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2008年5月

2008年5月31日 (土)

じゅりょうほん

阿僧祇劫に於て、常に霊鷲山及び余の諸の住処にあり、衆生は劫尽きて大火に焼かるると見る時も、我此の地は安穏にして、天人常に充満せり。

如来不滅は、自然という人間に対して用いるのではなく、ものみなのありようです、もっとも我らもその中にあり、免れず。物理学の法則は、観察者を用いて、たとい正確無比といえども、真相じゃないんです。真相はもとこのように行なわれて、因果歴然です、寸毫もゆるがせにできんです。如来の一言覆するべからずという、大それたとんでもないことを想像すんでしょう、それは如来という噂です、仏という知ったかぶりです。知識の糞詰まりを起こして、にっちもさっちも行かぬ世代を、智慧ある人は脱け出そうとする、こうではないはずと知る、智慧の見えぬ人はなおさら知識をもってする、多数決ことなかれ主義、試験にいい成績を取る以外に方法がない、如来仏をそしるものこれ。仏とは何か、ほどけば仏です、自分=世間体ですか、自縄自縛するがんじがらめの縄を解く、ほどき終わればもと仏。如来来たる如し、花も草も月も水も如来です、人間以外みな如来。人間も如来としてこの世に現ずるのに、どういうわけか遠ざかる、思想分別というそれなければ社会生活が不可能にしろ、思想分別という不完全をもって如来を損なう、不幸の原因です。赤ん坊は王様ですか、にっこり笑うと百花開くんでしょう、もう一度そこに立ち返ることが就中出来ないでいる。今如来の方便力によってこれを示す、智慧のりんごのたとえやプシケ−のような、西欧文明にも同じたとえがあります、でも本来の解決を欠く。信仰に導いたとて、アラブとユダヤとキリストの兄弟喧嘩ですか、ついには共産主義の横着千万です、現実を見ない、そうではないんです。花や草木や鳥やけものや、山川瓦礫やものみなと、我らほんとうに一つことになる。他には帰る処がないと知る、単純を示すこれ禅です、人の宗教や思想によらぬたった一つです、狭義も広義もない、そんなややこしいこっちゃないんです。もう一度生まれ本来に戻って下さい、生まれる以前に、形あるものは必ず滅す、如来無心、衆生は劫尽きて大火に焼かれるとも、有史以来もさまざまなことがあった、でも如来同じ、安穏にして天人常充満、それゆえに誰彼手を伸ばせば届く、必ず救いがあったです。なにただあるがようにもどればよい、為には思想観念の我田引水、よこしまを去ること、思いの他の事実です。非思量底如何が思量せん、人を苦しめるものは思想分別なんです。主客転倒です、もと母屋ですよ、こっちが主です、思想観念は出入り自由、自縄自縛の不可能なおのれを知って下さい。

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2008年5月30日 (金)

じゅりょうほん

其の心恋慕するに因り、乃ち出て為に法を説く、神通の力是の如し。

恋慕するによりという、平面蛙の常識まっ平らから、一歩抜け出ようとする心ですか、これではどうにもならないと知る、安穏に暮らして一朝事あるとめちゃんこになるのが常識人です、めちゃんこになるなどしごく一般的です、そういう人が来てなんとかしてくれという、一日半日するとたいてい解決します。そうかといって満面に喜びを浮かべ、ぶち抜いて笑う、もっとも自分の問題かぎりのそれっきりということあります。これに反して知識を持ち、仏はこうあってだからどうのという人はなかなか行かない、十年二十年なんにもならずに、修行が進んだなど云っている。今の人仏教らしいなにがなしもって、それで自分自堕落を弁護しひけらかす、いいかげんだらしなさです。やっぱり臨済ふうの公案がいいですか、無字を得て来い、隻手妙音ですか、手に持った茶碗の中にころっと入ってみよという。入ったってなんにもならんというのは、そういう自分を見ている、つまり本当に入ってないんです、しかりなんにもならぬこれ本来、雨滴声あり、汝これ彼にあらず彼まさにこれ汝。理解ではどうにもならぬ、破家散宅をもって初めて見るんです、非思量底思いの他の事実です。たった一通りしかない如来の声です、汝聞かんと要すやと、これ卒啄同時学人と師家の問題です、師家も本当のことを知らなけりゃ学人も学人ならず、百方まさに恋慕の心届かず、渇仰心という夢にだも見ず、如来未だ現れずですか。いえ渇仰心あれば常に現ず、恋慕の心あれば必ず声を聞く。云い訳申し訳から離れて、必然まっしぐらです、即成就仏身、もと仏を知るとは成仏しなけりゃ知られんです。今の人理屈をもってして、成仏なというは絵空事です。如来の神通も遠くて遠し。

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2008年5月29日 (木)

じゅりょうほん

汝等これを聞かずして、但だ我滅度すと謂えり、我諸の衆生を見るに、没みて苦海に在るが故に、為に身を現さず、其をして渇仰を生ぜしむ。

いくら云ってもさっぱり聞こえぬ、自分というなにがなしを持って頭がいっぱいなんです、さっぱり入って行かない、却って如来を説き伏せようとする、まったく滑稽です。おれはこうだからこうあるべきという、ただこれもって突っ走る、そりゃどうしようもないです、意識の退廃ですか、多数決をもって一般となし、心理となす、見るべきものもない、一般に外れることが恐ろしいんですか。渇仰の心を生ずるよりも、自分という最大多数を敷延する、ただそうするっきりなのに、これを求道心と履き違え、仏教らしい知識に振り回されて、知ったか振りを仏智慧と勘違いし、却ってもって踏ん反り返る、それがまた異口同音にそうです。如来の出る幕はないです、引っ込むよりない、如来の声を聞く一人二人、ただ一人二人のみこれを習うより仕方がないんですか、だったらそうします。如来は為に身を現わさず、苦海になげうったままにして、渇仰を生ぜしむ、時は未だ。空前の坐禅ブ−ムだと云いながら、真実を求める人皆無、らしいようなあるいは健康など、心意識思想の整頓など、心をまたおのれを物とみて、いいアクセサリ−を求め、またはブランド品なんですか。坐禅を指導する人がいない、知る者がいない、でたらめどめくらです。とつぜん真龍ですか。如来を見ては猛然拒絶する、もっての他だ、常識の平和安穏に反する、罪悪だと云う、だって方寸に会わないではないか。いえさ、おれはえらいんだから云うことを聞け、あっはっはまったくそんなふうの、こりゃ説得不可能。掲示板の始めのころはまだなんとかなったですか、今はどん底です、では時が来たか、はあてね。

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2008年5月28日 (水)

