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2008年2月

2008年2月29日 (金)

弁道話

ちかごろ大宋に憑相公といふありき、祖道に長ぜりし大官なり。のちに詩をつくりてみずからをいふにいはく、公事之余喜坐禅、少曾将脇到牀眠、雖然現出宰官相、長老之名四海伝。これは官務にひまなかりし身なれども、仏道にこころざしふかければ、得道せるなり。佗をもてわれをかへりみ、むかしをもていまをかがみるべし。大宋国には、いまのよの国主・大臣・士俗・男女、ともに心を祖道にとどめずといふことなし。武門・文家、いずれも参禅学道をこころざせり。こころざすもの、かならず心地を開明することおほし。これ世務の仏法をさまたげざる、おのずからしられたり。国家に真実の仏法弘通すれば、諸仏諸天ひまなく衛護するがゆえに、王化太平なり。聖化太平なれば仏法そのちからをうるものなり。又釈尊の在世には、逆人邪見みちをえき、祖師の会下には、猟者樵翁さとりをひらく、いはんやそのほかの人をや。ただ正師の教道をたずぬべし。

公事の余に坐禅をこのむ、曾て脇をもって牀に到って眠ることまれなり、しかも現に宰官の相に出ずといえども、長老の名は四海に伝ふ。この漢詩はこう訓む、坐禅をしながら禅架というものがあって、それによって眠ったんでしょう、しかも宰相の激務は立派に果たした、そうして長老とは第一人者です、これを得、至りえ帰り来たって大衆を率いて、まさににあたる。たいしたものです。ひところ共産主義かぶれの、政治をいうものがあった、支配的であったんですか、思考停止みたいなそれに、かえって反論し難く、差別用語や部落問題と同じ、まともなことが引っ込んだです。いわく、一人坐ってひとりよがりが、政治のこと経済も他がこともなおざりにする、もってのほかだ、唾棄すべきという。政治はどうするのだという、政治はなきがよろしくと、必要悪だとこれたれしも本来思うところです。国王が如来に会いに行く、八00年ごろのタイの政治、あるいは執権北条氏の、為政者がほとんど仏陀であった鎌倉時代、理想はこれだと思うです。天皇陛下の終戦の詔勅は、山本玄峰老師が原案を呈したと聞こえる。国師という、常に政治という嘘いつわりの以前にある、それには道元禅師のように、幕府の紫衣を下賜するを蹴って、純粋にこれを行ずることが必要です。人間は弱いものです、一つことを守るには他一切をなげうって顧みぬ心が必要です、そうしてはじめて、たとい宰相にさえこれを示すんです。すなわち広大の慈門、たとい猟者樵翁さとりをひらく、いわんやその他の人をや、自分というあれこれいきさつにはなんの関係もないんです、応無所住而生其心、はいまっぱじめっからこれです。

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2008年2月28日 (木)

2007年12月 接心提唱

2007年12月の接心にて、般若心経の提唱です。

1日目「2007_11_28_02_01.mp3」をダウンロード
2日目「2007_11_29_02_01.mp3」をダウンロード
3日目「2007_11_30_02_01.mp3」をダウンロード
4日目「2007_12_01_02_01.mp3」をダウンロード
5日目「2007_12_02_02_01.mp3」をダウンロード

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虹1

  虹

   笹倉

 妙高のスキー宿へ行く、女流棋士が滞在していて若しやと思ったら、鍵は開いていて、がらんどうでもって、湯も抜いてある、シーズンが終わって、いっとき休みらしく。

春さらば人の住まはぬ心地してスキーの宿に雪は降りつつ

吾妹子やこれが宿りに湯も抜けて名物シェフのアイスクリームは

 雪が降って来た、もう春たけなわというのに。いったん海へ出て、秘湯の宿という、ちょうど反対側、笹倉温泉へ、なんでそうなるって、ようもわからん。そうしてやっぱり雪が降る。

山越えに妹とし行かむ笹倉のしくしく春のあは雪ぞ降る

寄せ返し海の辺わたり笹倉やしくしく春のあは雪ぞ降る

 車はスノーを履いてない、もしや帰れぬかも知れぬと、

笹倉の笹を茂みか夜もすがら妹と寝ねやる雪は降りしけ

 焼け山もひうちも烏帽子岳も見えなかったが、いちめんの雪を路面だけ溶けて、

晴れ行けばシルバーロードぞ烏帽子岳ひうちの辺り見えずかもあらむ

 フォッサマグナ館を見学、玉髄かなにか人の手指そっくりの石、

姫川のフォッサマグナのお宝は哀しや妹が手指の玉ぞ

 長いキャタピラのあるすべり台に乗ったら、おしりの皮を擦りむいたって、痛くって歩けない。

姫川のさらに心の幼びて夕陽に戯れこは滑り台。

 水産高校の練習船を見学、

鱈汁を食らひて能生の若人の船を見ししがあひ別れなむ

  

   初島

 初島リゾートホテルに部屋を持つ会社につとめる子がいて、一泊一万円で優雅に遊ぶ、七人のmixy仲間でもってさ。

卯の花はいずこにありやほととぎす鳴く声聞かな初島に行く

 てんなんしょうではなくって、長い花が伸びて、あれはなんていう、そうだうらしまそうと云った、浜辺は大小の岩。

潮騒の荒きいわをが片思ひうらしまそうの花にしぞ咲く

 熱海で女の子四人と家族風呂に入る、うわ冥土の土産と、これやこれなん人畜無害のじっさ、

我れをしも若かえるでの初々し熱海乙女が潮の香り

 海は荒れ、わしは帰りの切符をぶっとばし、潮に濡れたほっぺたはほろ苦く、

初島にしましく舟の行き返りうしをに濡れぬ乙女を悲し

   

