して、人の是非をよく知り、その人をすすめて仏道にいたらするをいふなり。

一 世中の人のならひとして、めなれぬ物をねかふ。大道つとめて平常無事なる人、その道々によろしくすなほなるをきらふ。

一 ある人、平常大道つとめやうをとふに、いはく、凡夫即仏、ほとけとほんふともと一たいなり。しるを以て凡夫、しらさるを以てほとけと云ふなり。

出家は内外打成一片と、なにはなんたってこれをやらねば駄目です、心は内万物は外、心も万物も一つと考えてと、仏教学者は云う、主観と客観の対立をなくして云々、そういうこったでは百万年無駄骨折りです。学者布教師というのは奇妙なもので、知ってさえいれば役に立つと思う、つまりありがたやの銭金になるんですか、それじゃ反対なんです、そう云っている自分を木端微塵にしなけりゃ、入り口にも立てないです。でたらめめっちゃくちゃ、どうにもこうにもならんいくたび死ぬか生きるかして、はじめてなにかしら坐になるんです。自分はかくしてこうある、八正道だ正修行だやってるうちは、まるっきりものにならんです。老師はこういう、そのとおりやっているはずがさっぱりです、老師はないという、あると聞こえ四苦八苦、あるときどうにかせにゃならんの手が離れるんですか、ほうっとこう歩いている、どうなったんだこれは、自分というたがが外れて内も外もない、風景が風景を行く、へんだようという、そうか老師の云うことは正しかったんだと、ようやくに気がつく。すると坐が坐になっている、かすっともかすらない、太虚の洞然としてという、死人のよみがえる如くという、大死一番大活現成ですか、いったん死んだら二度と生き返らないんです、間違えちゃいかんですよ。踏ん反り返る師家なにがしですか、死人は物を欲しがらず、人に恋せず、人を嫌わずです、大道成就するとは彼岸に渡り切るんです。般若波羅蜜多ぱ−らみ−た−智慧とはこれ、おのれという身心まったくなきがゆえに、おのれなけりゃ人ものみなのありよう、鏡に映る如くです。汝これ彼にあらず、彼まさにこれ汝、同時というは不違なり、人間の如来は人間に同ぜるが如しです、宝鏡三枚これです、他をして仏道にいたらしめるのは、世の中仏道しかないからです。

人は目慣れぬ物を願う、お寺でストリップでもやりゃあテレビが取材に来る、坐禅修行をしてもそりゃ来ないです、珍しいことは売れる。求道心のない坊主なんて、ただのナンセンス、ところが坐禅を売り物にすると、人が寄る、嘘であり危険なんですか、世の中そういうことは問わないんでしょう。でもこれ平常無事しかないんです、雲が浮かび花が咲くごとく、宇宙のなりわいそのものです、仏は素直です。ものみな仏しかないんです。

凡夫も仏もまったく同じです、凡夫は悟りを云い迷いを云う、あるいはそんなものはいらないんだという。仏は悟りも迷いも知らず、要不要を問わないんです。知らぬが仏、は−いまったくこの意を凡夫は知らないんです、うっふっふ知っているんですか。そりゃ始末に悪いです。

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2008年7月21日 (月)

しいどうぶなん

一 人はかり、かしこからぬものはあらし。行住坐臥、くるしみかなしみ、むかしを忍び、しらぬ行末をなけき、ねたみそねみ、をのれを立ててもの思ふ、かなしみながら世にからめらるる。此世一生は、とやかくと過ぎぬへし。来来世世、生をかへかへてくるしめとも、捨つる事ならず。まことにまよひのふかきなり。
  じごくがきちくしゃうしゅらは世の中の
  ぼんぷのつねのすみかなりけり

一 仏の教のそのまますなほなるをうけて、じきに万物を放下して、如如の体になりて、大安楽をうくる事、更に別にあらず、身をおもふとおもはぬとの二つ也。此をしへも実にとおもふ人はあれとも、つとめて我物にする人かたし。
  本物の物となりたるしるしには
  をかす事なきみのとかとしれ

人ばかり賢こからぬものなしと、行住坐臥いつだって納まるということなし、いてもたってもいられないんです。苦しみ悲しみ、昔を忍び、知らぬ行く末を嘆き、妬み嫉み、なにしろおのれを立てて物を思う。嘆き悲しみながら世に搦め取られる、世の中に束縛されて、にっちもさっちも行かないんです、そんなことはない、自由で平等だ民主主義だという、どうも関係がないです、主義主張もです、いいことをしているから、信仰があるから、多数決だからという、まったく関係がないです。苦しみ悲しみ云々です、ないものまでこさえ立ててやっています、なんで鳥や獣のように、花や草木のように行かぬのか、おのれを立てて物を思う故にと、これを知るさえ難問なんですか、すべては自分なければ解消するという、では自分というそれが間違いだ、自分あるかぎり七転八倒、もうこりごりだといいながらに捨てられぬ。捨てる方法を知らない、せっかく坐禅をしながら、捨てずに得ようとする、それなんです、捨てろ取り去れといえば却ってしがみつく、そうして必ず前よりはちっとはましになったと云っている、そういう自分を後生大事なんです。生まれ変わり死に変わりしても同じ、迷いの深いことどうにもこうにもです、少しは思い当たること、仏の事始めです。もう今生の地獄餓鬼修羅畜生人間天上六道輪廻たらいまわしはごめんこうむると、通身に思い当たって下さい、自分をよりよくする、仏たらしむるんじゃないんです、そういうなんとかしようの自分をなげうつんです、ことは一瞬です、簡単なんです。
  地獄餓鬼畜生修羅は世の中の
  凡夫の常の住処なりけり

