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2008年1月

2008年1月26日 (土)

十牛の図

胸を露にし足を跣(はだし)にして廊に入り来(きた)る。
土を抹し灰を塗って笑い腮(あぎと)に満つ。
神仙真の秘訣を用いず。
直(じき)に枯れ木をして花を放って開かしむ。
胸をはだけて横山大観筆の天衣無縫ですか、雪舟は悟りそのものを描いた、おのれ無うしてものみな、無心如来の姿です、横山大観は、若しそうなったらかくの如くあるという予想ですか、筆の運びは流石ですが、どこかに住めない感じがします。足をはだしにして風のように出入りする、あっはっはそんな真似する必要はないです、サラリーマンの黒背広着ろっちゃそうしてりゃいい、いったいなんで黒いスーツなんか、それがよくわからんだけどもさ。
土を抹し灰を塗って寒山拾得は、天上天下唯我独尊、笑いあぎとに満つ、まるっきり世間を離れて、かつかつに食らい、おんぼろまとうてただもうあるがようにある、どっかにちらとも未練ありゃ、さっぱり格好付かんですか、大丈夫詩を以てする、人間鳥やけものとは違う、まあさ二人ありゃ宇宙ぜんたい。
神仙真の秘訣を用ひずとある、真実不虚とはもとすっぽり入っているんです、その上の秘訣も何もないんです、これを云うや入てん垂手。
ただこうあるっきり、直きに枯れ木をして花を放って開かしむ、あっはっは花咲か爺さんですか、片隅を照らす者は、これを国宝と為すと、秀才面した伝教大師が云った、いちばん馬鹿でめちゃくちゃでまるでなってないのがいちばん偉いってさ、どんぐりの背比べ、若しかくの如くの人二、三人あれば世の中を救う、そうです、平和博愛云々の我田引水じゃない、よくよく看て取って下さい。日本は滅び去るか、一箇半箇これを得る、よろしくよ保護せよと。

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十牛の図

第十 入廛垂手

柴門(さいもん)独り掩(おお)うて、千聖も知らず。
自己の風光を埋めて、前賢の途轍(とてつ)に負(そむ)く。
瓢(ひさご)を提(さ)げて市に入り、杖を策(つ)いて家に還(かえ)る。
酒肆(しゅし)魚行(ぎょこう)、化して成仏せしむ。

柴門という一人かつかつ食うに足る住まいですか、良寛さん五合庵には、ほんとうにまあなんにもなかったようです、正法眼蔵と碁盤があった、そりゃ筆に硯があった、紙があった、一人楽しむなにがなしかと、子供相手のかくれんぼうです、世の中ひけかして、仏教の第一人者、あるいは文人往来のいっぱし、世をすねて竹林の賢人もなく、柴門独り掩うて、千聖も知らず、何してるんだかさっぱりわからずという、まっくそんなことないんです、良寛さんほどきしっとした人はなかった、自由気ままなど微塵もなかった。
永平清規に、対大古法というのがある、大先輩に接する方法です、そりゃもう絶対服従ですか、良寛さんの対大古法は子供らです、こんな無茶苦茶猛烈な修行はないです、子供はいったい何するかわからん、それをそのまま従い着く、良寛さんあというと、ぶっ倒れるまでやっている、おーいと呼ばれるたんびにおーいと出る、隠れんぼうは、だれいなくなったって隠れている、一生不離叢林は、出家のまさに他なし、嘘と忙しなさばっかりの大人じゃなく、仏というこりゃまあ腕白無邪気な子供です、一休は寒毛卓立、良寛はただもう舌を巻くばかり。
自己の風光を埋めてという、境涯境地などないんです、文人墨客など没交渉、その書ようやくに仏足歌碑に似る、まっすぐに書くんです、習い覚えの尾鰭がないんです、前賢の途轍に背く、こうあらねばならぬということなし、仏教仏はという物持ち、お金持ちじゃないんです、掲示板とか2チャンネル人の夢にも見ない、首くくる縄もなし年の暮れですか、死のうというだに贅沢なんです。
托鉢してなにがしの家に行く、うちは勤倹実直の家風だ、額に汗して働かぬやつに、施しはせんという、そいつを良寛さんばんたび訪れて、ぬうっと鉢の子です、あっはっは面白いです、共産党滅んでも、とんぼやすずめは同じってね、こんな人間が、とっくりぶら下げて市井を歩く、肉食妻帯しようがしまいが、春風駘蕩ですか、歩歩清風起こるんですか、一人半分こういう人いりゃ、浮き世の風穴。
いいですか、初心も二十年古参も同じ、ただもうおのれどうしようもない、至らぬと知って至心帰依です、てめえの取り柄なんて、なんてもないんですよ。ましてや仏教なんてあるわけもなし。

胸を露にし足を跣(はだし)にして廊に入り来(きた)る。
土を抹し灰を塗って笑い腮(あぎと)に満つ。
神仙真の秘訣を用いず。
直(じき)に枯れ木をして花を放って開かしむ。

