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2008年4月

2008年4月30日 (水)

ほうきょうざんまい

重離六交、偏正囘互、畳んで三と成り、変じ尽きて五と為る。

易です、八卦を置くという、陰陽を元として陰を点点陽を棒で表わし、この組み合わせを卦と云い、卦が八つあるから八卦、これがまた八つに変化する、八八六十四通りの場合の数があるわけです、人ものみなの活動変化を六十四通りに表わす、あっはっはどう転んだってせいぜいが六十四通りというんです。離は陽陰陽、二つ重ねて重離、この陰陽札を算木といってその一本を交という、重離は六本を使って表わすから六交、この上を畳むと悦の卦下を畳むと巽の卦とか、まあ知りたい人は易学を学んで下さい、わしはさっぱり関心がないです。でもこれ六十四通りは、ものみなのありよう、せいぜい区別すりゃこうなるっていうんです、逐一にどうのこうのいうそりゃ面倒です。易学者も一般人も面倒ごとに忙殺される、偏はかたよる、正は正面とさ、それがあいまってという、なにはなにしてどうとやら、だからというんです。でも赤ん坊はそれをいっぺんに見る、知識認識体系を通さずです、すると隙なく間断なくぴったり当る、外れっこないんです。もとこのとおり、頭脳明晰などいういらんことをせん、ものみなあるがよう。始めあり発展あり、結果ありもまた一からですか、無始無終ですよ、手に取るようにこうあるっきり、あっはっはまったくないんですか、虚の人ちらともあればかれこれを写す、間違いようがないんです。

至(くさかんむりがつく)草の味わいの如く、金剛の杵の如し。

ちそうという草は、甘い辛い酸っぱい苦い渋いという基本の五つの味を備えているという、つまり心虚の人、悟り終わった人です、つまり赤ん坊は六十四通り、いっぺんに味わい分けるというんです、なんの手続きもいらぬ、漢来たれば漢現じ、胡来たれば胡現ずという、宝鏡三味です。ただあるものを写す、ないものは写らない、あるもの不都合、あるによって自由が利かない、水は方円の器に合すという、氷はぎくしゃく、迷いあり悟りありによって、自我のフィルタ −によってしか物を見ない、学問体系というどこまで行っても納得の行かないものに振り回される、だからどうの点と線で相手をやっつけ溜飲を下げるしかない、なんというみっともなさ、不躾です、そこを赤ん坊はオ−ルマイティです、金剛の杵とは独鈷などいう形に仏が手にするんですが、つまり最終兵器です、すなわち赤ん坊の笑いですか、今ダライラマはこれをもって、一神教なれのはて、いいことしい正義の幼稚園中国共産党のよこしまに相対しています、は−いオ− ルマイティには違いないんですが。

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2008年4月29日 (火)

ほうきょうざんまい

不去不来、不起不住、婆婆和和、有句無句、終ひに物を得ず。

世の嬰児の五相完具するが如くとはこれです、赤ん坊と成人は違うというが、医学上も心意識の上も、別に差異あったっていいんです、そういうこっちゃない、ものみなこうあるのに、これを観察しないんです。省みないというより、省みるに無いんです。観念生活囘互と不囘互とあいわたりですか、それの煩瑣にどっぷりつけの故に見えない。煩瑣というのは囘互を思い不囘互を思うからです、思うときすでになく見ようたって見えない、見るものそれ自身なのに、なぜか見えなぜか思うんです、ゆえに疲れる。ノイロ−ゼ心身症は、ないものにしてやられる、幽霊に祟られるんです、実際は困惑も悩みもない、ただの現実=無なんです。赤ん坊は実にこれをそのまんま、ぱちっと指を鳴らすと全身びくっとふるえ、手を左右すると体ごと動く。不去不来、不起不住、なんにもないものの起居振る舞い、出処進退ですよ、おれがどうしてだからということがない。悟ってごらんなさい、ある年臘八に成ずるになんなんとする十名を選び、目の前に穴を掘って、もし成ぜずんば生きていたって仕方ない、穴埋めにすると云った、十人のうち九人までは行った、あとの一人がどうにも行かぬ、生き埋めにされちゃ大変だといって、逃げ出した、途中石につまずいて生爪を剥がす、忍痛の声を上げる、いっつうと叫ぶんです、痛いことは痛い、だがどこが痛いんだかわからないんです。身心消え失せて宇宙ぜんたいです、宇宙という別ものがあるんじゃない、ものみなこうある、不去不来不起不住です、何を云ったってまるっきり根拠がない、ばばわわするんです、有句無句ついに物を得ずです。ぜんたいほんもの、真実どっぷり浸けに、取捨選択の余地はないんです。常にこれ時処位です、これを知りこれを用いる、大悟徹底する以外にないです、学者知識じゃ近遠にあらず、山河の箇を隔つだけです、でたらめをいってお茶を濁す、なんのために。薄汚い話です、赤ん坊に帰るのに仏法も大権威もないです、ダライラマこれ本物なら、赤ん坊が世界、あるいは共産中国を相手にしているんです、見ても聞いてもいられん、戦うという思想もなければなんの手段もないです。

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2008年4月28日 (月)

ほうきょうざんまい

汝是れ渠に非ず、渠正に是れ汝。世の嬰児の五相完具するが如し。

自他の区別がないというと妄想の内容じゃないんです、こけちゃんがわしの写真を撮る、するとこけちゃんそっくりになって笑っていたりする、意識を通さないんです、もと嬰児赤ん坊がそうなんです。赤ん坊を抱き上げるお母さんという図がある、どっちが保護者かというと、赤ん坊のほうがそっくり受容する、お母さんという切ない不満足の、やるせなさを王様のように押し包む。自他の区別がないとは、ものみなそっくりおのれがものなんです、如来来たる如しです、未分化といううが実はそうではない、これが本当なんです。仏という地球宇宙から、あるいはそれ以前から与えられた命です、本地風光という約束されたものです。物心付くに従いろくでもないものになる、観念生活ですか、無眼耳鼻舌身意が有眼耳鼻舌身意に取って代る、便利には違いないが、大切なものを失う。失楽園ですか、知恵の木の実を食べるんですか、そうしてもって一生を通じてもとに戻りたいと思う、あるものはヒットラ−になり、あるものは大金持ちになり大権威になり殺人者になり発狂する、たといどうあったってなをかつ不満足です。未分化というんではない、どっちみちどうなろうが元の木阿弥なんです、それが証拠にはいい大人がいつだって赤ん坊を露呈する、まあまあなあなあといって酒を飲むんですか、どこかで紛らわせないと尻を割らない。芸術詩歌思想宗教という、つまりはいびつ半端です。仏教学者の近似値はわかってもいないのにふんぞりかえる、すなわちどうにもならんです。どうしたらいいか、これを悟って下さい、自分という観念生活を解脱するんです、自縄自縛の縄を解く、ほどけば仏です、仏に帰ると落着するんです、元の木阿弥しか落着しないです。世の嬰児の五相完具を、心行く知って下さい、舌頭たたわわとして定まらず、すなわちオ−ルマイティです、なんでかわかりますか。

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2008年4月27日 (日)

ほうきょうざんまい

宝鏡に臨んで、形影相覩るが如し。

そうして接心の経行に、これは歩く坐禅ですが、向かい会う相手が自分になってこう見ている体験をする、なるほど形影あい見る如くと、洞山大師水上行の真意を知ったです、影が自分になってこっちを見ている、無眼耳鼻舌身意の姿が手に入る、応無所住而生其心ですか。風動くか幔動くかといって二僧あい争う、風動かず幔も動かず汝が心動くなりといって、これにけりを付ける。木の葉が風に揺れる、木の葉動かずこっちがこう揺れ動くんです、身心脱落の実際が宝鏡三昧です。これを転識得智などいって、やれ大円鏡智だ妙観察智だのいう、遠くに見ているんです、自分お留守にして知識を振り回しても、ただもう煩瑣です、百害あって一利なし。どうしてそういうことをするかというと、有心なんです、明け渡すべきをしがみつく。正師はこれと示し、邪師はあれと示す、正師は奪い取る、邪師は付け足すんです、おまえもおれさまのようになれというんですか、一器の水が一滴余さず一器に移るという、まったくの面倒ごとです。拈華微笑、なんてつまらんことをとふっと笑うんでしょう、これを見て我に正法眼蔵涅般妙心の術あり、挙げて迦葉に付嘱すといって大法が伝わったんです。もと学ぶべきことの一つもなし、これを知る、強いていえばただ彼岸に渡っているだけなんです、パ−ラミ−タ−彼岸に渡る=智慧なんです、般若の智慧元の木阿弥、知識から智慧だなんて余計なことはせんです。