なんとしても抜け出して下さい。

仏の教えそのままを素直に受けて、万物を放下する、生まれ本来の無一物中無尽蔵に返るんです。ものみなわがものにあらずと知るときに、我れというこの身心も我がものにあらず、如如の体になる、如如をありのまんまという、ありのまんまなんてあるわけはない、仏教学者は如如ををまったく知らない、なんにもないはなんにもないんです。無心とは心が無いと読む、大安楽はちらともあれば不成立です、坐禅して仏とならずは、そりゃただの無駄骨折りです。世間知我欲のちらともあれば、涅槃ニ−ルバ−ナは現成しないんです、人々よくよく心して下さい。一瞬もこれありさえすれば、他人の百生をも救い得る、他人の百生がまるっきり障りにならんのです。ありのまんまなどお茶を濁したとて、なんの答えも出ないんです、答えの出ないのが正解だなど、見たふう聞いたふうを振り回す、百害あって一利なし。
  本来の物となりたる印には
  犯す事なき身の科と知れ
なにをどう犯そうたって犯されんのです、これを身の科を犯すことが無くなる物と知れ、と訳すのは間違いです、さあよく見て下さい。印下とは自ずからにです。どうぶったったこうが何しようがです。

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2008年7月20日 (日)

しいどうぶなん

一 ある友にいさなはれて、黒谷を過ぎ、清水のかたへおもむきしに、ひだりにほそき道あり、行きて見れば、かきまはらなるに、柴の戸ほそをおしひらきてみれは、をくにあれたるゆかのあたりは、ちりにうもれ、すたれにむくらしけり、あさけのけふりたえたえに、あかたなかたぶき、かうはなをたむくるにもあらず、仏とおほしくて、御手あしもかけそんし、それとも見わかず、仏となふる声うちしはがれ、よはひ五十にもやあまり侍らん、けたかく、いにしへよしある人のなれるはてとおほしきがひとり居て、いつくよりととひしに、このあたり過ぎかてにゆかしく思ひ、此草庵にたつねたるも、縁ふかきなるへし、いろいろものかたりなとし、いにしへ今の人のうへ、よしあしにつけて、とさまかうさまにほむるもそしるも、ともに世にとどまらず、ついのわかれをなげきて、みたのなをとなへ、ゆふへのかねを聞きて、けふもいのちつれなくいけるよとおもひけるとかたりけれは、ふとあはれもよほされて、
 世の中をおもひはなれてきくときは、
 いりあひのかねははまのまつかぜ

かきまはら、垣根もおそまつにまばらに、柴の戸を押し開いてみれば、奥に見える床は塵に埋もれ、簾はむぐら、よもぎややえむぐらに生い茂り、朝食の煙もあったりなかったりする、閼伽棚という水を通して桶に溜めるんですか、これも傾いたまんま、香や花を供えるにもあらず、仏らしいものが、手足も欠けてそれともわからず、念仏を唱える、五十あまりの人が、気高くむかしは身分のある人に相違なく、たった一人で住んでいた。どこからおいでなさったかと尋ねられて、この辺りを過ぎがてに、床しく思いこの草庵をお訪ねましたと云って、これもご縁といろいろ物語して、むかしの人や今の人や、よしあしにつけ、あれこれ誉め謗り、おたがいいつまで浮き世に留まるわけもなく、終いの別れを嘆いて、弥陀の名をとなえ、夕の鐘を聞いて、今日も命つれなく生きるよと云う、ふと哀れに思いて詠む、
  世の中を思ひ離れて聞くならば、
  入相の鐘は浜の松風

どうですかむかしの人のこのような暮らし振り、情けないみっともないと思いますか、まずは世のため人のためですか、なにかしら意味合いを見つけたい今の世ですか。わしはさっぱりそうは思わんです、かえってむかしの人のがっしりして撓みある心を思うです、情けない世間お騒がせなどしない、自殺もしないです、かつかつ食らうばかりに、おのれを失わないんです。しかも世の中を離れることあれば、自由自在の天地ありと示す、哀れきわまりなしの夕の鐘も、浜の松風です、虫けら一匹の生きる死ぬになんのけれん未練もあるか、月は月日は日です、今日の次は明日あっはっはまあそういうこってす。

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2008年7月19日 (土)

しいどうぶなん

一 此道にあたる事、つよきあり、よわき有り。予わかきとき、つよくあたれり。ある時孔子のことはを見るに、天下国家をもじたひすへし、しゃくろくをもじたひすへし、やいはをもふみおとすへし、中庸は用かたしと云へり。我思ふに、まことなるかな、大道あたりよはくしては、我身のあくを何としてか去つくすへきや。

一 大きにほつしんして山にいらんとおもへる人にいはく、ありかたき御心さしなり。おこたりたまふな。たとへ山のをくなれはとて、うき世のほかならす。もとの心をはなれすは、住所かへたるはかりにて侍らんといひてよめる、
  心よりほかに入るへき山もなし
  しらぬ所をかくれかにして

この道に当たること強きありと、出家求道のこと何よりも第一にする、今でもわしはそうです、なんにもならずは元の木阿弥を思うにしろ、如来現じ如来滅する他に、思想という信ずべき筋合いはないです。生活も社会もほかなにもかも二の次三の次です、愛だの平和博愛だの余慶なことは考えんです、ただこれを本来本当にすること、天下国家も辞退すべき、爵禄も問題じゃない、刃もあるいは踏み落とすべしと、命より大切なものです。中庸という中道ですか、真実を知るほかにはなし、これをないがしろにしたら、一人の人生も他人の百生もないです。無明黒闇のたった一つの光明です、まずもっておのれを照らすことは、断じて以てするほかないです、いいかげん妥協の産物じゃそりゃ、仏の道に入るべきじゃないです。