   湯沢

 岩手から帰るのを、越後湯沢で待ち合わせ。点検の為の空っぽのゴンドラがぶら下がる、折しも花は満開の、

ゴンドラを空しく見上げ宿れるに湯沢の花は今盛んなり

 老人どもの団体客が一組、

芽吹きあへ独り湯舟に浸れるに思い起こさば妹も一人ぞ

しかすがに霧らひ明け行く花に花よもすがらせむ妹を悲しも

客もまた集ひいよらむシャンデリア二人をのみし朝げしつらむ

 越後一の寺という雲洞庵を尋ねる、

かつて知る大修行なる雲洞庵荘厳せむは芽吹きあへたる

禅堂の畳はくされいたずらに客のよるさへ芽吹きあへたる

  妙高

 もう一度妙高高原へ、

二人見し湯沢の花もいや遠のみずばせふ咲く池の平らに

 新しい宿があった、芽吹く白樺の林に、

妙高は霧らひこもして白樺のこは唐松の新芽吹かへる

 贅沢なオーディオルームがあった、持参のフィガロの結婚を聞く。

忍びあへ宿を仮らむにモーツアルト浮かれ呆けて膝枕せむ

 いもり池

いもり池みずばせふなむかそけしや忍びあへせむ妙高の峰

水辺なし美はしものぞかくのごとく満山芽吹く鶯の鳴く

 別れはまた、

うしを寄せ別れも行かむ直江津のなほなほ悲し春の雨降る

  安曇野

 mixyの仲間と別れて安曇野へ行く、姫川に一泊、

宿らふは春ののげしの花に咲く乱れし妹は浴衣のみして

 フォッサマグナを行く、雪の越後路はトンネルを抜けて、

ふぉっさまぐなトンネルを抜け安曇野や我れを迎えむはだれ白馬

 花の喫茶店があったのに、お休み、

田の末ゆこれも記さむ花の店安曇野にして去り行く惜しも

 碌山記念館に高村知恵子の絵葉書があった、

思ひきや何を記さむ安曇野や高村知恵子の切り絵を求め

  鬼無里

 まだ通ったことのない道を行こう、山を越えて戸隠のこれは裏っかわ。

山吹の散らへるあらむ春や春小川村には天文台が

 鬼無里は山里、やまざくらの花吹雪を行く、妹らがり花吹雪して七曲がり八つ曲がりせむ鬼無き里は

 戸隠山の背には北アルプス。

戸隠の神さび深く仰がむはつぎねふ雪のアルプスにしぞ

 学生のころ中社に泊まって、

戸隠の中社と云はむもうでむは名物そばを何十年

 ぶなの林の新緑、

黒姫は面隠みすらむしくしくの新芽吹かへるぶなの平を

雪消えて寝ねやるいくつ妹と我と赤倉山につつじ花咲く

直江津を波の別れのもの悲し忍びあへせむ行方知らずも

  長久保の宿

 中仙道長久保宿の本陣には、子供が手をつないで七人、十人ほどの五葉松があった。

本陣の五葉の松は失せにけれかつかつ残るその門構へ

 疎開して小学校の五年まで過ごした故郷、

吾妹子や時はうつろひ長久保のこは山川の形せるらく

 真田は母方の実家、

真田なる弓の稽古をいついつか眺めせしまに庭のさんしゅゆ

松本にしくしく雨のあひ別れ二人し行けば青葉を深み

 女の子二人の誕生祝いに罷り出る、例によって上野駅しのばず口に集合、介護老人をみなして迎えて、

しのばずの蓮すの花はなほ咲かね問へるいくたび極楽とんぼ

 前の日鯉を釣りに行ったら、日に焼けてまっくろけ、

郭公の鳴きわたらへば信濃河野鯉も釣れじ日は照りまさる

 でもってみなして、木村屋のあんぱんを買って食いながら銀ぶら。

木村屋のあんぱんを食らひ坊主我が銀ぶらせむやこは桜花

 買ってえといってぶら下がると、グッチのバッグ三十万円とか、

買ってえとおねえちゃん二人ぶら下がる浮き世さながら文無し坊主

今し我が嬉し涙か鼻水か取っつかれたる両腕重し

 日比谷公園はドイツ祭り、ソーセージとビールをぎっちり詰め込んで、

千人のビールをあをる青夏やドイツ祭りのこはファンファーレ

 酔っ払って膝枕、

すずかけの下なる我れを膝枕バッハも知らに未来永劫

 池袋に熊谷守一美術館を訪ね、

みなとして尋ね当てたる我が欲りし熊谷守一天狗の落とし札

吾妹子がアクセサリーを手に入れし一筆書きの守一の猫

 かぶと屋のうなぎを食う、三尾分も食って、きもの串刺しやら、心臓のぴくぴく動くやら、先生さまの奢りみたいだぜこれ、贅沢万歳。

見よや君百戦錬磨の包丁のぴっくり動く心臓をこれ

 池袋のホテルに一泊、

これはまたしのび逢ふ瀬を吾妹子が池袋なむあした明け行く

 駅前には黒い背広のやーさんがどっと押し出し、こりゃぶっ魂消、

我見しはごろつきどもが池袋何にのさばる蒼天蒼天

 湘南ライナーに乗って横浜へ、水上バスで赤煉瓦倉庫の公園へ、

ぼらは跳ねくらげは浮かび浜っ子の遊覧船ぞ夏を明け行く

 赤煉瓦は大にぎわい、広場には白つめくさ、ヘリコプターを売っていたり、サンバを踊っていたり。

赤煉瓦いにしへ今を盛んなりサンバに踊りつめ草かおる

 遊園地の向こうに帆船日本丸が、

浜っ子をみなと未来の初夏や日本丸なむ順風満帆

 タイ料理店でハッピーバースデイ、二人の名を記すケーキもついてさ、

タイ人も和尚と云ふぞ妹らがりハッピーバースデイビールで乾杯

 ワシントンホテルは日本で一番人気だってさ、費用はリーゾナブルの上に、これは二十二階百万ドルの夜景付き。

ハッピーバースデイ急転直下浮かぶには百万ドルの夜景の中に

 赤い靴というバスに乗って、おねえちゃん二人は老人介護のまあさ、港の見える丘公園にはバラが咲いて、

ハイカラは赤い靴とふ年はふり港の見える丘公園に

 元町は銀座よりもいいんだってさ、電車に乗って鎌倉へ

日は燦々チョコレートを食らひ元町やなんにも買はずいざ鎌倉へ



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弁道話

とていはく、この坐禅をつとめん人、さらに真言止観の行をかね修せん、さまたげあるべからずや。」しめしていはく、在宋のとき、宗師に真訣をききしちなみに、西天東地の古今に、仏印を正伝せし諸祖、いずれもいまだしかのごときの行をかね修すときかずといひき。まことに一事をこととせざれば、一智に達することなし。

真言止観の行という、どこか中途半端なんです、行をみとめ行ずるおのれをみとめ、結果を期待する等は、仏とは云わず。たとえばラジニーシの法という、有心なんです、立派なもの光明をもってす、なほ遠くて遠し、百害あって一利なしです、ヨガによる、そういう身心を観察する是非善悪は、また仏とは無関係です。行は兼ね備わったとて、自分は一つです、たった一つの自分を知る、すなわち忘我です、これをもってなにをどうしようという、そのおのれなし。

とふていはく、この行は在俗の男女もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか。」しめしていはく、祖師のいはく、仏法を会すること、男女貴賤をえらぶべからずときこゆ。
とふていはく、出家人は、諸縁すみやかにはなれて、坐禅弁道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して無為の仏道にかなはん。」しめしていはく、おほよそ仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり、これ一切衆生を証入せしめんがためなり、人天たれかいらざらんものや。ここをもて、むかしいまをたずぬるに、その証これおほし。しばらく代宗・順宗の、帝位にして万機いとしげかりし、坐禅弁道して仏祖の大道を会通す。李相国・防相国、ともに補佐の臣位にはんべりて、一天の股肱たりし、坐禅弁道して、仏祖の大道に証入す。ただこれこころざしのありなしによるべし、身の在家出家にはかかはらじ。又ふかくことの殊劣をわきまふる人、おのずから信ずることあり。いはんや世務は仏法をさゆとおもへるものは、ただ世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり。

世中に仏法なしと知りて、仏中に世法なきことを知らざこと、出家すみやかに世法を捨て仏に帰依する、仏の中に世法なしと知る、あらゆることが仏です、一つの欠けるもなし、生まれついての、生まれる以前からのこれが道理です。参禅弁道は、もし繁務ならば、常に真正面になすこと、脇見運転をしない、どんな煩雑も疲れを知らぬ如くする、一00%ですか、やりっぱなすんです。あるいは雑踏の駅頭もっとも坐禅に適すると、電車に乗ろうとしたら、動きにつれて身が動く、なんだこりゃといっているうちに乗りそくねたなど、身心失せる様があります。なりふりかまわず、なんでもありありです、妄想は世の中です、歯の中の舌のように、時には噛みつかれたろうが、自由無げの自分があります、および自分ごとまるっきり用無しです、これを得るこころざしさえあれば、出家不出家老若男女の別なく必ず成就できます、もとよりこの中にある他なしです。深くことの殊劣をわきまえ人、あるいはかえって長くかかるかも知れませんが、これがことの本質です、なにをどう考えたって仏法以外にないんです、モーツアルトもニイチェもピカソだろうが、仏に帰る以外には閉塞です。これを知るたった一人でもいいです、世界を救うんです、たった一つの風穴、なにさ道元禅師あり、お釈迦さまありです。この世界なんてまあ、世の中という務めってだけでか。

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2008年2月27日 (水)

弁道話

とふていはく、この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄すべしや。」しめしていはく、持戒梵行は、すなはち禅門の規矩なり、仏祖の家風なり、いまだ戒をうけず、又戒を破れるもの、その分なきにあらず。

戒律に厳しいという、もとよりこれ戒に住む、す、戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、この事を求めるのに、ふしだらであったりいいかげんは、そりゃ届かぬです、邪念麼妄想は落処を知らず、短刀をもっていた雲水を追い出し、その単の土を三尺掘って捨てたという道元禅師は、そういう趣味や潔癖症ではない、親切のゆえにです、道の親切因果無人です。肉食妻帯して我欲のままにという、道の障りになれば不可、しかもなをかつ求道の心よもに長ずと、欲望というものが欲望としてある、しかも免れている、坐すにしたがい知る、まるっきりの手付かず、自分という合切袋に用無しなんです、するとこれが教え導くんです。如来としてある、たまたま人間世間であった、たった今人間世間の皮を脱いだ、出たり入ったりでもいいです、肉食妻帯も親類家族も、億劫年の外ということがあります、するとこれが真実です、生活でありものみなのありようです。花や鳥も如来、雲も月も無心にして親切、取り付く島もないおのがじしです。われら破戒坊主の集団だ、たとい世間が望むからといって、居直ってごんずいかたまりの嘘とはったりじゃどうもならん、破戒が破戒ならぬ工夫です、もとかくの如くなんです。でも欲望のとりこじゃ、そりゃ仏教の旗印を下ろすべきです、死出虫稼業だけです。駒沢の学生が参禅に来て、こう聞いた、十重禁戒というのがある、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪淫戒、つまり殺すなかれ、盗むなかれ犯すなかれ、嘘をつくなかれ、怒るなかれ以下十戒です。盗むなかれ、犯すなかれ等はやってやれないことはない、だが第一不殺生戒、殺すなかれは到底不可能だ、たとい大腸菌だって命だ、もしこれを守るんなら一瞬も生きて行けない、できないことを示してお釈迦さまは嘘を付いたのか、教授に聞いたら、妄りに殺すなかれ、盗むなかれと云った、おれはそんなんじゃ納得できないと。わしは仏戒を示してよく見ろと云った、これはもとっからこうあるんだ、人間の作ったものじゃないと、言下に彼の体倍にも膨れ上がる、そうだといって悟ることはしばらく悟って帰って行った。だれしも出家には仏戒を授かる、まっしんに当たってこれをクリアーしなけりゃ嘘になる、人を救うどころか病理学の対象物みたいな坊主ども、いくらごまかしたって心は知る。すなはちこれ禅門の規矩なり、仏祖の家風なり、いまだ戒を知らず、又戒を破れるもの、戒の中にある以外にないんです、ここをよく見て下さい。