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十牛の図

本に返り源に還って已(すで)に功を費やす。
爭(いかで)か如かん直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには。
庵中には見えず庭前の物 。
水は自(おのずか)ら茫茫花は自ら紅なり。

元の木阿弥という、思い上がりよこしまを去って本当本来、観自在菩薩です、赤ん坊のようにまっさらにという、どうもこんなに難事業はないんですか、たったのただ元っこぱあだのになんでそんなに、既に功を費やすという、その功が仏という噂であり、持って回った空威張りであったりする、いつだってひっかかりとっかかり、余計こと人生。功=仏です。世の中抛ってほんとうに一人、生まれついての日送りが、だからどうの、いやおれはという存在理由に代わる、どこまで行こうがいっぱしなにがしか、ただこれを去る、すなわちこれ仏教です。一人遊びぞ我れは勝れる、独楽を回せばくるくる回ると、書いた良寛和尚、さすがにこれ、直下に盲聾の如く、庵中には見えず庭前の物という、わかりますかこれ、如何なるか是れ祖師西来の意、云く、庭前の柏樹子と、ものが見えている間は本物にはなぬ、聞こえている間は二人三脚、ずぼっと入ってしまう、月を仰いで忘我は、大切な客人を忘れほうけて、月と二人寒山拾得は、月のみあっておのれなしですか、わっはっはいったいこれが何になる、世界平和だの光明だのいう、はいはいお説ごもっとも、どうぞお静かに、手を振ればあっちへ行く。
水を掬すれば月掌に在り、花を拈ずれば香衣に満つと、人類だの歴史だのといったんおさらばして下さい、大騒ぎじゃない、他なーんも要らんのです、もとそのように生まれついている、十年三万六千日夢、夢というのは現実如実であればあるほどに夢、はいおのれというものを手放すだけのこってす、はーいろくでなしのまったく役立たず。それでもいいってんならどうかついてきて下さい、ただもう難かしいばっかりでがね、はっはっは。

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十牛の図

第九 返本還源

本来清浄にして、一塵を受けず。
有相の栄枯を観じて、無為の凝寂(ぎょうじゃく)に処す。
幻化に同じからず、あに修治を仮らんや。
水緑に山青くして、坐して成敗を観る。

本末清浄にして一塵を受けず、世の中助平なことは後ろめたい、いいことしい頭なぜなぜ、仏教は仏教を説き、どうすりゃ格好悪いとか、格好よくすりゃ浅薄とかいう、なにをどうしたっても一塵を受けず、まるっきりの無反省ですか、あっはっは恥を知ることは、まず真っ先に知る、涙することは、人知雪月花、たとい正法眼蔵これをおいてなく、有相の栄枯を観じて、ものみなまったくよく見えるんです、宝鏡三昧ちらともありゃ映る、仏だの仏道だのいって、てめえのエアポケットをこさえて、恥さらしみっともないのが、たとい悪意のように映る、初心俗物だろうが、悟り終わっただろうが、みなまた通身帰依、おのれというどうしようもない、首くくる縄もなし年の暮れ、発露白仏して、はじめて応分の取り柄あるんです、すなわち以無所得故菩提薩垂、修菩薩行です、如来来たる如し、無心心なしは、安楽椅子にでん座るのとは違うんです、なりふりかまわず為人の処、省みるおのれが無いんです。無為の凝寂に処すなど云っていないんです、百頓の棒を許す。
幻化遊化三昧は、接化する相手より先に改変するんです、なんの取り柄もなけりゃそいつもふんだくる、修治を仮らず、修だの治だの云う先に痛棒です、なにをこれがおたんこなす。
水緑に山青くして、雪降れば雪からす鳴けばからす、我が行くはてはいずこにありや、野たれ死ぬ迷惑もなし、象の死に場所を知る、坐して成敗を知るなぞ、口がぶっ裂けても云わず。まったくなんだこりゃ。


本に返り源に還って已(すで)に功を費やす。
爭(いかで)か如かん直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには。
庵中には見えず庭前の物 。
水は自(おのずか)ら茫茫花は自ら紅なり。

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十牛の図

第九 返本還源

本来清浄にして、一塵を受けず。
有相の栄枯を観じて、無為の凝寂(ぎょうじゃく)に処す。
幻化に同じからず、あに修治を仮らんや。
水緑に山青くして、坐して成敗を観る。