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2008年4月26日 (土)

ほうきょうざんまい

有為に非ずと雖ども、是れ語無きに非ず。

一切有為の法は、夢幻泡影の如しという、有為の法とは、もと無為なんです、それを我執の故におのれのものとする。一時所有したいんでしょう、すると執着するはしから夢幻泡影なんです。でもこれ有という我執を知るのは、これをまったく離れて始めて知るんです、無眼耳舌身意を知る、おのずから執着汚臭泥んこまみれが離れる、ものみな済々として比類なき。わしはあるとき老師に、このごろはものみな清々としてなんともたとえようもなくと、云いも終わらぬうちに、それはまだ清らかにみようという心が残っていると云われた。ようやく気がついた、我未だ出家せずと。彼岸に渡るべき行を、結果浮き世のものとする、此岸に勘定するんです、学者坊主どもみなこの類です、それではほんとうの無心にならない、有為の法です、するとげっつばたあっちこっちです。わしはこりゃいかんと思って、臘八に最後通牒で臨んだ、ぶち抜いた、あたかも降りつもった雪が暖気に溶けて大屋根を流れ落ちる、ぐわ−てなもんです、清々ともなんともたとえようもなし。云うことは同じ月とすっぽんどころではない、清々だの仏教こうあるべきなというの、かすになってけし飛ぶんです。夢幻泡影まったく失せて現実です、真実というすなわちこれを知るもののいない真実です。たしかに語無きにあらずが、舌頭たたわわとして定まらず。聾唖の者が痛痒を訴えるごとく、はい今もまったくそうです。何をどう云ったからって、さっぱりまあうまく行かんですか、一年三百六十五日夢、現実であればあるほどに夢なんです、お釣りが残らないんです。わかりますかこれ、無情の説法我れ聞かばすなわち汝に説く能わず、いえもしこれを知る、一目瞭然事です。

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2008年4月25日 (金)

ほうきょうざんまい

物の為に即と為る、用ひて諸苦を抜く。

たとえば四苦八苦という、生老病死苦に、怨憎会苦、求不会苦、愛別離苦、五蘊盛苦とあわせて八苦ですとさ、学者説教坊主の道具立て、だからどうだといって、これでもってお茶を濁して、だれも救おうとしない、それはおのれが救われてないからなんです。仏教悟り以下百万だらも自救不了、ではいったいなにをやっていたんだ、てめえの私服を肥やす他になんにもしなかった、仏を求めて貧乏官吏みたいなことをしないんです、彼岸にわたって下さい。ダライラマに出会った人が、話はわかりやすいんですが、それ以上にだれかれみんな自分に向けて話すように聞こえたという、そうして幸せになる、人みなにハッピ−を贈るという、これわしは出会ったことないから知らんけれども、悟るとはこういうことです、仏は無我です、自分なければ挙げて他の為にするんです、汝かれこれにあらずです、相手になってしまう、物の為に則となるとはこれです。こうすべきああすべき、だからどうのがない、じゃなんの役に立つかというと、人のありようこれと、通身もて示すんです、通身細には無間に入り、大には方処を絶するんです。お祈りミサじゃない実際です、ペテンでも詐欺でもない真実、人みな真実ものみな実際です。四苦八苦はおのれからする、がんじがらめの余計ことです、自縄自縛の縄を解く、ほどけば仏です、まずもって仏教を捨て、正義を捨て、あっはっは中国やアメリカをやめるんです、触れればほどける仏になって下さい、せっかく仏が他を縛っていたら、こりゃもうまったくさまにならんです。

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2008年4月24日 (木)

ほうきょうざんまい

但だ文彩に形はせば、染汚に属す。夜半正明、天暁不露。

仏教という体系とか、科学的正確とか、仏教学者の取り扱うべき、あるいは道徳家の見習うべき便宜、うしろだてなんぞないんです、仏について示す、ほんとうであれまちがいであれ染汚に属するんです、これをほんとうに知るのが仏の道ですか、不思善不思悪正与麼の時明上座の真面目と問われて、大悟する、悟る以外にこれに応える方法はないんです、近似値の却ってとんでもない間違いを知るんです。筆舌に尽くし難いという、ものみなすべて箸にも棒にもかからんでしょう、花といい月といい、花と云えば月と云えばただ損なうんです。あなたという自身さへそうです、知らぬもっとも親切、達磨の不識という、真実まさにこれ、帝契わず、人みな契はずは、思い上がりよこしまの故になんです、自分をまた他を、なにものかとせねば生きて行かれんような気がしている、仏仏を云えば殺しかねまじき猛烈です、思いもよらぬものこれ。思いの他の事実です、たとい殺されたとて、ばんたび毒を盛られたとて、示すにはもってす。夜半正明です、真っ暗闇にたった一つの光明なんです、仏以外に光明はないんです、あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜半明けにけるかも
御開山禅師のお歌にあるように、必ず夜明けは来ます。けれども不露、未だあらわれずは仏法がたった一つの頼りです。修行の一箇に於ても、世界全体に於てもそりゃまったく同じことです。四の五の云ってないでなにしろ得て下さい。

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2008年4月21日 (月)

ほうきょうざんまい

動ずればか(うかんむりに巣)臼を成し、差へば顧佇に落つ。背触倶に非なり、大火聚の如し。

これは坐禅のノウハウです、坐らない人にはまさにこう行なわれているのに見えない、坐って始めて問題になる、だから学者の説は滑稽なほど間違っています、なんのために法を説いているのか、仏を示して邪を以てする、他にひけらかしふんぞり返る、飯の種と名を売る為ですか、つまらん屑です、坐る人まずもってそんな屑かすがとっついていないか、顧みてください、純粋に法を参究し、仏を求めるとき、じきにかくの如くが見えます。動ずればか臼をなしとは、どうしたらいいこうしたらいいするんです、どっちへ向かって鉄砲を撃ったらいいか、仏果を狙う猟師ですか、右往左往して定まらぬそれ自身がか臼なんです、穴蔵を掘り臼のようにはまり込むんですか、だれしもやる、そりゃ洞山大師もか臼に填ってもってこう云ってるんです。猟師自身に問題があるのに、狙う獲物が問題だと思う、いくたびやって役立たずを知るんですか。まずはこれが獲物と狙い定めて、うまく行くようなうまく行かぬようなを行き来する、すると差えば顧佇に落ちて、これは違うだからとやる、はいやっているその余計ものの故に、うまく行かぬのです、すべてはたった今の自分がやっている、やらなければ元の木阿弥です、すなわちなんの問題もない。問題もないからいいはずなのに、ちっともよくない、でもってまた動ずればとやりだし、差えばと繰り返す。もと心の問題です、心はたった一つです、たった一つの心がその心を取り扱うことの不可能、なぜか人間はこの無理無体を繰り返す、大火聚の如しです。心に手を触れると火傷します、絶え間なし火傷してあっちっちいとか云いながら、だからこうしちゃだめとか反省会の糠に釘やってます、これをもって生活というんですか。学校教育や刑務所の間違い無惨、不良はずるさとすてばちを身につけ、獄卒は刑務所人間という出たり入ったりしか作らない、それは心のありようを知らないからです。いたずらに自他を苦しめることを即今止めて下さい、でないと中国共産党みたいに、嘘と拷問で塗り固めた生涯です、しかもおのれはいいことしいの正義という。あっはっは仏教学者もまたよう似ています、阿呆な話が傍迷惑。背触ともに非なりと、背触前にくぐまり後へにそばだつこと勿れという、それは標準が他にあるからです、自分というもとないものを認めて、それゆえに苦しみ、なんとかしようとして、姿勢はまっすぐ、心はもとこうあるべくと、仏という物差しをもって自分にあてがうんです、そうしなけりゃならんような気がしている。思い切ってそれを手放して下さい、大火聚の故に役立っているこれに触れぬ、あっはっは火を消すことばっかりしている、消えたらきちがい、消えっこない、もと標準は自分なんです。右へ行こうが左へ行こうが、もとぜんたい、そのものこっきりから外れようたって外れようがないんです、無上安楽大安心の証拠を味わって下さい、絵に描いた餅の部分はなくなる、坐になるんですよ、無自覚の覚、すなわち箇の無体験ですか。