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2008年2月26日 (火)

弁道話

身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるになんぞ、この身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏法おのずから虚妄にありぬべし。又生死はのぞくべき法とおもへるは、仏法をいとふつみとなる、つつしまざらんや。しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅般におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法、万象森羅、ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり、あへて異違なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅般とをわくことあらんや。すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきを、みみにふることなかれ。

もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏法おのから虚妄にありぬべしと、よくよくこれを知る、道元禅師ただお一人、法を伝え授ける、よくよく見て取って下さい。一言一音解脱の道、とっかかりひっかかりあるものは、自ずから離れるんです、宇宙法界一切に身心を置き放つことは、宇宙法界と身心が同死同生なんです。我失われて真相は、なんという救いですか、若しこれを知る、生死そのものです、涅般という大歓喜、渓声山色我が釈迦牟尼仏の声と姿と、涅般会の説法に、我たとい滅するとも、なに変わらずとある、人間というよこしまが一時かき曇る、空想裏に有無の論をなす、覚めて晴れ渡る、千江水あり千江の月、菩提涅般にいたるまで、一切諸法森羅万象ただこれ一心にして、もろもろの法門みな平等なり、打てば響く、世界中にたった一人だって、永遠に大満足はこれを無心という。道元禅師のみよく一人尊す。

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2008年2月25日 (月)

弁道話

ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんじが邪見をすくはば、しるべし、仏法にはもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてたがふべから。いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心をわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸方みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常といはん、正理にそむかざらんや。しかのみならず、生死はすなはち涅般なりと覚了すべし、いまだ生死のほかに涅般を談ずることなし。いはんや心は身をはなれて常住なりと領解するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計すといふとも、この領解知覚の心は、すなはちなほ生滅して、また常住ならず。これはかなきにあらずや、嘗観すべし。

仏は身心一如を知る、これ参禅です、仏智慧という、般若の智慧というう、彼岸にわたっていることです、心意識を働かせて、とやこうするのとまったく違います。ただうち坐って身心ともになしを知る、知れるものもないんです、無自覚の自覚をもってのゆえに、常住を談ずる門には、万法みな常住です、寂滅を談ずる門には、諸方みな寂滅です、身心性相を別けるなし。これを知る、生死はすなわち涅般なりということ、生死すなわち涅般なりと心得て、涅般として願うべきもなく、生死として嫌うべきもなくという、これ参禅の方法です。生死とは自分自身という世間体です、これを捨てる、手つかずに行く、すると世間お仕着せを脱ぎ、もとほんらいの仏を知る。まるっきりの手かず、すばらしいといったら、こんなにすばらしいことはないんです、日々新たにして下さい、居座ったらおしまいですよ、辺には辺があると思って下さい、むしろ不安こそが力。

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弁道話

いはく、かの外道の見は、わが身、うちにひとつの霊知あり。かの知すなはち縁にあふところに、よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ、痛痒をしり苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。しかあるにかの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるゆえに、ここに滅すとみゆれどもかしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見かくのごとくし。しかあるを、この見をならふて仏法とせん、瓦礫をにぎりて金宝とおもはんよりもおろかなり、癡迷のはづべき、たとふるにものなし。大唐国の慧忠国師、ふかくいましめたり。いま心常相滅の邪見を計して諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、おろなるにあらずや、もともあはれむべし。ただこれ外道の邪見なりとしれ、みみにふるべからず。

慧忠国師は六祖大鑑慧能禅師の嗣、先尼外道という、このような見解は今もむかしも、人のよく陥るところであった、霊魂という別ものを思い、超能力だの祟りだのいう、因果必然の他になにかしら味噌をつける、最後の審判だの恨みつらみだのいう、こりゃ我がままです、および思考停止のあんちょこですか、現実に目を背けていたいから、外道なんですか、瓦礫をにぎりて金宝となすよりおろかなりと、どのような思考便利も実際にはなんの役にも立たない、生死について蘊蓄も、生死来たれば二束三文、思想の酒に酔っ払いは、覚めたらつけを払わされること、共産主義の如く、はじめからそれが不都合を知る、まさにこれ人間の知慧です、仏法とは知慧そのものです、彼岸にわたるパーラミーター般若の知慧は、元の木阿弥です、作られたもの、思想の精妙という得手じゃない、自分というよこしまを離れるんです、見たとおりあるがまんま。

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2008年2月23日 (土)

弁道話

とふていはく、わが朝の先代に教をひろめし諸師、ともにこれ入唐伝法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、ただ教をのみつたへし。」しめしていはく、むかしの人師、この法をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆえなり。
とふていはく、かの上代の師、この法を会得せりや。」しめしていはく、会せば通じてん。

はい、まことのこの通りです、ただ今も時節因縁ここに熟す。

とふていはく、あるがいはく、生死をなげくことなかれ、生死を出離するに、いとすみやかなみちあり、いはゆる心性の常住なことわりをしるなり。そのむねたらく、この身体はすでに生あれば、かならず滅にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。よく生滅にうつされん心性、わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆえに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼さだまりなし。心はこれ常住なり、去来現在かはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。このむねをしるものは、従来の生死をながくたえて、この身をはるとき性海にいる。性海に朝宗するとき、諸仏如来のごとく妙徳まさにそなはる。いまはたとひしるといへども、前世の妄業になされたる身体なるがゆえに、諸聖とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたずらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん。かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりやいかん。」しめしていはく、いまいふところの見、また仏法にあらず、先尼外道が見なり。

見、見解というんでしょう、いまも荒唐無稽ななんでもありありの見が蔓延して、それをもって心身の救い、あるいは何等の指針にする、たいやき君に泳げというほどに、歌になっても、実になんにもならんです、外道とは外れている、多種あって間違いだらけ、その内容にはよらんのです、まずもってここを知る。

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2008年2月22日 (金)

弁道話

又まのあたり大宋国してみしかば、諸方の禅院、みな坐禅堂をかまへて、五百六百および一二千僧を安じて、日夜に坐禅をすすめき。その座主とせる伝仏心印の宗師に、仏法の大意をとぶらひしかば、修証の両段にあらぬむねをきこえき。このゆえに、門下の参学のみにあらず、求法の高流、仏法のなかに真実をねがはん人、初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、仏祖のをしへにより、宗匠の道をおふて、坐禅弁道すべしと進む。きかずや祖師のいはく、修証はすなはちなきにあらず、染汗することはえじ。又いはく、道をみるもの道を修すと。しるべし得道のなかに修行べしといふことを。

今宗門の禅堂みなすたれて、物置きになり観光のがらくたになり、祈祷の仏壇代わりになり、だれひとり坐禅にいそしむものなく、禅師師家というまるっきりでたらめです、仏教のぶの字もなく、ぜにかねお為ごかしの俗物説法、みんな仲良く平和になどお茶を濁す、御開山禅師に泥をかけ、もしも見習う人わずかにもあれば、よってたかって爪弾きです、追い出すだけですか。いったいこれなに、醜悪とよりただもう云いようにないです。だれも宗門に法をもとめる人なく、真実を願う人なく、早晩に滅ぶよりないです。聞かずや祖師のいはく、修証はすなはちなきにあらず、人というこのもの、手を付けず、自分に自分が首を突っ込んでああだこうだしなければ仏なんです、仏ほっとけですか、ほどけば仏ですか、自縄自縛する縄をほどき終わればもと仏。ところがみな見性し悟り終わり、悟りを忘れと就中苦労します、修証はなきにあらず、修証という染汗することをえじ、おれはやっただからという、そういうふうに手を付けたら同じことです、これがなかなかです、自信という卒業証書という、人もものみなもまったくそういうものは不要なんです、ただです、ただ只管打坐です、イコールまったくの初心なんです、これを示す道元禅師のみです、壁立万仭、取り付く島もないんですよ、はいあなたです。

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弁道話

とふていはく、この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものは、坐禅弁道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめん人は、坐禅なにのまつところかあらん。」しめしていはく、痴人のまへにゆめをとかず、山子の手には舟棹をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。それ修証はこれ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆえに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ、直指の本証なるがゆえなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば修にはじめなし。