じゅりょうほん

余国に衆生の恭敬し信楽する者あらば、我復た彼の中に於て、為に無上の法を説く。

たといどこにあったとて、恭敬し信楽、そうです無理矢理信ずるのでなく、信じる者は救われるというお為ごかしじゃないんです、無上楽です、本来人のありよう楽しく、歓喜に満ちて、独立独歩すなわちそのもの自身です、如来を敬い恭うするもの、来たる如しのこれは森羅万象です、宇宙世界全体がまさしく、我が辺に現ずるんです。彼の中に於て無上の法を説くと、見よ見よものみなかくの如く、他にはまったくなしと見る、自ずからに知る他はなく、如来たとい滅と不滅とありといえども、常に此に住すと、常にこの中にあって、たとい気が付かずとも大海の波なお証せずんば現れずと、一心欲見仏です。仏だからそれでいいという俗流ではまったく不可、ただちに真正面する唯一心です。これは無心です、これなくんば右往左往、ただいたずらに騒がしく付和雷同です、自分のありようを主張するだけです、人間というたとい戦争の原因にしかならんです。無上の法とはなにか、よこしまにしないんです、自ら規矩を律することなかれと、おのれの取り柄がまったくないんです。以無所得の故にボウジサットバ修菩薩行です、パ−ラミ−タ−彼岸にわたる実智慧です。証拠することをのみ、如来の意志です、仏の本来です。おのれなければ現ずる、為に無上の法を説く。

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じゅりょうほん

余国に衆生の恭敬し信楽する者あらば、我復た彼の中に於て、為に無上の法を説く。

たといどこにあったとて、恭敬し信楽、そうです無理矢理信ずるのでなく、信じる者は救われるというお為ごかしじゃないんです、無上楽です、本来人のありよう楽しく、歓喜に満ちて、独立独歩すなわちそのもの自身です、如来を敬い恭うするもの、来たる如しのこれは森羅万象です、宇宙世界全体がまさしく、我が辺に現ずるんです。彼の中に於て無上の法を説くと、見よ見よものみなかくの如く、他にはまったくなしと見る、自ずからに知る他はなく、如来たとい滅と不滅とありといえども、常に此に住すと、常にこの中にあって、たとい気が付かずとも大海の波なお証せずんば現れずと、一心欲見仏です。仏だからそれでいいという俗流ではまったく不可、ただちに真正面する唯一心です。これは無心です、これなくんば右往左往、ただいたずらに騒がしく付和雷同です、自分のありようを主張するだけです、人間というたとい戦争の原因にしかならんです。無上の法とはなにか、よこしまにしないんです、自ら規矩を律することなかれと、おのれの取り柄がまったくないんです。以無所得の故にボウジサットバ修菩薩行です、パ−ラミ−タ−彼岸にわたる実智慧です。証拠することをのみ、如来の意志です、仏の本来です。おのれなければ現ずる、為に無上の法を説く。

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2008年5月27日 (火)

じゅりょうほん

我れ時に衆生に語らん、常に此に在りて不滅なれども、方便力を以ての故に、滅と不滅と有ることを現ず。

如来の声を聞く、自分というよこしま知ったか振りが消えるんです、自己を謀って仏らしいものを作る、若しや幸福で実りあるものにみえる、奪い取られ消えることは、不幸で淋しいんですか、だからアチャチャさんのように、積み重ねしまいにはゴ−ルがあると夢見る。現状弁護から一歩も出ない、それじゃ仏もへったくれもない、多数決の世界ですか。常に此に在りて不滅なり、ものみな不変です、自我の思慮りによらんです、心理学や思想宗教の延長上にはない、衆生に語らんと、そういうものをまったく離れるときに、実に如来の声を聞く、我れ語るか、草木が呼ぶか、実の声を聞く驚天動地、我でないものが語るんです、方便力によりて滅と不滅と有ることを示すと。何が故に、ただただ心意識、おのれもて心を運ぶが故に滅あり、心の失せる、おのれというよこしまの消えるに従い不滅ありを知る、実にはっきりしています。個人に於ても集団に於ても同じです、わずかに坐って涅槃に入る、涅槃に入るとき無我です、心意識なければ、涅槃を知ることはできないんです。悟入し悟出し、我と有情と同時成道を見る、直に滅と不滅とあることを知るんです。如来現ずるとき如来を知らず、如来滅するとき如来を見ず、三千世界というんですか、この世浮き世も人生も、その意味とは如来滅し如来不滅というこれ以外にない、これを知る仏教です。知るとは第三者を介さないんです、自分はこうなった、こうだからという言い草は嘘です。仏教を学問したといノウハウも不可能です、滅と不滅を知る、ただこれ以外にないことをよくよく知って下さい、でなけりゃ世界まったくナンセンスです、無知蒙昧これ。匙を投げるっきゃないです。

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2008年5月26日 (月)

じゅりょうほん

衆生既に信伏し、質直にして意柔軟に、一心に仏を見奉らんと欲して、自ら身命を惜しまざれば、時に我れ及び衆僧、倶に霊鷲山を出ず。

そうですねえ、今の人どうにもこうにもっていう所があります、自分というなにがなしかを眺め暮らすんでしょう、悟ることがあった、修行した、よくなった云々、アチャチャさんという人の言い草にまったくよく出ています。眺められている自分の是非善悪じゃない、眺めているほうの自分の問題です。二分裂ですか、もうないはずのものを見ているんです、実は世間一般たいていそうやってます、これ仏の道じゃないです。自分をなにがしかに見立てて立派にしようという、醜悪というより架空現象です、いくらいじりまわしたとて幼稚園自堕落を、仏法という知ったか振りによって弁護しようという、こりゃまあ罰当たり。もと仏法も仏教もないんです、彼岸に渡るパ−ラミ−タ−、自分というよこしまを去る、自分という此岸から、自分のない彼岸へ、心経にあるこれだけが仏の希求です。それを履き違えて、仏らしいものを形作る、いかにも無心だといい、如来来たる如しという、猿の月影を追うほどに、だんだんよくなる法華の太鼓ですか、自他ともにこれ手前味噌。本当を云えば目くじら立てて怒るばかり。ながらく模造と習って真龍を怪しむことなかれと、求める心が違うんです。あるいはいいかげんな師に就いて妄想そのまんま可としたんですか、尾ひれを振るのもどうしようもないんです。渇仰の心が希薄なんですか。他にひけらかすものあればそれでよしとする、ふしだらどうしようもなさ。中高年というこういう連中には見飽きるほどに、転ばぬ先の杖を仏法だと思い込む、安楽椅子に座ってふんぞり返っている、取り去ろう、ひっぺがそうとすると大騒ぎだ、おろかな。足なえになる、自分で自分の首を締めていることに気がつかない。成長点の止まった葦です。そうじゃない仏なんにもなしは、赤貧洗うが如くというも百歩遅いんです、いてもたってもいられないというほうが正しい。赤ん坊の成長点を露はにするのが仏法です。三世の諸仏知らず、狸奴白虎却って是を知ると、仏はなんにも知らないです、ゆえに一目瞭然なんです、どんなに言い繕おうと無駄です、よくよくこのことを知って下さい。若い人はまた、おむつを取り替えられながら文句百万だらですか、思想概念を徘徊して思想概念の何たるかも弁えず、否定も肯定もまったくの無意味。てめえの足で歩いたためしもない。渇仰心もなけりゃ、信伏する智慧もなし。質直なんていう言葉我が辞書にないんですか、すなわち意柔軟とはそりゃもう遠くて遠いんです、こりゃ仏教以前の問題です。仏教を云う人初心も、二三十年の古参も、異口同音におれはいいんだ、だからと云うのが聞こえてくる、此岸の服装を塩梅するだけの、ただもうあほらしさ。一心に仏を見奉らんと欲して、身命を惜しまず、ただこれだけが仏の道なんです、仏教も仏法ももとそんなものはないんです、ないものを身に就けてひけらかす、まったくのナンセンスです、身命をなげうって下さい、かつがつに仏が見え、実に如来現ずるにあい会う。