大いに発心して山に篭もって修行しようという、ありがたいことじゃ、たいしたもんだ怠りたもうなと、しかも一首をはなむけするんです、こりゃ心の問題です、もと山も都会もないはず、住所を変えてそれでもって事足りたら、云う甲斐もなし。
  心より他に入るべき山もなし
  知らぬ所を隠れ家にして
ちゃんと真正面に目を向けてごらん、それではたして是か否か。おむつを替えて貰って文句百万だらの新成人ですか、現代風俗にしちゃ云う甲斐もなし、ちっとは人間の姿を。

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しいどうぶなん

物に熟する、習熟するという、参禅ものみなこれです、忘れ去って行くほどに身に就く、投げ打って投げうって行くんです、ただもう坐る。なかなかそやつがただにならない、必ず損得勘定です、得たか得ないかとやる、苦労が実を結ぶのを願う、つまりこれあるうちは中途半端です、ただの人にならんです。せっかく大苦労の末に、ほんとにまあさんざくたをもっての故に、みな人の得がてにすとふうずみこ得たりですか、有頂天ですか、だからただの人にならんのです。大苦労のはてに元の木阿弥、なんにもならんは、およそだれも相手にしてくれないんですか、無理解あるいは敬遠のまっただ中です。無一物中無尽蔵、花あり月あり楼台ありという、たった一人まさにこれを知る、あほうの口なし、ぽけえとなんにもならんことは、たとい寒山拾得ですか、お仲間の一人でも欲しいんですか。淋しいたってそりゃ愚痴るなんてわけにゃ行かんですが、大丈夫かつかつ平仄もない詩でもひっかくですか。それもよし、慈悲という、わしにはさっぱりその心なし、あばずれほうけの、檀家にはなるたけ会いたくない、坊主組合見るもおぞましく、右を向いても左を向いても、猫またの世の中、鳥や草木や虫けらなんぞと、けっこう仲良く過ごしています。あいつら半分受け入れるってふうですか、閉じ込められた鬼やんまが、戸を開けるのを待ってだだをこねていたり、烏がなんのよしみかくそをひったりする、ふわあごめんだ、これ当分付き合わんなどでたらめ、あっはっはたいてい人はわしを避けるな。

 慈悲はみな菩薩のなせるわざなれば、
 身の禍の如何であるべき

は−いわしは被害妄想でびくついて暮らしていたり、うふ一呼吸二呼吸の間に忘れ去る特技がありますが、そりゃまひでえめに会いっぱなしは、身から出た錆のさ。

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2008年7月17日 (木)

しいどうぶなん

一 大道行ふ人は何をもよく心得んといへり。予云、万法のもとなり。そのもとをしりて、わが家の法をたつる事なり。法師はほとけのほかは心得ぬもの也といへとも、くちなる人は、聞得る事なし。たとへは侍の道、我が家々の事なれとも、あまたはしる事かたかるへしといへとも、聞えぬ。あさまし。

大道という仏の道を知れば、すべてが解かるというのは、仏にならぬ人の想定ですか、そうあるべきという、ではオ−ルマイテイですか、元を知る、仏の道の他にはなんにも知らんというのがほんとうですか。わしはこの事の他なんにも知らんですと、テレビで老師が云って、まことに爽やかな思いがしたです、駒沢学者の大威張り、きらきらしいのとは似ても似つかぬ。すべてを捨てると、人間という自分という色気なしに物を見る、世間習熟の法とは反対ですか、さむらいの道とは他にさぶらう道ですか、すると却って物が見えるのが禍しますか、一目瞭然事、相対する以前に答えが出ています、愚かな人の、鏡におのれの姿を映し見る、あまたこれのあさましさ。

一 つねに逢ふ事ならぬ女に法語を書きてやる。
 一 人は家を作りて居す。仏は人の身をやどとす。家のうちに亭主つねに居所あり。ほとけは人の心にすむなり。
 一 じひにものことやはらかなれは、心明なり。心明なれは、仏あらはるるなり。
 一 心を明にせんとおもはば坐禅して如来にちかすくへし。
 一 くふうしてわが身のあくを如来にさらせよ。かくのことくつとむる事たしかなれは、仏になる事、うたかひなし。
 年月日を書きてをくる。

ものごとやわらかという、めくじら立てないという、みなまた掌にあり、子宮とおのれと宇宙全体と、心明とは、心というあるいは体という、わがものにするなしをいう。如来ただここにこうあり、来たる如くです、花のように挨拶して下さい、そうして息付きする、ほかにまったく浮き世に用事はないんです、如来という如去という、女というんですか、それそのもの、仏というてまったくに仏です。

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2008年7月16日 (水)

しいどうぶなん

一 予が弟子に。いろいろ工夫とて、むつかしき事をこのむや。平常はみな仏、直に見、直に聞く。臨済禅師は、聴法無依の道人有り、無依をさとれはほとけも又無得とのたまへり。六祖大師は、応無所住而生其心を聞召して、さとりをひらきたまへり。

一 世の末になるといふ事、知る人まれなり。
釈迦如来の法、二千六百年余になり、日本にわたりて千年に及て、ことことくすたるにつけて、慥にしれり。万物のすたる本は、我智なり。智あるもの、大かた信すくなし。万事のもとは信なり。信のすたるもとは智なり。此智より何のみちもすたれり。是を世の末といひなり。大道はつとめてつとめぬ所にいたるはつよし。大かた、師の道をわがものにしてつとむるもの、まれなり。

