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2008年6月

2008年6月30日 (月)

しいどうぶなん

一 予、弟子にむかひて、かならず修行とげがたくは、還俗せよ。其罪は少なし。法師の身としていやしき心あらは、ちくしゃうと成る事うたかひなし。此世はわつかのうちなり。とてもかくても光陰をくるにはやし。俗はむくひありとも、出家のむくひにくらへんや。

一 無といふに二つあり。悪をしてとがなしと見るはあしし。善悪邪正よりつかぬは釈迦の法也。

弟子に云うには、必ず修行遂げ難くは、修行してもついに得られずと思うには、還俗せよと、坊主止めろというんです。その罪少なし。法師という、法を説く身として、いやしい心あれば畜生となること疑いなし。ほんとうに仏になる、悟りの道筋に至ることなければ、いやしい心です、我欲我妄の延長です、どこまで行っても、おれがというてめえ勘定です、人を救うどころじゃないんです、必ず自我の目論見です、畜生のほうがよっぽどましです。今の坊主ども、お寺に生まれたから説法という、お釈迦さまの子という、もっての外です、仏罰が当たって、およそ人間の形してないです、心理学病理学の対象ですか。坊主ほどろくでもないものないです、こんなものと付き合ってはいかんです、この世はわずかのうちなり、光陰矢の如し、生きた覚えのある人生を送って下さい。悪因悪果俗人はたとい報いありとも軽し、出家の報いに比べるべきにあらず、人を導いて取り返しのつかぬ、どうしようもなさです。世の師家法師の類、仏から見ればまったくのでたらめ迷妄事です、なんという悪ふざけですか。オウムのごとく、あるいは生き埋めにして竹の鋸に挽いても、犠牲者は救われないんです、よくよく肝に銘じて下さい。

無というに二つあり、悪をしてとがなしと見る、どうしようもこうしようもない無ですか、虚無というんです、今生来世にも浮かばれんです。善悪邪正よりつかぬ、たといなにをどうあったとて不染汗、不染汗だからというんではない、不染汗なんです、これをお釈迦さまの法と云う。間違いなきなり。

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2008年6月29日 (日)

しいどうぶなん

一 ある法師の弟子、夜ひる坐禅して、人我のへたてなし、生死もなしといふ。さとりをとへは、中々をそれて、われこときの及ふ所にあらずといふ。かりにも師は大事なり。ことに仏道、師なくしてなりかたし。坐禅と常とちかふ事をくるしむ。只今目前に何のへだてかあるといへとも、愚なり。みそのみそくさきは食にいむなり。

あろ法師の弟子、昼夜に坐禅して、人と我の隔てなし、なんじこれかれにあらずと、向こうから来る人が自分になってこっちを見ているんです、そういうことがあります。なるほどと納得するんですが、次にはまたこれかれなんです、別段のことはない、ただそういうことです、手に持ったお椀の中にころっと入っていたり、ぱちっと一音通身破れほうけるんです、生死まったくなし、生きるも死ぬも同じです、坐禅の功徳ただちにこれを知る。実際にこうあり、現実他にはなしを、悟りを問えば、我ごときの及ぶ所にはあらずという、別に何かあると思う、悟りという特別誂えを思う、そりゃ師匠が悪いんです。悟っていないから悟ったという特別を云う、久しく模造と習って真龍を怪しむこと勿れ、あっはっはそんな手合いばっかり、ごろごろですか。弟子はいくら悟ったって、悟りという特別を願う、これだよとたとい示したとて、師匠に首ったけですか、いや仏教という、仏という特別なければ納得しないんですか、現実は手つかずのただこれ。面白くもなんともないんです。あるとき満足しようがあるとき満足しないんです、千変万化そのものです、しかも生活という現実という、他にはないことを知る、悟った人はこうこうという標準物差しにはまったくよらないんです、呼吸して見事に生きている、あるいはすなわち自覚症状がないんです。毎日新しくまったく悟るがごとくですか、味噌の味噌臭きは上味噌にあらじ、いえ食うわけにゃいかん、食えんていうんです。今の人ちらともなにかあれば悟ったという、仏教はかくかくしかじかとやる、とんでもまあ荒っぽいんですか、ただもうやりきれない我田引水です、それから見れば、この人却ってつつましく、しかも同じ我田引水ですか、自分をもてあましているんです。なんにもないに落着できないなぜですか。

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2008年6月28日 (土)

しいどうぶなん

一、ある老人の物かたりをきくに、あはれのおほきを書ととむるもをこがましけれと、むかしの友は先立、今の人にまじはらんとすれはきたなまれ、若きはさって座になし、秋の夜なかきに、眠る事なく、かへらぬむかしを思ひ、しらぬ行末をねがふ。じごく、がき、ちくしゃう、しゅらをすみかとしてめくる事のかなしさよ。今はひたすら仏道を学はんと思ふとて、予にむかひ、なみたをなかしてたつぬるを、いとあはれに思ひ、宗旨をとへは、禅と答ふ。若年より此道こころさし深しといふ。予、大道をとへは、中々念仏唱へ数珠つまくりいとあやしくて、いかやうの人に法をたつねたまふといへは、古は法門なとならひしが、十五年此方は、いやいや法門いひても、只今身まかり行末しらぬは大きなあやまりと思ひ、ある僧にあひたてまつれり、死して行末をたつねしに、悟って知ることなり、悟らんと思はは、身の業つくすへし、業つくさんと思はば、経よみ念仏となへよと、仰にまかせてつとむるといふ。予云、只今死して何方へ行、いかやうにならんと思ひたまふととへは、極楽へ行ほとけにならんと答ふ。ごくらくはいずこそととへは、業つきてあらはれんとをしへにまかせ、かやふかやふと答ふ。予またとふ、業つきぬさきに死しては何となるへきととへは、こたへなくして、なみたながし、手をあはせ、教へたまへと云ふ。あはれにおもひて、うちむかひ、万事はみな心のなす事なり。かれ、さなむと云ふ。心のもとはなにかあるととへは、なにもなし、と答ふ。予云、それこそ直に極楽世界、それこそ直に仏、それこそ我宗の悟なり。常に守りたまへといへは、さすがつねつね心かけししるしにや、生もなし死もなし、万物一もなし、なしと思ふ事もなしと悦ひ、手を合せておかむ。禅は第一悟をさきにして、悟にまかせ修行すれは、日々夜夜安楽なり。うたがふ事なかれ。身の業つきはてさとるは、尤もにしていたりがたし。さとりをさきにして身の業をつくすは、安して安し。かるがゆえに日本は身を思ふ事かるし。さて仏にちかし。身なけれは直に仏なる故也。