本末清浄にして一塵を受けず、世の中助平なことは後ろめたい、いいことしい頭なぜなぜ、仏教は仏教を説き、どうすりゃ格好悪いとか、格好よくすりゃ浅薄とかいう、なにをどうしたっても一塵を受けず、まるっきりの無反省ですか、あっはっは恥を知ることは、まず真っ先に知る、涙することは、人知雪月花、たとい正法眼蔵これをおいてなく、有相の栄枯を観じて、ものみなまったくよく見えるんです、宝鏡三昧ちらともありゃ映る、仏だの仏道だのいって、てめえのエアポケットをこさえて、恥さらしみっともないのが、たとい悪意のように映る、初心俗物だろうが、悟り終わっただろうが、みなまた通身帰依、おのれというどうしようもない、首くくる縄もなし年の暮れ、発露白仏して、はじめて応分の取り柄あるんです、すなわち以無所得故菩提薩垂、修菩薩行です、如来来たる如し、無心心なしは、安楽椅子にでん座るのとは違うんです、なりふりかまわず為人の処、省みるおのれが無いんです。無為の凝寂に処すなど云っていないんです、百頓の棒を許す。
幻化遊化三昧は、接化する相手より先に改変するんです、なんの取り柄もなけりゃそいつもふんだくる、修治を仮らず、修だの治だの云う先に痛棒です、なにをこれがおたんこなす。
水緑に山青くして、雪降れば雪からす鳴けばからす、我が行くはてはいずこにありや、野たれ死ぬ迷惑もなし、象の死に場所を知る、坐して成敗を知るなぞ、口がぶっ裂けても云わず。まったくなんだこりゃ。


本に返り源に還って已(すで)に功を費やす。
爭(いかで)か如かん直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには。
庵中には見えず庭前の物 。
水は自(おのずか)ら茫茫花は自ら紅なり。

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十牛の図

鞭索(べんさく)人牛(にんぎゅう)尽く空に属す。
碧天(へきてん)寥廓(りょうかく)として信通じ難し。
紅炉焔上爭(いか)でか雪を容れん。
此に到って方(まさ)に能く祖宗に合(かな)う。
坐っていて必ずもう一つの目があったんでしょう、こうしちゃだめそうじゃないという、朝打三千暮打八百、若しこれなければ真箇露われず、真箇のみ真箇を許す、ついに手放しです、一箇取りつく島もなし、すればまさに青春です、百花蘇る如く、人間天上これに尽きるはなし、無上楽歓喜のまさにもってこれ元の木阿弥です、人という形骸を脱して、仏即ち仏を知らず、草を取り雲にうそぶき、一挙手一投足他なしです、手の舞い足の踏む所を知らずですか、木人正に歌い、石女立って舞うんですか、あっはっはむかしの人はうまいことを云った。
碧天寥廓として信通じ難し、からっとしてなんにもないんです、だからどうの世にいういわく因縁がないです、随処即処すなわちこれ、花のように知らず、行いては雲の如し、廓然無聖、信不信の汚穢の触れえぬ玉ですか。
紅炉焔上いかでか雪を容れん。ただこれ。
ここに至ってまさによく祖宗に合う。よくよくこれを知って下さい、仏教を識った道元禅師そっくりだ、良寛はなど云っている、まったくの戯言だったんです、一人ただよく相続する、ようやくにその目鼻が付いたんです、面壁九歳によろしくと、跡継ぎを待つ間しばらくあったりします。

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十牛の図

第八 人牛倶忘

凡情(ぼんじょう)脱落し、聖意(しょうい)皆空ず。
有仏の処、遨遊(ごうゆう)することを用いず。無仏の処、急に須らく走過すべし。
両頭に著せずんば、千眼も窺い難し。
百鳥華を含む、一場のもら。

凡情というんでしょう、2チャンネルや掲示板で仏教だの禅の思想だのウィトゲンシュタインだの云う、これみんな凡情なんです、知識をひけらかしいずれが正か邪かという、まずはその心失せ切ってはじめてまっさら赤ん坊のたたわわです、ようやく風景雪月花に相対するんです、一元的二元的というも、外からの斟酌です、よけいなお世話、ですがこれを切るのにどうしても仏教の助けが必要であった、我欲妄想を断つ、囚われのおのれを救い出すには、おのれとも救い出す手が必要というわけです、ついにこれが用なしです、ようやく本来の自由を手に入れますか、いいえどっかに殻くっつけて、足引き摺るひよこですか、自然脱落、現成公案。
有仏の所遨遊することを用いず、遨も遊ぶの意です、仏教を卒業したての気分になって、だからどうだのあれこれあげつらう、たしかに一目瞭然なんですが、たと為人の所、無心ないものはまったく傷つかない、さらりさらりとした心ぞよけれ、四智円明に玉を転がすように行く、まったく疲れないんです。無仏の所急に走過す、無仏という、もと仏教なしは、ないもの留まらずですよ。
まあさこれできるってのはかなりのもんです、一人二人そういうのいたですか、窺い知られず、宝鏡三昧鏡に写らない人間です、見え見えのその他大勢の中にあってまったく見えない。元の木阿弥これ。ようやく物の役に立ちますか。
百鳥花を含む、はあてそんな殺し文句あったですか、たしかに云うことこれ大法、てんでかっての辺に百花開くんです、打てば響く、ものみな外れっこなし、これを云うや一場の漏羅、こっ恥ずかしいったらってこってす、いやまほんにさ。