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2008年4月20日 (日)

ほうきょうざんまい

意言に在らざれば、来機亦赴く。

心意識という意という自ずからです、心としても見えないんです、だのに心があるという、きれいな心汚い心という、どうもなんかおかしいです。意を用いることは、まったく後先なしです、省みる不可能、言葉という手段を借りるんですが、だから間違っている、だから正しいという、いえそんなこっちゃないんです、この項の云わんとするところは、たとい法を説く、正師の説法だろうが、届かない時は届かないんです。如何なるか是仏と問うて、たんびに押し出され、三度びに及んで、門に足を挟まれて、骨折して気がつく、こりゃ痛いことは痛い、強烈なんですが、どこが痛いかわからない。身心失せてな−んにもない、来機また赴くとはこれです。たとい仏法を聞いてやる気を起こすというのも、そりゃまあ来機なんですが、たとえば眼蔵家で知られた、岸沢惟安などいう人は、説法も仏祖師方の事跡のまっただ中にいて、ついに法を求めず、点と線の繋ぎ合わせですか、皮袋に終始する、先入主から一歩も出ない、来機さっぱり赴かず。いったいなんでこうなるんだっていうことは、常味はされるんです、聞法しながらそっぽを向いている、これだと云えばあれになる、これっきりと云えば、またおっぱじまる、どうしようもないです。簡単だと云えば難しくする、ないと云えばあると思う、これ要するにただの人になる、あっはっは蛮勇がないんですか、なにかしらなきゃどうしても生きていられんという思い込み、おかしな話です。くたびれます、もと来機なんです、言葉不要、そんなの当たり前です。自分用なしものみな、手続きのこっちゃないんです。弟子に、これがこの通りだからこの通り坐れと云われて、その通り坐ってじきに内外なくなったのがいた、あれは不思議な男だと老師が云った、不思議なのに思議をさしはさむ、よってもって来機赴かない、七転八倒する、そりゃまったく無駄にはならんですが、二度とやらんというんで役に立つんです。

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2008年4月19日 (土)

ほうきょうざんまい

銀碗に雪を盛り、名月に鷺を蔵す。類して斉しからず、混ずる則んば処を知る。

これが仏教です、他の宗教、思想その他必ず異を表し、貴品を云い優劣です、銀碗に雪を盛る、ものみなのうち取捨選択なし、一微塵も余計なし、これを指し示す、名月に鷺を蔵すほどに、錯をもって錯に就くですか、仏教として論破し、たれかれの是非を云うということはないんです。なぜかって、強いていえば、良寛さんのだれのものだろうがおらあがんです、なにかことあればすべてはおのれが辺に帰る、どうにもこうにもならんです、悲しいんですか、淋しいんですか。無心また傷つかずないものは金剛不壊です。南面して北斗を見る、たとい千手観音これ、類して等しからずです。まったく同じほどの人がいない、することなすこと変わらず、会話も同じようでいて、有心と無心の違いですか、天地懸絶ですか、いいやまっただ中にあるんです。良寛さんという人は変わりもので、なんともたとえようもなしというのは、そのすること言動が比較を絶したんじゃないんです、別様など何一つしてないです、にもかかわらずまったく違う。はい良寛さんがただの人です、他の人特別なんです、子供をのみに対大古法、すなわち僧堂仲間です、一人きり欲しいままなんてこと仏教にはありえんです。平和を云々するんではない、和とは何か。

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2008年4月18日 (金)

ほうきょうざんまい

如是の法、仏祖密に付す。汝今これを得たり、宜しく能く保護すべし。

老師が修行中に、まさにこの二句のように悟り切った様子で宝鏡三昧を誦す小僧がいたと云った、聞いてどういうことかと想像するのに、たいてい首を傾げるばかり。さあどう思いますか、世の中自由自在悟り切ったようにお経を読む、乃至はものみな神通力みたいな人いますか。あっはっはそりゃいるんですけど、いかにも悟り切った、あるいは他の想像可能のものなら、どこかで不都合です。悟るとは本来人に立ち返ってあるんです、虚空そのものです。悟り終わって悟りなし、なんの跡形もないんです。すると初心まったくこれ、小僧だろうが凡くらだろうが、如是の法なんです、仏の大海どっぷり漬けというより、もとよりこれを免れる、食み出すこと不可能です。だったら汝今これを得たり、よろしくよく保護すべし、はいといってそれっきりです。修行も永年に渉る苦労も無用の長物、まるっきり無意味です。実はそのとおりなんです、これをほんとうに知って下さい、みなさん無駄っことに四苦八苦する、身をやつすんです。洞山大師は、その母たった一人の子を捜して、ついに捜し当てて洞山に行き、会おうとするに会わず、母恨みて死すと。洞山母の乞食して持てる米三合あり、それを取って常住の粥に和して、一衆に供養して、以て雲程を弔うとあります。雲程とはあの世の旅というがほど、その母洞山の夢に現れて、汝志を守ること堅くして、我を見ざるにより、愛執の妄情たちどころに消え、彼の善根力によりて、我れとう利天に生じたりと云う。とうはりっしんべんに刀、天国や極楽を抜きんでて生ずるんです。もと虚空初心大海のまっただなか、ですが洞山大師、他のだらしなし一般じゃないんです、ただじゃあただは得られんです、よろしくよくこれを見、かれを見て保護して下さい、学者坊主どもの悟りとは無縁です。

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2008年4月17日 (木)

ほうきょうざんまい

宝鏡三昧

第三十八祖洞山悟本大師宝鏡三昧、洞山悟本大師は我が曹洞宗の祖です。雲巌に参じて、問ふて云く、無情の説法什麼人か聞くことを得ん。巌云く、無情の説法無情聞くことを得ん。師云く、和尚聞くや否や。巌云く、我れ若し聞くことを得ば、汝即ち吾が説法を聞くことを得ず。師云く、若し恁麼ならば即ち良价和尚の説法を聞かず。巌云く、我が説法汝なほ聞かず、何況んや無情の説法をや。師ここに於て大悟す。乃ち偈を述べて雲巌に呈して曰く、也大奇、也大奇。無情の説法不思議。若し耳をもって聴かば終に得難し。眼処に声を聞きて方に知ることを得ん。巌許可す。とあります。無情の説法は慧忠国師より発す、無情の説法ってなんですか、情あれば聞くことかなわじ、情とは聞くという意識ですか、聞いているというとき、不思議すなわち思議に関わらずですか。ある人雨滴声に参ず、雨の音を聞いているうちに聞こえなくなったといって、師家のもとへすっ飛んで行く、大見性だと云われ、兄弟子に挙すと、あなたはそういうことを云っているから駄目なんですよと云う、いったい見性とはなんだ、ようもわからんと首をひねる。これを持って獲得物質とする、情のもっともたるところですか、無理からぬという、たとい情ももと大海のうち、大海大海を意識せず。我が釈迦無尼仏の声と姿と、渓声山色他にはあらず、無情の説法無情聞くことを得んとは、さあどういうことですか、あっちの岸へ行っちまうんですか、あっはっはどんな考えも直感もまったく無縁です。わしの説法も聞けんでもって無情の説法が聞けるわけはないと云われて、大悟する。也大奇ご苦労さんというより、たいしたもんだそうかというんですか。説法をするに無眼耳鼻舌身意です、声は声のみに自分というものまったく入らない、そりゃもうわずかに予想も無理です、わっはっはおもしろいんです、摩訶不思議。耳をもって聴けばついに得ず、眼処に声を聞くに、かつかつ知ることを得んと、でもこれまだお釣りが残ったんです、しばらく悶々たるものがあった、ある人地獄を問う、これがありようを知ってなをいたらずは地獄のもっともたるものと。舟に乗って水上を行く、自分の影を見てぴったりと行くんです、影形あい見るが如く、影が自分でこっちを見ているふうな不思議な。これが本来のものを以て、宝鏡三昧を見て下さい。

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2008年4月16日 (水)