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2008年5月25日 (日)

じゅりょうほん

我れ常に此に住すれども、諸の神通力を以て、顛倒の衆生をして、近しと雖も見えざる衆、我が滅度を見て、広く舎利を供養して、咸く皆恋慕を懐きて、而かも渇仰の心を生ず。

我れ常に此に住すれどもとは、如来現前しているんです、宇宙ものみな森羅万象、獅子吼して、我れと有情と同時成道は、常に正に起こっています。己れだけが外れてわずかに異論を呈す、せっかく無心であり涅槃でありする平和に齟齬を来す。諸の神通力をもってという、人間ものみなの機用、神変不可思議です。固定化し滞るなければ、怠慢でありふしだらであり思想の酒に囚われ、宗教の独り善がりに振り回されることなければ、己れ本来人に帰る他なく、神通力とはすなわち本当に復帰する力を示す。顛倒の衆生とは、主客転倒事です、軒を貸して母家を取られる、思想妄想という見たふう聞いたふうの客に、ひっかきまわされて、実の思いがお留守になるんです。近き悟りを現わす、これを無作の功徳とす、無為の功徳とすと、十方法界の土地草木牆壁瓦礫みな仏事を為す以外にないというのに、見れども見えず、会えども会えず、すなわち顛倒夢想の故にです。かつて方便により如来滅す、如来滅度を見て、広く舎利を供養しと、仏舎利お釈迦さまのお骨を、塔を立てて祀り、これを供養し、たとい再来を願う。末世に再来して一花五葉の春を現ずと、どんげ再び花開くことを念ず。咸く皆恋慕を懐きて、しかも渇仰の心を生ず。如来現ずれば、まさにここにあり、如来滅すれば恋慕し渇仰す、はいこれをのみ世間であり人生です、日月星辰であり自然です。いえあなた一箇の問題でよろしいんです、如来を自覚し実にこれに住す、如来失せれば帰心矢の如しです、いても立ってもいられんです。本来人、他に別にあるはずがないんです、なによりも己れ自身が痛切にこれを知る。

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2008年5月24日 (土)

じゅりょうほん

衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず。而かも実には滅度せず、常に此に住して法を説く。

衆生済度の法は、涅槃に入るをもってす、涅槃といって別に特別なものではないのです、妄想我欲の故に、本来に帰ることを知らず、自我というよこしまの故に、仏の姿を見ず、無心という、もと心のないありようを夢にだも見ず、この故に方便をもって涅槃を示す、涅槃を現ずるんです。如来来たる如しの実際です、他にはこれっぱかしもないんです、他の思想宗教等の言い訳申し訳の余計、いたずらが微塵もないんです、実にこれを如来というんです。花は花に似て、花のようにあるんです、ものみなかくの如く、だれあって如来を現ずることは、いたずらをなくす、もとあるがようの赤裸々の故にです、付け足すことのない本来心です。無心、心がないんです、知る能わず、無覚の覚です。それ故に如来滅後という、たといお釈迦さまが遷化する、涅槃という浮き世を去るに及んでも、実には滅度せず、常にここに住して法を説くんです、渓声山色わが釈迦牟尼仏の声と姿と、まさに宗門の示すところこれです。

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2008年5月23日 (金)

じゅりょうほん

我れ仏を得て自り来た、経たる所の諸の劫数は、無量百千万、億載阿僧祇。

劫も阿僧祇も数え切れないほどの、一0の五六乗などいう、四国くらいの岩に百年にいっぺん天人が降り立って、その衣にこすって岩が消滅するまでを一劫などと、落語にある五劫のすりきれですか。我れ仏を得てより、ここに来たる、現前するというんですか、現れ来て無量の時を経る、百千万億阿僧祇劫というんです。それでも時を経過するという感慨があるから面白いです、如来来たる如しの仏です、仏を得るとはどういうことですか。自分というわたくしという架空、面の皮を破り去る。もと自分のものではないのにわたくしする、そのよこしまを返上するんです、するともと仏です。気が付いたら如来であった、無量阿僧祇劫行なわれていた仏如来であったというんです。たまたまなんの因果か、須臾のひまを、人間といい、なんのだれがしという仮の姿をしておった、たった今元に立ち返ったというのです。如来があって他なんにもない世界です、はいこれが仏教の根幹です。

常に説法して無数億の衆生を教化して、仏道に入ら令しむ、爾しより来た無量劫なり。

如来わたくしなし、来たる如し花のようにぽっかりと開くんです。自分が自分に首を突っ込む無様をしない、省みるに我れなし、すなわち省みるなし、すべては為人の所、常に説法して無数億の衆生を教化して、仏の道に入らしむ、無量劫行なわれるんです。雪月花常説法教化です、無数億の衆生仏道に入る他にはなし、これを尽大地といい日月といい宇宙といい地球というんです、我らがありようこれ、存在といい生き甲斐という、まさに他にはなし。

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寿量品げ

妙法蓮華經如來壽量品第十六(法華経)
(みょうほうれんげきょう にょらいじゅりょうほんだいじゅうろく ほけきょう)