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十牛の図

牛に騎って已に家山に到ることを得たり。
牛も也(ま)た空(くう)じ人も也た閑(かん)なり。
紅日三竿猶(なお)夢を作(な)す。
鞭縄(べんじょう)空しく頓(さしお)く草堂の間。

仏教仏に手を取られて家山自分に立ち返ることができたという、これたしかにユ−レイカということあるんです、至りえ帰り来たって別事なし柳は緑花は紅と、てんでんばらばらだったものが元へ戻る、すっきりとおのれになる、力天を抜き、ものみなまったく収まるんですか。たとえばさ。
でもこれを見ている自分がある、もってこれを得たり、他にはなしと云っている自分、そうさなこれに気がつかない、知らずのうちに自分をマルしている、あっはっは受験勉強の影響ですか、がきは誉められ頭なでられですか。
牛という正解を外すんです、もと帰家穏座ならば、もとそんなものないんです、住するとはこれ、よくもわるくもないんです、我慢を生ずることなしに、葛藤これ日々好日これ、生活そのものなんです。ただの人の日送りは、これを楽しむには、だからという申し訳、言い訳なし、世間ごと子は父に順じ、臣は君に奉す、あるいは自分という垣根なし、なんのいいこともない代わりに、あっはっは無防備。
紅日は朝日三竿は竿を三本つなぎ合わせた高さ、すなわち日が高く上った、真っ昼間になを夢を見る。ただの人そんな夢ありゃしないのにってさ。
鞭縄むなしくさしおく草堂の間、良寛さんみたいですか、朝打三千暮打八百と坐すんです、それが糠に釘ですか、まったく見捨てられて草庵に一人、ようやくはじめて不楽安穏、あるときはまさにほんとうに楽しいんですか、無上楽。

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十牛の図

第七 忘牛存人

法に二法無し、牛を且(しばら)く宗と為す。
蹄兎(ていと)の異名に喩(たと)え、筌魚(せんぎょ)の差別(しゃべつ)を顕わす。
金の鉱を出づるが如く、月の雲を離るるに似たり。
一道の寒光、威音劫外(いおんごうげ)。

 法に二法なし、仏を問う以前の見るかぎり聞くかぎりのこの世界、あるいは自分というこのもの、もとより他にはないんです、ただこのまんまあるがようという、ではそれで収まりが着くのか、収まりが着くというのは嘘です、一朝事あればあたふたと大騒ぎ、あるいは傍迷惑、あるいは思想を頼み、神を頼みのひとりよがりです、草も花も踏みにじられ、しかもそれにも気が付かぬという、どうしようもなさ。まずもってこれに気が付いて、我れと我が身心を振り返る、よってもって仏教なんです、お釈迦さまをおのれと思うにより、牛の背に乗るんです、二元的他の諸宗とは違う、標準が別にあっては、背中に乗るも乗られんです、ましてや牧牛、手綱を取って帰るはなく。
さもあれ、どうしても平地に乱を起こす、一塵わずかに起こって大地まったく収まると、蹄兎やらんきゃ役立たず、筌魚やらんきゃ捕れない、蹄も筌もわなを、うけを仕掛けて捕らえること、ないものをとろうとする工夫ですか。
正法眼蔵のどこを見ても悟りとは書いてないといって、無事禅格好付けの、人に見せるための座禅をなす、曹洞宗門のなあなあ集団犯罪ですか、今に至って宗門の命脈が尽きるんです、あるいは正直に信じて無事禅をなし、狂ったり閉塞症になったりする、子供会参禅などいう、もっての他です、お坐なりにやってる分にはいいんですか。
味噌の味噌臭きは上味噌にあらずという、だが味噌は発酵せにゃ味噌にならんです。
金の鉱を出るが如く、月の雲を離れるに似るたり。
もとまことにまったくこのもの変わらず、いよいよ家郷に帰ってこそ、日々新たにもってする、朝打三千暮打八百、まずもって見牛して金鉱のあるを知り、雲に隠れる月を仰ぐ、月になる金になるといって、そこばくの手段あれば、必ずこれを捨て去るんです、死んで死んで死にきって行く、これすなわち人の生活です、見性だの悟りだのいう、安楽椅子はどこにもないんです。
したがい世の中おのれを省みる、ただの人という、一道の寒光、おれだという、ましてや仏教だという甘さはどこにもないんです、民主主義だ平和のまったく届かない、真相とも云わぬこれ、威音劫外、あっはっはだーれもこんなこと知らんです、身も蓋もない七通発達、しかもおのれ味わうなし。