いろいろ工夫して難しいことを好むとは、無門関逐一する、碧巌祿百則など、あたかもそれが仏の道だと思うには、なにかしら技術的に、あるいは心という剣術何段のような、物として他にひけらかす間接手段です。直かに我れと我が身心を持ちうるさえ覚束ない、といって元他にはないのに、そんなすっ裸は恥ずかしくって、恐くってできないという、本末転倒事ここに極まれりです。ただおのれ身心という、すなおに他なきものを、仏教という別ものに交換するんですか、でなきゃ世間体がない、飯食って行けない、なんというただもうそれです。弟子にあるいは他愛ない女にでも、法を説くと、必ず知ったか振り知識をもって答える、禅坊主は嫌いだの、あるいは変な心理学ですか、いずれてめえのよしあし、利害得失をもってしかしない。これを切るには呆然です、ほったらかすしかできない。聴法無依の道人となるべく、大力量ですか、知らぬから聞くはずが、知っているなにがなしに寸法を会わせる、すこぶるつき頭の悪いことを、却って智慧と呼び、すなわち筆記用具の足しにする、これじゃさっぱり応無所住而生其心にならんです、どこへ行こうがてめえの家を拵えて便宜に住む、悟りにも仏にもならんです。

世の末になるということ、わしの後には仏教なしということ、よくよく知る。
万物のすたれるもとは、我智なりと、自分を振り回す判断智慧です、まずもってこれが不備を知る、まったくの欠陥車を知ることが真っ先です。そういう人皆無です、たとい如来の言あったとて、それをあげつらいもって回ること百万だら、これを是とする、なんにもならん混乱と自己満足風ですか、答えにもならんのを得々とする、滑稽自堕落です、ほんとうの智慧が晦まされている、各人これを知るをもって、文明の夜明けなんです。我智無明黒闇です、何の道もすたれます、中小企業の習熟のすばらしさは、そりゃ我智によらんところです、日本の支えです、物がわかったってそれだけじゃなんにもならぬことを知って下さい。ものみな信によって成り立つ、鳥の飛ぶのも雲の浮かぶのもです、水を飲むさえ飯を炊くさえ信です。信仰という以て回ったものじゃないんです、ただこれ無心です、あるとも云わずないとも云わず、恁麼ただこれです。大道はつとめてつとめぬ所に至る、臣は君に奉し子は父に順ずと、まさにただ他にはないんです。

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2008年7月15日 (火)

しいどうぶなん

一 ある人大乗をとふ。予いはく、身をたたしくして、守る事なきを、大乗といふ。

一、最上乗をとふ。予いはく、身をほしきままにして、守る事なきをいふ。故に大事なり。かるがゆへに世にまれなるもの也。

ある人大乗を問う、大乗とは何か、身を正しくして守ることなきを大乗と云う、すばらしいです至道無難万歳、歴史上にそう何人もいないんですよ、しかもただの人。人の本来です、雪月花と同じ、地球のお仲間入りを果たした数少ない人。身をただしくしてとは、もってまわる所がないんです、真実はこうであるらしいが世間付和雷同、ものみなこうあるからこうあるべしなどいう、自分を売る卑怯未練がないんです。まったく今の人れっきとした大人から、若い元気もあるはずが、みなこれです、どうしようもこうしようもない、一民族滅びの過程ですか。そりゃそれでいい、一箇仏として生まれたら仏たるべし、それ以外になんの生き甲斐もないはず、人類滅びようが、花は花のように咲き、月は押し照る他になし、まっすぐあとさきなしです。しかも身を守ろう、心を正しくなどいういらんことをしないんです、自分といういらん囲いをしない、捨て去ってのみ本来です。これ捨身施虎仏の本来、無上楽と生まれてこれを知る即ち大乗です、知るとはまるっきり知らんのです。はいどうぞ。

最上乗という、これを得られねばついにこれを求める、身をほしいままにして守ることなき、坐禅はすなわちこれなんです、坐ってまさにこれ、自分こうあるべき、こうしちゃならんと徒らにする、それが失せるときに、菩提さった無上乗、知らぬが仏のニ−ルバ−ナです。たとい古来稀なり、微妙幽玄ちらともあれば至らずあれども、朝に晩に坐って下さい。平和博愛宗教だのサミットだの無駄こと云わぬ人生です。どうぞ行じ尽くして下さい、たった一つの威儀です、浮き世の縁尽きて、さっさとおさらばにいいです、如来現じ如来滅す、他には地球宇宙な−んもないです。

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2008年7月14日 (月)

しいどうぶなん

一 大道に入る人、たしかなる師にあはず、いろをくるしみ、宝をこのむをくるしむ、大きなるあやまりなり。大道を心かけん人は、万法のあくはみな身のなすわさとして、天外地外、古今未来、へだてなきものあり、これをよくしりて、その一をまもれは、をのつから身の業つきて清浄になること、うたかひなし。

一 人と生れては仏道つとむへし。外にあらず、その人に応してよきは、みなその身の仏のするわさなり。

大道他にはないたった一つのこの道です、大道長安に通ず、如何なるかこれ道、道は籬の外にあり、自分という囲う垣根を取っ払う、もとないものなんです、自分という架空をもって事に当たる、一切苦厄の根本原因です。確かなる師に会わぬ時は、大道を外に見る、別に示すんです、色の道はかくの如し、よくないいけないという、色即是空だからなにをどうせい、悟れば分かる、悟らぬは業深き故にとなず。自分知らなければ、あれこれ示すんです、知るゆえに示すんですか、知らぬが仏とは、即今即今、たった今のただこれです。宝を好むを苦しみという、だからおれはだめだなんのかんのと縛るんです、すると却ってかたくなです。そうではない自ずから手放すのは、却って宝を宝と知るんですか、美しい珍奇な蝶を見て、我を忘れてすばらしいんです、しかも我が物にあらずを知る、蝶は大空に舞い飛んで行くんです、するとものみな我が物、空という何一つ欠けたるものがないんです。この世の中たった一人であっても十二分です、良寛さんを理解した人ほんの一箇半分ですか、子供らと遊ぶ春日の暮れずともよし、自ずからなる無心非所有の世界です、なんでも手にとっておらあがんと記す。一を守ること忘我、ただこれのまったく他にはなし、こうあるべきこうすべきの延長上にはないんです。師に会うことは会うています、他なしにまっしぐらです。