悟りを得ればすべては終わり、きらきらしい悟りなどいう、駒沢学者が老師との対談に噛み合わぬ説を振り回していたが、痴人のまえに夢を説かず、山子の舟棹ですか、知らぬ未だ届かずというをもって、まったく見当違いを云う、見当を付けるから過つ。もとこのとおりあり他なしなんです、初心そのものを修し証するんです、自分というものに用事はない、自分というよこしま架空体験を去ればまさにこれ、水のなかに氷の溶け行く如しです、修行してついに得る、いまにきっとというんではないんです、遠くに見れば遠くになる、遠くなんかないから決して届かないんです、ここを間違えないように、途中受用底という、かまわないんです、まるっきりただ坐る、きはなくはじめなしです、手つかずを只管打坐という。

ここをもて釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあとみなかくのごとし。すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる初心の弁道、すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ染汗せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとおしふ。妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。

証明=修行なんです、自分自身すなわち仏を証拠する、参禅とはこれ、単を示すとは、見るおのれと見られるおのれに二分裂をしない、無心心がないんです、すると悟入すれば忘我、悟出するとき生活ですか、朝打三千暮打八百というのが、われら仏弟子どもの日常です、なんたってじきに食み出すんですか、染汚という、すべからく安楽の法門になり切る、あるいはなんなんとしてまさに参禅です、時のたつの忘れ、いったいなにが嬉しい、楽しいといって坐るが一等なんです、他なにをしたって同じ、掌に満てり、通身に行なわれ行く、放下するとき真、出身すればこれを用いるんですか、でもやっぱり坐禅です、役立たずの用なしでけっこう、世の中に忘れられて十二分です。

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弁道話

とふていはく、仏家なにによりてか四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて、禅定をすすめて証入をいふや。」しめしていはく、むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し証入せるみち、きはめしりがたし。ゆえをたずねば、ただ仏家のもちいるところをゆえとしるべし。このほかにたずぬべからず。ただし祖師ほめていはく、坐禅はすなはち安楽の法門なり。はかりしりぬ四儀のなかに安楽なるがゆえか。いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり。

四儀という、いわゆる仁義礼知ですか、人としてのありよう正にこうすべきということは、時代によってもまたさまざまあります、これを欠くことは、人格を疑われる、人倫の道ですか、そういうものをすべて抛って、禅定のみをもっぱらにする、なにごとかというんです。よくある質問ですか。禅定という、仁義礼智と等しなみの物扱い、格好ずけです、そうじゃない、夢から覚めて、自分が自分に帰ること、本当なんです。別に仁義礼智をないがしろにするんじゃないんです、でも偽じゃない、本当は嘘をつかないんです。威儀即仏法として、猿芝居の法要をなす、自分を観察することなければ可、無心です、でなけりゃ威儀なし、役者の物まねのほうが立派です。仏という安楽の法門、はかりしれず、御開山禅師の、諸仏諸祖みなこのみちありと、ゆめ疑うべからず、安楽の法門になり終わる人、あるいはなんなんとする人、ただ今の接心にもまた一箇半箇。

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弁道話

とふていはく、三学のなかに定学あり、六度のなかに禅度あり、ともにこれ一切菩薩の初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禅もそのひとつなるべし。なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや。」しめしていはく、いまこの如来一大事の、正法眼蔵無上の大法を、禅宗となずくるゆえにこの問きたれり。しるべし、この禅宗の号は、神丹以東におこれり、竺乾にはきかず。はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあひだ、道俗いまだ仏正法をしらず、坐禅を宗とする婆羅門となずけき。のち代々の諸祖、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかある俗家は実をしらず、ひたたけて坐禅宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡して、ただ禅宗といふなり。そのこころ諸祖の広語にあきらかなり。六度および三学の禅定にならつていふうべきにあらず。この仏法の相伝の嫡意なること、一代にかれなし。如来むかし霊山会上にして、正法眼蔵涅般妙心、無上の大法をもて、ひとり迦葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりみしもの存せり、うたがふべきにたらず。おほよそ仏法は、かの天衆とこしなへに護持するものなり。その功いまだふりず。まさにしるべし、これは仏法の全道なり、ならべていふべき物なし。

六度、六波羅蜜は布施持戒忍辱精進禅定智慧の六つでか、三乗は戒定慧の三つですか、いずれ法を物とみて、これを逐一に得てすごろくの上がり式、江戸時代の大学者慈雲尊者の跡を尋ねたことがあったです、たしかに六つの寮があって、各その名がついていたです、彼の右に出るほどのせき学はいないと云われる、万巻の書を読み漁って、その偈頌があった、なーんだこの悟りの悪いことはといって、雲水二人げらげら笑ったです。禅定という、つまり有心なんです、おさまりかえったおのれを眺め暮らす、なんにもならんです、千日囘峰行して、飽きたらず三回もしたというと同じ、心というものを無にする、本来を知らないんです、心という二心をもって右往左往、そりゃどんな難行苦行も糠に釘です。結果大権威、聖人になるほかはない、一人じゃ満足できないんです、それじゃ仏じゃない、おろかなこってす。いまここにいはれるところまことに真なり、たたよく受けるにいいです。天衆とこしなえに滅びず、はいわかりました。

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弁道話

又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず。とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆえに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたずらに蹉過す。この知見によりて、空華まちまちなり。あるひは十二輪転、二十五有の境界とおもひ、三乗・五乗・有仏・無仏の見つくることなし。この知見をならふて、仏法修行の正道とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく仏印によりて、万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやに格外に逍遙し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌第にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。

われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、ものみなまっただなかで、坐のノウハウを聞く。どうしたら得られるかという、もと無上菩提の大海です、水をいい渇を求めることなし。見るとおり聞くとおり他なし、見るとき聞くとき自分というものなし、ないはずの自分に手をつけて、だからどうのああでもないこうでもないする、もと始めから用なし、身も心もないんです。とこしなえの受用にわずかに疵する、するとすべて支離滅裂に思う、承知できない、承当することを得ざるゆえに、ああでもないこうでもないの理屈です。段階をもうけ正当をいう、真偽あいわかれるんです、このまんまということがわからない。諸宗とはこれによる、空華すなわち妄想によるんです、十二輪転、二十五有の境界という、三乗・五乗・有仏・無仏という、学者の本を開けばまあさ五万と出てくる、いずれ根無草です、いかにもらしいふうに見える、それによって飯を食っているんです、死出虫稼業は坊主、しみという虫けらも二酸化炭素を放出しますか、無駄こと。しかあるを、いまはまさしく仏印によりて、万事を放下して、一向に坐禅して、迷悟凡聖のほとりをこえ、すみやかに格外に逍遙して、大菩提を受用する、これもと無、なんにもないとは自分というよこしまが皆無、の大海にあって、大海三昧、只管打坐とはこれ、まるっきりただ坐る、答えはもとこれ、おのれ知見をもって答えない、近似値は自他ともに地獄です、よくよく見て下さい。

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弁道話

又仏法を伝授することは、かならず証契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる学者をもて、その導師とするにたらず、一盲の衆盲をひかんがごとし。いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆえに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり聞法するに、おのおの心地を開明する手をさけずといことなし。余門にいまだ聞かざるところなり。ただ仏弟子は仏法をならふべし。

仏教というんでしょう、あるあると思って不惜身命にやっていたら、ないんじゃないかといって、老師に食ってかかったことがあった、老師は苦笑する、ないないと云ったって、聞くほうはあると思う、あるいは仏法と畢生の大事、至心帰依の道は、余人の推量をはるかに超える。無上楽無等等呪、どのようなものをもってしても代えがたい、だれか新成人みたいおかしなやつが、仏教の中でばっかりじゃなく、外から見るべきだという、仏の外なんてありっこないんです、言葉じゃどんなことでも云える、岡潔が云った、a=aがaはaならずになり終わる、それは数学ではあろうがあ、面白くもなんともないと、岡潔は数学をもって実際に触れうる人であった、いま実際の大海にありながら、観念おむつに包まって、頭なでなでおしっこうんちやっている、生きた甲斐もないのが多い、そりゃどしようもないです、かるがゆえに冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり聞法すという、仏の広大無辺と、a=aがaはaならずと一見同じおうに見える、虚無と無心が似ていたりするのと同じですか、でもごっちゃにしたらそりゃただのくずです、掃除機が必要です。心の大清掃は、自分というものをそのまんま手付かずなんです、妄想の交通整理じゃない、ローマ法王の就任演説のような妄想ひっくるみだろうが、爆弾テロのアラブだろうが、因果必然を説くだけです、自分というよこしまのないことを知る、思い上がりを去るんです、世の中ほんとうに平和になります。たとい悟った悟らぬも、妄想よこしまです、うたた悟ればうたた捨てよ、実になんにもなくなって至心帰依です、初心もに二三十年の参禅もまた同じですよ。

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2008年2月13日 (水)

弁道話

とふていはく、いまわが朝につたはれるところの法華宗・華巌教、ともに大乗の究竟なり。いはんや真言宗のごときはあ、毘盧遮那如来したし金剛薩垂につたへて、師資みだりならず。その談ずるね即心是仏、是心作仏といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。」しめしていはく、しるべし、仏家には教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。土石沙礫をにぎりて、仏印を稟持することあり。いはんや広大の文字は、万象にあまりてゆたかなり、転大法輪また一塵にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり、即坐成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり、ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。