ある老人の物語る、哀れなことの多きを書きとめるは、おこがまし、あほらしいけれど、むかしの友は先立ち、今の人に交わろうとすれば 汚いと嫌われ、若い人は座を立ってしまう。秋の夜長を眠ることなく、返らぬむかしを思い、知らぬ行く末を願う。地獄餓鬼畜生修羅を住処として巡りめぐることの悲しさよ、今はひたすら仏道を学ばんとして、予にむかい涙を流して尋ねる、いと哀れに思い、宗旨を問えば禅と答える。若くよりこの道に志しの深きと云う。予大道を問えば、なかなか念仏を唱え数珠を揉む、あやしいふうで、どんな人に法を尋ねなさったかと聞けば、かつては法門を習ったが、十五年このかた、たった今みまかるのに行く末知らぬは、大いなるあやまちと思い、ある僧に会いたてまつる、死んだのちの行く末を尋ねると、悟ったらわかるという、悟ろうと思ったら、身の業を尽くすことだ、業を滅尽するには、お経を読み念仏を唱えなさいと。仰せにしたがい勤めると云う。予、只今死んだらどこへ行って、どのようになるかと問えば、極楽へ行き仏になると思うと答える。極楽はどこにあると聞くと、業が尽きたら現れるはずという教えに任せて、かようかようと答える。予また問う、業尽きぬ先に死んだらどうなるんですかと、答えなくして、涙を流し、手をあわせ、どうか教てくれと云う。哀れに思って向かい合い、万事はみな心のなせる事だと云った、彼はそうでしょうと云う。心のもとは何かあるのかと問えば、なんにもないと答える。予云く、なんにもない、それこそ直に極楽世界、それこそ直に仏、それこそ我が宗旨なり、常に守りたまえと云えば、さすがに常常心がけししるしに、生もなし死もなし、万物一もなし、なしと思うこともなしと悦び、手をあわせて拝む。どうですかこれ、まことに人を救う実際です、ただこれを知ればそれでいいです。
禅は第一悟を先にして、悟に任せて修行すれば、日々夜夜安楽なり、まさにこれが修行の実体です、身の業を滅尽させて悟るは、もっとも至り難し、悟りを先にして、身の業を尽くすは、安して安し、これ安楽の法門です、仏に任せきって行く、どうか楽しみながらやって下さい、かるがゆえに日本は身を思うことかるし、身を鴻毛の軽きに置けと、古来日本人の教えです、身心のある分が苦しく辛いんです、仏に近いとは捨てて捨てて捨てきって行く、あるいは身心の外に参じて下さい。身なければ直に仏です。
今様もまるっきりこれを知らぬ師家禅師、狐狸の類ばかりです、とんでもないめに会って、一生を棒に振らぬことですよ。

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2008年6月27日 (金)

しいどうぶなん

しれは迷ひしらねは迷ふ法の道
なにかほとけの実なるらん

 此歌の心明ならば、大道あらはるべし。

一 仏眼ひらき見るに、日本の衆生は仏にちかし。悪気といふは、身を思ふなり。迷ひの根本なり。しかも我身にあらず。それをわがものと思ふは、至りてあさましくかなしき事なり。誰も知る事なれども、死するなり、病むなり。貧苦をうくるなり、これ我物にあらさるしるしなり。かかるうき世に生をうけて、苦みおほきをわきまへず、命なかからん事を願ふ。大方人を見るに齢七十に及ぶは稀なり。

知れば迷い知らねば迷う法の道何か仏の実なるらん
そうです、参禅とはまさにこうなんです、知る分が迷い、知らねばまさに知ろうとする、奇妙なものです、もと仏の大海にありながら渇と求める工夫、だからといって求めずとも足りるということはないです、それはごまかしです、おれは仏を得たといい、あるいは得ずともいいといい、なんとなれば仏の大海にあるからと、そんなお題目何百回唱えてもなんにもならんです。自然に満ち足りる、満ち足りるをさえ知らぬ自己を証拠するんです、それなくばただの能書の世界です、実のないうるさったいばかりです。この歌の心明きらかならば、大道現われるべしと、まさにおのずからに現われるんです。

一、仏眼開き見るに、仏となって見そなわす、必ずそういうことがあります、人のありようたったこれ一つ。開き直る踏ん反り返るという学者物持ちじゃない、ただの人です。すると日本人は仏に近しと知る、一神教の我田引水、神さまを信じてさえいればという、なにかしらどうにもならんもの。悪気という、身を思う我を、我ら同じ羽根を思う、迷いの根本が少ないんです。自然と人間がじかに向き合う社会です、その間に余計な意味合いをおかない、そうして自然と人間の一つことを知るんです。我れと有情と同時成道、生まれほんらいこうであったと知る、我がものもとから一つもなし、色即是空空即是色です、それをわがものと思うは、至りてあさましく悲しきことなりと。なにより証拠には、死ぬなり病むなり、貧苦に苦しむなりと、至道無難禅師の本来面目これ、わがものにあらざるしるしと示すこれ。このような浮き世に生まれて、苦しみばかり多いというのに、長生きを願うこと、あさましくおろかしきと、しかもおおかたの人七十に及ぶは稀なりと、八十九十までも悟りを得ずの七転八倒、世の中の不幸これに過ぎたるはなし。世界一の長寿国は、世界一の自殺国。

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2008年6月26日 (木)

しいどうぶなん

三国の人、インド天竺中国日本の人です、仏教伝来の道筋をもってこれに代表する、仏教が伝わっている国、仏教の噂ではなく本来本当です、学者のもてあそびではなく無為の真人です、坊主まるもうけの宗教ではなく、ただこれ本来人です。詞は別なり、言葉はそれぞれにあるということです、心を一つにするは仏の御教えによる、ほかの諸宗思想哲学あるいは歴史あるいは文学他によっては心は一つを知らないんです、個性といい詩歌といい、趣味色の道ですか。人間個々別々を受け入れる器、だれあって帰りつくべき、人間自然の差異のない、色即是空を知るたった一つの教えです、みおしえと云うものもっともこれ。死をいとうとは、人間のいとうべきもっともなりとする、死を知らぬがためなりと、実に端的です、さすがに至道無難禅師です、まさに死を知らぬが故にです、よくよくおのれが辺に落着して下さい。死ぬとはなに、生きるとはなに、答えまったくに明白を知って下さい。仏とは生死の問題、もし知れば仏意に背く、若し知らざれば迷いなりと、どうですか、我らが求めるべきすべての答えがここにあります。理屈で納得すればよしとする、今様人間には無縁の問題ですか、今の人はたして人間と云えるのか、字面だけの心意識をもって足れりとする、はたして生と云えるか死と云えるか。偈に云く、