人と生まれては仏道つとむべし、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり、もとこれを習う、身の仏これを助けおのずからに成ずる他なしを知り行く。

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2008年7月13日 (日)

しいどうぶなん

一 をのれがさほうみだるるとき、天よりかならずばちをうくる也。天下のぬしは、天下即家なり。国主は国即家なり。大小によらず、家の中の悪事は、あるしのとが也。天災をうくるなり。

一 清浄心はことはれるものなり。清浄もなくなりし処は、われならではしらぬなり。我しるうちは悪し。しらぬ所のしらぬに有。

一 さとりは念を滅却するを云ふ。念を以て身をなす。さとれば、いきなから身なし。

おのれが作法という、人みなに云うおのれが作法じゃないんです、それを云えばたいていの人作法乱れよこしまにして、その報いを受ける、天より必ず罰を受けます。悟ろう仏を知ろう、ほんとうに元へ帰ろう、帰家穏座しようという、まさにこれが原動力ですか、このままではどうにもならんと知る、天罰覿面を知るんです。そういう一00人のうちの一人ですか、たいていは天罰覿面もお茶を濁し、傍迷惑おのれ不健康不都合のまんま、棺桶へ入る様子です。人を見ればかくの如し、よって件の如しという、みんなで渡れば恐くない、現代という赤信号ですか。家の中の悪事は主の科なり、痛烈無比にまさに思う心が欲しいです。一人天災を受けねばぜんたい大天災を受ける、道徳の低下というより、もう少し根元的な問題です。大分の教育委員会どもよりも、葬式稼業の坊主よりも、まずもっておのれは如何にの問題です。みんな仲良く平和にという、いったいなんでそんなことを云う、自他をごまかす根本原因いかに、ただもう楽をしていたい、差別用語にひっかからない方法をという、自分で自分の首を締めているだけの、みっともなさ。

清浄心という、ことわりなんです、理屈でありことわるんです、もとそんなタガを填める必要はない、広大無辺です、せせこましいんです。清浄心という、心のめりはり緊張も実に欲しい世の中ですが、仏を志す人一歩抜きん出て下さい。清浄を狙って、清浄のなくなるときに、これを知るはおのれのみ。清浄という物差しがなくなれば、誰に云うわけにも行かず、おのれに納得させることも不可能です。なをかつこれを知る、境地という微塵もないんです。仏の姿悟りの境地という、学者の扱う便宜が失せてはじめておのれです。自由の分があります、我知るうちは悪しと、どこまで行っても知るしか能のない人、百ぺん生まれ変わって来て下さい、知らぬ所の知らぬに有り、これまさに仏、もと生まれついての地球の一員です。人間を脱し去ってはじめて人間。

悟りは念を滅却するを云う、これが大問題なんです、どこまで行っても、馬の夜目の如く、虎の欠けたるに似たりやってます。たといどんなに苦労したろうが、透過して下さい、でないと使い物にならんです。人の云いなりになっている、独坐大雄峰ができない、念を以て身をなす、はいこれが標準です。生きながら身なしということが、必ずあるんです、そうして初めて生活です、日々新に行くんです。みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ。

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2008年7月12日 (土)

しいどうぶなん

一 念のふかきはちくしゃう、念のうすくは人、念のなきはほとけ。

一 人はおろかなるものかな。法師のをしへて、念仏となへよ、ほとけになるといへは、尤もと請けて、念仏となへし人のみありて、そのほとけはいかやうなるものそととふ人なし。

念という思想哲学という、神を信ずるという、いずれ畜生なんです、固執して他に譲らず、同じ羽根の仲間を求めて、くじらとるなグリ−ンピ−スですか、これ畜生の七転八倒、傍迷惑どうしようもない独り善がりです、一神教というたいてい二千年来続いたこれ、その功罪をというより害悪甚だを、そろっと顧みるべきです。愛という平和博愛という、ちくしょうの戯れですか、魔女裁判に十字軍にと、ポルポト派に北朝鮮ですか、たいてい同じことの繰り返しのような気がします。念のうすきは人ということをまずもって知る、仏は念なしをもって、はじめて地球のお仲間入りです。西欧社会に仏教が行かないのは、風俗習慣の別ではなく、それをも含めた根本的な過ちがあります。無宗教がいいということではないです、無宗教は雑念です、今の日本人のほうが、なんたってこりゃもうろくでもないものの代表みたいな、つけを払わされているわけですが。空白世紀というには、あっはっはお先真暗ですか。

人は愚かなるものかな、念仏をとなえて仏になるという、座禅をして悟るという、だれかれ仏とは何かを問わず、悟りとは何かを問わず、悟った、無門関を卒業した、だからどうのとまるっきり仏というより、仏をひけらかす俗物です。俗物というと喜んだりする、なんという無様。だれかれ仏なし、修行という以て回っただけの無駄な時間を費やして、自分という目の子勘定に入れる、もってのほかというより、これなんぞ。坊主と同じに仏教のブの字も知らんです、ただもう情けないんですか。たった一度の人生です、真面目これなんぞ。

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2008年7月 8日 (火)

しいどうぶなん

一 をのれを以て人を見るものなり。愚人の見るはをそろし。をのれに利欲あれば、人をも其心を以て見る也。色ふかきは色を以て見る也。聖賢の人にあらされは、見る事あやうし。大道人ありても、みしる人まれなり。いたつらにすたれり。かしこき人は、をのれにあはぬを、其人のしなをわけて、其人の心得をつかふ。その人すたらす。かりにもものの大将たらん人、心得あるへし。