仏教という噂は食えんのです、仏に悟入する以外になく、宗を建て教えを広めることは、ただでさえ騒々しい世の中に、加えてのしをつけ、信不信を云うことではないです、大乗の究竟なりとし、小乗如何という、そんな言い種なんにもならんです、花は大乗か小乗かという、まったく無意味を知る、草花山水にひかれて仏道に流入という、いまでもそういう人多いです。栂尾の明恵上人という、紅葉の木に座す絵があって、小林秀雄さえ取り上げて、流入第一なりとす、天竺に行けなかったといって耳を切った人、それしきの誓願なければ、仏に入るは難しと、さもあらばあれ、これは仏にはあらず。すばらしい人には違いぬが、未だ花にはならず、雲にもならず、土石沙礫をにぎりて、仏印を稟持するは、いまもまた諸方これ。おれはこれを得た、だからというとき、みな瓦礫です、即心即仏は即心即仏を知らず、猿の月影を追うたぐい、即坐成仏は忘我、かがみにうつそうにもさらにうつらず。まさにここに真実があるんです。御開山禅師のみ、ひとりよくこの法を伝える、近似値なんぞ及びもつかんのです、よく見て下さい、触れりゃ真っ二つ、せめて切られたことぐらい気がつけって、あっはっは。

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弁道話

いはんやふかく名利にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし、それ利貪のこころはなはだふかきゆえに、むかしすでにありき、いまのよになからんや、もともあはれむべし。ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、契心証会の学人、あひしたがふて正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらるなり。文字習学の法師のしりおよぶべきにあらず。しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師のをしへより、坐禅弁道して諸仏の自受用三昧を証得すべし。

名利という、これがもっとも離れがたしという、男とはそういう動物だそうだ、だが名利残れば、本当は求めがたし、なんとしてもいったんはまるっきり去って坐すことです、この宇宙世界に、生まれたまんまのたった一人ぼっちですか、そういうときに、ひとりぼっちすなわちすべての本来が現れるんです。坐禅の醍醐味ですか、大安心大満足と云うも余計こと、まさにこうある、真善美をはるかに超える、際なしの縦横自在なんです。このように備わるところを、名利がひっくくって邪魔をする、してはお経だの教学だのいう、地位と銭金、坊主はほっときゃ偉くなるっきりの、どうしようもなさ、むかしもいまもまさにこれ、世襲坊主の求道心の欠如は、そりゃナンセンスというだけのこったが、もっとも哀れむべし、しゃば流とごっちゃにして、大威張りかいている、マンガにもならんですか。七仏とはしきぶつ・びばしぶつなどお釈迦さま以前の仏です、わしらはお釈迦さまの法を滴滴相承して、これをまた七仏に帰す、あいしたがふて正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらる、この他に仏教としてあるわけがないんです、まずもってこれを知る、正師に就く、浜の真砂の一握にもしかぬ幸運を知るんです。参禅弁道はなにもかも抛ってする、出家とは名ばかりの、ながえを北に向けて越を求める、時間の無駄です、多くの雲水がおのれの無駄に気が付かぬ、また哀れむべきです、自受用三昧を説く、人類史上ほかにそんな教えがありますか、よくよく鑑みて下さい、無上道。

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2008年2月11日 (月)

弁道話

不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし、霊山になほ退亦佳牟のたぐひあり。おほよそ心の正信おこらば、修行し参学すべし。しかあらずばしばらくやむべし、むかしより法のうほひなきことをうらみよ。又読経念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんじ知るやいなや。ただしたをうごかし、こえをあぐるを、仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するに、うたたとほく、いよいよはるかなり。又経書をひらくことは、ほとけ、頓漸修行の儀則ををしへおけを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。いたずらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとはあらぬなり。おろかに千万誦の口業をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれながえをきたにして、越にむかはむとおもはむがごとし。又円孔に方木をいれんとせんとおなじ。文をみながら修すみちにくうらき、それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん。口声をひまなくせる、春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひにまた益なし。

不信の人という、愚鈍なんですか、不信に馴らされて、未だ信ずるということを夢にも見ないんですか、不信という、多くは観念思想が邪魔して、一寸も入って行かないんです、観念知識の交通整理の他に、心というものを持たぬ、あるいは観念倒れして、どのような知識も等価になる、まるっきり無意味になってしまう、今の若い人たいていこの類ですか、生死の際に立って、みずからに復活する以外にないですか、みんな仲良く平和にの、ついには思考停止、ほとんど脳死に近く、てめえ自我のみになって、うんちのようにやたら取っ付く、あるいは何を云っても、容易に肯定して糠に釘です、過保護頭なでなでのまあどうしようもない、学級崩壊のまんま。霊山の退亦佳牟の類は知らんですが、むかしからいいかげんな格好付けだけの人はいた、むしろ不特定多数です、生まれ変わって信を待つんですか、おおよそ心に正信おこらば、修行し参学すべし、でなきゃどうしようもないです、しかあらずばしばらく止むべしと。経書のことはまさにこの語にあるが如く、ないしは春の田んぼの蛙の昼夜鳴くがほどに、ついに益なしと。益なしと御開山禅師の云われるのに、お経を読み猿芝居になってしまった、坐禅をする宗門坊主なんかいないです、銭もうけ人に見せるための坐禅だけです。沢木興道さんという、人のいいだけの男を担ぎ上げて、時あたかも世襲坊主存続の為の、御用坐禅に用いた、写真をみると他愛ない、見てくれって格好の背中を向ける、唾棄すべき。それをまじめにした連中もいた、おおかたおかしなことになった、子供に坐禅を教える、もし危険なことになったらどうする、いたずらにしてはならんです。もし人々に接するに、お経を読むほかになかったら、じゃ蛙のように鳴けとわしは、弟子どもに云う、蛙のようにうぐいすのように鳴いてごらん、後先もなく無と鳴いてごらん、鳴けたら初関を透すと、なにほどか救いになる、バッハもモーツアルトもあるけれど、そうさおまえのお経もあるのさと、有るんじゃない無い声。虜にするんじゃない、解き放つ声。

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弁道話

とふていはく、あるひは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたずぬるによらん、まことに凡慮のおよぶにらず。しかはあれども読経念仏は、おのずからさとりの因縁となりぬべし、ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん。」しめしていはく、なんじいま諸仏の三昧、無上の大法を、むうなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乗を謗する人とす。まどひのいとふかき、大海のなかにいながら、水なしといはんがごとし。すでにかたじけなく諸仏自受用三昧に安坐せり、これ広大の功徳をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほえひにあることを。おほよそ諸仏の境界は不可思議なり、心識のおよぶべきにあらず。いはんや不信劣智のしることをえんや、ただ正信の大機のみよくいることをうるなり。

お経に念仏、哲学に思想、なにしろ受験勉強に合格のためから始まって、活字は信用する、そのほかのものは胡散くさいんですか、あるいは如来と説き、仏と示すとき、まことに凡俗の及ぶべきにあらず、凡俗のみ正義という、多数決右往左往の世の中ですか、なんせ俗悪という言葉が死語になり終わる、赤信号みんなで渡れば恐くないといって、ついに日本が滅ぶ、どうしようもなく、ただ自分を主張するのみの、切れるというほかに結果なし、これをなんとかしようとする、端坐参禅を正門とすべきです、もと本来備わっているものに聞く、おのれ本来に立ち返るほかないんです。いえ常にこういうことです、思想の酒に酔い、あるいは殺し文句にもって行かれ、宗教だの超能力だのいう、気がつけば破れほうけのずたずたです、人みな思い込みの社会です、民主主義なんていうものじゃない、これをなんとかしなきゃ、政治も経済もないです。まずもって省すこと、思い上がりはなはだしきに目をやる、大乗を謗るものおのれ、大海の中にいながら、水なしと云っているおのれです。すべての原因がこれです、わずかにてめえに首突っ込んで、知識の交通整理をしている、一億総コメンテイターですか、それのみがおのれという、なんたる情けなさ、これじゃ石ころ一つ動かせぬ、そうじゃない、まず腰掛なげうって、二本の足で歩く、自他のために何かなす、ほかに人間の取り柄なんてないです、およそ諸仏の境界は不可思議です、考えがよけりゃマルじゃないんです、人の是非善悪にはよらない、だから救いなんです、信不信のきわにはあらず、いったんすべてを抛って、本来帰りつくべき故郷を知る、もとかくの如くにある広大無辺。正信の大機のみよく住すと、お手揚げ万歳ですよ、まるっきりのただ。もと存分に住まっているんですよ。使える人になること。

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2008年2月 9日 (土)