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十牛の図

牛に騎っていり として家に還らんと欲す、
きょうてき声声(せいせい)、晩霞(ばんか)を送る。
一拍一歌限り無きの意、
知音(ちいん)何ぞ必ずしも唇牙を鼓せん。

大法を得たという成仏したという、そりゃ無上の喜びがあるんですが、ではこれを人に知らしめよう、布教活動をしようというには間があるんです、お釈迦さまは三七二十一日の間歓喜に満ちあふれて過ごし、ついには死のうと思った、そりゃ存分に生きたからです、100%いや200%の命です、地球はあるいは宇宙はこのように美しい生を約束した、如来来たる如し、人間の如来は人間に同ぜるが如しと、魚行いて魚に似たり、水自ずから澄む、せっかくこの通りあるのに、人はみな気が付かずに、棺桶に入るきり、なんという不都合、情けなさ、大慈大悲をもってこれを示す、手を取って示すという、でもどうやって示せばいい、なにも示すものなし、もとこの通りあるっきりの、宗教とも呼べず、見習うものなし、経典もなし神話もなしです、なにによってかこれをなす、こりゃもう途方に暮れるばかりです。
でも仏教あり悟りありする後の世はどうですか、牛に騎って得々として空手還郷ですか。われはもやうずみ子得たり、みな人の得がてにすとふ、うずみ子得たりですか。
きょうてき声声として晩霞を送る、どういう字なんかなあきょうてきってさ、響笛、嬌? 常作衆技楽、雨曼陀羅華、如来寿量品偈のもとこのとおりにある、だからといって安心安穏ですか、牛に騎ってる間は大安心ですか。
一拍一歌限りなき意を楽しむんですか。
法を説くも説かぬも同じです、わが釈迦牟尼仏の声と姿と、千日回峰行という、大それたことを起こさずとも、もとこれ一木一草です。でもって、すべてが失せたのちどうしますか、非歓迎の仏がたった一人、なにごとも直截、防ぐ手立てはないです、無心すなわち心無きをもって、これ金剛不壊、千手観音としてただこうあるっきり。

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第六 騎牛帰家

干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み、得失還(ま)た空ず。
樵子(しょうし)の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。
身を牛上に横たえ、目に雲霄(うんしょう)を視る。
呼喚(こかん)すれども回らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。

干戈すでに罷む、戦が止むんです、こうなきゃならん、なにがどうのの得失是非です、対峙を双眠すと、自分を抛ったです、忘我という、ちらともありゃ忘我にならんですが、忘我たんびに起こって、なをさら得失是非ですか、未だしというなにかしらです、けれどもまあぜんたい楽しく、切々として、風景と一如ですか、見るもの聞くもの、清々比類なき、どっかに底抜けです、たとい地球滅んだろうが、若しくは眉一つ動かさんですか、いいえだれかれ大騒ぎするですか、でもってまったく収まる、村歌を唱え、わらべ歌を歌って、牛に乗って帰る、雲霄、霄は空天上です。坐っていて身の丈つん抜けて雲霄にあるんです、そういう観察というより、あるときはまさにこうです、仏になった、仏の姿をそっくりですか。呼べども回らず、あれこれとやこうあったって、とどまりひっかかりしない、まあさこれ、ここまでくれば余計こといらんです、そのかわりまったく世の中の食み出し者ですか、坊主社会の鼻つまみものあっはっは、いえなにあいつはおかしいやっちゃなあと云われながらも、どうにかやって行ってます、行き当りばったりですか、そりゃまあそういうこったです。でもさ、雪を見青空を見る、たった今死んでも万々歳ってふうです。浮き世に知るべきこと統べるべきこと、八方見渡してもそんなものはなかったです、大馬鹿の知慧これ。

牛に騎っていり として家に還らんと欲す、
きょうてき声声(せいせい)、晩霞(ばんか)を送る。
一拍一歌限り無きの意、
知音(ちいん)何ぞ必ずしも唇牙を鼓せん。

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十牛の図

鞭策時時身を離れずと、どうしてもこれをやってしまうんです、恐らくは伊が歩をほしいままにして埃塵に入らんことを、ほっとけば塵埃にまみれてしまう、せっかく牧牛が元の木阿弥になってしまう、まあこうやって不惜身命、寸陰を惜しんで坐っているうちに、落ちるものは落ちるんです、人間本来事を於てなし、身心そのものがもと答えです。鉄砲を狙い定める獲物ではなく、猟師自身だと気がついて手放す、塵埃雲散霧消です、この牛どこへどう転んで行こうが、随所則所、狙うものなく狙われるものなく、以無所得故菩提さった、ただうち坐るがようやく身に就くんです。牛も牛飼いも共にとは、これ生活そのもの、手続きあるかぎり、そりゃ未だしですか。
覊はおもがいたずな、たずなも鎖もしていないっていうのに、自ずから人に従う、習い性になっているというんではなしに、修行を捨てられないんです、思い切って捨てて下さい、命を捨てるのと同じです、百尺竿頭一歩を出ず、これなくんばいまでたっても此岸、彼岸に渡る般若の知慧は生まれないんです。