さんどうかい

謹んで参玄の人に白す、光陰空しく度ること莫れ。

玄玄微妙という、玄とは実にこれ仏の姿です、心のありよう身のありよう、まさに他のどんなものとも比較を絶するんです。ただ如来のみこれを知る、摩尼宝珠如来蔵裏親しく収覽すと、筆舌に尽くし得ぬことは人々自ずからに成す以外にないんです。筆舌に尽くし得ぬこと、ただこれ実際のみです、言葉思想、あるいは宗教信不信の遠く及ばぬことです。坐のみこれに応ずる、光陰空しく渡るとは現を抜かすことです、現実にありながら外方を向いている、共産党みたいなふうですか、滑稽で残酷です、必ずやおれいいおまえ悪いの、絶え間なし実況報告ですか、まったく馬鹿らしいです。そんな馬鹿らしいことをまずもって照顧脚下です、自分はやっていませんかということです。光陰空しく渡ることなかれ、早くぶち抜いて悟って下さいという、ほんとうはそうではないんです。悟り迷いそのものまさに現実です、これを取りあれを取らないという、現を抜かすとはこれ。迷悟中の人若し取捨選択なければ、光陰そのものです、光陰と自分と同じなんですか、は−い生まれてっからこのかた同じです。棹差すこともできなければ、光陰の舟乗り捨てることもできない道理、万事お手上げが正解です、手付かずに行く玄玄微妙を知って下さい。すべてこれ坐中のことですよ、坐以外のことがあると思わないんです、よくよく坐って証明すれば、坐以外に実地あることを知るんです。坐以外に求めても却って不都合が多いです、学者道徳家の胡散くささじゃないんです、取り付く島もなし。悟入し悟出するに跡かたなしは、日々まさに坐って下さい、他のことたといおろそかにしても坐だけはゆるがせにせんのです、こうして始めて少応の分があります。はいよろしく。

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2008年4月13日 (日)

さんどうかい

触目道を会せずんば、足を運ぶも焉んぞ路を知らん、歩みを進むれば近遠に非ず、迷ふて山河の箇を隔つ。

触目道を会すとは、ものみなあって自分がないんです、触れるというたとえようもない実感は、無自覚の覚です、これ終着点ですか、仏向上事はこの辺にあるんです、そうです日々新たに、上には上があると思って下さい。足を運ぶには即在即処、覚えのない覚えです、学者のように見解を深めるとは、ただの右往左往です、悟った、境地が深まるというのも同じ、歩みを進むれば近遠にあらず、迷ふて山河の箇をへだつんです、これがどうにもわからない人は、まったくの一人ぼっちになってみりゃいいです。記述するとか他にひけらかすとかのない世界、そこに本来自足し得るか。いずくんぞ路を知らんとは、多種多様の交通整理、博学多識の大権威という、とんだ恥っかきだったりします。あなたはだあれ、知らないと花は応ずる、仏とは何か、ほどけば仏、達磨の不識また廓然無聖、これ元の木阿弥です。舌頭たたわわとして定まらず、しかも一目瞭然です。至草の味わいの如く、金剛の杵の如し、虚空そのものですか、一切を容れてもってあるがまんま、迷いという余計がないんです。迷いとは何か、ただ我欲の故に目がくらんでいるんですか、詐欺師はそやつが狙い目、弱り目に祟り目の新興宗教ですか、いえさ種々雑多無宗教の雑念ですか、なにしろお粗末。

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2008年4月12日 (土)

さんどうかい

言を承けては須べからく宗を会すべし、自ら規矩を立すること勿れ。

これが坐禅の基本わざです、たいていだれもできない、だから悟れないんです。自分というものの関わるなし、坐るにつれてどうしても得たいんでしょう、自らを運んで万物を証するをこれ迷いという、まずは決まってそうする。すると近似値として大法のありようが見える、祖師の語録がつうかあになる、公案百般立て板に水と、だがなんにもわかっちゃいない、迷うて山河の箇を隔つことにまったく気がつかない。これあるいは初発心による、仏教が欲しいのか自分が欲しいのか、心が欲しいのか物が欲しいのか、師家というでたらめ稼業、禅師というかき登るだけという、銭金の他まったくなしの曹洞宗は云うに及ばず、印可という卒業証書の二束三文にしがみつく臨済宗、いずれ仏とはなんの関係もないです。自分というこのものを勘定に入れる、必ず我田引水です。心は誤魔化しようがない、隠すよりは顕れる事実、彼岸にわたることぱ−らみ−た−般若の智慧はまったく単純、生まれたまんまのまっさらですか、生まれる以前の真実ですか、為には得ようとしないんです、坐っているとどうにも我がものにしたい、それを放し放しして行くんです。いいですかついに悟ってまっさらになったという、ではまさに第一歩なんです。言を承けてはすべからく宗を会すべし、仏向上事という、修行とはこれです、他にはないんです。自ら規矩を立することなかれ、難事中の難事ですか、自らを与え任すこと、飢えた虎に施す如くせよと、与え任すべきおのれが失せる、失せるに従い無上楽です。仏の生活箭鋒あいあう、もとこれ宗を会す他になく、自らを持て運ぶなし、たとい持て運んだとて宗を会すんです、こうなって初めて物の役に立つんです、することなすこと是非善悪を超え、にっこり笑えば百花開く、赤ん坊のようにまた、梃子でも動かず、須弥山の如く、宇宙と同じ大きさです。すなわち針のめどをくぐる。

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2008年4月11日 (金)

さんどうかい

事存すれば函蓋合し、理応ずれば箭鋒柱ふ。

事存するということをだれも知らないんです、九このまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば
良寛の辞世と云われるこの歌に、貞心尼が付けて、
君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや
と激しい口調です。ほんとうに良寛さんの他には、そののちも一人二人十ずつ十とまりがつけたですか、数息観という参禅の方法があって、一つ二つと十まで数えて繰り返す、単純に繰り返すうちに忘我です、なかなか行かないです、でもそりゃ忘我するまでやってりゃできるんです。良寛さんはまりをつく、まりをつきながらまりと一つになる、忘我ですか、忘我しなくったっていいです、函蓋合するということが起こる、天地とおのれとまったくそのものになる、これ生まれ本来のありよう、あるいは父母未生前の消息、あるいは死んだのちですか、生死を脱してあるんです。生活とはこれ、ちりあくたのない太虚の洞然として明白、いいですかどうでもこれを得て下さい。狙っても得られぬという、狙わなきゃ得られないんですか。
死んで死んで死にきって思ひのままにするわざぞよき
ほんとうに死ぬことがあって大活現成です、まずもって、
月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな
ということあって、初めて本当に物に触れ、事存し理応ずるを知る、あとさきなしを知って、そのあとかたを失い去って下さい。以無所得故菩提薩垂です、おれは悟っただからじゃないんです、ましてや学問知識等なんのいいこともないです。死ぬとはたった今死ぬ。自分という自分よくなることを願わない、あっはっはそっくり仏という棺桶に投げ入れて下さい。弓の名人が互いに射て、ことごとく箭の先鋒がぶつかりあって落ちたという、これは技術思慮の先端をもってする、かつがつ理に契うんですか。ところがものみな日常全般箭鋒あいあっているんです、蝶も知らず花も知らず帝の法に契う、飯を食う用便をなす、何をどうしようとすればかえってしくじる、ただやりゃそのまんまです。キリスト教の牧師が複雑怪奇な面して、ついには神を一00%信ずることだと云った、この人五%も信じてないんではないか、信ずるは不信の始まり、一00%信ずるとは忘れることです。忘我しなけりゃ我を知らず、用いえずいたずらに複雑怪奇、未だ生きた覚えもなしの種種雑多。

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2008年4月10日 (木)

さんどうかい

万物自ずから功有り、用と処とを言うべし。

ものみな各々役に立つというとき、人の得手勝手が入るんですが、そりゃ用と処を云えとは人間さまの勝手です、そりゃまあそうなんですが、得手勝手我ままによらぬによって、万物の成り立っているところを知る、これ人間として大切です。思想分別の届く与はざると、個々別々廓然無聖は、ものみなあるがまんまという、たいていの人知っているようでそうでもないです。しかり色眼鏡おのれの利害得失による、まったく自分を離れるということがないと、本当には手に入らないんです。ものみな親しく不可分の姿、昨日よりは今日と、あるいはがらりと変わって我がもの、おらあがんになる、仏向上事。人のまた夢にも見ざるところ、ほんとうに時処位を知る、仏というまったくに彼岸に渡って下さい。常識の至るに非ず、むしろ思慮を容れんや、坐禅の醍醐味はまさにここにあります、捨身施虎おのれ食らわれ去って初めて知る、無限無辺際たとえようもなし。これなくば仏事なし、求尽の所証なし、万物自ずから功有り、用と処とを言うべしとは無体験です、無体験の如実この上もなし、手に触れる真実とでも云うべきか、他の仏教学者師禅師どものまったく与り知らぬところです。どうかこれを得て下さい、でなければ修行、また仏道の甲斐がないんです。