根源を識得す、おおもとを知るとは大安心です、もとに帰るんです、まったくにほかなしを知る、自分というよこしま仮住まいがない、すなわち文句のつけようがないんです、つける我もなし、つけるべき我もなし。
万法に別離す、物差しが自分というよこしまなしのほかにまったくなくなる、自分が自分に物差しをあてがって、是非善悪しないんです、自由無礙とはこれ、すなわち本来人です。
誰か知る言句の外、すべてものみな言句の外です、人間の取り決め複雑怪奇の先細りにはまったくよらない、ものみなものみなとしてこうあるんです、それを知るすなわち知らないもっとも親切、花のようにおのれを知らない、雲のように水のように行方を知らない、ようやくにしてこれ真。
仏祖不伝の処、すなわちこれが仏の教えです、仏教らしいものなどなんにもないんです、わしが仏説らしいことを云えばとりつく、とんとむかしいや歌にはそっぽ向く、うっふっふ未だらしいものの噂の人、何回も書き直して、人に対する、よりよくよりわたくしなしという、これ仏。仏らしいことを云ってすます、狐狸の類にあらず、首くくる縄もなし年の暮れ、日々また新たにす、昨日のおのれはまったく今日に非ず、強いて云うならばまったくたった今悟ったと、これ仏の実際です、でなけりゃ嘘とはったりです、よくよく省みて下さい。

生死を知る人あらば、心のたねとやならむ、生死を知るという、仏家一大事因縁生を明きらめ死を明きらむという、しかも知れば言い訳の種にしかならない、だからおのれはの虎の威を借る狐です。現つを抜かすんです。いいですかこれが仏教なんです、むずかしい大人を作るこっちゃないんです、仏は仏です、申し訳や言い草、てめえ自堕落の弁護のためにあるんじゃないんです、よくよく弁えて下さい。かつは身の科を省みぬなるべし、仏になった大法を得たという余計ごとは一切いらんのです、ただの人取り付く島もなし。つくばね筑波山ですか、大山の子の木の葉の雫もみな集まりて川の淵になる、一雫も身を潤せばなんらかの足しになる、邪魔になるにしても童心の者これを受けるに足る、わらわべの心こそ頼り甲斐です。その故に即心記です、まっすぐに入る一言。

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2008年6月25日 (水)

しいどうぶなん

 至道無難禅師のエピソードに、懇意な商家に赴いて、お金が紛失してどうも禅師のほかには思い当たらぬというので、禅師に問い質したところ、そのお金を返してよこした、まあそんなものかと思っておったが、後に紛失したお金が出てきた、申し訳なかったといって詫びると、にこにこしてただお金を受け取ったという。またある老人庵を提供して禅師を住まわせたところ、姪かだれか懐妊した、禅師が相手だという、責め立てると忍び忍びてそういうことになったというた、老人は怒って禅師を追い出した、のち娘が白状して、男は別にいて禅師は見も知らぬ人であったという、老人が詫びるとやっぱりにこにこ笑っただけであった。これをどう思いますか、白陰禅師に逸話がだぶっている、聖人というものはかくあるべしか、いいや時代が違う云々というような人が多いんでしょう。自分に引き比べて下さい、なぜにこう我慢というかすなおというか、うっふ我慢という、これわがままと読むんです、いつか必ず現れるからという期待の辺に行なう、まったくそうではないんです。よくよく鑑がみて下さい、禅師はただニールバーナ涅槃寂静であっただけです、如来もってなすのに方便力の故に涅槃を示す、ことはまったくほかにはなかったんです。ただただ頭の下がるのはこれです、仏の生活、仏であるということはまさに四面楚歌です、至道無難禅師がかつかつ正受老人に伝えるほかに、あるいはまったくこれを知るものはなかったです。これをまっとうする、ただただ怨罵の毒を歓喜しと云われるごとくに、誤解噂ものはこうあるべきの、残虐陰惨な世の中に放り出されるだけです。たとい仏教を知る狐狸の類です、舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相完具するが如しと、なんの武器も取り柄もなしの、仏という陰日向なしなんです、裏を見せ表を見せて散る落葉かな、良寛さんのような無一物の暮らしがかつかつ成り立つ。世間体お寺のあとつぎなど、こりゃもってのほかの余計ごと、身から出た錆を今にして痛切に思うわけです、しかも一柱身心脱落、ちらとも屈託あれば不可です。わしは七十過ぎて代を譲って、ようやく一人暮らしを始める、ほんにまあ始めからずいぶん方向違いでしたか。

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2008年6月24日 (火)

しいどうぶなん

至道無難禅師

慶長八年一六0三年美濃の国関ヶ原に生まれ、延宝八年一六七六年江戸の小石川戸崎村の至道庵に没す、享年七十四歳。
関ヶ原の宿場本陣の長子に生まれ、母方は豪商白木屋初代の女である、幼少の頃に草書をよくし、仮名書き童子と呼ばれた。十五歳の折に父親に連れられて京都大阪に遊び、生まれる三年前は天下分け目の関ヶ原、十二年後に大阪夏の陣、徳川の世となって二代秀忠四代家綱に至る間です。予は美濃国関原の番太郎なりと、自らに云う、美濃から京都へ渡る大仙愚堂国師の常宿となって、親しく師事する。本来無一物の公案を授かって、寝食を忘れる程に参じて、ついに見性す。劫外の号を受ける、国師の偈がある、造化何曾論功用、無根樹上著花新、非紅非白呈祥瑞、未必人間有此春。これより国師悪辣の手段を尽くして、いたく向上の鉗鎚を施すと、五十二歳稼業ことごとく譲り渡して、師に従い江戸へ上って出家す。至道無難となる。至道無難に参ずることもっともたりとす。至道無難唯嫌楝択ただ憎愛無ければ洞然として明白なり、予は明白裏に非ず、汝等比丘却って護惜すやまた無しやという、大趙州の公案があります、もっとも解き難いものです。
多少の初関を透過したぐらいで、おれは悟ったなどもってのほかのことです、問題はようやく始まったばかりです、捨てるべきおのれが見つかった段階です、不惜身命の修行が待っています、数少ない本来人、至道無難禅師にどうか見習って下さい、至道=正受=白陰と継ぎます。
師の記す即心記より。