一 ものをよせつけぬ事はやすし。もののよりつかぬ事はなりかたし。

一 たとへは火はものをこがす、水はものをうるほす。火は物をこがすと、其火はしらず、水は物をうるほすと、其水はしらず。ほとけはじひして、じひをしらず。

おのれを以て人を見るものなり、愚人はおそろしと、無心の人いやというほどに味あわされる、ヤフ−も2チャンネルも、ただもう自分のありようを人に貼り付けるだけですか、おのれに利欲あれば、人をも利欲もって見、色ふかきは色をもって見る、今の人事のほか浅薄で、ほとんど人格の形成がないんですか、おむつを代えて貰いながら、文句百万だら、なんにもしないで云うことだけはという、そりゃなんにもしなければ、なにを云っても同じです、これが自覚症状のないことがいちばん問題ですか。聖賢にあらざればという、自分というフィルタ−を通してしか、人は見ない、フィルタ−失せてなんにもないただの人を無心、心が無いんです、これを聖賢という。すなわち見ることあやうし、危険なんです、おのれの得手勝手にしか見ない。サミットだろうが大統領だろうが経済家だろうが、まずはそれです、国の利益がかかってはなをさらです、言い訳申し訳うまければ、なんとか間に合うという御都合主義は、一神教のお国柄ですか、あっはっはなにしろたまったもんじゃないです。賢き人は人の心得をわけて、その人の心得を使う、その人すたらずと、これ大人なり、ものの大将ならんと、はいまさにそのとおりです。肝に銘じてといって、すぐ忘れてしまうから、わしは大人ってわけには到底いかんです。わっはっは、しょっちゅう腹立てていますか、どうしようもないですね。

ものをよせつけぬことはやすし、めんどうだから口聞かぬ、もののよりつかぬ事はなりがたし、そうねえたいていだれもよりつかんです、しょうがないです、はい。

ほとけは慈悲して慈悲を知らず、知ったらぶっ転ぶんです。花のようにおのれを知らぬ人、ただこれ正解。万物またかくの如し。平和なる地球これ。

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2008年7月 7日 (月)

しいどうぶなん

仏の教えはなんのこともないというのに、悟り終わればただの人です、ただの人という悟らぬ人には意味がある、ただの人というまったくの無意味、なんにもないんです、だから仏はこうあるべき、何をどうしなけりゃならんということがない、しかも名に迷い、色に迷い、宝に迷いする間、ただの人にはなれないですか。仏として坐りほせることができない、仇なるものなんです、日々痛感するんでしょう、なにかしら屈託あれば、ただにあらず、真の坐にあらず、それがさしてのこともないのに、日々また繰り返す。なんというわしのようなどうしようもないものはと、日々に思うわけです。仏を願うには願うほかに道なし、願いのほど強ければ、却って強きに迷うんです、かたくなです。ただの人まさに元の木阿弥なのに、後はなんとかならんというだに覚束ないです、これ常住座臥、仏としてあるべく無上楽、如来としてあるべき、来たる如しのまったく無反省です。後先なしを知るこれ、日毎に損なう、すなわち日毎に成就ですか、出たり入ったりするんですか、さあこれをいったいどう答えます。面白いんでしょう。
名に迷う浮き世の中の大たわけ
わが名も知らぬものとなれかし
あっはっはまさに次の一瞬これ、そうであったかと気がついて、まるっきりあとかたなしは、いつかまた名にまよいする、おもしろおかしき鵜舟かな、うっふうそういうこってすか。

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2008年7月 6日 (日)

しいどうぶなん

一 見性する事かたしといふ。かたきにあらず、やすきにあらず、万物のよりつく所にあらず、是非に応して是非をはなれ、煩悩に応じて煩悩をはなれ、死して死せず、生じて生ぜず、見て見ず、聞きて聞かず、うごきてうごかず、ものをもとめてもとめず、とがをうけてうけず、因果におちておちず、凡夫は不及、菩薩も行じかたし、故に仏と云也。

一 迷ひては此身につかはれ、さとりてはこの身をつかふ。

これ実にまさにこのとおり、もっともここから入ろうたってまったくそうは行かないです、見性かたからず、やすからず、こりゃどうにもこうにもなんです、あるとき得る、得ればなおさら脱するにかたしですか、自分というおのれというすべてをかけて、はじめてわずかに開けるんです、にっちもさっちも行かなくなったときに、とつぜん見えるんですか、だからといって、それが答えなんてないです、答えを出さなくては迷妄、答えを出したらさらに迷妄、万物のよりつくところにあらず、是非に応じて是非をはなれ、煩悩に応じて煩悩をはなれる以外に方法はないです、ノウハウなしが仏ですか、自分というもとノウハウなしなんですか、取り付く島もなし、生死を明きらめというんでしょう、死して死せず、生きて生きずです。手つかずの工夫、まずはなんでもありのめっちゃくちゃ、ただもう坐るから入って下さい、捨てるものなく習うものなし、なにしろひまさえあれば坐る、なにがどうなろうじゃない、よくなった工夫ができたなどいううちはさっぱりです、あるとき身心失せて、風景そのものになっている、そうしたら坐が坐になるんですか、すこしは楽になったんです、ようやく坐に勤しむんです。でなきゃな−んにもならんの、なんの取り柄もなし、とがを受けず因果に落ちずの、無自覚の覚です、凡夫も菩薩もなく、凡夫に返るがよいなどの分別心あっちゃ、ただもうみっともない恥さらしです。菩薩とはこれ、首くくる縄もなし年の暮れ、仏というたしかにあるにはあるんです、他の追随を許さず、いわんやおのれの追随を許さず。

さとりとは他なし。

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2008年7月 5日 (土)

しいどうぶなん

一 ある人にしめしていはく、仏法、今世とりみだし、外に仏をもとむ。たとへは妙は元来無一物。法は妙のうごく所也。法にあらされは妙あらはれず。故に妙法とつずく。法の是非につけて其人をしる。見性して、行住坐臥、性にまかせて身をつかふとき、仏性と云へり。