自我得佛來 所經諸劫數 無量百千萬 憶載阿僧祇
(じがとくぶつらい しょうきょうしょうこつしゅ むりょうひゃくせんまん おくさいあそぎ)
常説法教化 無數億衆生 令入於佛道 爾來無量劫
(じょうせつぽうきょうけ むしゅおくしゅじょう りょうにゅうおぶつどう にらいむりょうこう)
爲度衆生故 方便現涅槃 而實不滅度 常住此説法
(いどしゅじょうこ ほうべんげんねはん にじつふめつど じょうじゅうしせっぽう)
我常住於此 以諸神通力 令?倒衆生 雖近而不見
(がじょうじゅうおし いしょじんつうりき りょうてんどうしゅじょう すいごんにふけん)
衆見我滅度 廣供養舎利 咸皆懷戀慕 而生渇仰心
(しゅけんがめつど こうくようしゃり げんかいえれんぼ にしょうかつごうしん)
衆生既信伏 質直意柔? 一心欲見佛 不自惜身命
(しゅじょうきしんぶく しちじきいにゅうなん いっしんよくけんぶつ ふじしゃくしんみょう)
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
(じがぎゅうしゅそう くしゅつりょうじゅせん がじごしゅじょう じょうざいしふめつ)
以方便力故 現有滅不滅 餘國有衆生 恭敬信樂者
(いほうべんりきこ げんうめつふめつ よこくうしゅじょう くぎょうしんぎょうしゃ)
我復於彼中 爲説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
(がぶおひちゅう いせつむじょうほう にょとうふもんし たんにがめつど)
我見諸衆生 没在於苦海 故不爲現身 令其生渇仰
(がけんしょしゅじょう もつざいおくかい こふいげんしん りょうごしょうかつごう)
因其心戀慕 乃出爲説法 神通力如是 於阿僧祇劫
(いんごしんれんぼ ないしゅついせっぽう じんつうりきにょぜ おあそうぎこう)
常在靈鷲山 及餘諸住處 衆生見劫盡 大火所燒時
(じょうざいりょうじゅせん ぎゅうよしょじゅうしょ しゅじょうけんこうじん だいかしょしょうじ)
我此土安穩 天人常充滿 園林諸堂閣 種種寶莊嚴
(がしどあんのん てんにんじょうじゅうまん おんりんしょどうかく しゅじゅほうしょうごん)
寶樹多華果 衆生所遊樂 諸天?天鼓 常作衆伎樂
(ほうじゅたけか しゅじょうしょゆうらく しょてんきゃくてんく じょうさしゅぎがく)
雨曼陀羅華 散佛及大衆 我淨土不毀 而衆見燒盡
(うまんだらけ さんぶつぎゅうだいしゅ がじょうどふき にしゅけんしょうじん)
憂怖諸苦惱 如是悉充滿 是諸罪衆生 以惡業因縁
(うふしょくのう にょぜしつじゅうまん ぜしょざいしゅじょう いあくごういんねん)
過阿僧祇劫 不聞三寶名 諸有修功德 柔和質直者
(かあそうぎこう ふもんさんぽうみょう しょうしゅくどく にゅうわしちじきしゃ)
則皆見我身 在此而説法 或時爲此衆 説佛壽無量
(そくかいけんがしん ざいしにせっぽう わくじいししゅ せつぶつじゅむりょう)
久乃見佛者 爲説佛難値 我智力如是 慧光照無量
(くないけんぶつしゃ いせつふつなんち がちりきにょぜ えこうしょうむりょう)
壽命無數劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑
(じゅみょうむしゅこう くしゅごうしょとく にょとううちしゃ もっとししょうぎ)
當斷令永盡 佛語實不虚 如醫善方便 爲治狂子故
(とうだんりょうようじん ぶつごじつぷこ にょいぜんほうべん いじおうしこ)
實在而言死 無能説虚妄 我亦爲世父 救諸苦患者
(じつざいにごんし むのうせっこもう がやくいせぶ くしょくげんしゃ)
爲凡夫転倒 實在而言滅 以常見我故 而生?恣心
(いぼんぶてんどう じつざいにごんめつ いじょうけんがこ にしょうきょうししん)
放逸著五欲 堕於惡道中 我常知衆生 行道不行道
(ほういつじゃくごよく だあくどうちゅう がじょうちしゅじょう ぎょうどうふぎょうどう)
隨應所可度 爲説種種法 毎自作是念 以何令衆生
(ずいおうしょかど いせつしゅじゅほう まいじさぜねん いがりょうしゅじょう)
得入無上道 速成就佛身
(とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん)

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2008年5月17日 (土)

ほうきょうざんまい

潜行密用は、愚の如く魯の如し、只能く相続するを、主中の主と名ずく。

今の宗門は御開山禅師に後足で泥を掛けるが如く、達磨さんに毒を盛る如く、いやただもう仏教のぶの字もなく、お寺に生まれたから説教で、紙ぺら一枚をもって滴滴相続底の血脈とし、知ったか振りの仏説をただもう自堕落のおのれを弁護に用い、葬式稼業銭金だけの、いいかげん病理学上の対象になるような、坊主百万だらごんずい固まりです。こりゃもうどうしようもない、求道心のない坊主なぞまったくのナンセンスです。この中にあって出家修行はそりゃもうなんたって潜行密用です、悪罵の毒を歓喜しとあるように、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶをもっぱらにす。では娑婆世界に大法をもってと、娑婆世間坊主よりも仏に疎く、四面楚歌ですか。愚の如く魯の如くする以外そりゃまったく方法がないです。臨済宗に法を得て、悟ったの免許皆伝などいう、僧籍も在家の幾人も、どうもこれ本当、本来人とは程遠いものがあります。却って仏の邪魔なること、なまなかではないです。悟りという公案という、転ばぬ先の杖ですか、仏教何段というがごとく、おのれ安楽椅子に坐って、他にひけらかす以外になんにもない、こんなものども初心よりよっぽど遠いです。曹洞宗は威儀即仏法などいって、無心にはあらず、おのれ何物かと見做すに於ては、きんぴか衣装を来た猿芝居です、人間のくずだ。そうかと思えば、ヤフ−だの2チャンネルだのいう、若い連中は仏教と白昼夢をごっちゃにする、思想にもならぬ思想をふりまわし、おむつを替えて貰いながら文句百万だらの、いつまでたっても新成人ですか、ふわ −あもう止めた、こりゃ切りもない話。相撲と同じように日本人は滅んだんですか、昭和天皇に殉死すりゃよかったと、つくずく思う昨今、あっはっはさあどうすりゃいいかといって、そんな連中のことはどうでもいいです。ただよく相続するを主中の主と名ずくとは、もっともこれおのれ知るんです、端に為にす、たとい地球滅んだとて、他に為すことはないです。たった一人だろうが、自然とはこれお釈迦さまです、道元禅師がついています、なんにも淋しい辛いことないです。笑いあり歓喜ありは仏の喜怒哀楽です、うっふっふ全世界宇宙のっとって下さい、さあさ無常楽を知る一人二人。

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2008年5月16日 (金)