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十牛の図

第五 牧牛

 序
前思纔(わず)かに起これば、後念相い随う。
覚に由るが故に以て真と成り、迷に在るが故に而も妄と為る。
境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず。鼻索(びさく)牢(つよ)く牽(ひ)いて、擬議を容れざれ。

 頌

鞭策時々身を離れず。
恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしい) ままにして埃塵(あいじん)に入らんことを。
相将(ひき)いて牧得すれば純和せり。
羈鎖(きさ) 拘(とど)むることなきも自(おのずか)ら人を逐う。

前念消ゆれば後念断つ、前念わずかに起これば、後念あひ従う、心=自分というものの厄介さをいやというほど味わされるんです、手付かずにほっときゃいいものを、仏ほっとけというわけには就中行かぬ、仏ではないからだあという身も蓋もない事実、どうすりゃいいどすべきだと、坐禅をしながらに坐禅のノウハウ、是非善悪です、したがい念および起こって収まりがつかぬ。死ぬとはこれです、どうしようこうしようが落ちる=自分が死ぬんです、生き甲斐を抛つんですか、為にはなんといっても、坐禅のほかになんにもなし、これをのみと他死に尽くす必要がある、腕切って差し出すほどに、次いでたった一つ残った、ノウハウを捨てる。
まったく同じ忘我の周辺を徘徊するんでか、単純なこれしかないのに、自分というこのものがらりと変わり、がらりと崩れ、昨日と今日の雲泥の差、俗人の成長の百年分をいっぺんにする如く。
退歩の術という、それほどに思い上がり泳ぎ出して、始末に負えないんです、よこしま架空の我といい人というこれ。なんとかせねばと気が付くものさえ、万人のうちの一ですか。
覚という悟りを狙う、悟ればすべてが解決する、平らかに清々比類なしと、どう聞いても経文説法まさにそう聞こえ、坐るにつれてすんでにもう一歩と思う、百年河清を待つをもって修行となす、おれもこれくらい来た、なかなかという、ないものを追いかける必死。下劣あれば宝貴珍御、驚異あれば狸奴白狐、どうしてもいいわるいの世界を免れぬ。君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず、もとこれかわりっこないんです、では一件落着と、死ぬ以外になく、浮き世のことは、いえたとい仏教、畢生の大事ももはやこれまでと。
坐ったらもとこうあるっきりなのに、そうかすべてはたった今の自分がやっていたのだ、ただもううそれっきりと知る。
鼻かんの綱強く引いて、擬疑を容れざれ、だからそういう計り事を一切止めるんです、牛なんてどこにいるもんかあほらし。

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十牛の図


神通(じんづう)を竭尽(けつじん)して渠(かれ)を獲得す。
心強く力壮(さか)んにして卒(つい)に除き難し。
有時(あるとき)は纔(わずか)に高原の上に到り、
又烟雲の深き処に入って居す。

久しく郊外に埋もれて、今日渠に逢う、なんしろ牛にするからこうなるんです、自分に帰る、自分が自分になったと思うのは、今までそけっぱなし、てんでばらばらであったのが真正面に向き合う、おれがおらだっていうような、こうならんくては求道もなんもないんです、殺伐空疎な人生を送る、まあたいていの人そんな世の中です。ですがこれまだ仏教とは関係ないんですよ、見性というたといレッテルを貼られても、じき色褪せちまうばかりです。
これじゃいかんと気が付くんです、ぶんなぐられなきゃ気が付かんですか、ぶんなられても浮かれ惚けですか、でもこれはただの自我の延長、思い上がりに過ぎない、捨てるこった、こいつを捨てて捨てた分だけ手に入るという、わずかに牛を見る、牛の他にはないと知る。
今までと反対ですかね、獲得物質を弄ぶ、仏教のことならつうかあ、祖師の語録もようわかる、正法眼蔵も手に取るようだという、いったいそれがなんだと気が付く、省みればわかったと思うそれ、およそ近似値にもならんです。なんてえこったという、猛反省発露白仏することあって、生まれて始めて参禅です、捨てるということが手に入る。
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。それが境勝れるを以てこの牛を追い難し、なんしろ芳草をぺろうりむしゃむしゃ。境地というんでしょう、こうあるべきと自己を進めて万法を証する、たしかにこうあると確かめる、なかなかこれが落ちないんです、仏教があるからです、自分というひけらかす、仏教の役に立ちたい、自分というなにがなしないとやって行けない。
此岸しゃば人間のまんまですよ。
頑心尚ほ勇み、野性なほ存す。まあせいぜいが天才ごっこやってりゃいいんですか、悟りだの問答だの強烈に持って、二三人きちがいにしたりしてやっている、近似値ほど遠いものはないんですか、野狐禅に堕す。
純和を求める、捨てるほどに和するこれ、ある分が邪魔と気付いて、取り去り取り去りして行く、そうやっているおのれ失せれば落着たって、なかなかこれがおいそれとは行かんです、坐るしかないんです、身心の応えるに聞く、うまく行けばうまく行くんです、とまたじき踏ん反り返る、あっはっは始末に負えんですか、朝打三千暮打八百、朝夕に坐りひんがな坐り、接心には不惜身命です。昨日の今日はまったく別、がらりがらりと変わって行って、ついに変わらずなったって、昨日の我は今日の我に非ず、しゃばの人の一生分一柱に卒業ってなふうの、和というこれ。