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2008年4月 9日 (水)

さんどうかい

明中に当たって暗あり、暗相を以て遭ふこと勿れ、暗中に当たって明あり、明相を以て見ること勿れ、明暗各相対して、比するに前後の歩みの如し。

明暗というんでしょう、意識下でも意識上でもいいです、あるいは思想として取り扱い、行動として為す、主義主張し、欲望のままに動く、みんな仲良く平和にのように、事なかれ好都合、または異を唱え、心配し不可と云い是と云う、こりゃきりがない多種多様の人間のありようです、きりがないといったってたいていお定まりのケ−スです。明と暗に分けた、たとえば共産主義というのがある、すべてを労働力に換算するという荒っぽいやり方ですが、それなりに説得力があった、清潔に見えてわかりやすかった、わかりやすいとは明暗の明ですか、とんだ落とし穴です。理想をかかげて現実を見ない、理想だから我らはいいという、一神教のカリカチュアですか、いい子は何をしてもいい、目的の為には手段を選ばず、あいつらは悪いからサリンを撒け、チベットなぞぶっつぶすべきだなど、明暗の暗のほうは、蓋を開けてみたら酒池肉林。小数エリ−トが王侯貴族の生活をする、北朝鮮のようにどんなひどいことをしても省みるなし。明暗おのおの相対して比するに前後の歩みの如しとは、まさに一般人のありようです。思想主義主張、あるいは宗教の独善ですか、明暗こうあるところをどめくらにする、意識下に於てがんじがらめにし、無意識下に於て粗暴に我欲の欲しいままにする。あるがまんまというのはまったくの手つかずなんです、意識上の手つかずは同じ縛りです、無意識上の手つかずは、もしそれあれば本能剥き出しです、そうではないんです、これを仏教だけが知る。いいわるいじゃないんです。六祖禅師、明上座に追いつかれて、この衣は信を表す、力を以て争うべけんやと云って、伝法の袈裟を石上に置く。明これをあげんとするに、力を尽くせどもあがらず。おののきおそれて日く、我れ法の為に来たる、衣の為に来たるにあらず。作礼して、行者、望むらくは我が為に法要を示せと。師日く、不思禅不思悪正与麼の時、那箇か是れ明上座本来の面目。明言下に於て大悟すと。いいですか、こうなってはじめて明暗乃至は前後の歩みの如しが掌するんです、まずはたいていできんです。でなけりゃだれかれ大なり小なり共産党やってるんです、オウムと目くそ鼻くそですよ、なぜか、しっかり省みて下さい、思想判断力を誇る、実に中途半端、いいことしい頭なぜなぜのだれかれ、まったく和を知らず。

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2008年4月 8日 (火)

さんどうかい

本末須べからく宗に帰すべし、尊卑その語を用ふ。

尊いものあれば卑しいものあり、これがしゃばの世世間です、たとい時所位による、あるときダイヤモンドであるとき土くれ、あるとき天才であるとき凡人、どっちだろうがよしとするときよし、傍迷惑役立たずのとき、不要です。これを悟りに入ろうとするときに、宝几珍御、狸奴白虎するんでどうにもぴったり行かんのです、よく坐れたうまく行かないやる、悟るとはこうあるべきする、尊いことと卑しいことをいう、そうじゃないどっちも同じ、うっふっふ神経シナップスの電圧ですか、つまりそう云っている自分を捨て去る、手つかず万事お手上げとはこれです、挙げて仏の家に投げ入れる、本末宗に帰すべしとはこれです。坐禅のノウハウを問う人に、ノウハウなしと示す、蚊子鉄牛を咬むと示す、だのにどうしたらという、手つかずをどうしても手をつけたがる。なぜか、自分をなにがなしかにしたい、悟りたいという、それらごたくさを止めればもと仏の大海です。なんでもありありわがまま三昧、すっちゃかめっちゃかで坐る、むしろまさにこれがノウハウです、あるいは自分という内なし外ばっかりというふう、こうして、でも悟る、ちらとも見ることあると却ってまた迷うんです、それは尊卑あり、本末かくかくだからです。仏の家に投げ入れる、至心帰依ができてないからです、だってそうでしょう、仏の道です、仏です、てんから文句付けるなし、だから救いです、自分にあるたといひとっかけらなぞまったくお呼びじゃないです。そんなものあるにしたがい遠くて遠し、どうですかさあ省みて下さい、坐る時間もわしのたいてい十分の一にもないんでしょう、しかもなんだかだと余得云っている、こんなの仏の鼻つまみですよ。うたた悟ればうたた捨てよ、悟りも知らないで悟りなしなんていうのは、らごら坊主と曹洞宗門だけです、なんという恥さらしな。

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さんどうかい

本末須べからく宗に帰すべし、尊卑その語を用ふ。

尊いものあれば卑しいものあり、これがしゃばの世世間です、たとい時所位による、あるときダイヤモンドであるとき土くれ、あるとき天才であるとき凡人、どっちだろうがよしとするときよし、傍迷惑役立たずのとき、不要です。これを悟りに入ろうとするときに、宝几珍御、狸奴白虎するんでどうにもぴったり行かんのです、よく坐れたうまく行かないやる、悟るとはこうあるべきする、尊いことと卑しいことをいう、そうじゃないどっちも同じ、うっふっふ神経シナップスの電圧ですか、つまりそう云っている自分を捨て去る、手つかず万事お手上げとはこれです、挙げて仏の家に投げ入れる、本末宗に帰すべしとはこれです。坐禅のノウハウを問う人に、ノウハウなしと示す、蚊子鉄牛を咬むと示す、だのにどうしたらという、手つかずをどうしても手をつけたがる。なぜか、自分をなにがなしかにしたい、悟りたいという、それらごたくさを止めればもと仏の大海です。なんでもありありわがまま三昧、すっちゃかめっちゃかで坐る、むしろまさにこれがノウハウです、あるいは自分という内なし外ばっかりというふう、こうして、でも悟る、ちらとも見ることあると却ってまた迷うんです、それは尊卑あり、本末かくかくだからです。仏の家に投げ入れる、至心帰依ができてないからです、だってそうでしょう、仏の道です、仏です、てんから文句付けるなし、だから救いです、自分にあるたといひとっかけらなぞまったくお呼びじゃないです。そんなものあるにしたがい遠くて遠し、どうですかさあ省みて下さい、坐る時間もわしのたいてい十分の一にもないんでしょう、しかもなんだかだと余得云っている、こんなの仏の鼻つまみですよ。うたた悟ればうたた捨てよ、悟りも知らないで悟りなしなんていうのは、らごら坊主と曹洞宗門だけです、なんという恥さらしな。

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2008年4月 7日 (月)

さんどうかい

而かも一々の法に於て、根に依って葉分布す。

法というものが別にあるわけじゃないんです、ものみなのありよう個々別々ですか、しかも不識知らないんです、知らないんだけど厳然、おろそかにすればしっぺがえし、いやさ天罰覿面です。物理学の法則に似ていますが、物理学の法則もこの中にある、仏教を知るとは因果必然を知ることですか、すなわち独特なものはなにもないんです、あっちの神さまこっちの神さまなし、クジラ取ったらいけない、豚は食ってもいいなんてことない、これあればかれあり、順現報受、順次生受、順後次受という、三時の業報の理を習い明きらむることこれ、しかあらざれば多く錯りて邪険に堕つるなりと、歴史も世界もなんという邪険だらけ、どうにも始末におえぬようです。これをなんとかしようとする、わずかに一箇半箇七通八達です、自分という余得なし執着なしの風穴ですか。因果必然だけを知る、さらりさらりとした心ぞよけれと、良寛さんの竹の讃にある如くです。このときはじめて六根清浄を知る、根によって葉分布する、他にはないありようです。本末すべからく宗に帰すべしという、信仰、宗教の独り善がりではない、真箇の大法です。通身帰依という、われら生まれついてのありようです、これを知るようやくわずかに和です、人の地球のお仲間入りができます。外道仏に問ふ、有言を問はず、無言を問はず。世尊良久す。外道讃嘆して云く、世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて、我れをして得入せしむ。外道去って後、阿難、仏に問ふ、外道何の所証あってか、而かも得入と言ふ。仏云く、世の良馬の鞭影を見て行くが如し。これはどうですか、仏教の本来を見るにいいです、若し坐禅を志す人、良久してもって外道讃嘆すと、花のように鳥のように、そうです、本来ほんとうの和を得て下さい、他に向かってひけらかしたり、馴れ合いコンセンサスじゃないんです。