 三国の人、かたちは同じて、詞は別也。心ヲ一ニするは、仏の御教によれば也。死をいとふは、死をしらぬ故也。人は直に仏なれともしらず。若しれば仏意に背、しらさればまよひなり、作偈いはく。

 識得於根元
 離別於万法
 誰知言句外
 仏祖不伝処

 生死をしる人あらば、心のたねとやならむ。いやしき詞をまきおくも、かつは身のとかをかへりみぬなるへし。つくはねの木葉の雫もみなの川の淵となれば、わらはへのたすけにもやとおもふ故也。
 延宝乙卯孟春書之
  至道庵主 無難の印

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2008年6月14日 (土)

問答

法戦問答

   一

問、仏と云うはこれ何ぞ。
答、嘘いつわりなければものみな仏。
問、嘘いつわりなければ威儀即仏法ならん。
答、我を省みるなければよし。
問、省みる我なし。
答、雪月花もとより仏。
問、珍重。
答、万歳。


   二、

問、借問(しゃもん)す三界子、何物か尤も  幽奇なる。
答、端坐して諦(つま)びらかに思惟せば、  思惟便宜を得ん。
問、粉々として随照を羅(つら)ね、意を守っ  て時を失う。
答、久々若し淳熟せば、始めて相欺かざるを  知らん。
問、昨日は今日に異なり、今辰は来辰に非ず。
答、誰れか能く枯株を守り、直ちに霜鬢と為  るを待たん。
問、珍重。
答、万歳。


   三、

問、大道本来程途無し、知らず何の処にか心  安を問はん。
答、空有暫く標的と為す。
問、凡聖豈に是れ定端有らんや。
答、事を執らんとして影を逐へば影弥いよ遠  く、妄を払はんとして真を求めば真瘢と  なる。
問、箇の事直に須らく妙会せんか。
答、わずかに意根に随へば大千を隔つ。
問、珍重。
答、万歳。


   四、

問、三界無法何の処にか心を求めん。
答、白雲を蓋と為し、流泉を琴と作す。
問、一曲両曲人の会する無し。
答、雨過ぎて夜塘秋水深し。
問、迅雷耳を掩ふに及ばず、直に得たり堕泥  帯水。
答、什麼の処にか在る。
問、珍重。
答、万歳。


   五、

問、活中に眼あり還って死に同じ。
答、両つながら相知らず。
問、若し験過せずんば、争でか端的を得ん。
答、薬忌何ぞ須ひん作家を鑑みることを。
問、偶著して試みに一鑑を与えよ、又且つ何  ぞ妨げん。
答、古仏尚ほ言ふ曾て未だ至らずと。
問、絶後に再び甦らずは、君を欺くことを得  ず。
答、知らず誰か塵沙を撒することを解す。
問、珍重。
答、万歳。


   六、

問、仏道を習うというは自己を習うなりとあ  ります、自己の他にはなんにもいらない  のですか。
答、自己の他にはなんにもいらないと知る、  全世界全宇宙これ自己と知って、はじめ  て参禅です、単純に参ずるんです、正解  は単純にのみあります。
問、自己を習うというは、自己を忘れるなり  とあります、なぜですか。
答、自分を知るとはもう一つの自分を観察す  ることではありません、心はたった一つ  です、たった一つがたった一つを知る、  忘れる他にないんです。
問、忘れたらなんにもならないですが。
答、自己を失ってぜんたいがあります、我と  有情と同時成道すと獅子吼して仏教が始  まります、御開山さまもあなたもまたお  釈迦さまと同じです。
問、それが宗教なんですか。
答、たった一つの宗教です。
問、珍重。
答、万歳。


   七、

問、知らぬが仏という、ほどけば仏という、  二つとも俗説ですか、あるいは真実を告  げているんですか。
答、花にあなたはだあれと聞く、知らないと  答えます、だから花は見れども見飽きな  いんでしょう、梁の武帝という人が達磨  さんに、朕に対する者は誰そと聞いた、  達磨さんは不識、知らないと答えた、こ  れまったく同じです。
問、知らなければひっくりかえってしまいま  すが。
答、なまじっか知っているからですよ。
問、知るとはどういうことですか。
答、ぜんたいの中にもとこうあるのをピック  アップして、観念知識として持つ、本当  は知らないということなんです、淋しい  かぎりです、知ってる分がみな嘘ですか、  だから醜悪です。
問、たしかに人は醜悪ですか、自然に帰りた  いと願うものこれ。
答、たとい観念知識をもって自縄自縛する、  その縄のはしっこを自分だと思い込む、  尾ひれがついて右往左往です、自然破壊  の元凶これ、自縄自縛の縄をほどけば仏。
問、ほどき終わればもと仏。
答、もとあるものに行きあうだけです、これ  を仏教という、つまり地球のお仲間入り  ですか。
問、珍重。
答、万歳。


   八、

問、耳を洗ふ其れ如何。
答、見知を存する有る莫れ。
問、知見わずかに存する有れば、道と相離支  す。
答、我れに似れば非もまた是と為し、我に異  なれば是もまた非と為す。
問、是非始めより己に在り。
答、道其れ是の如く非ず。
問、珍重。
答、珍重の儀はさておく、水を以て石頭を没  す、祇だ覚る一場の癡たることを。
問、珍重。
答、万歳。

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2008年6月13日 (金)

じゅりょうほん

毎に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして、無上道に入り速かに仏身を成就することを得せしめんことを。