弁道話

いまこの坐禅の功徳、高大なることききおはりぬ。おろかならん人うたがふていはん、仏法におほくの門あり、たにをもてかひとへに坐禅をすすむるや。」しめしていは、これ仏法の正門なをもてなり。
とふていはく、なんぞひとり正門とする。」しめしていく、大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることを、あひつたへるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せなり。ゆゑにいま正門を人天に示す。

なぜ坐禅が正門か、坐禅以外に道を得ることができないか、単純を示すという、心は一つです、それを見る心と、見られる心の二つ、ないし複雑怪奇にしている、これを人間と云い凡聖という過ちを正す、元のたった一つに戻すことは、坐禅以外に方法がないのです、坐ることができなかった大灯は三日三晩立ちつくした、かつての縦横論破、向かうところ敵なしを、なんという恥さらし、でたらめであったと省する、これなくば正門はないんです。他宗をもって仏の教えというにはほど遠いんです。真言宗は愛欲教というんですか、肝心なところを真言という、サンスクリットの呪文にして、奇怪な力に代える。天台宗はこれ仏教なりと示す、優等生であってついにこれを得ず、形ばかりに満足せず飛び出して求道の人、道元禅師も然りです。千日回峰行という、ついに心の処置を知らぬ、難行苦行は至り得ぬゆえに。念仏系で唯一得道の人は、一遍上人でしょう、念仏を免れて箇の単純を示す、真宗は言い訳申し訳教です、うるさったいばかりの、今に至っていよいよどうしようもないです、日蓮宗は一神教の独善ですか、分裂を繰り返すんです、新興宗教で取るに足るものはないです、銭金発展というほかなく、布教以外に満足を知らぬ、害甚はだ。たといオウムのように妄想をもって悟りとなす、無無明亦無無明尽を知らぬ、気に入らないのはポアしろという、キリスト教のほうが老獪で大規模ですがね。インドの仏教崩壊以後の、絵に描いた餅教ですか、有心のものならば、一神教と目くそ鼻くそです。いれも是非善悪、言い種の延長上にある、これまさに坐禅によらぬからです、悟ったというおのれを見ている坐禅、いえこれを坐禅とは云わんのです、ただのいたずらです、よくよく謹んで下さい。心は一つ、一つはまったく見えないんです、無心という心が無い、これを知るようやく正門です、仏ほとけにさずけて、よこしまなきときは、自受用三昧その標準なり、三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。まったく他にはないんです。

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2008年2月 8日 (金)

弁道話

彼彼ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、鐘(木へんです)の前後に妙声綿々たるものなり。このきはのみにかぎらんや、百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。しるべし、たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

彼彼ともに一等の同修なり、同証なりと、参禅はまさにこのようにするのです、彼彼という、ものみなのありよう個々別々もみな、参禅人そのものなんです、これを今正法眼蔵かくの如し、道元禅師の大法かくあるべし、仏の大海すなわちこれと、もとないはずのものを影のようにぶらさげていては、彼も此もてんでんばらばら、空をうちてひびきをなすには行かんのです、みなまたここを間違う、ないものを見ている、どこまで行こうがこれです、ではおれは得た、悟ったあるいは悟りをも忘れた、だからと云って踏ん反り返る、これ俗物狸狐、てめえの懐を肥やして、臭い屁をたれる、うてばべんべん、到底鐘をついて、響き綿々たるものなりとは行かぬ、渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風を厭わずというには嘘です、仏らしい説を可とし、仏らしくない説を不可とする、旧態依然たる、首くくる縄もなし年の暮れと、早く貧乏人になって下さい、死ぬというさえ贅沢なんですか、どうです、このようにして百頭みな本面目本修行は、わずかに一箇これをなさば、全体個々別々正に露れるんです、そうしてもって、たとい十方無量恒河沙数の諸仏、力のかぎりを尽くそうとも、仏教の辺際を知らず、底を突くなんてことはありえない、底抜けのからおけですよ、歌うんなら歌いまくってよし、響き綿々へんざいを知らず。

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2008年2月 7日 (木)

弁道話

この化道のおよぶところの草木、土地、ともに大光明をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。草木墻壁は、よく凡聖含霊のために宣揚し、凡聖含霊は、かへって草木墻壁のために演揚す。自覚、覚佗の境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれて、おこたるときなからしむ。ここをもて、わずかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、来去現に、常恒の仏化道事をなすなり。

深入禅定見十方仏と、古来云われるように、自然ものみなとおのれという境界が失せて、これもと生まれついてのありようですか、父母未生前のすがたですか、死んだのちの風景ですか、大光明を放ち、深妙法を説くこときわまりなしと、自覚他覚という、経行してたがいに行き合う、彼が我でこっちを見ているふう、面白いんですよ、木の葉も風も揺れず、こっちこう揺れ動く、これもと境界という、自他というただの観念だったんです、日常生活の便利のためだけです、真相はかくの如しと知る、いったんはまさに知る、一人一時の坐禅これ、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。仏教というたったこれに尽きるんです、しかも言説理解じゃ届かないんです。わずかに元の木阿弥を知る、すべては自分というよこしま架空のせいであった、それのみが厄介ごと、くんずれほんずれコングロマリットであった、今速やかにこれを去り、まどかに通じ、来去現にというは、まさにあとさきなしなんです、これ真実、これ常恒の仏化道事をなすなりです。

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2008年2月 6日 (水)

弁道話

しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏せざらしむることは、静中の無造作にして、直証なるをもてなり。もし凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは、証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆえに。また心境ともに静中の証入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。

知覚にくらまされること、世の常日常なんです、どうしてもそうなる、自分という架空をもって是非善悪の判断です、いったん架空を免れて、身心脱落してもってことにあたる、仏教すなわち仏としてのありようです、それは坐禅以外にないんです。坐ってはまず昏散撲落する、ああだこうだだからといって際限もないんでしょう、それを落とす、静に入るという、その方法、撲落の方法は無造作だというんです、手つかずです、手をつけるほどに大火聚の如し、大火傷をしますか、すったもんだの末に手つかずになる、あるがまんまそのまんまに行くとは、そういう自分を見ているんじゃない、だったら妄想と同じです、なんにもないというそれを眺め暮らす、つまらんです、直証とはおのれを見ないんです、凡流の思い修証両段は、よくなった悪くなったという、自分を見ている、まずもって坐禅はそこから脱却するんです、見ている自分はという問題なんです、心という二分裂に気がつかない、これを凡人というんです、葬式坊主どもほっときゃ必ず偉くなっちまう、その醜悪さ加減、だれかれ避けるにしくはなし。よくなった悪くなったという、自分を自分が運転する、まずもってこれを止す、すなわち坐禅です、迷情のおよばざところ、一つこっきりそのまんまの工夫、こうあるべきどうしたらという、そいつを捨てる、自分を捨て去ることです。するとふわあっと坐禅になります、証入するとき見えず、見えるときさとる、悟出するという。悟ったろうがたとい千差万別、昨日の今日ありとも、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、たった今の広大無辺です、これをもって仏向上事は、甚深微妙の仏化をなし行くんです。

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弁道話

このとき、十方法界の土地・草木・墻壁・瓦礫、みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあかともがら、みな甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋するゆゑに、これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとく、あひたがひに無窮の仏徳そなはり、展転広作して、無尽・無間断・不可思議・不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するものなり。

こうして自分というものをまったく投げ与える、捨て去るときに、十方法界云々と、かくの如くにちかきさとりをあらはす、甚妙不可思議と、仏化に冥資せられてと、これ言い種じゃなく、ほんとうに味わい尽くして下さい、でなけりゃなんの意味もないです、正法眼蔵を文学のように、教本のように扱ったって、百害あって一利もなし、どうしようもない道徳家、眼蔵家という三百代言のごろつきを生むだけです、風水だの水火だのいう、なにがなし別格はないんです、ものみなのありよう、たしかにこのとうりにありながら、見れども見えず、聞けども聞こえず、触れども触れえず、退屈無味乾燥あるいは汚れ穢れの殻をぶち破る、無窮であり、甚妙不可思議であり、風水であり、水火でありするんです、すると生きているという実感です、これがないから右往左往する、平和だと云っちゃ戦争です、よこしまいたずらにするんです、君なくば千たび百たびつけりとも十づつ十を百と知らじをや。貞心尼が良寛さんの歌に付す、実にこれまり一つつくのにつけないんです、上の空のだれかれ、まずもって、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな。と本来心に立ち返って下さい、そうしてもって初めて生活です、仏教です。仏語し受用しあいたがいに無窮の仏徳そなわりという、これ人為のものこれっから先もないんです、嘘ばっかりのごんずいかたまり、坊主というどうしようもないもの、まずはこれ仏と仏の修行のまさに反対だと思えばいい、こんなもんがあるかぎり駄目ですか、現実を改革するには一箇灯を点す以外にないんです、世の中新成人のような不甲斐なさ、仏教滅びるがゆえにと、ただ一箇箇のありようをまっとうして下さい、地球滅びようとも是。