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十牛の図

第四 得牛

久しく郊外に埋もれて、今日渠(かれ)に逢う。
境勝るるに由って以て追い難し、芳叢(ほうそう)を恋うて而も已まず。
頑心尚お勇み、野生猶お存す。
純和(じゅんな)を得んと欲せば、必ず鞭撻(べんたつ)を加えよ。


神通(じんづう)を竭尽(けつじん)して渠(かれ)を獲得す。
心強く力壮(さか)んにして卒(つい)に除き難し。
有時(あるとき)は纔(わずか)に高原の上に到り、
又烟雲の深き処に入って居す。

久しく郊外に埋もれて、今日渠に逢う、なんしろ牛にするからこうなるんです、自分に帰る、自分が自分になったと思うのは、今までそけっぱなし、てんでばらばらであったのが真正面に向き合う、おれがおらだっていうような、こうならんくては求道もなんもないんです、殺伐空疎な人生を送る、まあたいていの人そんな世の中です。ですがこれまだ仏教とは関係ないんですよ、見性というたといレッテルを貼られても、じき色褪せちまうばかりです。
これじゃいかんと気が付くんです、ぶんなぐられなきゃ気が付かんですか、ぶんなられても浮かれ惚けですか、でもこれはただの自我の延長、思い上がりに過ぎない、捨てるこった、こいつを捨てて捨てた分だけ手に入るという、わずかに牛を見る、牛の他にはないと知る。
今までと反対ですかね、獲得物質を弄ぶ、仏教のことならつうかあ、祖師の語録もようわかる、正法眼蔵も手に取るようだという、いったいそれがなんだと気が付く、省みればわかったと思うそれ、およそ近似値にもならんです。なんてえこったという、猛反省発露白仏することあって、生まれて始めて参禅です、捨てるということが手に入る。
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。それが境勝れるを以てこの牛を追い難し、なんしろ芳草をぺろうりむしゃむしゃ。境地というんでしょう、こうあるべきと自己を進めて万法を証する、たしかにこうあると確かめる、なかなかこれが落ちないんです、仏教があるからです、自分というひけらかす、仏教の役に立ちたい、自分というなにがなしないとやって行けない。
此岸しゃば人間のまんまですよ。
頑心尚ほ勇み、野性なほ存す。まあせいぜいが天才ごっこやってりゃいいんですか、悟りだの問答だの強烈に持って、二三人きちがいにしたりしてやっている、近似値ほど遠いものはないんですか、野狐禅に堕す。
純和を求める、捨てるほどに和するこれ、ある分が邪魔と気付いて、取り去り取り去りして行く、そうやっているおのれ失せれば落着たって、なかなかこれがおいそれとは行かんです、坐るしかないんです、身心の応えるに聞く、うまく行けばうまく行くんです、とまたじき踏ん反り返る、あっはっは始末に負えんですか、朝打三千暮打八百、朝夕に坐りひんがな坐り、接心には不惜身命です。昨日の今日はまったく別、がらりがらりと変わって行って、ついに変わらずなったって、昨日の我は今日の我に非ず、しゃばの人の一生分一柱に卒業ってなふうの、和というこれ。

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十牛の図

   頌

黄鶯鶯枝上一聲聲。
日暖風和岸柳青。
只此更無廻避處。
森森頭角畫難成。

声に従ひ得入す 見処源に逢ふ
六根門著著として差無く、
動用中頭頭顯露す。
水中に塩味あり、色裏膠青あり、
上を貶すれば眉毛あり、但し他物に非ず。

無字の公案というのがあって坐中ムームーとやる、何十何百するうちにムーと一つになる、いえ、また音を聞いて一つになることがあります、体倍にも膨れ上がるふうで、すうっと水が来て、おうと云う声がぜんたいに響きわたるような。これをしも見性と云い、許す許さぬという、まあしばらく任せ切るにいいです、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法の実際を見るにいいです、たしかにこの通りに行なわれている、ですが用いようとするに逐一だからどうだですか、確かめてもって忘れ去ることができない、不都合なんですよ、水に塩味あり、影に膠青ありってね、つまりそのぐらいに、通身こめて取っ捕まるにいいです、そうかって忘れ去ればたいていそれまで、上を貶っすれば眉毛あり、これ他物に非ず、気にかかりますか、寝るにも寝られんてね。見ている自分がある、これをどうするかが大問題です、まずはその不都合に気がつくこと。