仏を物のように扱い、心を、こうあるべきという、標準というなにかしら物差しをもってあてがう、仏道の修行も刑務所の扱いも同じ、これじゃ欠陥車しかできないです、今にはじまったことじゃないんですが、今ほどみだれどうようもない世の中はないです。以無所得故菩提さったというが如く、なんの取り柄もなく、あらためて得ることもなく、強いて云えば引き算ですか、たとい元の木阿弥をもって、仏の本来となす。作りものは壊れもの、あるいはなんにも身に付かず、妙とはありようです、これをもって本来尊としとなす。氷が溶けて方円の器にしたがう如く、法によってまさにここに落ち着く。われらが仲間です、仲間という取り付く島もなしです。かえっておのれを弁えぬ、一木一草まさにもって成り立つ、妙は元来無一物、法というてもとあるなし。是非善悪という時と所に拠るんです、見性するという、飢えた虎に身を投げ与えるに似て、こりゃもうどうしようもこうしようもないです、昨日あれば今日あるんですか、はあてそんな覚えもなくば、ただちにこれ。たとい性にまかせて身をつかう、仏というまったく自覚症状なし。すなわち仏です、他の追随を許さぬ、真似ることの不可能です。

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2008年7月 4日 (金)

しいどうぶなん

一 予がわかきとき、ある時のつかひし童子、われにむかひ、わが主にことはり、弟子にしてたべとたのむ。やさしくいへると思ひ、なにとてかくはおもふととへは、出家は世わたるにたのしからんといへる一言にをとろき、此童子此心にて法師にならは、かならすちくしょうとなるへし、初発心より仏法一筋に心ざしあるは、はや菩薩の行なり。かりにも世わたりに心かけしは、ちくしょうに成事、うたかひなし。

出家をただ職業を替えるだけのことと思う人は、今もけっこういます。お寺の子は、お寺に生まれれば仏子と思い込み、修行も発心もてんからない、嘘とはったりで威張りかえって、坊主は説教、ただこれ芝居に格好つけて、なにしろお布施しかない。ようやく化けの皮が剥がれて、宗門の危機だという、仏教のぶの字もない、死に絶えて久しいんですか。なをかつ坊主になろうという、お寺に入った人がいた、たまたま忙しいから手伝いに寄越せといって、わしの弟子が行っていた、「なんかもう居場所もないような、へ−んな感じ。」と云っていたが直きに引き上げる。するとその人やって来た、あんまりにこき使われるから、こっちへ来たいというらしい、板っぺらのような扱い、わしは取り合わなかった、出家の願い別なり、世わたるにたのしからんというはちくしょうなり。お寺といううまいパイを食うには、修行きびしく、やらせのまさにもって修行とて、この人三年はいる、やっと一人前になったらしい、そのまあほおっとしたふうの、お礼奉公に来た。やたら長い法要の好きな住持、足腰の痛さにまあ、随喜の涙を流す、ありがたい法要だという、なんという見るもおぞましい。法要とは法の要、仏の道は滅んだか、宗門といい世間多数を云えば、そりゃ滅び去ったです、至道無難はなをかつ生きています、厳然として日夜参ずる、これなくば無明黒闇、世の中まっくらやみです、たといたった一人も仏です、なにあろうとてもって正にこれ。

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2008年7月 3日 (木)

しいどうぶなん

一 ある人釈氏のをとろへし事をとふ。予云、中々詞にのべかたし。かしらをおろせば、われも出家の二字をけがす。をそろしき事なり。常の家を出、三衣一鉢にして樹下石上に住居するさへ、真の出家といひかたし。真の出家にのそみふかくは、我身は八万四千の悪あるものなり。其中に大将とかしつく、色欲、利欲、生死、嫉妬、名利、此五つ也。世の常にして退治しかたし。昼夜悟を以て一々に身の悪をほろほし、清浄になるへし。悟といふは本心なり。ものの是非邪正をよく知り、邪を去り、正をたもってふかく護り、常に坐道して如来をたすけ、くふうしてあくをさり、年月功つもってかならず心安くなるへし。いよいよおこたらすつとむるに及て、じごく、がき、ちくしょう、しゅらの苦をはなれ、平常を守り、其功つもり、万法にまかせてとかなし。つとめてここにいたり、世間の人をすすめ、上根機の人には、直に目前を以てをしへ、中根機の人には、方便を以て坐禅させ、下根機の人には、念仏を以て後世をねがはせ、かくのことく人をたすくるを、真の出家といふなり。愚にしてなりかたし。