ほうきょうざんまい

臣は君に奉し、子は父に順ず、順ぜざれば孝に非ず、奉せざれば輔に非ず。

世の有り様はこれに従うがよくということです、戦争の時は戦争平和の時は平和というと、今の世猛反対を食うんですが、一億玉砕鬼畜米英なんて時もあった。長いものには巻かれろ、付和雷同舟に竿差す如くですか、そうではないんです、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、混ずる時んば所を知ると、オウム真理教は真である、わけのわからんものはポアしろやらないんです。キリスト教のいう世間事は世間に任せというのもまた違います、神の子としてこうあるべきだからというんじゃないんです、十字街頭はまるっきり無防備のすっぱだかです。信心あるいは信不信の拠所がないんです、だからこうだおまえは悪い善いという代わりに因果歴然です、取り付く島もなしなんです。これをよく見て下さい、仏教学者説教坊主のいう、仏教は臣は君に奉し、子は父に順ずをもって根幹とする、これこそ真なりなんてたわけたことは云ってないんです、そりゃ有心です、必ずどっかでポアします。順ぜざれば孝に非ず、奉せざれば輔に非ずと、当然の帰結ですか、これあればかれありと云っただけです。もっとも出入り自由です、あるとき是と云いあるとき不是といい、無心にしてまったく疵つかず。仏本来のありよう、たとい四十六枚の歯のうちの舌のようですか、時に舌を噛んでぎいっということあったって、世間哲学歴史などいう、または詩歌芸術という人類財産、あるいは人類そのものと、てんから捉われのない付き合いです、命さえも時によりなげうつんです、そうしてもって未来永劫仏だけがあります。水に映る影の如くですか、いいえ実際如実なんです、宝鏡三枚これ、現実であればあるほどに、一年三百六十五日夢です。

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2008年5月15日 (木)

ほうきょうざんまい

木人方に歌い、石女起って舞う、情識の至るに非ず、寧ろ思慮を容れんや。

仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなりとあります、理屈ははっきりしています、仏道といって別段あるものじゃないです、人とものみなと、我れと彼と各々あるっきりです、ではおのれというこれを明きらめる、万事解決済みです。自己を習う、自分を知るとは自分を忘れることだ。なぜなら自分を知るもの自分だからです、知っている間は嘘です、自分という二分裂ですか、忘れる以外に本当を知るすべはない。お釈迦さま菩提樹下に於て明星一見の事ですか、我と有情と同時成仏。まったくの忘我であればもとより知らぬ、一念起こって知る、我というものまったくなしにものみななんです、これが仏教のすべてです。もっとも長長出させるんです。学者坊主どものはるかに知る能はず、説教だのおためごかし偉そうだののない、ただのこれ真相です。真相の中のあるいは七転八倒です。森羅万象鳥もけものももとあるようにある、人間だけがなにがどうのとやこうと、てめえに首突っ込んで歩く、異様な風体です。これを元の木阿弥に戻す、一切事に於て省みずです、省みるべき自分がないんです、木人まさに歌い石女たって舞う、始めて地球のお仲間入りです。むしろ思慮を容れんや、情識の至るにあらず、歌うとき全世界歌うんです、無音、手の舞い足の踏む所を知らず、絶学無為の閑道人ですか、妄を除かず真を求めず。これまったくただの人、なんになりたいといって、そりゃただの人になりたいんです、我と有情と手を取り合って行く、そうです、極楽浄土なんてややこしいものない、空の雲さへはるかに人為を絶するんです、なんにもいらんのです、歴史宇宙もみなこのわが一箇と等価ですか、いや必要とあれば取り替える。

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2008年5月14日 (水)

ほうきょうざんまい

げい(羽に升のノなし)は巧力を以て、射て百歩に中つ、箭鋒相値ふ、巧力何ぞ預らん。

げいは弓の名人で、その師匠と百歩離れて射会ったところ、ことごとくの箭が鋒とやじりが当たって落ちたという、そりゃもう信じられぬほどの巧力、手練の技ですか、ところがこの事はいつだって箭鋒あい会うんです。ただやりゃぴったり、やらいでもぴったり、そりゃものみな法の大海、仏の一挙手一投足です、当たらぬはずはないんですが、だからといって修行もなく修行を卒業するもなく、無手勝流ほれこのとおりなど云ったってなんにもならんです。なんにもならんとはそりゃ面白くもなんともないんでしょう、シャバの苦労さんざくたをもって解決といったって、幼い我がままのまんまひねくれて、知らぬはてめえばかりなりです。そうではないんです、終に尽くすところを尽くしてもって、そやつの底が抜けるんです、シャバ人の百人分ほど卒業しますか、もってなんだおれはとあるいは云うんです、虎を描いて猫にもならず、もとの鼻たれ栄造生、でもさそういう良寛さんを如何ともし難し。現代などかすみたいなもんですか、月を仰いで忘我、生きたとはこれ未来永劫です、若しや再び生まれ変わっては来ないんです。如来という雪月花、いえ人間の如来は人間に同ぜるが如し、雲行いて雲の如く空を底無し。木人方に歌い、石女起って舞う、これ人類の至宝、一兆円をもっても購い難し。いいえ嘘は云はんです、四の五の云っている浮き世の他にいつだってこういう真相が開けているんです、いったんシャバ世界を脱してみて下さい、仏の救いです、それ不可能ならそりゃこの世の意味がないんです。

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2008年5月13日 (火)

ほうきょうざんまい

下劣有るを以て、宝几珍御。驚異有るを以て、狸奴白狐。

下劣があれば宝几珍御がある、珍品宝物のことです、坐っていてもそりゃ普段常識に於てもです。坐禅は温室と云われる、坐っていて起こったことあるいは省みること、処置したことが次には実際に、現実に花開くんです、人間の真剣そのものです、逐一にゆるがせにしないんです。下らない、劣等に思えば、宝物珍品あり、驚異に思うことあれば、犬猫のようなろくでもないことがある。実はものみなに価値の優劣なんかないです、ダイアモンドは千万円するにしても、土くれは作物を育てるなど、ものみな時所位です、時に当たって人の選択に拠るということだけです。それを坐っていても、こうあればいいこれは悪いやるんでしょう、妄想煩瑣は悪い、清々すぱっとしていりゃいいとか、あるいは悟った、とんでもない境地、天才などめじゃない絶対だなど、すると平凡だつまらないという種々です。たいていだれしもそんなふうなんですが、仏道垂成十劫樹の原因はこれなんです、下劣以下あるをもって必ずどうにかしよう、でなけりゃ納まらんがあるんです。どこにどんなふうにどうあろうと是非善悪なし、そのもの即今です。これを知るみな消えるんです、下劣も驚異も、宝几珍御も狸奴白虎もなんにもなくなるんです、目を向けるともうないがこれです、真正面向く=無です。どうかここまでやって来て下さい、仏教を知る、ただこれ因果必然を知るというだけになる、ものみなのありようがまったく手に入ります、達磨の不識知らんわいです、廓然無聖です、どんなに画期的比類ないことか、人類の智慧すべてを卒業したと云い得るものなんです、仏教とはなにか、元の木阿弥です、人本来、疵なしの玉。ものみなに掌指すんです、どうかこれを得てください、始めて一箇役に立つんです。

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2008年5月10日 (土)