黄鶯鶯枝上一声声。
日は暖風に和して、岸の柳は青く。
只此れ更に回避するに処無く、
森森たる頭角畫けども成り難し。

黄鶯鶯枝上一声声、こりゃなんだ、鶯がいっぱいいて囀っているのか、黄鶯枝上一声でいいのにさ、一つ余計が味噌、ともあれ絶好の春日和、楽しくってしょうがないんですか、たしかにこういうことがあります、自分が自分になったという、そっぽ向いていたのが、真正面になったんですか、おれは天才だと云うが如く、見聞覚知清々極りなしっていうふうです、日は暖風に和して、岸の柳は青く、心地よい限りです、ただこれ更に回避するに処なくとは、眺めている自分があるんです、いちめんこれ、おれは悟ったというんですか、どうにもこうにも不自由です、ものが見えない、すべては自分だという、たしかにものみな自分には間違いないんですが、天下取ったという手も付けられんです、たいていいっときこれですか、頭角があるんです、太虚の洞然たるというには、雲泥の相違どころではない、天才の身勝手のような、たとい絵を描いたって描き切れんですか、ひとりよがり、つまらないんです、若し他に体するには、鬼眼晴です、どっかにいびつなんです、これが角を折り頭を去るには、まずもってこれに気が付かにゃならんです、それがどうしてなかなか、一発どかんとやられなくっちゃってとこあります、人間とはまあなんと厄介なものか、もと単純なものが。あっはっは京のもんち。

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十牛の図

水辺林下跡偏へに多し。
芳草離披けて見るに也た麼し。
是れ縱り深山更に深き処、
鼻の孔を遼かな天に向けていかで(乍に心)か他に蔵すべき。

水辺にはよったくるけものの足跡ばかり、銭金と名声ですか、われこそは第一人者という、はあて本物も同じこと云うですか、たとい正師に会えども見えずという悲劇、正直求めりゃ見えるはずがさ、正師というお化けを思い、あっはっは、でもってあっちこっち茂ったのかき分けて芳草を捜す、これはと思うはしからてんで偽物、役立たず。これより深山更に深きところに分け入って、鼻の孔かっぴろげてはるかに天を仰いで、いやもうどこ捜したってなんにもなしってわけです。はいおしまいってね、なんにもなしこれ、始まったと思ったらもう終わりですかあ、はいそうです急転直下、鼻孔だけじゃなく、おのれみーんな孔っぽこになり終わる、求める人もついになし、答えのど真ん中、いかでか他に蔵すべき。

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十牛の図

見跡

依経解義、閲教知蹤。    
明衆器爲一金、體萬物爲自己。 
正邪不辨、眞僞奚分。    
未入斯門、權爲見跡。    

頌曰。

水邊林下跡偏多。    
芳草離披見也麼。    
縱是深山更深處。    
遼天鼻孔怎藏他。

経に依って義を解し、教を閲て蹤を知る。
衆器を明らめて一金の為にし、万物を体して自己の為にす。
正邪弁へず、真偽奚んぞ分たん。
未だ斯の門に入らずして、為に見跡を権る。

般若心経という、余すところなく記してあるんですが、どういうものか解説書、中村元博士の注釈など、なんでこう間違いでたらめなのかと、呆れ返るってか感心するほどです、どうしてそうなる、虎を見たことも聞いたこともない人に、虎を説いて描かせる、はたして描けるか、いやさ虎はなんとかなりそうだ、心の問題はそうはいかぬですか、なんだかんだと尾鰭がついて、言葉の解釈だ、屁のにおいだというんでしょう、虎がぬえになる、教えを閲け蹤を知る、一代時経ですか、白毫が渦巻いたり、奇跡や超能力だったりする、かってな夢を見るんですか、たとい真実も、むしろ近似値ほど有害であったりする、今に至るまでてんやわんやです。
人というこの器ですか、唯一真金を願う、そりゃだれしもそうです、われこそはという覚悟なけりゃあ、そりゃ得られんです、ものみなを体して自己の為にす、まことに仏とはこれ他にはあらず。
だのにだれが正師か邪師かの区別も付かぬ、かえって邪師のほうがもっともらしく、光明に溢れてそれらしくですか、取り付く島もあるほどに、化けの皮にとっついて右往左往する、正師はこれと云い、邪師はあれと云う、至り得れば彼岸も此岸、正師は奪い、邪師は付け加える、もとなんにもないものをあるあると云う、自分といういっぱしを省みるんです、乃至は取り付く島もなし、ノウハウまったくなしなんです、ちらともありゃあ嘘です。真正直に見ることです、赤裸のものまた赤裸を知る。
未だこの門に入らずして、あっはっはヤフーの連中ですか、知ったかぶりの空理空論、既に門戸の前にあるっていうのに、なんんだかだ云って、あそこにはこう書いてあった、だれそれはどう、だからとやって、どうだおれはかくの如くにと踏ん反り返る、そうじゃない総じてそういう思い上がりを捨てる、赤心洗うが如くす即ち仏の掌。

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