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弁道話

これらの等正覚、さらにかへりて、したしくあひ冥資するみちかよふがゆゑに、この坐禅人、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を截断して、天心の仏法に証会し、あまねく微塵際そこばくの諸仏如来の道場ごとに、仏事を助発し、ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。

等正覚という、これ雑念を排除するには、知識学問の思量分別、思想判断からこうあるべき、なるほどこうであったなどいうものを、まずもって捨てる、捨てるが坐禅なんです、ついに今までとやこうあったものがまったく失せる、自信だのおれは悟ったの、いっぺん悟ったのを捨てた、もとの木阿弥だのいう、そいつをきれいに捨てる、初心というのでしょう、ただちにおのれ至らぬだけが残る、そのようにしてようやく、更に返りて、親しくあい冥資す道が通うんです、間違えちゃ困る、悟ったという獲得物質をもって、此岸にだんびらりまわす滑稽じゃないんです、彼岸にわたる、般若波羅蜜多の知慧は、わずかによこしまあれば、おれはという根拠あればかき曇る、どうしてどうしててめえの頭まるなでなんかじゃ届かないんです、六十歳再行脚の大趙州、我より勝れるものは、たとい三歳の童子といえども、これに師事し、我より劣れるものはあ、たとい百歳の老翁といえども、これに教示すと、日々新たに、まったく生まれ変わる底の修行あって、はじめて仏向上事です、まだまだまだですがね、七十歳の老師がそう云ってかつて不思議に思ったことがあった、思いのほかの事実です、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を截断して、天心の仏法に証会すと、身心また天地宇宙必ずこれに応えてくれます、あまねく微塵際の諸仏如来の道場ごとに、仏事を助発して、朝打三千暮打八百をもってのゆえに、仏向上という人人分乗豊の生活があるんです、いえわしはほかの人のことは知らん、わしは毎日こうやってます、ほかは二の次三の次です、ぼんくらどうしようもない生まれつき、かつがつこうする他ないです、大恩教主お釈迦さま、かくは御開山禅師のあられるおかげです。

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弁道話

宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・修懺・看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。もし人一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐すとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆえに諸仏如来をしては、本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会し、万法ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟無為の深般若を開演す。

宗門の正伝という、宗門とはこれ以外になく、唯一無二の正義なんです、仏教と云われているなかに種々あり、余計であり雑種です、同じく礼拝し、焼香し、修懺ありともさらに届かず、もとより焼香礼拝修懺看経周辺を徘徊するだけです、たとい邪魔にはなれ本来事を外れる、求める人はまずもってこれを知るんです、諸宗という、宗教的を人間という定義から外れて下さい、でないとこれ地球の異物ですか。過った宗教ほど恐ろしいものはあい、無宗教ほど無惨でたらめはない、人間というてんでんばらばらを元に復する焦眉の急、まさしくこれ身心脱落の他にないんです、身心脱落していいかげんになるんではない、悟り何段、立派なものになった、だからおれはとひけらかす諸道具じゃないんです。ただまさに三業に端坐し、妄想=世間=自分という荒波にサーフィンですか、いえそんなふうに見えるんじゃないんです、まるっきり手つかず、手をつけようが手つかずを知る、無自覚の覚ですか、もって三昧です、まるっきり他なしです。すれば遍法界世間人事もものみな自然もです、信じられぬ美しさですか、清々を超えた清々、しゃしゃらくらくという、千変万化してもって仏印です、尽虚空ことごとくさとりです。これ知らなければ坐ったって意味がない、仏教のかすあくたです、うるさったいだけのなんにもならぬ。本地の法楽を増し、覚道の荘厳をあらたにす、これを悟ったという人、あるいは悟ったらこうあるべきというんですか、そういう迷悟中の人、安楽椅子に腰掛けて能書の人は夢にも知らんのです、かんしけつ担板漢です、坐るたんびに増す、平たく云えば自己改変です、革命なんですよ、昨日と今日はまるっきり関係ないほどにする、これができるのを仏という、凡俗は居座ったきりなんです、成長点の停止したあしくさ。そうじゃない仏は仏、おのれ100%のゆえに、十方法界、三路六道の群類みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来の面目を現ずるんです、仏教のすべてです、あながち筆記する必要はないんです、お経祖録から仏教に入るは逆です、まずこれを証拠してのちに、お経や祖録を証明して下さい、でないといつまでたっても近似値です、近似値ほど遠くなるんですか、すみやかに無為の深般若を開演し、覚王に端坐す、いながらにして正法眼蔵です、一輪の花です、もの云うももの云わぬも大法輪を転ず、ではこういう人になって下さい、ほかに生きるすべなんかないんです。

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いはく、大師釈尊霊山会上にして、法を迦葉につけ、祖祖正伝して、菩提達磨尊者にいたる。尊者、みずから神丹国におもむき、法を慧可大師につけき。これ東地の、仏法伝来のはじめなり。かくのごとく単伝して、おのずから六祖大鑑禅師にいたる。ことき、真実の仏法、まさに東漢に流演して、節目にかかはらぬむねあらはれき。ときに六祖に二位の神足ありき、南嶽の懐譲と、青原の行思となり。ともに仏印を伝持して、おなじく人天の導師なり。その二派の流通するに、よく五門ひらけたり。いはる法眼宗・いーさんずいに為ー仰宗・曹洞宗・雲門宗・臨済宗なり。見在大宋には、臨済宗のみ天下にあまねし。五家ことなれども、ただ一仏心印なり。大宋国も、後漢よりこのかた、教籍あとをたれて一天にしけりといへども、雌雄いまださだめざりき。祖師西来ののち、直に葛藤の根源をきり、純一の仏法ひろまれり。わがくにも、またしかあらんことをこひねがふべし。いはく、仏法を住持せし諸祖、ならびに諸仏、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり。西天東地、さとりをえし人、その風にしたがへり。これ師資ひそかに妙術を正伝し、真訣を稟持せしによりてなり。

これはまさにこの通りなんです、お釈迦さまから迦葉尊者に伝わり、達磨さんによって東へわたり、大祖慧可大師をえて、六祖より大いに広まる、五門ありみなまた一仏心印なり、仏仏に単伝して、よこしまなくたった今にいたる自受用三昧です、教籍あまたあってとやこうも、ここにようやく直に葛藤の根源を切る、心の始末をつけることが可能です、たとい千日回峰行も元の木阿弥だったです、わずかに妄を開いて、一木一草親しいんです、同死同生底を知る、まさしき道は端坐依行です、門徒の申し訳とは違うんです、思想分別ではなく、それを容れる器の問題です、師資ひそかに妙術を正伝し、真訣を稟持し来たって、今ここに布延す、日本にはじめて仏が現れた、なみたいていのこっちゃないです、人みな夢にも見ないことがある、いいえ現在だって同じです、まるっきり夢にも見ないんです、真龍をあやしむなかれ、もとのありようこれ。

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弁道話

宋の紹定年間のはじめ、日本へ帰って来た、知りたい人は年表を調べるによく、空手還郷、眼横鼻直にして、他に瞞ぜられず、舟に経巻を宝物を満載して帰ったこれまでとは違い、宝は自分そのものであった、仏という宝、これをもって世に広めよう、生きとし生けるものを救おうと思った、なぜなら仏の道しか救いなしということを知る。重担はなはだし、こりゃたいへんです、あるいはこの世にこんなたいへんなことはないです、お釈迦さんでさえも、到底無理であろうし、得るものは得た、かえって命を絶とうとした。人は妄想と是非善悪、宗教という多様に支配される人間、思想という酒に酔い、どこへ突っ走るかわからない、貧者の一灯となるよりは、吹き消すほうがよく、生きていれば救おうとする以外になくは、人間とはまさにこれ。かつてまた仏教という噂ばかり、達磨さんを毒殺する他ない、ごんずいかたまりです。しばらくは様子を見る、雲のように浮かび、みずくさのように漂いつく暮らしですか、これが興り来るのを待って、先哲の風を聞こえ、仏祖師方のありようを示す、ただしおのずから名利にかかわらず、道念を先とせば、真実の参学あらんか、ほんとうに求めようとする人が現れる、いたずらに邪師に惑わされて、みだりに正解を思い、自狂に酔ひ、参禅という今に至るまで、一00のうち九九まではこれです、ひさしく迷郷にしずむ、これを救い出すてだて、なにによりてか般若の正種を見せ、道を得せしむ、今はこうやってふうらり渡り歩く、いずれの山川をかとぶらわん、まことに申し訳なく、ゆえにもって、まのあたり大宋国の風規を見聞した、知識の玄旨を稟持、ほんらいほんとうを伝え来たんです、これをつぶさに記して、参学の人に示して、仏家正法の見本としたいという、正法眼蔵のことはじめですか、これ真訣ならんかも、方法はまさにこれしかなかろうかというんです。