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2008年4月 6日 (日)

さんどうかい

火は熱し風は同様、水は湿ひ地は堅固、眼は色耳音声、鼻は香舌は鹹酢。

これらのこと身も蓋もなし、まさにこれ火は熱し風は動揺です、なんでこんなことを云うのかというと、一に身も蓋もないただの現実すなわち仏教です、超能力も個人の天才性も問題にならんです、あるがようにあるところへ落着、一にはまた人という独善余得物質の入る余地がないんです、たとい破家散宅というに同じ、まずもって自分を返上すること、これ仏教、後にも先にもまったくそれ以外にないんです。仏教を学ぶもの、学者のように知識を得る、あるいは悟りを得る、なにがなし世の役に立とうとする、他にひけらかしたい、いっぱしのものになりたいというんでしょう、歩みを進むれば近遠にあらず、迷って山河の箇を隔つと、これ仏じゃないです、此岸の道です、彼岸に至るをもって大般若です、知識の交通整理点と線じゃないこと、仏教学者には金輪際わからないです。せっかく参同契を見て、まったくにもって別様を説く、あるいはただもう不明を露呈する、あほらしいです。そうではないそう云っている自分を、打ち砕くんです。目から鼻へ抜ける、一を聞いて十を知るという、それじゃまったく届かない、目から鼻じゃない、無眼耳舌身意です、ただこれ一目瞭然は、以無所得の故です、一を聞いて十よりは初めっから全体です。香巌和尚、実に怜悧で何を云ったとて答えがある、どうしようもないとて師家が、父母未生前のお前の眉毛はどうなっていると問う、さあわからなくなった。これしきがわからないでは坊主やっておれんといって、寺男になって庭を掃いていた、あるとき石を掃いて、そやつが竹に当たって音を立てた、これが因縁によって大悟する。香巌爆竹という、どう思いますか、畢生の大事を捨てる、死んだも同然の寺男です、無になるとはこれです、俗にいうおのれを無にするに近いです、なんにもないを眺め暮らす禅坊主じゃないんです、自分というなんの取り柄もなくなる、火は熱し風は動揺乃至鼻は香舌は鹹酢です、ほんとうに自分が失せると、カチ一声機縁に触れて、大活現成するんです。自分という身心なくてものみなある、我と有情と同時成仏、水はうるおい地は堅固、眼は色耳は音声が、心意識を通さずに現前するんです、その筆舌に尽くせぬことは、そりゃやってみなけりゃわからんです。声聞縁覚のこれ夢にも見ぬところです。

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2008年4月 5日 (土)

さんどうかい

四大とは地水火風です、周期律表も原子分子の考えもなく、不確定性原理もなくって、いえ科学の知識も、そのうち有と無の二つになっちまったり、人の思考はもとあるものから始まるんです。もとあると思えるもの、見えるもので事は足れり、仏教とはそういうものです、形而上学なんてもとありっこないんですかあっはっは。四大地水火風がものみなを、また人間を形作る基本だと決め込んでいた、それはそれでけっこう落着です、もとこの我らおのれが四大に帰る、死ぬることですが、なんというこれ救いですか、思想悩み天才罪悪七転八倒みな四大に復するんです、どうですか生きながらこれに落着して下さい、な−んだそうかって、あのくたらさんみゃくさんぼだい、いっぺんに自分というよこしまを抛って、坐するにしたがいニ−ルバ−ナです。子の其の母を得るが如しです。すなわちまったく自分を観察しない、心も身もです、しゃしゃらくらく無上楽があります、これ参禅の方法です。無に参加するんです、四大もと四大を知らず、すなわち人の知る分をいい加減です、たとい科学の精妙ももと役立たずです、おのれおのれを知らず、このときようやく真箇です、廓然無聖個々別々ですか、達磨さんの不識は。、花のように知らないんです、雲行いて雲の如く空自ずから大自在、これ底無しに親しいです、四大の性を自ずから復してごらんなさい、うっふっふ我管せずですか、こ−んな楽なことないんです、明け渡して下さいもとこれ、その子の母を得るが如し、あるいは天上天下唯我独尊とも云わないです、父母未生前のこと。知ろうたって知るわけがないじゃないですか、捨てるとは何。

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2008年4月 4日 (金)

さんどうかい

暗は上中の言に合ひ、明は清濁の句を分つ。

暗という暗中模索あり暗黙の了解ありですか、人のありようあるときは暗あるときは明、まあさこのように云えばこのようにあるんです、別段目くじら立ててあげつらうこっちゃないです。宝鏡三昧にある如く、重離六交返照囘互ですか、もののありようせいぜいが六十四通り、別段のこたない、それをいっぺんに見る、ちそうの味わいの如く金剛の杵の如し、最終兵器オ−ルマイテイは赤ん坊のようにまっさらなんです、これを仏という、持ち物なんにもないからいっぺんに見える。暗は上中のことに合い、明は清濁の句を分つ、うふふってにこっと笑うんです。上下を云い、だれかれ別け隔てて弁える、鏡のようにそいつを映し返すだけです。清といい濁という都合勝手を、はいそうですかと受け入れて、次の瞬間もうないんです。どこにぜんたい清濁がある、もとよりまったく知らないんです、上下清濁時と処によるんですか、あるいはそういう目安がないと、世間生活は成り立たないんですか、いやさそりゃご苦労なこった、業塵労を謝すと、葬式の法語にある通り、如来仏ただもうまっすぐ、まっさらに祈るばかりです。祈る他に手も足も出ない日常です、そりゃ出来ることがあれば手を差し出します、たいていろくなふうにはいかない、切ないですか。

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2008年4月 3日 (木)

さんどうかい

色元質像を殊にし、声本楽苦を異にす。

声色という、声色の奴卑と馳走すというのは我ら一般です、ついに一生を過ごして右往左往、めったやたらの罪作り、傍迷惑お騒がせのまんま死ぬるですか、また生まれ変わっておいでという他はなむけの言葉はないです。色というもと無色声香味触法のところに色を付ける、すなわちよこしまです、仏というわがものにあらざるものを我がものとする、一切苦厄のもとです。観自在菩薩行深般若波羅密多時、人みなのありようものみな一切を明きらむる、観自在菩薩です、赤ん坊のようにまっさら自由無礙です、はんにゃはらみったパ−ラミ−タ−彼岸に渡るんです、おれがというないはずの自分中心に物を考える、此岸です、此岸を去って彼岸にわたる、仏という無為無所得の本来に帰る、般若の智慧とはこれです。ないはずのおのれを認める故に迷妄、歩んで山河の箇を隔つんです。色即是空空即是色、仏本来に返る、色とは端にただ質像、性質形をもとこれが特徴として表すばかり、しかもあるときまったく無色無像です、あるとき細には無間に入り、大には方処を絶す、すなわち我れと大宇宙と等価です、ふうっと消えて元の木阿弥ですか、しかもなを質像を殊にするんです、不思議やたとい雪舟の水墨画を見るが如く、形ありながら千変万化してしかも無心です。あるいは鎌倉の彫刻を見るように、巨大なマッスが、三門の仁王像がまったく空です。とうていこれ信じられぬほどです、幾多あります。東大寺三門は門徒のものであって、あるいはまったくこうはいかない。いいですか心本来に返って下さい、ものみな一目瞭然です、このたね本なにがし学者みたいにでたらめ云わないんです、馬鹿らしい。声もと楽苦を異にす、いいですか苦楽あるを生活と云うんでしょう、無上安楽を仏というんです。ただ単にうち坐って下さい。声色の奴隷を免れて一切大安楽、しゃしゃらくらくといい済々として無上道です、これの他になんにもいらないという、自ずからに他なし。

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2008年4月 2日 (水)