釈氏のおとろえ、出家お釈迦さまの道です、この頃衰えてというと、今の世ははてどうなるのか、そりゃ問題にならんといって、仏と仏の道に変わりはないんです。いつでもまったく同じ、おとろえは人間のほうです、だらしなく便宜に流れて、不都合でありいさかいや混乱を招く、人間が困るというすなわち自業自得です。仏足石というものがあります、完全無欠の彫刻ですか、足型の上にお釈迦さまが立っておられる。なんにも見えないではないかといって、風景あり家あり人あり鳥獣ありします、雪月花これ仏です。身心なし、だれあってその上に立てばお釈迦さまです、かくのごとくに釈氏の道です。頭を剃れば我も出家の二字を汚すと、至道無難禅師の云われるは、恐ろしきことなり、わしなど逆立ちしたってもおっつかぬです。三衣という、今に曹洞宗では大衣、改良着、作務衣ですか、一鉢とは良寛さんの鉢の子です、鉄鉢応量器といって、お釈迦さまの頭蓋をかたどったものです。一つには功の多少を計り、彼の来処を知る。二つには己が徳行の、全欠を忖って供に応ず。三つには心を防ぎ過を離れることは、貪等を宗とす。四つには正に良薬を事とするは、行枯を療ぜんがためなり。五つには成道の為の故に、今この食を受く。飯台には唱える五観の偈です。このようにありこのように努めるものです、我が身八万四千の悪あり、その中に、色欲利欲生死嫉妬名利の五つまさに大将なりと、世の常退治しがたしと、まことにもってかくのごとし、なんともいわんたく、どうにもこうにもです。しかも昼夜悟っては、一々に滅ぼし、清浄になるべしと努める、悟りというは本心なり、昨日よりは今日ですか、たしかに今日の我は昨日にあらず。常に坐禅して如来を助け、如来を見る工夫、只これ、年月功つもりて心安くなるべしと、餓鬼畜生修羅地獄の苦を離れること、そのようにあることこれ、万法に任せて科なしと、なんにもなしの坐禅これ、あとさきなしこれ、つとめてここにいたり、世間の人にすすめて、上根機には、直に目前を以て示し、中根機の人には、方便を以て坐禅せしめ、下根機の人には、念仏を以て後世を願わせと、これを真の出家という、まさにもって愚にしてなりがたしです。

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2008年7月 2日 (水)

しいどうぶなん

一 教は大きにあやまる。それを習ふは猶あやまる。只直に見、直にきけ。直に見るはみるものなし。直にきくは聞くものなし。
  見ずきかずおもはすしらぬ思ひてを
  なにとてをのかほかになすらむ

教えは大きに過る、間違いなんです、これを知る、至道無難禅師に於てのみ、よくよく知って下さい、教えを習うはなを過る、間違いなをさらです、ただじかに見る。じかに聞くこれをのみ、じかに見るは見るものなし、じかに聞くは聞くものなし。
 見ず聞かず思はず知らぬ思ひてを、
 なにとてをのが他になすらむ
標準他にはなし、よこしまなければ自受用三昧これを標準となすと、これのできる人皆無、まったくただ一人いないのを知る、情けないことです。たとえばこのネタ本の解説者、どっかの学者権威ですが、こんなふうに訳す、よくよくそのでたらめを見て下さい。
(教へは人を大いにあやまらせる。それを習ふとなほあやまりを犯す。ただ有りのままにものを見、ありのままにものを聞け。有りのままにものを見れば、見る我は無い。ありのままにものを聞けば、聞く我は無い。)
どうですか、この人無心を知らず、仏を知らず、教えという我田引水をもってすること、かくの如し、わかりますか。こんなのにたぶらかされるようでは、そりゃ覚束ないです、じかに見、じかに聞いて下さい、見るものなし、聞くものなし。=ありのままなんてあるんですか。

一 伊勢の国に一代坐禅して死せり。其身のためにはたうとし。かつは其身坐して死せば可也。病苦をうけはおほつかなし。わが師は、一坐の一世のざぜんとのたまふ、ありかたし。
一人うちすわる、まさに他にはないんですがね。一坐の坐禅は一世の坐禅なり、はいこのように坐って下さい。

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2008年7月 1日 (火)

しいどうぶなん

一 念仏はりけんなり。身の業去るによし。かならず仏になると思ふべからず。仏にはならぬが仏なり。
 身の業のつきはてぬれは何もなし
 かりに仏といふはかりなり

一 八万四千の悪業あるは身也。水火のせめにあふなり。これを思ふはおそろしき也。

一 つみのをもきかるきあり。
虫より魚はをもし。魚より鳥はをもし。鳥よりけたものはをもし。けたものより人はをもし。

念仏は利剣なり鋭い剣である。慙は鉄鋼よりも強しと遺教にある、なんで念仏が利剣であるのか、鈍剣ではないのかという。その切れ味たとえば兼行法師のつれずれ草に似て、なんにもまして圧倒的な鋭さと、ちょっと違うんですか、念仏百万回というのがむかしあった、こぶし大の数珠を連ねて、一座が念仏を唱える、法悦の末ついには忘我に至るまで。念仏をありがたいという、有為の色心を超えるんです、なんまんだぶつありがたやという、念仏によって悟ったという人をつい最近知る、わしは信用しなかった。必ず言い訳申し訳です、角を生やした妙好人という、なんていううるさったいと払拭するなしや、どこかにもう一つ人為です、雪月花の中にあってどこかにお釣りが来る、なぜかというんです。身の業去るによし、まさに去るによし、必ずやそういうことがあります、しかも去ることを知る、よくなったという自分を知るには、さっぱりよくないんです。必ず仏になると思ふべからず、仏にはならぬが仏なり、まさにもって銘すべき、禅門からの若しくは贈り物といって、禅門なんてないんです、たといてんから云うなし。

身の業のつきはてぬれば何もなし仮りに仏といふは仮りなり

仏というものがもとないんです、業つきはてるという、なんにもないとき実になんにもないんです、しかも日々新たなり、昨日の我はまったく今日の我にあらず、たった今仏を知った、では昨日までは嘘とはったりか、いえそんなことまったく知らんのです。

八万四千の合疆、骨や肉やの合体ですか、あるいは八万四千の毛穴という、なんせ語呂がいいんですか、八万四千の経巻という、すなわち人間の出来合い八万四千の悪業です、あるものは必ず水火の責めに会う、これを思うは恐ろしきなりと、実にまさにそういうことです。身に科あるを地獄という、科なきを極楽というと、身心ともになしを仏というと、しかり死体と同じ、これわが宗旨なりと。また禅師の語です。

罪の重い軽いありと、虫よりは魚、魚よりは鳥、鳥よりはけもの、けものよりは人が重いと、まさにしかり、他云うことなし。いったいなんでこの世に生まれ、こうしてあるんですか、まさにもって悟る、悟らないとはこれです。

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