種々の法を説く毎にと、どうすれば無上道を得、速やかに仏身を成就させられるかと腐心する、ただそれのみです。如来為人のところ、何をどう云おうがおのれ無きが故に、他が為にするんです、これが他の諸宗一神教等とはまったく違うところです、どんな道徳宗教も自分を介するんです、この人を見よというが如くにです。仏教はそれがない、なんじこれ彼にあらず、彼まさにこれ汝、一には布施二には愛語三には利行四つには同時と、たといこれ菩薩の行願、ただこれ自他を同じくす、森羅万象万物宇宙、もと我とともにある一つことなんです、これを知る畢生の大事、他にはまったくないんです。他に種々あると思うを一般というのは、妄想癡人に夢を説く、夢見るとは現実を知らぬが故に、現実であればあるほどに夢とは、現実100%はなんのお釣りも来ないからです、満足不満足さへ知らぬ、もとっこそのようにできあがっているんです。これを天地宇宙と云い、あるいは地球と云ったです。種々無駄っことですか、ひいては理想ですか、現実すなわちもとのありように満足できなけば、そもそも我らの存在はないんです。それ故に羅漢さん菩薩観音さまという、双六の上がりを如来というんです、如来来たる如し、まるっきり他なしです。花のようにぽっかり咲き、月のようにうたた照らす、御名御璽ですか、はいだれあって唯我独尊まったくに他なしです。わしの弟子におかしな男がいたです、幼い時に高熱を発して後遺症が残った、のちけろっと治ったですが、しばらく癲癇症があった。おれは病気があるから陰日向なく生きようと思ってと云った。老師に就いて、これがこのまんまだからこのまんま坐れと云われて、このまんま坐る、あれは不思議な男だと老師が云った。日ならずして、あたかも雪下ろしの時節、屋根に上がったと思ったら下りて来る、なんだかへんだよう、雪がこっちだかおれが向こうだかわかんなくなったという。自他の垣根が外れている、おまえの病気はなんだと聞くと、かつて切なく思っていたものが、あれは付録だからなあと云う。このように悟って縁あってお寺に入った。いい世話人もいたのに早死にして、えげつない性悪だけが残った、教区寺院、坊主組合は就中仏にもっとも遠いもの、まったくのいじめ社会であった。それはひどいめであった、すべてはわしのせいだ、いたたまれぬ思いがどうすることもできなかった。三十年たった、檀家が一戸あたり百万円あて出して本堂を修復し、晋山式をするという。報われたんだ、ほんとうにただこの道のみであった、わしも弟子ども知れる人みな涙した。たとい馬鹿の一つ覚えも、お釈迦さまの法はあったんだ、わしはなんにもしてやれなかった、却って彼がわしを救った。そりゃあとのことはわからぬが、わしらの僧堂あっちこっちに散らばるだけが、たとい如実に僧堂であることを知る。

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2008年6月12日 (木)

じゅりょうほん

我常に衆生の行道と、不行道とを知り、応に度すべき所に随って、為に種々の法を説く。

たといどのように仏を説き、くわしく理に契いあるいは適切不適切をもってす、学者教授をもってし、説教坊主行ない清ますをもってしても、一目瞭然なんです。如来をたぶらかすわけには行かんです、お釈迦さまが万人に解かるような立派な姿をし、クリシュナムルティやラディニ−シのような光明隠れもなきというとまったくそうではないんです。お釈迦さまは別格としたって、如来はあなたにそっくりです、彼出れば彼に同じ、彼女出れば彼女と同じく、これ如来の現実です。しかも接化に当たって、彼乃至は彼女の思い通りにはまったく行かんです、その思い込みを是とし不是とし、その願いをあるいはまったくに素通りします。行道には痛棒し不行道には座蒲団を百枚敷きますか、ひっかかりとっかかりを外す、悪辣この上ない手段です、赤ん坊のにっこり百花開くんですか。どっちだってなあなあ馴れ合いなんかないです。如来にとっつこうたってそうはいかない、触れなば真っ二つです、修行しているから仲間だなんてないんです。世間娑婆の世にあって世間娑婆のしきたりを忘れたら、つまらんだけです。同じ羽根の鳥の集団じゃない。けんもほろろです、一箇宗教ですか、意見を同じくする甘えん坊ではなく、そうかわかっただと、そんじゃかってにしくされという程に、たといわしの兄弟弟子法友という、たいてい二十年まったく会わなかったりします。浮き世この世にオアシスあるんならオアシスの大小は問はぬ、他にはまったく見当たらぬ、これ孤立無援です。遷化するになんなんとして、会いに行こうと思います、それもかなわずば仕方ないです。一人でも多くおのれ如来であることに気がつく、ただこれだけです。如来となって浮き世にぽっかり花開いて下さい、ただもうその他にはないです、無心金剛不壊、天地宇宙森羅万象彼によって花開く、もとあるがようにあるんです、為には手段を選ばんです。たとい自分というエア−ポケットに居座って、民主主義多数決している分には、叩いて粉砕するよりない、理解したわかっただからおれはと云う自堕落無様は、断崖絶壁に追う。仏門を叩くにあたっては三たび追いやるんですか、もと求める必要もないものをと知る、蚊子鉄牛を咬むのたとえ。なあなあ手を取り合って、みんな仲良くじゃ、百たび生まれ変わったとて届かんです。

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2008年6月11日 (水)

じゅりょうほん

凡夫の顛倒せるを為て、実には在れども而かも滅すと言う、常に我を見るを以ての故に、而かも驕恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん。

顛倒妄想という、思想考え方はお客さんなのに、それが主人になって、却って追い使う、声色の奴卑と馳走すという、凡俗という我れらはこれなんです。仏道を云うのに、仏道という思想あるいは哲学と思い込む、思い込みの他に実あるを知らないんです、如来に会うても如来を思い込み思想の人と見做す、こりゃどうしようもないです、門前払いを食わすより他に手段はないですか。自分というものがまったく見えていない、困るのはあなたというに、なんにも困っていないという、自分という架空に住み、思想観念に右往左往し、多数決付和雷同の、戦争には戦争に走り、人間の命は地球より重いというには、みんな仲良く平和にと、その害はなはだに気がつくことなく、害悪を八方に振りまいている、一朝事あると支離滅裂です。はじめて顛倒妄想のなんたるかを知る、いいえ知る機会を得る。しかも気がつかずに、顛倒夢想を縫い繕って出直すんですか、生まれ変わって来るより仕方ないんですか、如来在世せねばそりゃそういうことです。この間薬師寺展に行って来ました、その善男善女人九0分待ちというがほどに、猛烈混雑して、人の隙間からようやく垣間見るほどでした。ふと思ったです、ここに若しお釈迦さまが現われて説法したらどうなるか、みんな平伏して聞法するかと、まったく否だと思ったです。百人中百人そっぽを向くんではないか、十人が十人十色の仏教を説き、あるいは科学だの平和だの宗教哲学をふりかざして、如来をあげつらう。たとい如来逐一しても、曲解しないがしろにすると思います、現代とはまさにこれ。自己というものなしに、なんというか同じ穴の狢、臭いものには蓋きりの世の中ですか、ではなんで薬師寺展も木像仏像展も立錐の余地のないほど流行るのか、飢えていえるには飢えているんです、あんまりに飢えてたとい温とに触れても、渇き切ってかさかさなんですか。それともみな仏陀よりもおのれ仏陀と自信満々、自分という砦に立て籠るきりですか、ようもわかりません。而かも驕恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん、如来滅すと知る、すなわちおのれ律するの地なし、いても立ってもいられぬと知る、助けてくれえという絶叫を聞く、まさに他なし。