さんどうかい

門門一切の境、囘互と不囘互と、囘して更に相渉る、慈ざれば位に依って住す。

門は六根門眼耳鼻舌身意、六境は色声香味触法である、難しく考えることはない、眼は色耳は音声とたしかめてみればいい、実は確かめること不可能、無眼耳鼻舌身意、無色声香触法、法とはまあ進退所作を弁えるほどに思えばいい、心という心が心を知ることの不可能、だのにあると思い、あると思うからに是非善悪し、邪魔にしたり悩んだりする、もと根無草。見るのに見るを知らない、見るものと見られるものの区別がない、音を聞く、どこでだれが聞こえるという、まるっきりわからない。これを知る囘互と不囘互と囘して更にわたる、すなわち後念の知識による。耳で聞くと知っているから耳で聞いている、その実は知らないんです、それこそこれを確かめたらいいです、もとこのように生まれついている、すなわち無眼耳鼻舌身意です。悟り終わるとこれを知る、無心無身です、まるっきり自分というものがない、すると囘互と不囘互と囘して更に相渉るという、意識想念の発生ないしありようが手に取るようにわかる、本来これが救いなんです。お為ごかし三百代言の仏教じゃないんです。科学的というも一歩遅いんです、科学は観察者と観察される物がある、仏は同時なんです、記述する必要もなければ、もとかくの如くと永しなえにこの中にあるんです。位によって住することを知るのは、悟り終わって悟りなしの人だけです、でないとその中にありながら曖昧模糊、すなわち囘互と不囘互と囘して更にあいわたる=自分なんです。妄想=世間=自分という、これを取り扱うことは、かえって取り扱われている、どうにもこうにもならんという、六道輪廻のたらい回しです。七歩歩んで天上天下唯我独尊、どうか一歩抜きん出て下さい。わしはあるときの接心に妄想煩瑣、どうにかしてこれを退治してくれようと必死になった、止そうとすりゃするほどに煩瑣、真っ黒けになって四日間やっていた、ついに体力の限界、もうどうにでもなれとほっぽったら、ふわ−っとなんにもなくなる、まったく空っけつです、これを想念が途切れたのではない、念はほっと出ほっと消える、それを取り扱うものが失せた、するとまったくないんです、不思議とはこれ思議に与らず、念が消えれば脳死か発狂ですよ、位によって住むとはこれをいうと、別段囘互と不囘互と更にあいわたろうが、同じ位によって住するんです。おのれを省みるなければよし、省みるおのれなく。

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2008年4月 1日 (火)

さんどうかい

事を執するも元是れ迷ひ、理に契ふも亦悟りに非ず。

仏教はこうであるからこうしろという、空であるという、では空とは何か、なんにもないという、なんにもないという白紙を想定する、そりゃなんにもあるわけです。色即是空という、自分の殻を破って、ぜんたいに帰る、身心脱落と、だからそうしようといって、どんなに細工してもさっぱりです。どうですかひょっとピックアップしても、まるきりらちあかんでしょう。事を執すること、なにをどうするという工夫じゃないんです。強いて云えば何をどうしようとする自分をなんとかする。理に契うという、自分=心です、仏心宗というでしょう、すると自分=心=一つです。一つ心は見て取ることができない、だから無心、心が無いんです。理としてまさにそうです、それを心という有る、有心として、ないはずのものに煩わされる、ないものに悩む、結果も答えも出ない、人の苦しみ厄介ごとはこれです、無心=救い=元の木阿弥父母未生前のすがたです。理としてまさにこうわかっても、どうにもならんでしょう。ではどうするか、参禅ということがあるんです。単純を示す禅です、単純とは一つ心すなわちゼロです、ゼロったらゼロがあるみたいですが、参禅はないんです。只管打坐これです。まったくただうちすわる。手つかずの方法です。おいそれとはできないんです、でももと手つかずの現実があります、心意識として、ほっと出ほっと消える、それをそのまんま手つかずです、いつか必ずできます、できるまで勤しむんです、真っ正面に向くとない、脇見運転をすると煩瑣です。アメリカ人がいた。高校生のとき投擲の選手だった、あるとき投げたあとにはあっと気がつく、投げている間の記憶がない、全米のハイスク−ル記録を作ったという。これはどういうことかといって、大学に入って調べてみると、東洋の坐禅があった、日本までやって来て師を捜す。無心100%自分ですか、イチロ−がヒットを打つにも、ノウハウを尽くしてしまい忘れるんです、単純を示すとはこれ。事を執するももとこれ迷い、理に契ふも亦悟りにあらず、どうかこれを自分で実証して下さい、事という物じゃなんにもならん、理屈じゃさっぱり満足しないんです、心とは何か=よこしま思い上がりを打ち砕く。

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さんどうかい

霊源明に皎潔たり、支派暗に流注す。

霊源とはお釈迦さまの大法です、菩提樹下に於て明星一見の事、我と有情と同時成仏と獅子吼されたこれ、仏教とはただまさにこれ、皎潔たりとは隠れもないんです。他には仏教として一かけらもないんです。たとえばこのタネ本の作者なにがし、七十になったといって偈頌を書く、六歳親しく辞して塵を出ず、又迎えん七十夢中の春、東祖道誰れか相続、悟了今人即古人。はいこんな嘘八百ないです、お寺のせがれなんでしょう六歳得度して俗世間どっぷり浸けです、七十仏がこと夢にだも見ず、七転八倒立身出世ですか、道元禅師の法を相続するをなぞらえるとはなんという鉄面皮、悟りもなく悟り終わって悟りなしなどまったく無縁の俗物です。こんなのがらしい偈をこさえ、さっぱりらしくもない説法をする、間違いだらけです。今の宗門は遠くて遠し、支派暗に流注どころじゃないんです、道元禅師に後足で泥をかけ、達磨さんに毒を盛るやから、もって唾棄すべきの、ごんずいかたまり、なんともしようにないです。支派暗に流注すとは、すなわちこれ役立たずなんです。仏とはお釈迦さまの大法以外にないです、達磨さんの自性霊明です、自分というものがまったく失せる、ものみな廓然無聖です、あなたはだあれ知らないの、花の如くに不識です。言葉にしあるいは無記にしても、他に知らしめる、するとなにがなし必ずや齟齬が起こる、暗に流注とはこれです。伝教大師が片隅を照らすものこれを国宝と呼ぶといって、仏すなわち人間なりと輸入した、すると優等生の自分が残る、恥ずかしいかぎりのいいことしいですか、御用学者になってなんの益かあるか。弘法大師は修行中に頭蓋に星が入ったという、それをもってリンガヨギ風の仏教とは似ても似つかぬものを輸入した、肝心のところはサンスクリットをもって真言とする、でたらめです。星が頭蓋に入る、なんというけちくさい、星もあり頭蓋もありそれを観察する人あり、我れと有情と同時成仏には及びもつかんです。せっかく道元禅師が大苦労の末に、霊源明に皎潔たりの真法をもたらしたのに、門徒という言い訳申し訳に終始するんですか、お悟りのかけらもないんです、うるさったいだけだ、ついには妄想狂ひの泥沼ですか。日蓮宗の如きは一神教です、我田引水てめえだけがいいという、衆を頼んで分裂を繰り返す。一遍上人の時宗だけが抜きんでていますか、実に霊源明に皎潔です、だがあとが続かなかった。多かれ少なかれ、仏の言い草を下敷きにして、さまざま道徳新興宗教などあります、みんな間違いです、ないにしくはなし。はい支派暗に流注とはこれです、取らないひっかからないに越したことはない、たとい人間心の奥ひだという、ではそんなもの抛ってかかって下さい、手つかずこれ仏、蚊子鉄牛を咬むという、あなたと仏です、あなたという支派暗に流注すとあなた自身です。

