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2008年1月26日 (土)

十牛の図

見跡

依経解義、閲教知蹤。    
明衆器爲一金、體萬物爲自己。 
正邪不辨、眞僞奚分。    
未入斯門、權爲見跡。    

頌曰。

水邊林下跡偏多。    
芳草離披見也麼。    
縱是深山更深處。    
遼天鼻孔怎藏他。

経に依って義を解し、教を閲て蹤を知る。
衆器を明らめて一金の為にし、万物を体して自己の為にす。
正邪弁へず、真偽奚んぞ分たん。
未だ斯の門に入らずして、為に見跡を権る。

般若心経という、余すところなく記してあるんですが、どういうものか解説書、中村元博士の注釈など、なんでこう間違いでたらめなのかと、呆れ返るってか感心するほどです、どうしてそうなる、虎を見たことも聞いたこともない人に、虎を説いて描かせる、はたして描けるか、いやさ虎はなんとかなりそうだ、心の問題はそうはいかぬですか、なんだかんだと尾鰭がついて、言葉の解釈だ、屁のにおいだというんでしょう、虎がぬえになる、教えを閲け蹤を知る、一代時経ですか、白毫が渦巻いたり、奇跡や超能力だったりする、かってな夢を見るんですか、たとい真実も、むしろ近似値ほど有害であったりする、今に至るまでてんやわんやです。
人というこの器ですか、唯一真金を願う、そりゃだれしもそうです、われこそはという覚悟なけりゃあ、そりゃ得られんです、ものみなを体して自己の為にす、まことに仏とはこれ他にはあらず。
だのにだれが正師か邪師かの区別も付かぬ、かえって邪師のほうがもっともらしく、光明に溢れてそれらしくですか、取り付く島もあるほどに、化けの皮にとっついて右往左往する、正師はこれと云い、邪師はあれと云う、至り得れば彼岸も此岸、正師は奪い、邪師は付け加える、もとなんにもないものをあるあると云う、自分といういっぱしを省みるんです、乃至は取り付く島もなし、ノウハウまったくなしなんです、ちらともありゃあ嘘です。真正直に見ることです、赤裸のものまた赤裸を知る。
未だこの門に入らずして、あっはっはヤフーの連中ですか、知ったかぶりの空理空論、既に門戸の前にあるっていうのに、なんんだかだ云って、あそこにはこう書いてあった、だれそれはどう、だからとやって、どうだおれはかくの如くにと踏ん反り返る、そうじゃない総じてそういう思い上がりを捨てる、赤心洗うが如くす即ち仏の掌。

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