2008年5月 接心提唱

2008年5月の接心にて、普勧坐禅儀の提唱です。

1日目「2008.5,1.mp3」をダウンロード
2日目「2008.5.2.mp3」をダウンロード
3日目「2008.5.3.mp3」をダウンロード
4日目「2008.5.4.mp3」をダウンロード
5日目「2008.5.5.mp3」をダウンロード

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ほうきょうざんまい

仏道を成ずるになんなんとして、十劫樹を観ず、虎の缺けたるが如く、馬の夜目の如し。

成ずるになんなんとして、どうにも行ったり来たりなんです、だれしもこれを思うんです、お釈迦さまには仏道はなかったです、すると成ずるになんなんとして、一回的すんなり行くんです。だれしもそりゃ一回的なんですが、こうすりゃこうなるノウハウですか、たれそれはこうやっただからとか、当然にのしを付けるんでか、虎は人を食い殺すと耳が缺かけるという、一人殺せば一つ裂けは、猫又大明神にお参りする猫とこれも民間伝承ですが、大死一番するたんびに、虎の缺けたる如く、すんなり終わればいいものを、また鑑がみるんです、悟っても悟ってもお釣りが来てしまう。馬の夜目は馬の足には夜目というものが付いていて、それで平らかに歩くという、暗夜に枕頭を探るが如くすれば行くものを、常注釈付きですか、ひっかっかりとっかかり終になんにもならず。これ参禅の人たいていこんなんです。苦労し過ぎるんですか、あるいは現実を肯えぬなにかしらあるんですか、そりゃ今の世そうだからって、今の世卒業すりゃいいんです。忘我しながらなおさら忘我を求める、忘我は求める限り来ない、眠ろうとすると眠れない理屈です。なんでもありのめちゃくちゃかえって親しく、標準失せればもとこれ、触れようが触れず、大火聚また空の空なるかなです、どこへ行こうがそのもの即今。大通智勝仏十劫坐道場と、便利都合のがいて、ではわしも仕方がないとやる、じゃ仕方がないでいいのか、よくないから十劫坐道場です、別段のことはない、大海中の大海なんです、鑑みることそれ自体、なんの障りもないことを知る、いえたいして手間暇かからんです、いつのまにか過ぎる、記憶にないんですよ。

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2008年5月 9日 (金)

ほうきょうざんまい

古轍に合はんと要せば、請ふ前古を観ぜよ

どうしてもむかしのありようを見ることから始める、実際はそんな必要はないんですが、すると手前勝手よこしまです、悟ったといい野狐禅ですか、あるいは思想趣向の問題我田引水です。仏教の他にはそれでも通用するというより、なにかしらになって是非を管するんですが、なんにもない教え、なんにもないをも知らぬ教えはどうでもこうは行かんです、古轍を抜きん出て来ないとそりゃ問題にならんです、この故に本来人です。まことにもって本来人の希少なんともどうも言い様にないほどです、一人二人今の世いるかいないか、百年二百年にわたって、一人二人いたかいないかってとこですか。正師にも惑わされ邪師にも惑わされと云ったのは飯田とう(木へんに党)陰老師ですが、飯田老師のまた鑑みるには、何人もいないという感慨です。嘘とはったりでたらめばかりの世の中ですが、ましてや仏の世界はお笑い草です。白隠禅師というからにどうも江戸時代的というんですか、鍛え抜いた手だれのような、だいぶおかしいんです。今一休さんの書のレプリカを床の間に掛けています、「薫風自南来」です。そのまあ筆法もないのが、辺りを席巻する、ふわ−すげ−なあといって見る、まるでまあ黄檗のように大唐国に師家なしと云って風です、悟故十方空です。これ対になっていて、「殿閣生微涼」と続く、一休命がけでやってます、一休頓智という謎かけ問答じゃない、本来人の抜き身です、首根っこに突きつける、ようまあ生きていたもんだ、そんなにしてやっとこさ、殿閣、世間ごったくさにわずかな涼風が起こる。一休の真似して寺を追ん出され、良寛さんもまったく負けてはおらんです、一人遊びぞ我れは勝れると、独立独歩一歩も引かぬ。遠来の客をもてなすのに月を仰いで忘我、良寛さんあと云われて道ばたにぶっ倒れたり、いやはやなんともこれ。どうですか真似してみますか、古轍真似事じゃかすっともかすらんです、いえかき汚すだけです。一宗を樹立するという真人間これ、さあやってごらんなさい。

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2008年5月 8日 (木)

ほうきょうざんまい

其の顛倒に随って、緇を以って素と為す、顛倒想滅すれば、肯心自ら許す。

顛倒夢想という、かつてはまさにこれと指示したものが、今のわしには顛倒なるものがわからない、なぜだろうかといってそれもわからない、妄想も顛倒もそういう影らいなきにしもあらず、はてなっていう感じの、あっはっはこれじゃ提唱にならん、なんとか振り返り見るによし。顛倒夢想の故に、仏を求むるのに遠くて遠いんですか。主客転倒という、妄想思想はいわば客です、主は自分であるのに軒を貸して母家を取られ、思想分別が主となって、それにひっかきまわされてさんざんな目に会う。声色の奴卑と馳走すという、やれ共産主義だ、オウムの真理だ、イエスさまだ、だからといって奔走するんですか、せいぜいが妄想思想の種類別け、こっちの神さまのほうが信じやすい、担ぎやすい時流に合っている、あるいは歴史が古いなど、人間は何かに囚われるを以て人間となすんですか。殷の神さま饕餮もインカ帝国の心臓を食う神様も、人間が生み出したものだ、エジプト四千年の宗教も今になってまったくわけもわからん、キリスト教二千年もこりゃいったいなんだといいたくなる。本末転倒事、共産党の如く、未だもって見るに耐えない現実がある。人のふりみて我が振り直せ、顛倒夢想元凶です、緇という黒い布をもって白布となす、どうですか毎日日にちそんなことの繰り返しやっていませんか。もっともこりゃ参禅のノウハウです。禅という単純元の木阿弥に参じて始めて知る。自分というこのものをなんとかしようというのでしょう、それを自分がこっちにいながら、自分というまた対象を眺め暮らしている。妄想煩瑣だよくないという、妄想煩瑣が見えっこない、妄想している自分を自分が眺める、おかしな話です。やれ静かになったうんまい具合だという、そりゃ同じこってす、一つしかない自分=心の二分裂ですか、囘互と不囘互と囘してさらにあい渡るという、なんぼあいわたったところでなんにもなし、見えないのが本当です、さあどうですか、参禅のノウハウこれですよ。いえ心の救い、人間の救いはたったのここにあるんです、仏の手を差し伸べるまさにこれ。仏はどうしたらいい、あなたはどうしたらいいんです、差し伸べる手を引っ込めりゃいいんです、元も子もないんですよ。もとあるはずのないことをやっている、だから悩み苦しむんです、顛倒妄想です。