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弁道話

予発心求道よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる、あひしたがふ霜華、すみやかに九廻をへたり。いささか臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり、あへて余輩のならぶべきにあらず。予かさねて大宋国におもむき、知識を両せいーさんずいに折ーにとぶらひ、家風を五門にきく、つひに大白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ。

発心求道ということのない坊主ども、卑しくモラルの低下というより、食わんが為だけのくず、仏を云うもの、こんなていたらくしちゃだめです、てめえさえよけりゃを仏に持ち込む、腐ったはらばたですか、病理学の対象にしかならぬ。仏教すたれて日本は滅ぶんです。十三歳上山して十七歳には経巻を網羅して、本来本法性、天然自生心ということであるとわかった、ではこのまんまでなんにもせずともよいかといって、それじゃまさになんにもならんのです、臨済の栄西禅師に、仏とは何かと問うに、三世の諸仏知らず、狸奴白虎却って是れを知ると、決まり文句が帰って来た、知ったかぶりという以外にはなく、ほんとうは知らぬ、もし本来人なれば入宋沙門にならずともよく。たといちんぷんかんぷん、妄想百般であろうとも、正師に会うことあれば、これを知る、求める心あれば必ずです、父に出会えた、一生遍歴の事終わると知る、不思議なものです。浜の真砂の一握にもしかずという、正師に出会いながらこれを見ず、疑心暗鬼してそっぽを向く、そんな不幸はないです、正師に出会はずは、いたずらに右往左往するばかりです、さんざんな目に会うです。自分の持ち物、漆桶の故に見れども見えず。江湖にとぶらひ五門の家風に聞き、おれもようは知らぬ、だがおまえらもさっぱり知らぬではないかと、外国へ行って外国語を用いて、ついにたぶらかされず、せっかく入宋沙門も意味がなかったという、引き上げようと思ったところに、天童山の如浄禅師に会うんです、ここにおいて一生参学の大事おわりぬ、ついになし遂げるんです、なんで外国人が大法を得るかと侍者が聞く、あいつもずいぶん叩かれたからなあと如浄禅師。邪師はあれという、付け足すんです、正師はこれといってぶったたく、奪い取るんです、なあなあ習い事の分はないんです、一器の水が一器に余すところなくなどいう、たわけたことしないんです、倒折刹竿著、拈花微笑これ、取り付く島もなし、これおのれなり仏なり、もとかくの如し。

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弁道話

諸仏の常にこの中に住持た、各々の方面に知覚をのこさず、群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。いまおしふる工夫弁道は、証上に万法をあらはしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらんや。

これを得る、わしをぶんなぐって、なんでもとっかこうあるのに、むずかしいことばっかりこきゃあがったというやつがいた、そうしてはおいおい泣いていたが、是というには是、しばらく天下取ったんですか。たとい正法眼蔵も、何云うたってすべてがおのれがこと、みんなマル、こりゃどうしようもないんです。あっはっはもとどうしようもないんですが、許すわけにゃ行かんのです、得た、だからいい、おれはいいんだというだけ余計なんです、ものみなよくも悪くもないんです。各々の方面に知覚を残さず、各々の知覚に方面露われず、もとまるっきりこれ、忘れ呆けて初心ですか、得ることはたやすく、住むことは至って難、群生のとこしなえにこの中に使用すると、取捨選択という自分がまったく失せるさま、自分というこっちがわからじゃないんです、彼岸にわたり切るんですか、ぱーらみーたー般若の智恵です、あっちがわが自分であって、こっちをこう見ている感じ、そりゃそういうこといったんあったといって、やっぱりこっち此岸に物を云う、ではどっかもとの木阿弥です、元の木阿弥初心が向こうからやって来て乗っ取るふうですか、あっはっはものみな平らかに、理屈抜きにこうある、しかもおのれは世間の側にはないんです、仏の為にす、命も辞さないんです、おれは得た、だからの世界じゃないんです。この参禅弁道は証上に万法を現わすと、万法かくあるべしと類推して、こうあらねばならぬ、だからとやっていてはいまでたってもです、近似値かえって遠いんです、ついに一如にならない、それに気がついて、なんというおのれはという、断崖絶壁のような反省です、思い上がりを恥じる急転直下、すれば直きに行んです。どこまで行っても同じです、どこか安楽椅子では、仏に遠くて遠し、このぐらい坐ったし公案も透ったし、でもっておれはとっやる、そりゃ始めと変わりないんです、よくよくこのことを鑑みて下さい、仏法に離反するもの。関を超えるとは、おのれという囲いを外す、正法眼蔵の無尽蔵に帰る、個々でも節目でもないことは、個を抛ち節目を外してもってはじめて知る、就中ただではただにならんのです。

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弁道話

この法は人々の分上ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるはあらはれず、証せざるにはうことなし。はなてばてにみてり。一多のきはならんや、かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。

この法と云うよりなく、法として別にあるんじゃないです、云わなきゃわからない、人々分上という、もとあるがように個々、そやつにしがみついて、インツーィッションだおれはどうのとやらなければ、なんにも見えないんです、100%用いえて妙、精一杯して我のものというなし、世界あれば世界の使用、宇宙あれば宇宙に消えるんです。無自覚の覚という、未だ証せざるは現れず、水の中にあって水を求める、まさにこれと知る、でなきゃただ女のように、これでいいんだ当たり前だと云っている、世の中といううあばずれ呆けるのみ。証拠して得ることあればまったくに納まる、天地宇宙を呑却し終わるんです。坐るに従い、なにものか得るんでしょう、するとそれを手放して行く、やるからには得るという此岸を去る、我利我利亡者の衣を脱ぎ捨てるんです。呑却するとは、天地宇宙に呑却され終わるんです、得るとはついにまったくの一物もなし。仏というこうあるべきだからどうのという、知ったかぶりですか、逐一に証拠するそれを取払う、単を示す、これ参禅の方法です、付け足すんじゃないんです。一多のきわんらんや、思想分別ではない、思想分別を容れる器の問題です、器際限なし、語れば口に満つ、縦横極りなし、眼蔵を見るそっくりに救われるんです、手の舞い足の踏むところを知らず、なにもってただもう解き放たれるだけ。

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弁道話

正法眼蔵弁道話

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。

たった一人まるっきり孤立無縁の時、これを見るに人間宇宙ことごとく開けて、太息をつき涙滂沱、これ一つあればたとい地球滅亡もなにするものぞ、真語の響き全世界です、我れと我が身心とまさにこれ以外にはなく、滞るなくひっかかるなく、他にはなんにも要らんこと、掌をもって証明するんです、直指人身見性成仏、そうさおまえさんさ、あれ知らなかったのか、知っていたさ、でもさ一人ぼっち逼息、なあに心配いらんさ、ほれこのとおり、雪月花もとより証す、腹ふくるるわざも解消する、お互い屁の匂いを嗅ぎ合うヤフ−人間も雲散霧消、見よやこれ、天下太平阿耨多羅三耨三菩提。
諸仏如来、ただこれ唯我独尊、ようやくにして地球宇宙のお仲間入りです、花は花のように咲き、雲に似て雲の行く、人間の如来は人間に同ぜるが如し、あのくたらさんみゃくさんぼだい阿耨菩提とはこれなんぞ、まるっきり省みないんです、自分に首を突っ込んで歩く、無気味無様をしないんです、至心帰依の法、仏とはなんだ、だからどうななと、ないものをあげつらって、エアーポケットをこさえる恥晒しをしない、なんにもなしとは、なんにもなしの安楽椅子を蹴倒す、ものみなまっしぐら、因果歴然を知る、これ安楽の法門なり、最上無為の妙術なり、ちらともあれば痛棒、朝打三千暮打八百して、はじめて得べし、仏仏に単伝して、よこしまなることなき、一人でてめえの頭なでなでしていないんです、受験教育の不備をまずもって脱して下さい、滅びかかっている、すでに滅んでいる家畜人ヤフーを一抜けたです。初心も二三十年修行も同じなんです、居座ってとやこう云っている、そやつをかなぐり捨てる、火中の栗を拾って下さい、これ人間の基本技、ましてや仏法捨身施虎、恥知らずコメント知識の滅び行く日本人を止める、大角力も駄目ですか、てめえを囲って一歩も外へ出ない、力とは我れを半分、神仏の加護とむかしは云った、仏はおのれを知らず、おのれを抛ってはじめておのれ。すなわち自受用三昧これ、他の標準を仮りてる間は座禅が座禅にならんです、修禅という、どこまで行こうがもうじき、もうすぐと云って、百年河清を待つ。この三昧に遊化すること、無自覚の覚、動静同じいというなら、まさに坐って下さい、端坐参禅を正門とす、単を示して下さい。

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