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2008年6月10日 (火)

じゅりょうほん

我も亦世の父と為り、諸の苦患を救う者なり、凡夫の顛倒せるを為て、実には在れども而かも滅すると言う。

父に出会うとはこれ正師を得た実感です、求め求めてついに会う、たとい仏の何たるか、如来のありようを知らず、狂子の如くして妄想の中に呻吟していても、おのれこれではどうもならんと知る、たとい万が一の救いを求めるんです。すると正師に出会えば正師と知る、不思議です、父に会う、長年にわたる遍歴ついに終わる。わしは老師に出会うたとき、二、三質問するのに、答え問いの終わるより先にあった、しかも壁の如く虚空の如く、田舎じっさのやけに恰幅のいいちんちくりん、云うことさっぱりちんぷんかんぷんが、まるでカフカのようだなど思う。どうせ狐狸の類がと思っていたものが吹っ飛ぶ、草鞋を脱いで安居するより、何十年老師遷化して今に至るまで参禅しています、死んでも死んだ後までもまったく変わらないです。常にこれ改変しておのれ未だし、如来現ずるというのになんていうこったと、日々また日々思います。どうしようもない生まれ卑しのろくでなしがと、また真実の法を知る以前の、親不孝傍迷惑、省みようもない仕出かしごとを思います。どうしてもと人みな如来でありながら、それに気がつかず来たか、長い年月にわたって取り返しようもない、過ぎたるは及ばざるが如しと、あるいは坐すにより、まるっきりまっさらに消える。たとい一瞬もこれ我れを証し、許されるも許されぬもない、水を掬すれば月手に在り、花を拈ずれば香衣に満つと、あるがようにある雪月花。地球あるいは宇宙万物のお仲間入りですか、如来無心、なんでさまようて歩みを進むれば近遠にあらず、どうもこうもならなかったのか、臍を噛んでも追いつかぬ歳月であったのか、父となり諸の苦患を救う者なりと、如来正師に出会うこと、浜砂の一握にも及かず、いかなる幸運の生まれであったか、なんというろくでなしのこの我れが、涙なしには語れぬなどいう生易しいものではないです。そういうことであった、ただこれそういうことであった、凡夫の顛倒せるを為して、実には在れども而かも滅すと説く、求道の心またまたあるにより、ついに求めてやまず。

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2008年6月 9日 (月)

じゅりょうほん

医の善き方便を以て、狂子を治せんが為の故に、実に在れども而かも死すと言うに、能く虚妄なりと説くもの無きが如し。

狂子を医やす方便という、自らことを運んで万物を証せんとする、これを狂子という、万物進みて自らを証するを平静という、健康というんです、ここをよくよく考えて下さい。天才だの独創だのいう、実は本当を知る、もとのありように至るか否かということです、手前勝手のいたずらじゃないんです。悟りに入ることはたった一つです、自己という余計ものを去る、よこしま独り善がりを免れるんです、パ−ラミ−タ−彼岸にわたる道です。それ故に正師は奪い、邪師は付け加えるという、正師はこれと云い、邪師はあれと云う、あれという嘘です、自分という思い上がりに住んでいるだれかれ、端的にその非を知る、打ち砕く以外にないです。道元禅師がついに大法を得る、侍者が云うんです、なんで外国人が大法を得ると、あいつもずいぶん叩かれたからなあと如浄禅師の答えです。朝打三千暮打八百というこれ参禅の方法です、ちらとも如来を見る、かくあるべしこの方向というんでしょう、しかも如来は見えず、ありとも思えぬのです。悟ったといえば却って遠く、悟らずといえばなおさら遠く、あるいは十年二十年して、どうにも未だしということがある、しかも如来実に在りと示す、あるいは而かも死すと言う、能く虚妄なりと説くもの無きが如くとは、まさにこれ七転八倒する求道者の実感です。狂子のまんまに右往左往する連中とは無縁です、いつのまにやら仏教のなにがなし、狐たぬきの類になって、世の中かき濁して、省みるさえなしに棺桶に入る、何度生まれ変わってもそれしきでは、そりゃまったくに情けないかぎりです。叩き甲斐もないんですか。

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2008年6月 8日 (日)

じゅりょうほん

当に断じて永く尽くさしむべし、仏語は実にして虚ならず、

仏の教えしか真実はなく、仏の導きしか救いはないということを、修すれば修するほどに見る、証すれば証するほどに知るんです。見るとは固定観念じゃない、見るほどに開けるんですか、たいていの知識観念は、知るほどに滞り、見るほどに蓋をするんです、知識の切り売りという思考停止、威張ってふんぞりかえるよりない。俗物狸奴白虎の類を生む、自然破壊し無駄遣いし、優雅さを欠く、まったくおもしろくないです。安心立命という転ばぬ先の杖、自分だけが得をしようという、どこまで行っても幼稚園です。そうじゃないんです、修すれば修する程に無一物、首くくる縄もなし年の暮れというほどに、そりゃなんにもない空っけつです=人間またものみなです、なんにもないから知識も優雅も美しさも喜びも完全するんです。たいてい何を説いたって聞く耳持たぬ連中、じっと我慢していて、てめえの番が来たらとくとくとして説きまくる、卑しい大人というよりただの老化現象ですか。仏教のぶの字も知らんくせに仏教の権威という、いえ仏教のみならず万端にわたってそういうことをしている。生きてないんです、かさぶたですか、臭い膿ぐらいしかてめえの取り柄がない、どうしようもこうしようもないです、恥知らずのみっともなさ、そんな人にはならんことです。仏とはなにか、赤ん坊のまっさらですよ、尽くすとはこれを長長出させることです、仏を説いて人に嫌われる人、そんなばかなことないです。花のよに開き、雲のように浮んで下さい、如来来たる如し、これを現ずる他になし、わかりますか。

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2008年6月 5日 (木)