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2008年5月 7日 (水)

ほうきょうざんまい

先聖之を悲しんで、法の檀度となる。

もと仏の大海の中にありながらこれを知らず、あるいはこれを知り、求め求めつくして繋駒伏鼠する、これを悲しみ哀れんで、先聖仏祖諸仏諸菩薩ありといえどもみなまた同じです、手をさしのべるというのです。如来というビッグバンの三つぐらいポケットに入っているんですか、如来見えず隠れてあるときは、これを渇仰し咸皆懐恋慕する。衆生既に信伏し質直にして意柔軟に、一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまざれば、時に我れ及び衆僧霊鷲山を出ずと、如来寿量品偈にある如くは、人類すべてにこうあり、一箇の辺にまさにこうあるんです。この世は如来現ずるか否かということです、自分の一生とは何か、如来を見ずに七転八倒する何十年、まちがいだらけの親不孝はた迷惑ですか、ものみなないがしろにして省みず、ついに支離滅裂ですか。一箇まさにこれに気がついた時に、速やかに世法すなわち自分です、架空の思い上がりですか、よこしまを去って仏法に帰依する。帰依とはもとあるがように返るんです、帰家穏座するんです。人間の如来は人間に同ずるが如し、諸仏の常にこの中に住持たる、各々の方面に知覚を遺さず、群生のとこしなへにこの中に使用する、各々の知覚に方面露はれず、このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事をなすをもって、その起こすところの風水の利益にあずかる輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかき悟りを顕はす、是れを無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、これ発菩提心なりと。信不信の埒外に信ずるとはこういうことです。始めて真人間になります。

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2008年5月 6日 (火)

ほうきょうざんまい

宗通じ趣極るも、真常流注、外寂に内動くは、繋げる駒、伏せる鼠。

これのありようを知って、師の指竿針槌、払拳棒喝をもってほしいままにする、ついには押しても引いてもなんにも出なくなる、かすっともかすらなくなる、しかもなおかつ自由の分がないんです。真常流注ですか、真を云うからに完全しない、どっかに漏れ出るんですか、悟りを知り、仏のありようを知る、ついにこれに拘泥するんです、悟っても悟っても皮一枚残っているような気がする、外寂に内動くんです。外界宇宙まったく納まっている、そりゃ始めっから納まっている、ものみな悟り切っている、仏を知り悟入し悟出するにしたがい、よくよく見てとれても、どこかに自分というなにかしらです。ちらともあれば内動くんです、なんでというからに更に動く、繋げる駒伏せる鼠です、どうしてか、さあよくよく省みて下さい。仏の太い綱に引っ張られないと、てめえかってじゃどうにもならん、雪担さん信じなさい仏さまをと、さんざくた云われてどうにもこうにもだった。お釈迦さまを信ずる、信不信の埒外に信ずるんです、いえこれなくばなんにもならん、至心帰依です。仏の教えです、坐禅見性じゃないんです、どうですかこれ、なんのための坐禅なんのための見性、本末転倒事していませんか。

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2008年5月 5日 (月)

ほうきょうざんまい

今頓漸有り、宗趣を立するに縁って、宗趣分る、即ち是れ規矩なり。

頓漸ありというのは、六祖の頓と神秀の漸とあるというのは間違いです、学者ども人の尻馬に乗ってでたらめですか、なんの苦労もせず辞儀の解釈は、そういってりゃ安心立命というたわけた話です。もと頓に無生を知る、頓智というはこれたった一つ、気がつくとは神経シナップスの一脈ですか、だんだんに悟るなんてことはないんです。神秀上座が立派に修行してそのうちに開示するというのは、そりゃ仏教じゃないです、どこまで行こうが是非善悪です、そういう行ない清ますおのれを眺め暮らすんです。醜悪です、インドの聖者みたいに、標準を別に拵えて物まねのオペラ歌手です、ひいては真理を標榜するオウムです、まずもってこれの恥さらしを知る、人間以外にそんなジョ−クおままごとをするやつはいないと知って、ほんとうに省みるんです。我昔所造諸悪業、皆由無始貪嗔痴、従身口意所生、一切我今皆懺悔、自分を何物かと見做すうちは坐禅にならんのです、それはただのお行儀見習いです、よくよく承知して下さい。すると頓漸有りとはどういうことか、頓に無生を知る、大死一番することあって、それっきりの大活現成ですか、至りえ帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅と、これを知るいったん忘我です。羅漢果といって羅漢さんになる。羅漢寺というのがあってだれかれ像を刻んで納めると、寺に安置してくれるという、嘘っ八です、普通の人どう刻んだろうが妄想さんにしかならない、忘我とはいったん自我を切る、そうしてもって初めて修菩薩行です、観音さま如来に至る道です。これ正直云ってまさに漸です、悟入し悟出し、朝打三千暮打八百と、もっぱら坐るんです、そのほかにあるいはなんの道もありません、仏向上事これ。仏向上事すなわち人間の生活それ自体です、悟ったという絵に描いた餅を額に貼り付けて、だからおれはという不都合、成長点の止まった葦です。先生という知識の切り売りをする、鼻持ちならぬのは、思考停止を知恵と思い違えるからです、どうしようもこうしようもないです。日々に新たに、今日の自分はまったく昨日の自分ではない、すなわちこれ漸です。趙州六十歳再行脚、我より勝れる者は三歳の幼児といえども、これに師事し、我より劣れる者は百歳の老翁といえども、これを導きという、すなわち仏向上事、死ぬまでもなんです、これ生活。頓漸とは一箇の辺のことです。宗趣とは、宗教もとたった一つです、二つあっちゃ修行もへったくれもないです、にもかかわらず徳山の棒あり、臨済の喝あり、雲門の関あり、大趙州の説得あり、有無ありするのは、いずれこれをまったくに用いるんです。次に伝え残す方法です、命ぎりぎりですか、舟から突き落として、どうだわかったかという、わかったとやつが出たら、おのれ水に落ちて溺れ死んだという、あとつぎが出来たんです。宗趣という思想やなんぞの別じゃないです、仏教各派いう支離滅裂じゃないんです。身心の痛みを感じない学者坊主のたわごと、いいですかだから規矩といった。因みに老師会下の僧堂は、規矩なしをもって唯一の規矩とするというのだった、老師の遷化してのちも、今に至るまで「和は花よりも美し。」と続いています。

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2008年5月 4日 (日)