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さんどうかい

人根に利鈍あり、道に南北の祖無し。

このタネ本にこういうことが書いてあった、肇法師という人がいて、王難に値うてまさに首を切られようというとき、七日の猶予を願い出て、七日間に肇論を書いたという、四大元主無し、五蘊本来空、頭を将って白刃に臨む、猶ほ春風を斬るが如し。という偈を以て死す。まことに立派なことである、肇論というもまさに歴史に残る云々と、これなるほど立派なんですが、わしらの取る処じゃないんです。たしかに仏法はこうあるべしと知って実に死に殯して書いたものであるからして、応分の明確はあったです。でも近似値ほどに遠いということがある、偈の如くであったとして無理無体、もし人間本来仏、一休の死にとうもないという語のほうが救われます。また一休は二度三度自殺し損ねた、何かの加減で死をもって抗議したんです、生死も他人扱いですか、受け入れられると平然生を謳歌する、でなきゃまったくつまらんです。学者仏教猿の月影を追う、なんとかいう東大教授大権威だの、あんまりあほらしくて名前忘れちまったが、仏教のぶの字も知らぬ、タネ本作者もでたらめ縦横に並べる、なんでじゃ仏教なんだ、ただ名利と銭金なんです。それに気付かぬとはなんという鈍、三つの子にもわかるものを、受験勝者だのエリ−トお役人どもがさっぱりわからぬ、わかっても知らんぷり含めてなんという愚かな。もしこの事を求めてまさに自己自身に立ち返らずは、仏かくあるべしお悟り何段というが如きは、愚鈍もいいかげんです、通身もて省みて下さい。だれあって利人です、真正直に帰ることができます。は− いばかになってまっしぐら、いちばんばかでめちゃくちゃでまるでなっていないのがいちばんえらい、すなわち自分なんです。利口だのえらいだの、あっはっは馬鹿に付ける薬というんですか。
南北の祖なしは、神秀上座の北宗六祖禅師の南宗を挙げるんですが、たとい長らく言い習わされて来た南宗北宗も、実はなんの関係もないです。仏祖に南北の別なく修行証拠するのに上下四方の差なく、いつだってどこだって同じ、難易なくたといだれであったろうが、もっとも端的、もっともおのれの他にはなしです。このこと忘れんで下さい、いかなる条件も最適です、でなきゃ仏法も仏もないです、たとい頓暫ありの神秀上座も人間です、必ず救い得る。一朝ことあって破家散宅、どうにもこうにも立ち行かなくなって、そうかということがある。満ち足りて仏教坐禅をなすという人、遠くて遠し、困り切って来る実業家など、一言に行く、三日も坐ればそうかあとにっこり。もと大海の中にある、気が付くとはその安楽椅子、転ばぬ先の杖をなげうつんです。難破船ですか、あっはっは溺れる者は藁をも掴む、まあそういったところ。

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さんどうかい

竺土大仙の心、東西密に相ひ附す。

天竺インドのことです、竺土大仙の心とはお釈迦さまの無心、如来心です、お釈迦さんが菩提樹下に於て明星一見の事は、のちの仏祖師方も達磨さんも、また道元禅師もまったく変わらないというのです。教祖の心が次第受け継がれて金科玉条というんですか、あっはっは、そういう便利都合、他の諸宗とはまるで違います。これは仏の教えだけのことです。大仙という、人間のおもんばかりに拠らぬ故にです。仏仏に単伝してよこしまなきときは、自受用三昧これを標準とすとあるように、あなたでありわたしである、自分このものが見本であり証拠です。直指人身見性成仏という、哲学文芸思想また宗教、あるいは科学といい人格という、そういう人には想像を絶する事実です。このことをもう一度確かめて下さい。仏教といい悟りという、だからおれはという、なにがしか転ばぬ先の杖、安楽の法門と居座る風の、若しやなにかしらあれば、まったく違うものになってしまう。仏教が欲しいか自分が欲しいか、自分とは何か、ただ真っ正面を向くなんにもなし、脇見運転をするとある、無心と有心の違いですか、もとこうあったものを正しくもとに帰す、たったそれだけのことです。個々別々であったとて、その個々別々を入れる器ですか、だれかれまったく同じとは、蜜語なしよこしまなし、伝授するなし、修証一如とは手つかずです。密に附すとはもと寸分違わぬからです、人為のもの作りものじゃない。はいまったく初心のあなた、それでもって二00%十二分なんです、これ仏教すなわち竺土大仙の心です。蛇足ながら禅師師家など嘘八百です、たとい正師もこれをなぞらえたらよこしまです、邪魔にしかならんです、さあどうしますか。

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さんどうかい

参同契

石頭希遷大師参同契。石頭希遷大師はお釈迦さまから数えて三十五代の仏祖師です。青原行思に参ず、原問ふて日く、汝いずれの処より来る。師日く、曹渓より来る。原すなわち払子を挙して日く、曹渓にかえって這箇ありや。師日く、ただ曹渓のみにあらず西天にもまた無し。原日く、なんじかつて西天に到ることなしや否や。師日く、到らばすなわち有らん。原日く、未在更に道へ。師日く、和尚もまたすべからく一半を道取すべし。まったく学人によることなかれ。原日く、なんじに向かひて道はんことを辞せず。おそらくは已後人の承当するなし。師日く、承当はなきにあらず、人の道得するなし。原払子をもって打つ。師すなわち大悟す。師十四歳にして初めて曹渓に参ずとあります、曹渓山は六祖(達磨さんから数えて六代の祖です)大鑑慧能禅師のよるところです、曹渓の道とはこの道そのものですか、青原行思は一宿覚の呼び名があって、六祖の下に一泊して大法を継いだと云います。石頭希遷すでにして、かくあるべしという、道として手に入れるほどのことは手に入れたんですか、ここに自己按配のところなく、すなわちいはく、和尚もまたすべからく一半を道取すべし、まったく学人によることなかれ云々、云うことは云うんですか、でもどうしても道としてなにかあると思っているんです。おのれ苦労してえたものがある、かくあるべしと物の様に見る、たしかにこれが抜けない、捨て切れぬ人が大勢です。すると役には立たない、仏とは自分そのものという言い草は知って、そのものになり終わらぬ、不都合不自由です。曹渓のみにあらず西天にもなしなどいう、ないものがあってしまうわけです。ただ聞いている青原行思をもって回ってしまう、西天に行ったことがあるのか、行ったことがありゃ有るだろという、馬鹿らしい返事です、ああいえばこういうとは、仏という別ものを担うからです。未在さらに云え、わからんさらに云えという、まだやっている、云うてもいいがさというのへ、いえ、たとい青原行思をなぞらえたって、後の人聞きゃせんよという、これが仏法ですかあっはっは。たいていの人これがわからんのですよ、自分自身に成り終わる、仏という言い訳申し訳が失せるんです。というのを、承当はなきにあらず、人の道得するなきと、もって回る=無意味なことを云っているんです。言葉上のこっちゃないです、断崖絶壁、取り付く島もない仏祖師が現前するんです、払子の一打ちで、石頭希遷という形骸が木端微塵になるんです、よこしまが失せる、はじめて仏本来が現れます。わずかに離れる、光前絶後の事、玉露宙に浮かぶという、ようやく自由の分です。
参同契とはこれです、ものみなとまったく同じになるんです、我と有情と同時成道です。すなわち仏ということです、仏道です、仙人たちの参同契とは無関係です、字面の如しですよ。その内容がよくよく表わしています。

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参同契

竺土大仙心 東西密相付 人根有利鈍 道無南北祖 靈源明皎潔 枝派暗流注 執事元是迷 契理亦非悟 門門一切境 迴互不迴互 迴而更相渉 不爾依位住 色本殊質象 聲元異樂苦 暗合上中言 明明清濁句 四大性自復 如子得其母 火熱風動搖 水濕地堅固 眼色耳音聲 鼻香舌鹹醋 然依一一法 依根葉分布 本末須歸宗 尊卑用其語 當明中有暗 勿以暗相遇 當暗中有明 勿以明相覩 明暗各相對 比如前後歩 萬物自有功 當言用及處 事存函蓋合 理應箭鋒哘 承言須會宗 勿自立規矩 觸目不會道 運足焉知路 進歩非近遠 迷隔山河固 謹白參玄人 光陰莫虚度

参同契
竺土大仙の心、東西密に相附す、人根に利鈍あり、道に南北の祖なし、霊源明に皓潔たり、支派暗に流注す、事を執するも元これ迷い、理に契うも亦悟にあらず、門門一切の境、回互と不回互と、回してさらに相渉る、しからざれば位によって住す、色もと質像を殊にし、声もと楽苦を異にす、暗は上中の言に合い、明は清濁の句を分つ、四大の性おのずから復す、子の其の母を得るがごとし、火は熱し、風は動揺、水は湿い地は堅固、眼は色、耳は音声、鼻は香、舌は鹹酢、しかも一一の法において、根によって葉分布す、本末すべからく宗に帰すべし、尊卑其の語を用ゆ、明中に当って暗あり、暗相をもって遇うことなかれ、暗中に当って明あり、明相をもって覩ることなかれ、明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし、万物おのずから功あり、当に用と処とを言うべし、事存すれば函蓋合し、理応ずれば箭鋒さそう、言を承てはすべからく宗を会すべし、みずから規矩を立することなかれ、触目道を会せずんば、足を運ぶもいずくんぞ路を知らん、歩をすすむれば近遠にあらず、迷て山河の固をへだつ、謹んで参玄さの人にもうす、光陰虚しく度ることなかれ。

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