じゅりょうほん

我が智力是くの如し、慧光照らすこと無量にして、寿命無数劫なり、久しく業を修して得る所なり、汝等智有らん者、此に於て疑を生ずること勿れ。

業という、人また人類のなすことこれです、最後の審判というそりゃご都合主義です、神というしばらく人間に似せたようなものはないです、これあればかれあり、因果歴然の他になし、取り付く島もなし、標準というもとおのれの他になし、よこしまにするか否かです。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。従身口意所生です、われというもとないものを私するによる、自分という痛い痒い、怒る貪る大馬鹿です、囘互と不囘互と会して更にあいわたるんですか、どうしようもこうしようもない、五蘊こんぐらがりコングロマリットですか。それも自分という一個というよりは先祖累代、あるいは周囲村社会など複雑怪奇です。善根山上一微塵も積むべし、生生世世を尽くして清々たるべし、成仏に向かって無駄な時を過ごすな、やっと今始まったばかりだ、さあしっかり坐れ、不惜身命だと云われて、どうもこうも悪がきたれの、生まれ卑しいいいかげんです、わしみたいなもの、いくら善根をほどこそうが、たとい百年坐ろうが、悟りはおろか仏の道は遠くて遠い、ほんにそう思ったことあったです。こんなのが救われるのか、なにぽっと出ぽっと消える、ほんのこれっから先と、老師は爪の先を示す、そうかとわしはまったく重石が取れたです。たといほんとうに仏にならずとも、こりゃなんとかなる、気が付くことさえ出来たらと。いえ因業ですか、性悪餓鬼のなかなか気がつかぬ、兄弟子の施設するのを聞いて、いったん開けてもじき閉じる。いくたび見性底あってもどうも落着せんです、坐りゃじき妄想ですか、ようしというんで、習い覚え持てる知識のすべてを只管打坐の俎板の上に載せた。逐一に抹殺して行った、そんなことをせずともと老師は云った、抹殺というんではなく透過ですか、なんの影響も受けなくなる。二年間やっていた、すると押しても引いてもなんにも出なくなった、ゲ−テだカフカだリルケなど文学、ピカソやセザンヌの近代絵画ですか、青春時代命を賭けたものがみんな邪魔です、破れ惚けて透明人間になりたかった、死ぬよりは出家ということだった。それは人間だというスフィンクスの謎について、老師に聞いたことがある、未だなんの謎も解いてはいないという答えだった。救いであった。これは個人的ないきさつです。わしは高校を中退した兄弟子と二人で住んでいた、彼に議論をふっかける、ことごとく負けた、如来の久しく業を修することかくの如し、学生やくざのはるかに及ぶ所ではなく、そうしていくぶんか智を取り戻す、参禅という、単純に間に合う。でも一番後にまで残ったのは、モ−ツアルトだった、彼が影響を脱する、出入り自由になるまでに二十年かかった、人をたぶらかす為の悪魔の発明、彼は人を虜にし、お釈迦さまは解き放つ、モ−ツアルトは就中心の友です。

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2008年6月 4日 (水)

じゅりょうほん

或いは時に此の衆の為に、仏寿は無量なりと説き、久しくして乃ち仏を見る者は、為に仏に値ひ難しと説く。

もとあるものに出会うのに難値難偶という、そりゃそういうことなんです、もと仏です、なんにもせずとも仏、だからおれはいいんだと、いくら決め込んでみても傍迷惑、淋しくうるさったいだけです、それをしも知識で塗固する、まあなにしろそういうのから脱して下さい。難値難偶はみな自分勝手よこしまのせいです、悟ったといっては、だからなにしてもいいんだという、ほんとうに困ります。あるとき接心に妄想煩瑣、これをなんとかしようとて闇雲に坐ったです、なんとかしよう、納めようなくそうとすればするほどに、妄想煩瑣です、そりゃ当然です、やってるやつが妄想です。なにしろ真っ黒けになってやっていた、四日間ぶっとうしてにっちもさっちも行かぬ、体力の限界、もうどうにでもなれと抛った。とたんにふわ−っとなんにもなくなる、すか−んとないんです、こりゃどうしたって、わずかに念を取り扱う念がなくなったんです。妄想が失せたんじゃない、心意識、念というものが失せればそりゃ脳死です、ぽっと出ぽっと消える所をそのまんまにしておく、雑草は引き抜いたら石の上にという、只管打坐の法が身に付いたんですか。実に妄想観念という、妄想観念もと我がものにあらず、ほっと浮かぶさえ我がことじゃない、こっちの責任じゃない、妄想という世間=自分ですか、心という器に去来する客です。もてなし終わったらさよならすりゃいい、不要なら手を付けなければいい。どうですか、これが出来たら、正しく救いでしょう、悩みとは何か、幽霊に取り付かれるんです。ぽっと出てもはやないものにしがみつく、だからどうだとやる、一日中やっているような気がしたりすると立派な心身症です。人はあるものには悩まない、ないもの、あるかないかわからないものにしてやられるんです、実の手応えがないからです。無心これ如来です、心は一つこと、真正面に向かい合うんですか、するとないんです、森羅万象鳥もけものも雪月花も無心でしょう、如来来たる如しです。あなただけがなぜ食み出して右往左往、まったくの余計ごとではないかと、はいまったくそういうことなんです。

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2008年6月 3日 (火)

じゅりょうほん

諸の有ゆる功徳を修し、柔和質直なる者は、則ち皆我身、此に在りて而も法を説くと見る。

ものごとを別け隔てなく見るということは、あるいは次第に難しくなっているのかも知れぬ、かたくなで偏って見る、思考力の欠如乃至は停止、文章が書けないなど、0×式知識とかなにかそんなふうです。そりゃ教育の欠陥もある、とても柔和質直とはいかぬ、国語教育など明治以来間違いっぱなし、大学教授という文学方面はどうも素人目にも、嘘ばっかりのてんぷら知識。どうなっているのか、地位に付くことが困難過ぎるのか、むかしから大学というろくでもないものなのか、なにしろさっぱり信用ができない。常識というにも浅薄で、みんな仲良く平和式の、そうねえ火中の栗を拾うような人がいないんですか、学芸員風の文化なんですか、ものみな命を賭けなければ得られぬという、重要さ、抜き差しならぬということが失われ、自分を棚の上に置いて、なにしろ字面だけはらしく立派なことを云う、つまらないビ−ルの泡のような。デジタル社会ですか、すると仏如来の説は遠くて遠いんですか、ですが空前の坐禅ブ−ムだという、ほんとうかどうかよくわからない、なにかしら今様の欠陥に気がつくのか、あるいは坐禅という今様欠陥なのか、はあてそんなことを云うつもりはなかったんだが、質直柔軟ということを、へそ下に手を置いてよくよく考えてみるのにいいです。ちょっと世の中から離れて見るゆとりですか、モ−ツアルトもバッハもベ−ト− ベンもしばらく聞いて、はてそうだったんかと思うほどに、なにか本当には演奏されなくなっている、時代の推移というには淋しいかぎりの。ヘルマンヘッセのフェユトン時代三百年ですか、するとますます頼りなく、ガラス玉演技のバックボ−ンは禅僧ですが、たといお話にしてももう三百年待つんですか、あっはっはわしはあと十年ほどか、とうてい待っちゃいられんです。坐禅は人為によらぬ、時代にも文明にもよらぬ、ただ一箇実にこれをなせばよい、他なし、風の谷のナウシカだって、ミイラではない禅僧に出会うはず。