ほうきょうざんまい

細には無間に入り、大には方所を絶す。毫忽の差ひ律呂に応ぜず。

接心飯台に手に持ったお椀の中にころっと入っている、番たびそりゃ入っているんだけど、初体験には悟ったという感慨です、宇宙ぜんたいという驚きがあります。細には無間に入り、大には方所を絶すと、これは身心ともにない事実です、箇の無体験です。これを龍樹は仏性は大に非ず広に非ず狭に非ずと云うておる、だから仏性は大小を離れておるなど三百代言は、学者坊主どもどうにも始末がおえんです。仏は他人任せのだからどうのじゃないんです、魚屋は魚食って見てから魚を売る、坊主は死んでみてから葬式出せと、どっか坊主の寄ったくりに演説したら、ものすごい目で睨まれた。師家禅師仏を知って仏を説く、すこぶるつきの当然がさっぱりです、でたらめお布施稼業は、オウムと変わらない、創加学界の盗人まがいと同じです、恥ずかしいかぎりです、到底毫忽のたがいなんてどころじゃないです、山河の箇を隔つ。一盲群盲を率くってのは差別用語ですか、やたら世の中どうしようもないのは、仏がしっかりしないからです、心がまるっきりだめなんです、違順わずかに起これば紛然として心を失すという、ほんらいのありようをおろそかにするからです、四の五の云ったってしょうがない、手に取った茶碗の中にころっと入ってごらんなさい、ちらとも鑑みるあれば、それが邪魔して入れないです、手つかず取りつく島もなしをもって、わずかに一箇、正に律呂に応ずるんです。

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2008年5月 3日 (土)

ほうきょうざんまい

因縁時節、寂然として昭著す。

時節因縁という、世間娑婆の因果必然とはそりゃちがうってことないんですが、仏教学者の俗説とはまったく関係がないんです。これ坐って坐って坐り抜いてのちにこういうことが起こる。坐禅は温室というか人生の縮図ですか、捨身施虎が同じに起こって、大死一番して生きているわけですか。因縁時節これあるを知って七転八倒するんでしょう、うまく行くはずがそうは問屋が下ろさない、狙うなったって狙わずんば得られず、どうしようこうしようというそれが邪魔して得られず、たしかにおのれは身心不満足、往来煩瑣にっちもさっちも行かず。洞山大師人に地獄を問われて、仏のありようを知りながら、これに契わぬを地獄のもっともなるものとすと答えています、まさにこれです。これが因縁時節寂然として昭著するんです、やらんばなんにもならんです、やってみて始めてです、やることなすことの尽きる時です、対峙を双眠すと心銘にあります。お釈迦さまもまったく同じでした、あらゆることを尽くす、ついに手も足も出ないんでしょう、刀折れ箭尽きて菩提樹下に坐す、取り付く島もない自分にようやく気がつくんですか、大火聚に手を付けないんです、心意識が止む、忘我です、そうして我れと有情と同時成道が起こるんです。ほかの方法も、如何なる信心神さまも無理です、ただこの寂然昭著を待つばかりです、よろしくよく見て取って下さい。因縁時節とは死ぬことです、自分という仮処分ですかよこしまの履物を脱ぐんです、自分から脱ごうとすりゃ脱げない履物、脱ごうとするそれが履物だからです。

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2008年5月 2日 (金)

ほうきょうざんまい

犯忤すべからず、天真にして妙なり、迷悟に属せず。

君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずと証道歌にあります、仏教はこのまんまでいい、ではなんにもしなくてもいいという人、真を求めず妄を除かずということが出来ますかと聞くと、まずは正直にできないと答えます。これできなければ仏にあらず、絶えずくよくよと真を求め、妄想にひっかき回されて、上を見ればきりもなし、下を見ればきりもなしまあこの辺でといって、一朝事あれば支離滅裂です。それは悟った、仏教はよくわかっているという人も、あるいはまったく同じふうです。たよりにすべき何かがある、転ばぬ先の杖に頼る、こうあるべきだからというには、ただの俗悪ですか。清濁併せ飲むだとか、凡聖同じとかいって、安楽椅子に座っているお宅も、まったくなんにもならんのです。よくよく省みて下さい、首くくる縄もなし年の暮れですか、本来ほんとうとは、得るもの持ち物なんにもないんです、ないからものみな出入り自由、なんで魚食うと云われて一休さん、わが腹東海道だ、さむらいも通れば魚屋も通るといった、吉なりです、自分というフィルタ−がないんです。天真にして妙なり、あらゆるものがあらゆるふうにあるそのまんま、神さま仏さまの足枷がない、無信仰雑念のがんじがらめがないんです。信は不信の始めなりという、無心はこれたとい信不信を容れる器です、返り点を打つと心が無いんです、さあどうあってもこれです、他なにあったって犯忤します、鋒鉾をもって破り傷つけするんです。議論し相手をやっつけするのは、虎の威を仮る狐です、ほんとうにがない、他の標準を借りて、だからどうなのいう半信半疑なんです。ぶしつけでたらめですか、それさえに気がつかないんですか、おのれに返って下さい、正解他にはなし、正解正解を知る。なにかを知っているという不正解、やくざものを返上して下さい。

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2008年5月 1日 (木)

ほうきょうざんまい

正中妙挟、敲唱双び挙ぐ、宗に通じ途に通ず、挟帯挟路、錯然なる時んば吉なり。

正中妙挟は別に四智円明の仏教を用いることはない、ものみな正あり中あり妙あり挟ありなんでしょう、この四種によって、たとい八卦の目も言い当てるぐらいのこっていいです。敲は叩く唱は歌う、これを二つ加えて、人間の為すこと生活息付き全般です、太鼓を打って拍子を取るのと歌うのと同時なんです、医薬分業以前の病を癒す方法ですか、いえだれかれこうしている、こうするほかに絶妙はなく、ほんらいの効果なしです、世の嬰児の五相完具するオ−ルマイティ、ものみなをもってものみなに中るんです、常にそうしている、そうする他にない、われらがありようです。故に宗教という別誂えはないんです、銭儲けの手段もなく、詐欺や言い訳もなくこっちの神さまがいい、だから共産主義というも、てんでおかしなこってす、そんなことをしてなにかいいことがあるか、一つよければ他悪いんです。もとわれらそのもの、あなたという身心が宗教なんです、でなきゃそれは嘘です、百害あって一利なしを知って下さい、人々みなおのれについてのエッキスパ−トです、だれにひけも取らんです、しかも平和という作為なしにまったくの和合尊です、これを知るとやこうのことはないんです。挟帯挟路いろんなことがあり時に複雑怪奇に見える、おのおのの立場等ですか、たとい複雑怪奇も立場の別も、犯忤しないんです、いいわるいしない、それそのものです。分析してだからどうのという、科学の標準など第三者の観察を用いないんです、ちらとも世間一般のそれあれば、ついにめちゃくちゃです。よくよく見て取って下さい、錯然なる時んば吉なりと、ですからこれが正解しないんです、錯まちをもってあやまちに就くと云います、これを知るたとい仏教の極意ですか。時と処による、マルバツ式正解の答案なんかないんです。仏を説くに当たっておのれ仏である以外になく、説く相手も仏なんです、点と線の針金で縛り上げる、多宗教えせ仏教学者のでたらめをしないんですよ。

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