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2008年6月 2日 (月)

じゅりょうほん

我浄土は毀れざれども、而かも衆生は焼け尽きて、有怖と苦悩是の如く、悉く充満せりと見る、是の諸の罪の衆生は、悪業の因縁を以て、阿僧祇劫を過ぎれども、三宝の名を聞かず。

我が浄土は毀れざれども、衆生は焼け落ちてという、末法の世だからというご都合主義曖昧じゃないんです、如来なければ焼け落ちる如くどん底です、仏なければ無明黒闇です、救いがまったくないんです、心してこれを知るべきです。キリスト教は邪教だというと百人が百人ブ−イングです、なぜかというと多数が信じて、二千年来続き、文化を持ち云々という、ではエジプト四千年の宗教を信ずるか、ミイラになるか、長かろうが多数決だろうが間違いは間違い、無明は無明なんです。まあそんなこと云えば切りがないんですが、要するに自分で確かめりゃいいんです、クリシュナムルティがいかに聖者に見えようが、ろくなことはない。オペラ歌手のようなインドの聖者ども、いかにも修行したらしいとんだ食わせものです、無心ではない有心だ。人の噂歴史の右往左往によらぬ、たった一つ自分自身の心です、おのれの目、いえおのれの通身もって確かめること、他になんの方法もないです。仏なければ無明の闇、なにをしてもなんにもならないんです。目に一丁字もない男があった、百姓であったが、お釈迦さまの我れと有情と同時成道ということを聞き、なんとしてもこれを得たかった。ついに中国にわたって正師を得る、正師これまっすぐな人には見えるんです、父に出会うが如くです、他にはないと知る。師は彼の手をとって掌に丁の字を書いて、これと示した、四年後についに丁の字に成り切るんです、ついに大法を得て帰る、仙台にある大きなお寺の開祖さんの話です。いいですか、仏教でなければこんなことはないです、必ず手続きいわく因縁がある、一器の水が一器に余す所なくなどいう、ややこしいいきさつが必要です。如来仏の法は拈花微笑です。なにを余計なことをと、大迦葉はくすっと笑ったんでしょう、これをご覧になってお釈迦さまが、八万四千の大衆右往左往を、我れに正法眼蔵涅槃妙心の術あり、挙げて迦葉に付囑すといって、仏法が今に伝わったんです。なぜか、人の作り物じゃないからです。だれであっても自分というわがままよこしまを忘れ去れば、本来を本当に継ぐことができます。今この法が絶えた、わがままひとりよがりだけです、憂怖と諸の苦悩かくの如く、ことごとくこれ充満するんです、無明とは寸毫の明かりも見えない。明かりと見えるのはすべてまやかしです、殺し文句とお為ごかしの、妄念の盥回しです、無為の徒のあげつらいする、騒々しく淋しく、なにものをも生まぬ。どうですか今の世はこれ、三宝の名を聞かずと、いいえ正師に出会うています。

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2008年6月 1日 (日)

じゅりょうほん

園林諸の堂閣は、種々の宝をもって荘厳し、宝樹には花果多くして、衆生の遊楽する所なり、諸天天鼓を撃ちて、常に諸の伎楽を作し、曼陀羅華を雨ふらして、仏及び大衆に散ず。

これは如来たとえば霊鷲山の住所の様子ですが、いまこの南閻浮台ですか、浮き世娑婆のの如来は如何、はい同じです。大死一番大活現成という、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありというんでしょう、わずかに個の頸梏がんじがらめを離れて、すなわち個、自分というものを解き放たれるんです、身心脱落です、元の木阿弥脱落せる身心底です。空じきるという無心、心のないありようです、すると見るもの聞くもの、まさにこのように美しく筆舌に尽くせぬふうです。水を掬すれば月掌に有り、花を拈ずれば香衣に満つ、なんの変哲もないただの風景です、月を仰いで忘我の良寛さんのように、ただの風景に100%いいえ200%暮らし尽くすんです。ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば。君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや。本当本来人の夢にも見ないところです。これさまざまに境地を云い、悟りを云い、仏教を百まんだらする人、かつてまったく届かないんです。坐って坐って坐り抜く、悟入し悟出する、涅槃ニ−ルバ−ナという、無覚の覚です、忘我してまた気がつく、どちらも箇のありようなんですが、自分を眺めていて二分裂しながら、どのみち仏だからという言い訳はなんにもならんです、不惜身命してそれを去るが修行です。そんな人だらけなんですが、そりゃ仏教以前です、しかも仏教というもとありっこないものを振り回す、はなはだ傍迷惑です、なにあったとて俗人俗物の自己弁護だけです、それじゃさっぱり面白くないんです。忘我あり忘我より出ずるありして、天人常充満です、園林諸堂閣を知る、すばらしいという脇見運転なんかないんです、まことにもって世界宇宙他にはなし、人類史も平和博愛もただの嘘っぱちです。宝樹多花果、衆生諸遊楽、以無所得の故にボ−ディサットバ修菩薩行はまさにこの道を行くんです。わしらは強制的に座禅しないです、なにあったとて坐だけは忘れない、たとい旅にあろうがです。それは坐のみが生活の本来だからです、喜びのこれに尽きるはなし、三百代言らしいことを云ってひけらかし知ったかぶりの人は、これが一目瞭然事を得て下さい、つまらんこってすよ。他人の思惑なんか二の次三の次です、如来仏のまわりには宝樹多花果、衆生諸遊楽、人みな寄って来ます、鳥もけものもですよ。諸天の天鼓を撃つ、曼陀羅花を雨降らす、とやこうは云わんです、実にこれを味わって下さい。三つの子供の智慧さえあれば存分に足ります、思想宗教などなんにもいらんです、資格を得るには勉強すりゃいい、ゼニを得るんならノウハウを知ればいい、用いるべきは用いりゃいい、でもたいていなんもかもうるさったいだけですか、ましてやありもしない仏教の噂など。

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